信仰のために力をつくして戦う
「聖徒のひとたび伝へられたる信仰のために戦はんことを勧むる書を,汝らに贈るを必要と思へり」― ユダ 3,文語
1,2 (イ)「一度救われたなら永久に救われた」という教理は,どの点で危険ですか。(ロ)この信仰に対する警告はどこに見いだされますか。
「一度救われたなら永久に救われた」。これは,キリスト教国ならどこでも聞かれる言葉ですが,よく人の口にのぼる言葉で,これほど人を欺く,危険なものはありません。そのような説を信ずれば,災い,すなわち全能の神の御国の支配下に立てられる正しい新秩序の中で永遠に生きるという聖書の希望を失う結果になります。
2 主イエス・キリスの弟子のひとりは,「一度救われたなら永久に救われた」という危険な教理に警告を与え,同時に真の信仰のために戦うことを勧めるため,今日きわめて重要な意味をもつ短い手紙を書きました。それは聖書の65番目の本で,西暦1世紀の65年目頃に書かれ,ユダの手紙と呼ばれています。この手紙はわずか25節しかありませんが,霊感によるその助言に注意するか否かは,神の御子の真実の追随者すべてに差しのべられる救いを得るか,失うかの相違をきたします。
3 ユダはどんな人でしたか。なぜ自分を「イエス・キリストの僕」と呼んでいますか。
3 エホバ神はだれを用いて,その時機にかなった警告を私たちに与えられますか,その手紙は次のように答えます。「イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダから,父なる神に愛され,イエス・キリスに守られている召された人々へ。あわれみと平安とが,あなたがたに豊かに加わるように」。(ユダ 1,2)霊感を受けた記述者ユダは,実際にはイエス・キリストの異父兄弟でした。(マタイ 13:55)しかしユダは,神の御子の肉親であるという理由から,自分を高めようとはしていません。ユダは,イエスの真の追随者が,以後,肉によって彼を知ろうとしないことに気づいていました。(コリント後 5:16,17)ゆえに彼はへりくだって,自分を「イエス・キリストの僕」と呼び,イエス・キリストとの霊的な関係をまず強調しています。それは正しいことです。ユダはイエス・キリスの使徒でなかったので,自分のことをただ「僕」と呼んでいます。事実ユダは,イエスが復活するまで,イエス・キリストを神の子として信じていませんでした。(ヨハネ 7:5。使行 1:14)それから彼はイエスを信じました。そしてイエスを信じてから,ユダは自分がどれいと同じように,代価,すなわち神の子の尊い血によって買いとられたことを悟りました。それ以後ユダは,イエスのあがないの血によって買い取られた他の人々と同じく,人のどれいになることはできませんでした。―コリント前 7:22,23。
4 (イ)ユダの手紙はとくにだれにあてたものですか。なぜそれは,命を求める人すべてにとって時機にかなったものですか。(ロ)神の救いに望みをおく人々に対し,神は何を求められますか。
4 ユダは,キリストのしもべとして,仲間のしもべがその師に従うのを助けるため,彼らに最も益となることについて書くことを望みました。そこで一般にあてはまる手紙,つまり特定のクリスチャン会衆にあてたのでない手紙を書きました。とはいっても,その手紙がだれにあてられていたかはきわめて明白でした。それは,「召された人」,すなわち王および祭司としてイエス・キリストと共に支配するために,神の天の御国に召された人々を対象にしたものでした。(テサロニケ前 2:12)霊によって油をそそがれたこれらのクリスチャンは,「父なる神に愛され,イエス・キリストに守られて」います。したがって彼らが救われた状態を保つなら,彼らに天の御国を与えることは父のみ心です。しかし霊感によって書かれたこの手紙は,「神の会衆」,つまり聖書により人間の中から取られる14万4000人に限定された人々にあてられているとはいえ,神の御国の支配による救いを望む人,地上の楽園で永遠に生きることを望む人すべてにとっても,時機にかなった警告と言えます。彼らもまた,油そそがれたクリスチャンと同じように献身し,同じほどの信仰をもち,また御国の実を結んで,救われた状態にとどまっていなければなりません。そうです,神の救いを享受する人はみな,真の信仰のためにきびしい戦いをしなければならないのです。
5 ユダの願いは何でしたか。それはどのように今日のエホバの証人に実現しましたか。
