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読者からの質問ものみの塔 1969 | 6月15日
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ならば明白に告げよ」と言ったのに対して,イエスは,「わが父の名によりて行ふわざは,我につきて証しす」と答えられたのです。(ヨハネ 10:24,25)イエスがとある井戸のそばで,サマリアの女に向かってご自分がメシヤであることを明らかにされ,その女がこのことを町の人々に告げたため,多くのサマリヤ人が寄って来て,イエスの話を聞いたのは事実です。しかし人々は,その女の話に基づいてではなく,イエスの話に基づいて判断したことに注目してください。こうしるされています。「かくて女に言ふ『今われらの信ずるは汝のかたることばによるにあらず,親しく聴きて,これは真に世の救主なりと知りたるゆえなり』」。(ヨハネ 4:7-42)イエスは祭司長および最高法院の前で誓いを立てさせられて初めて,ご自分がメシヤであることを明らかにされましたが,その時でさえ,ご自分を明らかにする前に,「なんぢの言へるごとし」と言われたのです。自分たちの得た証拠に基づいて,イエスがメシヤか否かを,判断するのは彼らのすべきことでした。これは彼らが自ら判断すべきことであり,自らその責任を負わねばなりませんでした。(マタイ 26:63,64)同様に,ピラトとその役人の前に立たれたイエスは,ご自分が王か否かを尋ねられた時,こう言われました。「われの王たることは汝の言へるごとし」。このことに関してはピラトが自ら判断を下さねばなりませんでした。―ヨハネ 18:37。
したがってイエスは,人々が他人のことばに動かされてご自分を信ずるようになることを望まず,イエスのことばと行ないがメシヤに関する預言を成就しているかどうかを,人々に自ら判断してもらいたいと願っておられました。口づてによって尾ひれのつけられた大げさなうわさ話とか,ご自身に関してちまたで行なわれるぎょうぎょうしい宣伝などに基づいて判断してもらいたいとは望まれなかったのです。また,パリサイ人が好んでしたように,売名の目的で人々の前に立ったのでもありません。(マタイ 6:2,5)聖書のマタイ伝 12章15節から19節はこの点を明らかにしています。「多くの人,したがひ来りたれば,ことごとくこれをいやし,かつ我を人に知らすなと戒め給へり。これ預言者イザヤによりていはれたることばの成就せんためなり。いはく,『みよ,わが選びたる我が僕,わが心のよろこぶ我がいつくしむ者,我わが霊を彼に与へん,彼は異邦人に正義を告げ示さん。彼は争はず,叫ばず,その声を大路にて聞く者なからん』」。(イザヤ 42:2)それでイエスが,ご自身の行なわれた奇跡や,ご自分がメシヤであることについてむやみに宣伝することを禁じられたのはほかならぬ預言の成就でした。
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ベテルに漂うクリスチャン愛の雰囲気ものみの塔 1969 | 6月15日
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ベテルに漂うクリスチャン愛の雰囲気
最近,ものみの塔協会のブルックリン本部に住む一夫婦は,昼食にお客を招きました。その後しばらくして,次のようなお礼の手紙が届きました。
「親愛なる―――ご夫妻へ
「先週の水曜日,皆さんとともに過ごさせていただき,ありがとうございました。私たちの感謝の気持ちはとてもことばで表わすことができません。実は,私たちは考え深い人間で,自分たちの問題のみならず,機会さえあれば世界の諸問題をも解決する能力を持っているとこれまで思い込んできました。
「しかし先日,こうした自己満足からすっかり目をさまさせられました。宗教,隣人愛,政治,仕事,国連あるいは人類の将来などに関する私たちのこれまでの考え方はことごとくくつがえされてしまいました。エホバの証人の本部をお尋ねしたわたしたちは生きた宗教のあり方と人類の将来の真の解決策がなんであるかを知る特権にあずかりました。
「通常の就業日に訪問した私たちは,およそ600人のみなさんとともに(ベテルの一番大きな食堂の一つで)昼食をいただきました。みなさんはたいへん行儀がよく,互いに親切で,ものやわらかに話し,みな穏やかで,日毎のパンに対して神への感謝の念にあふれていました。さまざまな年齢層や,人種の人,そして異なった環境の下で各種の教育を受けた人々を600人も集めたなら,大混乱や,大騒動,分裂や不一致,そして少なくとも酒の上でのけんかが一,二件はつきものです。そうした大勢の人々の秩序を保つだけでもエホバにとっては容易なことではないに違いないと考えていましたが,先日の水曜日,わたしたちは考え違いをしていたことがわかりました。そうした違いはエホバに対する信仰にあったのです。おそらくこれこそあらゆる問題を解決するものでしょう。
「私たち3人は見聞きした事柄すべてから深い感銘を受けました。水曜日以来すでに数日経ちましたが,見聞きしたり,感じたりした事柄をいつも思い返しております。これまでの宗教と言えば,土曜日や日曜日だけ行なうもので,出生時や葬式の時,二三のことばを語られるものとみなされていました。それは日常生活の一部ではありませんでした。結局のところ,長年教育を受け,独自の物の見方を培ってきた私たちは完全にまちがっていたのでしょうか。
「あなたがたを尋ね,生きた宗教のあり方を見る機会にあずかれましたことを心から感謝いたします。
愛をこめて
敬具」
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