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古代のギレアデ人を見倣うように諭されたギレアデ卒業生ものみの塔 1974 | 8月1日
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古代のギレアデ人を見倣うように諭されたギレアデ卒業生
外国の地で宣教者として奉仕するために出かけて行くのは容易なことではありません。それは,友人や親族を初めとするそれまでに慣れ親しんだすべてのものをあとにすることを意味しますし,新しい環境に順応し,それまでに経験したことのない問題にもおそらく直面しなければならないでしょう。しかし,心の正直な人々がエホバ神の専心的なしもべになるよう助けるために,できる立場にある人が進んで犠牲を払うなら,そこには豊かな祝福が待ち受けています。
1974年3月4日にものみの塔ギレアデ聖書学校を卒業した50人の若い男女には,そうした祝福を望み見る十分の理由があります。というのは,それら卒業生の大半は外国の畑で宣教者として奉仕するよう任命されたからです。
卒業式の行なわれた月曜日午後の幾つかの話を通して,卒業生は自分たちの割当てに忠実であるよう励まされました。そうすれば,宣教者の奉仕から得られる喜びを失うことはありません。
F・W・フランズは,歴代志略上第5章に基づく話をし。古代のギレアデ人がわたしたちの見倣うべき良い模範であることを指摘しました。
サウル王の時代に,ヨルダンの東のギレアデの地に住んでいたイスラエル人は豊かな繁栄を享受していました。イスラエル人の家畜は増えて非常に多くなりました。そこで彼らは,領土をギレアデの地を越えてユーフラテス川の方向に拡大すべく,勇敢に進み出ました。彼らのこの行動は,その先祖アブラハムに対してなされた神の約束に一致していました。―創世 15:18。歴代上 5:10。
そのため,イスラエル人はハガリ人(おそらくハガルの子孫と思われるので,ハガルの息子イシマエルの子孫つまりイシマエル人)と戦いました。ギレアデ人はきわめて不利な立場にありました。ギレアデ人の軍勢は4万4,760人を数えました。しかし彼らは,それに続く戦いで10万人を捕慮にしたのです。聖書は,『殺されて倒れたる者多し』と書いていますから,これは決してハガリ人の全軍勢ではありませんでした。ギレアデ人が自分たちの力だけに頼って戦っていたなら勝利を得られなかったことは明らかです。また実際,彼らはそうした態度を取りませんでした。ギレアデ人は自分たちを助けてくれるようエホバ神に求めました。聖書の記録はこう述べています。『彼ら陣中にて神を呼びこれを頼みしによりて神これを聴きいれたまえり』― 歴代上 5:18-22。
F・W・フランズは,これをギレアデ卒業生に当てはめ,信仰の盾と霊の剣である神のことばで身をよろい,肉の戦いではなく,霊の戦いをかなりの劣勢の中で行なうさいに,ギレアデ人と同様エホバに信頼を置くよう卒業生を諭しました。
F・W・フランズの話に続いて,ものみの塔ギレアデ聖書学校の校長N・H・ノアは,イエス・キリストとその使徒たちや他の弟子たちに倣って宣べ伝える業を行ない続けるよう励ます,感動的な話をしました。その後,卒業生は卒業証書の入った封筒を受け取り,校長が17の異なった土地における卒業生の奉仕の割当てを発表しました。
晩には,ギレアデ第56期生が非常に楽しいプログラムを演じました。中でも人気があったのは,ヨーロッパ,中東そして北アメリカ各地の音楽と,示唆に富む二つの聖書劇でした。最初の劇は,列王紀略上 13章1-32節にその活動が記録されている,ある預言者の身に生じたできごとから益を得る助けとなりました。もう一つの劇は,荒野にいた40年の間にイスラエル人が経験した顕著なできごとを描写したものでした。
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読者からの質問ものみの塔 1974 | 8月1日
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読者からの質問
● ヨハネ 10:16で「ほかの羊」と呼ばれている人々が,神の新秩序下の地上で生きる人であることを示すどんな証拠がありますか。―イタリアの一読者より
「ほかの羊」がどんな人々であるかは,他の聖句に照らして文脈を考慮することにより定めることができます。
イエス・キリストはこう言われました。「わたしはりっぱな羊飼いであり,自分の羊を知り,わたしの羊もわたしを知っています。ちょうど父がわたしを知っておられ,わたしが父を知っているのと同じです。そしてわたしは羊のために自分の魂をなげうちます。また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,ひとりの羊飼いとなるのです」― ヨハネ 10:14-16。
これらのことばから,イエスが,ご自分の声を知っている者たち,つまり自らの羊飼いとして自分たちの上に行使されるイエスの権威を認識している人たちだけをご自分の「羊」とみなしておられることがわかります。このことは,イエスがここで「ほかの羊」と対照している囲いの中の「羊」がイスラエル国民ではなかったことを明らかにしています。なぜなら,イエス・キリストを自分たちの羊飼いとして認めたイスラエル人は,同国民の中のわずかな残れる者にすぎなかったからです。それでは,「ほかの羊」といっしょに「一つの群れ」を成すことになっていた囲いの中の「羊」とはだれだったのでしょうか。囲いの中の「羊」とはユダヤ人の弟子のことで,一方,「ほかの羊」とは,油そそがれたクリスチャンとして後に受け入れられた異邦人のことでしょうか。キリスト教世界の聖書注釈者がしばしばこうした説明をしますが,それは聖書の他のことばと調和していません。
イエスが地上で宣教を行なっておられた当時を振り返ってみると,イエスを自分たちの羊飼いとして受け入れた人々はすべて,天の王国の成員になる見込みを持っていました。イエスはご自分の弟子たちに向かってこう言われました。「恐れてはなりません,小さな群れよ。あなたがたの父は,あなたがたに王国を与えることをよしとされたからです」。(ルカ 12:32)別の時に,イエス・キリストは,弟子たちのこの「小さな群れ」をご自分の「兄弟たち」と呼んでおられます。(マタイ 12:49。マルコ 3:34。ルカ 8:21。ヨハネ 20:17)やがて,異邦人が聖書によって油そそがれ,天の命に召されて,神に受け入れられるようになると,それら異邦人もやはり「キリストと共同の相続人」つまりキリストの「兄弟たち」になりました。(ガラテア 3:27-29。ローマ 8:17)ですから論理的に考えると,「ほかの羊」とはキリストの「兄弟たち」のことではなく,それら「兄弟たち」と親密な関係を保っている人たちのことを表わしています。