5 ユダの願いは,キリストの真の弟子たちに,神の「あわれみと平安と愛」が増し加わることでした。このキリストの弟子の残りの者は,いまも地上にいますが,その人たちにとってこのことは確かに真実となりました。神は彼らをあわれみ,1919年に偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンから彼らを解放されました。そして,それら解放されたクリスチャンが一致して神の御国のわざを推し進めることができるように,ゆたかな平安を彼らに賜わりました。彼らは神の愛により,バビロン的な異教から清められ,神の清い証人として出発したのです。「他の羊」の「大ぜいの群衆」が彼らの側に集まったのは,エホバ神が,解放されたご自分のクリスチャン証人のうえに,あわれみと平安と愛を増し加えられたからにほかなりません。(黙示 7:9-17。ヨハネ 10:16)これらの人々は,神の祝福が「召された人々」の残れる者,つまり霊的イスラエルの残れる者に注がれたのを見,御国の証人の「一つの群れ」に加わりました。エホバの証人の新世社会は良い羊飼いに導かれる一つの平和な群れで,神の愛とあわれみを楽しみます。ユダの願いが彼らに豊かに実現しているからです。ユダの願いは,神のあわれみと平安と愛が私たちに増し加わることであって,減少してついになくなることではありません。そういう恐ろしいことがありますか。個々の人には起こらないとも限りません。そのことに対して私たちを警戒させるため,ユダは,私たちが神の愛にとどまらないなら,そういうことが起こることを警告しています。
戦うための特別の理由
6 どんな訓戒が個々のクリスチャンに与えられていますか。なぜですか。
6 「愛する者よ,われ我らが共にあづかる救につきはげみて汝らに書贈らんとせしが,聖徒のひとたび伝へられたる信仰のために戦はんことを勧むる書を,汝らに贈るを必要と思へり。そは敬虔ならずして我らの神の恩恵を好色にかへ,唯一の主なる我らの主イエス・キリストを否むものども潜入りたればなり」― ユダ 3,4,文語。
7 ユダはどんな主題について書くつもりでしたか。なぜそれを変更しましたか。
7 明らかにユダは,真の信仰のために戦うことについて書くつもりはなく,「我らが共にあづかる救」について,一般的なことを書き送ることを願っていました。しかし彼は,神の聖霊により,きわめて重要なことがあるのを認めました。それは,天の御国に召された14万4000人が共にあずかる救いにかんする,教義上の論議よりずっと急を要することでした。19世紀昔のユダの時代に,良い羊飼いイエス・キリストは,黙示録 7章9節から17節の「大ぜいの群衆」を集めてはおられませんでした。したがってユダは,今日の「大ぜいの群衆」に属する人々のすべてが等しくあずかる救いについて書いたのではありません。しかしユダが論じようとしていることに彼らが直接含まれていないとは言え,彼らも同じように御国の支配による救いという大切な希望をもっています。「小さい群れ」の残れる者が天の栄光を待ち望んでいるのと同じく,新秩序の下で永遠の生命を得ることを望んでいます。楽園の地で生きるこの望みは,「召された人々」と共に統治するイエス・キリストの御国によって実現します。ゆえにイエス・キリストは,「召された人々」のためだけでなく,今日のこの羊のような「大ぜいの群衆」をも含めて,全人類の世界のために死なれたのです。(ヨハネ第一書 2:1,2)地的希望をもつそれらの「羊」もまた,賞を得るまで「信仰のために戦うこと」が必要です。というのは,サタン悪魔が彼らをだまして,その貴重な賞を取りあげようとしているからです。
8 ユダはどんな考えが誤まりであることを明白にしていますか。そのまえにイエスは,個々の救いについてどんなことを言われましたか。
8 ユダは,信仰のための戦いについて書くことにより,「一度救われたなら永久に救われた」という考えが誤まりであることを明白にしています。私たちがいま救われた状態にあるからといって,もはや自分は神の愛から離れたり,それから取り去られたりして,神が従順な人間に差しのべられる救いからもれることはない,と考えてはなりません。イエス・キリストは,「最後まで耐え忍ぶ者(が)救われる」ことを明示されました。ユダもそのことを知っていました。(マタイ 24:13)イエスはここで,一つの級の救いではなく,個人の救いについて述べられたのです。天の御国に召された「級」が救われることは確かです。しかし問題は,「小さい群れ」に属する者であろうと,「大ぜいの群衆」に属する者であろうと,個々の者が最後まで耐え忍ぶか,ということです。イエスが言われた「最後」とは,必ずしもある特定の年,もしくはハルマゲドンの戦いをさすものではなく,地上の生涯を終わるまで,あるいは長い試練が終わるまで耐え忍ぶということです。耐え忍ばないのは,不忠実になることです。それで人は,信仰を保って死ぬまで,またはこの悪い事物の制度が終わるまで,信仰のために戦いつづけねばなりません。ではどのように戦いますか。
