1世紀の出来事の年代は20世紀の今日どのように定められるか
1 聖書中の他の年代をさらに考慮することはなぜ大切ですか。
前の二つの記事の中では,アダムの創造にまでさかのぼる古代の歴史にかんする聖書の記録の正しさを吟味し,証明できました。しかし,歴史上の年代をどれほど検討したところで,もし地上におけるイエスや使徒たちの宣教の年代を歴史の流れのうちに位置づけることを割愛したとすれば,たしかに片手落ちと言わねばなりません。世界中の人々の生活やその歩みおよび諸国家にこれほど重大な影響を与えた人物はかつていなかったからです。
2 1世紀の出来事の年代を定める前に,まず何をしなければなりませんか。
2 すでに指摘したとおり,クリスチャン・ギリシャ語聖書中にしるされている出来事の年代を定めるには,現今のグレゴリー暦や,およそ400年前に廃止されたユリウス暦のいずれも十分なものではありません。それは,重要な出来事の年代を定めるのに,聖書の中で用いられている方法が全く異なっているためです。したがって,聖書中の出来事の年代を現行の暦法に合わせるにはまず共通の起点,つまり聖書および証明済みの一般の歴史のいずれによっても確証され確定された絶対日付を見いだすことが必要です。それを成し遂げさえすれば,聖書にしるされている他の歴史的な出来事の年代は,普通の暦に従って定められます。
3,4 (イ)チベリウス・カエサルが王位についたのはいつですか。(ロ)では,バプテスマのヨハネが伝道のわざを始めたのは何年ですか。
3 ユリウス・カエサルの死後,その養子,ガイアス・オクタビアヌスはローマの元老院を巧みに押え,巧妙な策略を弄して共和制体のイメージを帝国のそれに変え,ついにローマの初代皇帝の座に就き,地位を固めました。紀元前27年,神格化への道を進むオクタビアヌスは宗教的な称号,アウグスツスを僭称しました。また,ユリウス暦の8月(セックスティリス)を自分の称号にちなんで改名し,2月の月から1日を借りてその月に加えたので,8月(英語august)は,前任者ユリウス・カエサルにちなんで命名された7月(英語july)と同数の日を持つようになりました。これは偶然ですが,彼はユリウス暦紀元14年の,その名に由来する8月19日(グレゴリー暦,8月17日)に没しました。その日,アウグスツスの腹違いの子で養子となったチベリウスが跡を継いで皇帝になりました。
4 ゆえにユリウス暦の紀元14年8月19日はローマ史上,争う余地のない確定された日付です。それで,バプテスマのヨハネがヨルダンの荒野で伝道を始めた年代は,史家ルカが「テベリオ・カイザル在位の十五年」と明示しているので,もはや疑問の余地なく確定されました。(ルカ 3:1)その“十五年”はグレゴリー暦紀元29年8月16日まで続きます。バプテスマのヨハネが伝道を始めたのは,その年で,それは明らかに春でした。
5 ルカは,バプテスマのヨハネが宣教を始めた時をどのように明示していますか。
5 ルカはこの点の記述を補足し,歴史上一点の疑惑も許さぬほど明確にしました。この重要な出来事が反対者の攻撃の的にされることをおそらく予想していたのでしょう。「テベリオ・カイザル在位,十五年」としるしたのち,ルカはさらに「ポンテオ・ピラトは,ユダヤの総督[西暦27-37年],ヘロデはガリラヤ分封の国守[西暦40年まで],その兄弟ピリポは,イツリヤおよびテラコニテの地の分封の国守[西暦34年まで],ルサニヤはアビレネ分封の国守たり,アンナスとカヤパとは大祭司たりしとき[西暦約18-36年]」と付記して,当時在官中の6人の他の重要な支配者の名前を列挙しています。(ルカ 3:1,2)チベリウス在位第15年,時を同じくして権力を行使していたそれら6人の支配者が列挙されては,たとえ疑いをいだく人がいても,ヨハネの宣教が西暦29年に始まったのではないと,ローマ史あるいはユダヤ史を用いて反証するのは不可能です。