王国の栄光のうちにご自分が到来することに関するイエス・キリストのことばはこの点を確証しています。イエスはこう言われました。
「人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼とともに到来すると,そのとき彼は自分の栄光の座にすわります。そして,すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます。そして彼は羊を自分の右に,やぎを自分の左に置くでしょう。
「それから王は自分の右にいる者たちにこう言います。『さあ,わたしの父に祝福された者たちよ,世の基が置かれて以来あなたがたのために備えられている王国を受け継ぎなさい。わたしが飢えると,あなたがたは食べる物を与え,わたしが渇くと,飲む物を与えてくれたからです。わたしがよそからの者として来ると,あなたがたはあたたかく迎え,裸でいると,衣を与えてくれました。わたしが病気になると,世話をし,獄にいると,わたしのところに来てくれました』。その時,義なる者たちはこう答えるでしょう。『主よ,いつわたしたちは,あなたが飢えておられるのを見て食べ物を与えたり,渇いておられるのを見て飲む物をさし上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたがよそからの人であるのを見てあたたかく迎えたり,裸なのを見て衣をあげたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたが病気であったり獄におられたりするのを見てみもとに参りましたか』。すると,王は答えて言うでしょう,『あなたがたに真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者のひとりにしたのは,それだけわたしに対してしたのです』」― マタイ 25:31-40。
ここで述べられている「羊」は,キリストの兄弟たちとは異なった人たちとして示されています。しかし,キリストの兄弟たちと同様に,彼らはイエス・キリストを自分たちの「主」つまり羊飼いとして認めています。両者がともにイエス・キリストに服しているゆえに,二つのグループはただ一つの群れを成します。ここで述べられている羊は,キリストの兄弟たちと十分に協力し,彼らを活発に支持します。では,これらの羊はキリストの兄弟たちとどのように異なっているのでしょうか。
王イエス・キリストが彼らに語ったことばは,ここに関係している二つの異なった級を理解する上で助けとなります。「羊」に対するイエスのことばは次のとおりでした。「世の基が置かれて以来あなたがたのために備えられている王国を受け継ぎなさい」。(マタイ 25:34)これは,キリストの「兄弟たち」に語られているものとは異なっています。これら「兄弟たち」が受け継ぐことになっていた天の王国の成員を人類から選ぶことは,「世の基が置かれる」前,つまり最初の人間夫婦であるアダムとエバを通して子どもたちが生まれ,それにより人類の世が出現する前から,予め知られていました。使徒パウロは,仲間のクリスチャンたちに向かってこう書きました。『[神は]世の基が置かれる前からキリストとの結びつきにおいてわたしたちを選んでくださいました』。―エフェソス 1:4,5。
報いを予め定める点で時間的要素が異なっていることは,二つの異なった約束のあることを明示しています。イエスの「兄弟たち」の相続財産について,使徒ペテロはこう書きました。『わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられんことを。神はその大いなるあわれみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新しい誕生をわたしたちに与えてくださったのです。すなわち,朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産への誕生です。それはあなたがたのために天に取って置かれているものです』。(ペテロ第一 1:3,4)そうした天の相続財産には,支配権が含まれています。というのは,ヨハネへの啓示 5:10にはこう書かれているからです。「[キリストは]彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対し王として支配するのです」。
しかし,キリストの「兄弟たち」はだれを支配するのでしょうか。地上に住む人類を支配するのです。このことは,ヨハネへの啓示 21:3,4とも一致しています。
キリストの兄弟たちでないこれら「ほかの羊」には,悲しみや死から全く解放された地上で祝福を受ける確かな見込みがあります。それは,イエス・キリストと,キリストの共同相続者の支配のもとで受ける彼らの報いです。その理由で彼らは,「世の基が置かれて以来あなたがたのために備えられている王国を受け継ぎなさい」と告げられているのです。王国を意味する原語のギリシャ語は,政府という意味があるだけでなく,「統治」あるいは「王国によって支配される」という意味にも取れます。このように,「ほかの羊」は,王イエス・キリストおよびキリストとともなる王たち,つまりキリストの「兄弟たち」によって支配を受ける状態を受け継ぎます。王国の支配下に入る機会を持つであろう,アダムとエバの子どもたちが生まれはじめるとすぐに,こうした支配に関する約束は効力を持つようになりました。こうした意味において,「王国」,つまり王国によって支配される状態は,「世の基が置かれて以来」人類のために備えられています。
このように聖書全体から得られる証拠は,「ほかの羊」が,キリストによる神の王国の支配下の地上で命を得る人々であることを示しています。そうした人々の中には,「患難」を生き残る「大群衆」や死から復活する人類が含まれます。―使徒 24:15。
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