9 信仰のためにきびしい戦いをするとはどういうことですか。
9 信仰のために戦うとは,神から教えられることを心に固く信じて最後まで耐え忍ぶだけにとどまらず,わたしたちの神のいつくしみを変えて放縦の口実とする者の,堕落への誘惑に耐えることでもあります。神の民の歴史全体をとおしてみられる悪魔の策略は,その悪がしこいたくらみを実行する者,つまり他の人の堕落をはかる者を入りこませることでした。私たちはそのことを悟らねばなりません。したがって真の信仰を表明する人はみな戦わねばなりません。この戦いによってわたしたちの忠実さと神への愛はためされます。
10 ユダは,不信仰な者が何をすると述べていますか。このことはどのように予告されていましたか。
10 ユダは,信仰のために戦う理由の説明として,ある者たちがクリスチャンをよそおって神の組織にしのびこんだことを述べています。そういう人々は実際には,神のあわれみを放縦の口実に変える「不信仰な人々」です。ユダがこの警告を書く10年ほどまえに,使徒パウロは,悪い動機をもつ人々が神の民の間に入りこんでくることを予告しています。(使行 20:29,30)イエスも,エホバの御名を負う民を堕落させようとする敵の活動を予告されました。(マタイ 13:24-43)悪魔は,「道徳観念をまったく失った」人間の世界から,自分の手先を選びます。―エペソ 4:17-19,新世。
11 ユダの警告を考えて,私たちはどんな態度をとるべきですか。なぜですか。
11 悪魔が悪いたくらみをもつ不道徳な人々を,エホバの証人の新世社会に入りこませるとなると,すべての人,とりわけ会衆の監督は注意が必要です。「今は悪い時代」であり,悪を好む人が多いため,警戒をゆるめることはできません。クリスチャン会衆は敵の手先をすばやく除き,足場を得させないようにしなければなりません。私たちは,悪人が組織全体を堕落させることができないのを知っています。しかし一つの会衆に害をおよぼし,悪人が除かれるまで,その会衆における神の御霊の働きを妨げるかも知れません。その会衆は発展がみられないばかりか,その中の人々は道を踏みはずし,堕落して異性と不道徳な関係に陥るかもしれません。神の組織をいつも清潔で,清く,汚れのない状態にしておくためには,そのことを警戒しなければなりません。
「その目は淫行を追い」
12 神の組織にしのびこもうとする不信仰な人々についてユダは何を警告していますか。悪魔はどんな動機からそのような人々を入り込ませますか。
12 そこでユダは,神の民を堕落させようとする人々が,永遠の滅びという「さばきを受けることに,昔から予告されている」ことを警告します。その人たちはどこが間違っていますか。その動機です。神はあわれみ深いかたであるから,不道徳な行いによって情欲をみたしても許される,と彼らは考えるのです。(コリント前 6:9,10)罪を告白すれば神はすぐに許して下さるから,たまに情欲をほしいままにしてもたいした害はない,と信じこませて,心の定まらない信者を言いくるめ,ふしだらなことをさせようとします。ですからこういう人たちの動機は,性欲を満足させることにあり,カインの場合と同じく,罪がそのかど口に伏しています。彼らの目は清くないのです。ペテロは彼らについてこう述べました。「その目は淫行を追い,罪を犯して飽くことを知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し,その心は貪欲に慣れ……ている」。(ペテロ後 2:14)悪魔はそうした「淫行を追」う目をもつ人々を用いて,清い目,清い心をもつ神の民を堕落させ,歓楽の罪におとしいれようとします。
13 これらの不信仰な人々は,どのようにモーセと違いますか。それでクリスチャンにはどんな義務がありますか