70週年
6 西暦29年には,ほかにどんな重要な出来事が生じましたか。
6 西暦29年は重要な年です。それは単に,パプテスマのヨハネが「なんぢら悔改めよ,天[あるいは神の]国は近づきたり」と宣明したからではなく,もっと大切なことに,その神の国のために神の油そそがれる人物が間近に来ていたからです。(マタイ 3:2)先駆者であるヨハネはイエスよりも約6か月年上でした。(ルカ 1:34-38)ゆえにイエスがパプテスマを受け,油そそがれたのは,同じ西暦29年の秋であり,その時,イエスは「年おほよそ三十」でした。(ルカ 3:23)その場にいたヨハネは,イエスがそこで神の聖霊によって油を注がれ,油そそがれた者,つまりキリストになったことをあかししました。―ヨハネ 1:32-34。
7 (イ)ダニエルの預言によれば,メシヤはいつ到来することになっていましたか。(ロ)その到来を待つ期間はどれほどの長さですか。
7 この油そそがれた者が西暦29年の秋に教えるわざを開始されたことは,長年月にわたる,ダニエル書 9章25節の預言により確証されています。その句は一部次のとおりです。「エルサレムを建なほせという命令の出づるよりメシヤ[油そそがれた者の意]たる君の起るまでに七週と六十二週あり」。7週に62週を加えた合計69週が,7日を1週間とする文字どおりの週であるとすれば,メシヤの出現を待ち望む期間は,文字どおりの24時間の日にしてわずか483日,つまり16か月にすぎません! そうではなく,これらの週は預言的な意味を持つ週なのです。それで,「一日を一年」とする聖書の定めに従うと,それは483年(69週ではなく69週年)を表わします。―民数 14:34。エゼキエル 4:6。
8 エルサレムを建て直せとの命令が出されたのは紀元前537年でも,アルタクセルクセスの第7年でもないと,どうしてわかりますか。
8 では,「エルサレムを建なほせという命令」が出たのはいつですか。紀元前537年ではありません。その年のクロスの勅令は,町を復興し,再建することではなく,「エホバの…家[あるいは宮]を…エルサレムに建つること」を命じただけだからです。(エズラ 1:2,3)また,エズラが王の特別の手紙を携えてエルサレムに上った年,ペルシアの王アルタクセルクセス1世の在位第7年,紀元前468年でもありません。その手紙はエルサレム再建の許可や命令については何一つ触れず,エルサレムの宮の奉仕に関する用件のみを述べています。―エズラ 7:1-27。
9 エルサレムを建て直せとの命令の出された時となったアルタクセルクセス在位の第20年には,どんな出来事が起こりましたか。
9 ところが,アルタクセルクセス1世の第20年,ネヘミヤはエルサレムの町が「大なる患難にあひ」,また「エルサレムの石垣は打崩され その門は火にやけたり」との知らせを受けました。そこでネヘミヤは機をみて,その事態に対して王の配慮を求め,こう訴えました。「王もしこれを善としたま…(は)ば願くはユダにあるわが先祖の墓の邑に我を遣はして我にこれを建起さしめたまへ」。ネヘミヤはさらにこう奏上しました。「王もし善としたまはば請ふ…書を我に賜ひ…王の山林を守るアサフに与ふる書をも賜ひ彼をして殿に属する城の門を作り邑の石垣および我が入べき家に用ふる材木を我に授けしめたまへ」― ネヘミヤ 1:2,3; 2:5-8。
10 エルサレムの町を建て直せとの勅令が出されたのはその年のいつでしたか。しかし勅令が実施されたのはいつですか。
10 王に対してこの請願がなされたのは,その年の春,ニサンの月でした。しかしやがて手紙がしたためられ,ネヘミヤは,バビロンの東方約640キロのシュシャン(スサ)のペルシア王宮をあとに,およそ1450キロに及ぶ長途の旅にのぼり,やがて王の手紙をユフラテ「河外」ふの総督たちに渡し,その後,陰暦の月タンムズ(第10月)の末,くずれ落ちたその町に到着しました。「我ついにエルサレムに到(れ)り」と自ら述べているとおりです。(ネヘミヤ 2:9-11)ゆえに,「建なほせ」との命令が実施されはじめたのは,アルタクセルクセスの第20年の後半,紀元前455年のアブの3日もしくは4日であり,預言の69週が始まったのはこの時です。―ネヘミヤ 2:11 ― 6:15。
11 アルタクセルクセスが王位についたのは何年ですか。では,その治世第20年はいつですか。
11 アルタクセルクセス1世の治世の初まりが紀元前474年であることは,斯界の権威者によって確定されています。アルタクセクセス治世中に生存したギリシャの史家ツキジデスによれば,テミストクレス将軍がギリシャをのがれてアジアに着いたのは,アルタクセルクセスが「王位に就いてまもなく」のころであり,その父クセルクセスの在位中ではありませんでした。1世紀のギリシャの伝記作家プルタークおよび紀元前1世紀のローマの史家ネポスはともにこの点でツキジデスを支持しています。このテミストクレス将軍は,(小アジアの)エペソに到着するや直ちに,王の前に立つまでの1年間ペルシア語を勉強させてほしいと王に懇願しました。その願いは許され,そして王にまみえましたが,1世紀のギリシャの史家ディオドラス・シクラスによれば,テミストクレスは紀元前471年に死にました。このことと一致して,ジェロームのユーセビウスにもあるとおり,彼がアジアに着いたのは473年であり,その結果,アルタクセルクセスは474年に王位に就いたことになります。ゆえにこの王の治世第20年は紀元前455年にあたります。以上の事実および他の歴史上の証拠に基づいて,著名な学者エルネスト・ヘングステンベルグ(1802-1869)は自著,「旧約聖書のキリスト論」,第2巻,389頁に一部こう述べました。これはリューエル・ケイスのドイツ語からの翻訳です。「アルタクセルクセスの第20年はキリスト前455年である……」。そしてアッシャー大司教その他もこの点で同意しています。
12 アルタクセルクセスの治世にかんするこの知識がイエスのバプテスマの時を定めるのにいかに役だつかを説明しなさい。
12 それで,エルサレムの再建を命じた有名なアルタクセルクセスの勅令が出され,実施された年として確定された紀元前455年に基づいて計算すれば,メシヤの出現を待つ483年の期間は,西暦29年後半に終わったことになります。a 以上のすべての事実を考えれば,イエスがバプテスマを受け,油をそそがれた年を確定する証拠にはたしかにことかきません。
13,14 (イ)イエスは西暦29年にバプテスマを受けたのですから,その誕生はいつですか。(ロ)しかし一部の批評家はイエスの誕生を何年と見なしていますか。それはどんな証拠に基づく見解ですか。(ハ)ヘロデがエルサレムを手中に収めた年は,イエスの誕生の年を決定するのにどのように役だちますか。
13 イエスがバプテスマを受けた年は西暦29年と確定され,その時彼は30歳でしたから,その誕生は紀元前2年の秋と定められます。それでイエスは紀元前1年の秋には誕生後1年を経ました。零年はありませんから,翌西暦1年の秋,彼は2歳で,同29年の秋,イエスは30歳になりました。しかしイエスの誕生を紀元前4年,あるいはさらにさかのぼって紀元前6年とする年代学者もいます。それは,ヘロデの没する少し前に月食が起こったというヨセハスの記述をもとにして計算したためです。(「ユダヤ人古代史」,第17巻,第6章,4節)これまでの計算によれば,紀元前4年3月13日にそのような月食が生じており,ゆえに救い主はその日付以前に生まれ,こうして,2歳またそれ以下の赤子を殺せとヘロデの命令が出されることになったのだと論じられています。