13 悪いたくらみをもつこの人々は,モーセと違い,「罪のはかない歓楽にふけ」ってもなお救われる,と考えているのです。(ヘブル 11:25)情欲をほしいままにし,それを悔い改めたようすをして神の民の中にとどまり,次に罪への欲望が生まれれば,不純な言葉で他の人に言い寄り,不品行に誘い込むことができる,と考えているのです。彼らは,わたしたちの神のいつくしみを放縦な行いの口実に変えるという罪を犯しています。クリスチャンが戦わねばならない相手はそうした不道徳な人々です。クリスチャンは,そういう人々を退け,個人のみならず,会衆をもその害から守らねばなりません。異性を腐敗させ,堕落させようとする人をそのまま許しておく会衆は,どんな会衆でも害を受けます。
14 キリスト教国の道徳の状態は,クリスチャンが不道徳な人々に負けてよい理由にはなりません。なぜですか。
14 キリスト教国が不道徳の道に走り,ふしだらな行ないをする人々がキリスト教国の学校や教会にたくさんいるからといって,それは真のクリスチャンが情欲をほしいままにする理由にはなりません。ユダははっきりと,罪を犯す者は,「わたしたちの主であるイエス・キリストを否定している」と述べています。私たちはかつて聖徒に伝えられた信仰に忠実でなければなりませんから,不信仰な人々に屈服することなく,この悪い時代のあらゆる腐敗を退けなければなりません。
思い起こすべきこと
15 救われた状態にあっても,それを失う場合があることを,ユダはどのように例証していますか。イスラエル人は,どんな共通の救いにあずかりましたか。
15 ユダは,私たちの救いがまだ確実でないこと,一度信じても,救いが確実になるのでないことを強調するため,救われた状態にある人でも,救いを得そこなうことがあることを示しています。ではどんな場合にそれがありますか。それは懸命に戦わないとき,不信仰な人々の誘惑に屈するときです。そのような人々の最後は,あらかじめ知らされている,とユダは警告します。どんな方法で知らされましたか。聖書の歴史的記録をとおしてです。神の聖なることばの中には,エホバが過去において不信仰な者をどのように扱われたかを示す例がたくさんあります。こうした例は,今日生ずる同様の出来事に対して,神がどんな処置をとられるかを物語るものです。したがって彼らは,しのびこんで他の人を不品行に誘惑するまえに,彼らの最後がどんなものであるかを警告されています。ユダはこう書いています。「あなたがたはみな,じゅうぶんに知っていることではあるが,〔エホバ〕が民をエジプトの地から救い出して後,不信仰な者を滅ぼされたことを,思い起してもらいたい」。(ユダ 5〔新世〕)たしかにイスラエル人は,紀元前1513年にすばらしい救いを得ました。エジプトに10番目の災いがふりかかったとき,エホバはイスラエル人の初子を死から救い,その強い御手をもってイスラエルを解放されました。イスラエル人は,初子が殺された時だけでなく,のちに紅海においても救われました。イスラエル人以外の「多くの入り混じった群衆」もこの救いにあずかりました。―出エジプト 12:38。
16,17 (イ)クリスチャンは,イスラエル人および「入り混じった群衆」からどんな教訓を得ますか。(ロ)使徒パウロは同じ警告をどのように述べていますか。私たちはそれにどのように応ずるべきですか。
16 このことは何を予表していますか。エジプトは現代の事物の制度の象徴です。(黙示 11:8。コリント後 4:4)それでこのことは,エホバによっていまの事物の制度から救われる人々が,エジプトおよび罪のどれいになってはならないことを示しています。この悪い事物の制度から一度救われたからといって,神の新秩序の中で永遠の生命を得る救いが確定し,絶対に変わることがない,という意味ではありません。「入り混じった群衆」を従えたイスラエル人が実例であるとすれば,そうは言えません。イスラエル人の救い主であったエホバは,100万以上のイスラエル人を荒野で滅ぼされたからです。(出エジプト 12:37。民数 14:26-38)なぜですか。彼らは人を迷わす罪の力に屈服したのです。罪は人をあざむくものです。罪は,ちょうどイスラエル人に対してしたように,えじきを目がけてしのびより,容赦なくとびかかります。イエス・キリストの使徒パウロは,実体のエジプトおよびそのバビロン的異教から一度救い出されても,それが救いの決定的な証拠でないことを警告して,次のように述べています。「彼ら〔荒野にいたイスラエル人〕の中の大多数は,神のみこころにかなわなかったので,荒野で滅ぼされてしまった。