14 しかし,これはイエスの誕生を紀元前4年とする十分の証拠とは言えません。月食は比較的に普通の出来事であり,1年に2度生ずるのも珍しいことではないからです。もっと重要なのは,ヘロデはローマ政府によって王位に就けられて37年後に没したというヨセハスの記述です。(同古代史,第17巻,第8章,1節)実際のところヘロデは紀元前38年の夏までは,まだエルサレムを手中に収めてもおらず,王位に就いていませんでした。それで,もしヨセハスがヘロデの治世の始まりを,3年前にローマ元老院から同意を受けた時ではなく,エルサレムを掌握し,かつ実際に王として統治しはじめた年と見なしているとすれば,ヘロデの死は紀元前1年となります。この計算でゆけば,イエスが紀元前2年の秋に誕生し,カルデアの占星術者の訪問を受け,またベツレヘム一円の無実な赤子の殺害が起こったと十分に考えることができます。―マタイ 2:1-18。
15 メシヤが「第七十週」のなかばに断たれたのであれば,それは西暦紀元の何年にあたりますか。
15 70週年にかんするダニエルの預言の残りの部分もこれらの年代を確証しています。ダニエル書 9章26,27節は,「メシヤ絶れん ただしこれは自己のためにあらざるなり」と述べていますが,この出来事は,69週ののち,そして70週の「なかば」に起こりました。この最後の週,第70週は当然,他の69週の各1週と同じ長さですから,それは7年の期間です。ゆえにメシヤは,7年の長さをもつ第70週の「なかば」,つまり西暦29年の秋から3年半ののち,すなわち西暦33年の春に絶たれました。「その週のなかばに犠牲と供物を(正式に)廃せん」とあるとおり,その時,律法契約は犠牲とともに「〔刑柱〕につけ」られ,正式に廃止されたのです。(ダニエル 9:27。コロサイ 2:14,〔新世訳〕)こうして,イエスはその宣教中,聖書にしるされているとおり,b 年1度の過ぎ越しの祝いに4回あずかることができました。
16 イエスが西暦33年4月1日の金曜日午後に死んだことをさらに証明するどんな天文学的事実がありますか。
16 天文学上の特定の事実も,また,イエスが西暦33年に死なれたことを確証しています。この出来事は,木曜日の午後6時に始まって翌金曜日の同じく午後6時に終わる,ニサン14日の24時間の1日のうちに起こりました。それでイエスは金曜日の「九時」つまり午後3時に死なれたことがわかります。(マルコ 15:34-37,新世訳)過ぎ越しの翌日,ニサンの15日は,週のどの日にあたっても,これにはかかわりなく安息日でした。(レビ 23:6,7)それがもし予定の毎週の安息日にあたれば,イエスの死の場合がそうだったように,ニサンの15日は「大安息日」となりました。(ヨハネ 19:31,新世訳)さて,天文学的計算によれば,c クレゴリー暦の西暦33年3月31日,木曜日の夜,そのような過ぎ越し時の満月が生じました。イエスの宣教中,ニサンの月の木曜日に満月となった他の唯一の例は,西暦30年だけです。しかしその時は,メシヤが宣教を6か月行なえただけで,その死の年とはなり得ないので,問題になりません。ゆえに,イエスが西暦33年4月1日の金曜日の午後,死なれたということにはまず疑問の余地がありません。
西暦36年から49年までの出来事の年代を確定する
17 「第七十週」の残りの期間には何が起こりましたか。またその週はいつ終わりましたか。
17 メシヤが刑柱上で死を遂げられたのちの第70週の残り3年半の期間は西暦36年の秋に終わりました。その間,天の御国級への,エホバの特別な招待は,ユダヤ人およびその改宗者にのみひきつづき差し伸べられました。それは次の預言どおりでした。「彼一週のあひだ衆多の者と固く[アブラハムの]契約を結ばん」。(ダニエル 9:27)救いの福音が西暦36年の秋まで異邦人に伝えられなかったのはそのためでした。そしてその時,使徒ペテロがコルネリオおよびその家の者たちにバプテスマを施す特権にあずかったのです。―使行 10:1–11:18。
18 西暦36年の秋には何が始まろうとしていましたか。
18 さて,西暦36年の秋の到来に及んで,キリストについて伝道するわざは,異邦諸国に大いに広げられる時となりました。ここでもまた,偉大な時間厳守者で,かつご自分のわざのいかなる新しい分野に関しても時間どおりに適切な備えをなさるかたであるエホバが,「異邦人の使徒」となるべく十分の用意のできた人物,つまり使徒パウロとなったタルソのサウロを備えておられたことがわかります。―ロマ 11:13。ガラテヤ 2:8,9。
19 パウロは与えられた割当てにかんして36年までに用意を整えていましたか。
19 その西暦36年,もはやパウロは新しく改宗したばかりの新参者ではありませんでした。ユダヤ人でしたから,36年まで待って改宗する必要はありませんでした。33年,イエスが活動舞台を去ったのちの最初の年に,彼は真理の光に打たれたものと思われます。その後,2年か2年半,パウロはダマスコで働き,ついには,かごに入れられて,その町の城壁の穴から吊りおろされて脱出する羽目にあいました。しばらくのあいだアラビアに行っていた彼は,ついにダマスコに戻り,まもなくエルサレムに上りました。それは改宗して3年後であるとパウロ自身述べていますから,エルサレムでペテロとヤコブを初めて尋ねたのは西暦36年のことです。彼はこう述べています。「その後シリヤ,キリキヤの地方に往けり」― 使行 9:3-25。ガラテヤ 1:15-21。
20 エルサレムにある統治体が割礼の問題で決定を下したのはいつですか。
20 ガラテヤ人にあてたこの同じ手紙の中でパウロはさらにこうしるしています。「そののち十四年をへて…またエルサレムにのぼれり」。(ガラテヤ 2:1)序数を用いる当時の計算の仕方に従えば,36年から数えて第14年は西暦49年となります。エルサレムを訪問したこの時に持ち上がったのが割礼の問題で,それは統治体に提出され,落着しました。―使行 15:2-29。ガラテヤ 2:3-9。
21,22 聖書にしるされているどんな出来事が西暦41-49年の間に起こりましたか。
21 西暦36年から49年にはほかにも興味深い出来事が起こっており,それは聖書にしるされています。たとえば,クラウディウスが皇帝のころ,ヘロデ・アグリッパ1世の没する少し前,預言者アガボはエホバの霊に動かされて,来たるべき飢饉を預言し,使徒ヤコブはヘロデの手にかかって殉教し,またペテロはエホバの御使いの助けで,その同じ窮地より救い出されました。―使行 11:27–12:11。
22 それらの出来事が西暦44年に起こったことは,一般の歴史でも認められています。クラウディウスの即位が宣言されたのは41年であり,ヘロデ・アグリッパ1世が虫に食いつくされて死んだのは,西暦44年の過ぎ越しののちだからです。(使行 12:21-23)しかし預言された飢饉は46年になるまで生じませんでした。当時,ユダヤのローマ行政長官はチベリウス・アレクサンダーでした。それで満2年の余裕があったので,アンテオケのクリスチャンは緊急事態に備え,記録にあるとおり救援対策を設け,万全を期すことができました。これらの出来事ののち,ひきつづき聖書の使徒行伝 13,14章にはパウロの第1回宣教旅行のことがしるされています。バルナバを同伴したパウロはキプロス島を訪れ,その後シリヤのアンテオケに戻る前に,小アジアの多くの都市を尋ねました。この第1回旅行は47年そして48年の大半に及んだようですが,前述のとおり49年の春エルサレムに上る以前に,郷里アンテオケに戻る余裕も十分にありました。
パウロの宣教上の他の出来事の年代を定める