これらの出来事は,わたしたちに対する警告であって,彼らが悪をむさぼったように,わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。だから,彼らの中のある者たちのように,偶像礼拝者になってはならない。すなわち,『民は座して〔ペオルのバアルにささげられた犠牲の〕飲み食いをし,また立って,〔そのような犠牲をささげる時に彼らを招いたカナンの女たちと〕踊り戯れた』と書いてある。また,ある者たちがしたように,わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が,一日に二万三千人もあった。また,ある者たちがしたように,わたしたちは〔エホバ〕を試みてはならない。主を試みた者は,へびに殺された。また,ある者たちがつぶやいたように,つぶやいてはならない。つぶやいた者は,『死の使』に滅ぼされた。これらのことが彼らに起ったのは,他に対する警告としてであって,それが書かれたのは,世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」― コリント前 10:5-11,〔エホバ,新世〕
17 パウロはこれをクリスチャンに書き送っています。そして予表となった生来のイスラエル人から例を引いています。イスラエル人に好意を示した人々の「入り混じった群衆」も,イスラエル人と一緒にいました。ですからその警告は,今日の実体においても,油そそがれたクリスチャンの残れる者および「大ぜいの群衆」の両方にあてはまります。それゆえにすべての人が,イエス・キリストの血によって買い取られた人を不品行にいざなって,罪のどれいにしようとする人を警戒しなければなりません。どんなに長く救いの道にいる人でも,影響を受けないとはいえません。注意を怠ったり,誇ったり,自分の力により頼んだりせず,神のことばに照らして常に自分を吟味し,人を迷わす罪の力に迷わされないようにしなければなりません。
御使いも滅びはまぬかれない
18 ユダはほかにどんな例を用いて,キリスト教の信仰のためにきびしい戦いをすべきことを示していますか。
18 ユダはさらに別の例をひいて,クリスチャンが信仰のために力をつくして戦わねばならないことを示します。「主は,自分たちの地位を守ろうとはせず,そのおるべき所を捨て去った御使たちを,大いなる日のさばきのために,永久にしばりつけたまま,暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム,ゴモラも,まわりの町々も,同様であって,同じように淫行にふけり,不自然な肉欲に走ったので,永遠の火の刑罰を受け,人々の見せしめにされている」― ユダ 6,7。
19,20 (イ)ユダが指摘した天使の罪は何でしたか。その罪のためにどんな罰を受ける結果になりましたか。(ロ)罪を犯した天使の例は,私たちにとって教訓になりますか。
19 弟子ユダはここで,神の組織内の人を堕落させようとしたこれらの不信仰な人々を,ノアの時代の堕落した御使いたちと比較しています。疑いもなくそれらの御使いは,申し分のない容姿をそなえた人間となって現われたでしょう。ですから彼らの風さいはきわめて魅力的であったに違いありません。しかし彼らは人間を神にたちかえらせるために地に来ましたか。そうではありません。彼らは悪い動機をもっていたのです。その目は情欲に満ちていました。御使いたちは美しい人間の娘に目をとめていたのです。肉体をそなえて現われた,風さいの立派なこれらの御使いは,美しい娘たちに言い寄りました。女に近づく権利があると考えたにせよ,考えなかったにせよ,彼らは自分の好む女を望む数だけ取って妻にしました。その数はおそらくレメクの妻より多かったでしょう。レメクはそれよりまえに二人の妻をめとっています。(創世 4:19)彼らの外見の美しさは,人間の中にしのびこみ,潜入して,人間を堕落させるのに好都合でした。そこでユダは,今日でも風さいの立派な者がしのびこむ恐れのあることを教えています。そのような人は,とくに異性と親しくなろうとします。不純な性関係によって相手を腐敗させ,堕落させるのが彼らの目的です。大洪水の時御使いたちはもとの霊者にもどりました。けれども神の組織にもどることはできませんでした。神が彼らを「大いなる日のさばきのために,永久にしばりつけたまま,暗やみの中に閉じ込めておかれた」のです。彼らはいま,神からの光をもたず,霊的に暗黒の状態にいます。彼らはその悪い動機により,自ら悪霊になったのです。(創世 6:1-5)これは私たちにとってなんとよい戒めではありませんか。