23,24 パウロが波乱に富む第2回宣教旅行に上ったのはいつですか。そして,ギリシャのコリントに着くにはどれほどかかりましたか。
23 さて,西暦49年から52年にわたるパウロの第2回宣教旅行の行程中の日付を定めるのに,聖書のすぐれた記録がいかに役だつかを見てください。エルサレムの統治体によって作成された特別の手紙を携えたパウロは,49年の春アンテオケに戻りました。その写しはわたしたちのために保存されています。(使行 15:23-29)記録によれば,「数日ののち」,そしておそらくその同じ年,49年の夏のころ,バルナバはキプロスでのわざに戻りましたが,パウロとシラスはシリアおよび隣りのキリキアの諸会衆で奉仕するため旅立ちました。―使行 15:36-41。
24 ゆえにパウロとシラスが小アジアに移り,そこを通って初めてヨーロッパにはいったのは西暦50年の春に違いありません。(使行 1:1-12)その後の6か月間はきわめて忙しい時でした。これら開拓者たちは,新たな道を切り開き,50年の秋にコリントに達する前に,ピリピ,テサロニケ,ベレアそしてアテネに新しい会衆を設立したのです。何という目まぐるしい奉仕の年だったのでしょう! 考えてみてください。およそ15か月の短時日に,1世紀のこれら宣教者たちは優に2000キロを越す旅路を,おそらくその大部分を徒歩で進み,そのうえ,ユダヤ人および異邦人から成る数多くの新しい会衆を設立したのです。
25 パウロは西暦50年の終わりごろにはコリントに着きましたが,このことを示すどんな歴史的証拠がありますか。
25 パウロがコリントに着いたのは50年の終わりごろでした。このことは一般の歴史の上でも確証されています。5世紀初頭の史家パウロス・オロシウスによれば,クラウディウス皇帝が全ユダヤ人に対してローマからの退去を命じたのは50年の1月25日でした。時を移さずアクラとプリスキラは持ち物をまとめ,通行許可証を入手し,まもなく出帆し,しばらくしてコリントに着きました。その後,1年半ほど住むことになった新しい家に落ち着き,テントを作る仕事にとりかかったのです。そのすべては,パウロが同年の秋コリントに着くまでの何か月かの間に生じました。聖書はこうしるしています。「パウロ…アクラといふ…ユダヤ人に遇ふ。クラウデオ,ユダヤ人にことごとくロマを退くべき命を下したるによりて,近頃その妻プリスキラとともにイタリヤよりきたりし者なり」― 使行 18:2。
26 パウロがコリントに50年の秋から52年の春まで滞在したことを確証するどんな証拠を考古学者は発見しましたか。
26 同じ使徒行伝 18章の12節の記録は,聖書の歴史上の記述の正確さを証明するもう一つの例となります。その句は次のとおりです。「ガリオ,アカヤの総督たる時,ユダヤ人,心を一つにしてパウロを攻め,さばきの座にひきゆ(く)」。考古学者は,皇帝クラウディウスの勅令をしるした,碑文の断片を発見しました。そしてガリオは51年の夏から52年の夏までアカヤの総督だったことが証明されました。ガリオによってその訴えが却下されたのち,パウロは,シリヤのアンテオケに向けて出発するまで,コリントに久しくとどまりました。(使行 18:18)それでパウロはコリントに50年の秋ごろ着き,1年ほどしてガリオの前に引き出され,その後,聖書にしるされているように,合わせて18か月とどまったのち,52年の春その地を去りました。(使行 18:11)こうして彼は,西暦52年盛夏,アンテオケに着くこととなりました。
27 故郷アンテオケに戻った今,パウロは安心して隠退しましたか。
27 全時間宣教者奉仕の多忙な長い歳月を経,かつ1世紀当時の旅行に伴う危険や苦難をことごとく耐えたパウロは,隠退してここアンテオケに落ち着き,安楽な老後を送ったのではなかろうかと考える人があるかもしれません。(コリント後 11:26,27)しかしそうではありません! パウロはひとときといえども隠退を考えませんでした。その書簡,その活動のすべてには,なおいっそう迅速に,かつ効果的にわざを推し進めねばならないとの絶えざる緊急感がうかがえます。
28 パウロの第3回宣教旅行に関し,訪れた場所およびその期間について述べなさい。
28 ですから,アンテオケにしばしとどまったのち,この精力的な宣教者は再び旅立ちますが,驚くにはあたりません。アンテオケに「しばらくとどまりてのち」,おそらく52年の秋ごろ,彼は3回目の旅行を始めました。このたびは陸路,「ガラテヤ,フルギヤの地を次々にへてすべての弟子を堅う(し)」,エペソに着き,そこにその後2年半とどまりました。(使行 18:23; 19:1-10)次に,彼はそのことばどおり,五旬節の祝い(55年)ののち,マケドニヤを経て,コリントに下り,その地で冬を過ごし,今度は同じ道筋を戻って翌年春の過ぎ起しの時にはピリピにたどり着きました。こうしてパウロは西暦56年の五旬節までにはエルサレムに戻ることができたのです。―コリント前 16:5-8。使行 20:1-3,6,15,16; 21:8,15-17。
29 エルサレムで捕えられてから,ローマで死ぬ時までにパウロが経験した事柄の年代は,どのように定められますか。
29 しかしエルサレムに着くやいなやパウロは宗教上の敵対者から直ちに襲われ,不本意にもローマ軍の手でひそかにカイザリアに向けて護送されました。そして,わいろをこととする狡猾な総督ヘリクスに代わってフェストが任官するまで2年間,拘禁されました。(使行 21:27-33; 23:23-35; 24:27)フェストが総督となった年にかんして大英百科事典は,55年あるいは60-61年として互いに争い合う批評家二派についてこう述べています。「真実はそれら両極端の中間にあると確言できよう。それは,いずれの側の論議も相手側の誤まりを証明できるほどに一方の極端を証明してはいないと思えるからである」。d ゆえに,前述のすべての事実に照らして考えるとき,パウロが皇帝に上訴して,聞き届けられ,ローマに向けて出帆した時としては,58年が妥当であると言えるでしょう。歴史に残る最も有名な難船にあって命拾いをしたのち,マルタ島で一冬を過ごし,翌59年の春,ローマに着いたパウロは,囚人として2年その地にとどまり,61年まで伝道し,また教えました。(使行 27:1; 28:1,11,16,30,31)パウロはローマでの2度目の投獄の際に殉教の死を遂げましたが,その期間はおそらく西暦64-65年のころでしょう。―テモテ後 1:16; 4:6,7。
30 1世紀の出来事をこうして調べることにはどんな益がありますか。
30 以上,1世紀の出来事を回顧してみましたが,それはいずれも興味深く,かつ信仰を強めるものでした。聖書の筆者は現代の暦法については何も知りませんでしたが,出来事の日付を記録するに際して用いた方法,その慎重さおよび正確さは,古代のさまざまな事件を時間の流れの中で正確に位置づけるのにいかに貢献しているかがわかります。聖書の年代表が詳細な点でも調和しており,真実が正しく取り扱われていることを知り,聖書に対するわたしたちの確信と信頼の念はさらに深められ,聖書はまさしく真理をしるしたエホバのみことばであるとの信仰はますます深められます。
[脚注]
a この年代を計算するに際して,紀元前1年と西暦1年とのあいだに零年のないことを考慮に入れます。
c パーカー,ドゥッベルスタイン共著,「紀元前626年-西暦45年にわたるバビロニア年代記」,1942年版,46頁。また,オッボルゼル著「月食総覧」,1887年版,第2巻,344頁。
d 大英百科事典,1946年版,第3巻,528頁。また,ヤング編,聖書分析索引,「フェスト」の項,342頁。