20 このことから私たちは,神の顔を見た御使いさえ罪に陥り,滅びのさばきを受けることを知ります。神は天使が両生するように,つまり時には霊者として天に住み,時には人間として地上に来て女と同棲するようには意図されなかったのです。しかしそれらの天使は,彼らに定められた住居を離れました。そこでもし御使いが滅びをまぬがれないとすれば,まして不完全な人間は,自分の救いを確定的なもの,絶対に間違いのないもの,と考えるべきではありません。信仰のためにきびしい戦いをしてはじめて,救われた状態にとどまることができるのです。私たちは,そのような高い地位から落ちた天使のようになりたくはありません。それで,神が定めた限界を越えて肉を汚そうとする人を退けましょう。
21 (イ)とくにどんな罪のためにソドムとゴモラは滅ぼされましたか。(ロ)それらの町の破滅はどのように警告となり,同時に,信仰をもつ人々に対する励みとなりますか。
21 ユダは,罪を犯した天使のほかにも,洪水より約450年以上のちに,神によってもたらされたある滅びのことを警告として述べています。それは神が,ソドムとゴモラを罰し,火をもって滅ぼされた時です。町の住民は「淫行にふけり」,不自然な肉欲を求め,女とみだらな行ないをしただけでなく,男に対しても肉欲をもやしました。おそらく獣とも交わったことでしょう。(レビ 18:22-25)聖書は,エホバが二人の天使をソドムにつかわされたいきさつを述べています。それはソドムの道徳的な状態を調べ,またその町に迫っている滅びからロトを救い出すためでした。ロトはその二人の天使を親切に家に迎え入れました。しかし罪ぶかいソドムの住民は,若い者も老人も群がり集まって,二人の天使を出せと言いました。正しくない性行為を行なうためです。天使が彼らを打って目をくらましたのちでも,欲情にとりつかれたソドム人は,天使たちを捕えようとしました。翌朝エホバ神は,ソドムとゴモラに火といおうを注がれました。ロトとその娘は,ソドム人にのぞんだ滅びをまぬかれました。その滅びは「人々の見せしめにされて」います。だれに対する見せしめですか。ペテロはこう答えます。「ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し,不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし,ただ,非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。……こういうわけで〔エホバ〕は,信心深い者を試練の中から救い出し,また,不義な者ども,特に,汚れた情欲におぼれ肉にしたがって(歩む)……人々を罰して,さばきの日まで閉じ込めておくべきことを,よくご存じなのである」― ペテロ後 2:6-10〔新世〕。
22 (イ)それで私たちはどんな警告を心にとめるべきですか。(ロ)神はどのように正しい人を試練から救い出されますか。
22 それですから,神の組織の中にあって肉を汚す人はみな注意しなさい! その人たちの最後は永遠の滅びです。真の崇拝を行なう人はこの警告を心におさめ,一しゅんでも,そのような滅びに定められた人の誘惑に耳を傾けてはなりません。彼らを退けなさい。「信仰のために戦い」なさい。神が,神に献身した者を試みから救い出す方法をご存じのことは確かです。しかし神はいつも私たちを試練から出されるとはかぎりません。なぜなら神はその試練をとおして私たちをためされるからです。神が正しい者を試練から救い出される方法は,ご予定の時に,不信仰な者を断ち滅ぼすことです。神は試練をもたらす者たちの活動を押えられます。
23 私たちは何に疲れてはなりませんか。どんな報いを望んで?
23 悪い人々が将来いつまでわたしたちに試練を負わせつづけるかは,わたしたちにはわかりません。しかしわたしたちは,「この御国の福音」の伝道にうみ疲れることなく,常に不信仰な人々を退けてゆかねばなりません。そうすれば,神が不信仰な者を断ち滅ぼされるときに救いを受け,生き残って,悪の清められた新しい秩序にはいることができるでしょう。その時がくるまで,わたしたちは信仰のため力をつくして戦いつづけ,決して警戒を怠ってはなりません。
[45ページの図版]
見せしめとなったソドムとゴモラ