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わたしたちが世のものであってはならない理由ものみの塔 1984 | 10月1日
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わたしたちが世のものであってはならない理由
「わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」― ヨハネ 17:16。
1 イエスは,ご自分の追随者たちがどんな扱いを予期できると言われましたか。
イエス・キリストはこの世から退けられ,憎まれ,迫害さえ受けました。ではイエス・キリストの追随者たちは何を予期できましたか。イエスは追随者たちにこう言われました。「もし世があなた方を憎むなら,あなた方を憎むより前にわたしを憎んだのだ,ということをあなた方は知るのです。あなた方が世のものであったなら,世は自らのものを好むことでしょう。ところが,あなた方は世のものではなく,わたしが世から選び出したので,そのために世はあなた方を憎むのです。奴隷はその主人より偉くはないと,わたしがあなた方に言った言葉を覚えておきなさい。彼らがわたしを迫害したのであれば,あなた方をも迫害するでしょう。彼らがわたしの言葉を守り行なったのであれば,あなた方の言葉をも守り行なうでしょう」― ヨハネ 15:18-20。
2 (イ)イエスの追随者たちと大きく異なっている「世」とは何ですか。(ロ)エホバは,キリストの弟子たちを世から取り去る代わりに,彼らのために何をされますか。
2 確かにイエスの真の追随者たちは,この世,つまり神から離反した罪深い人間社会とは大きく異なっています。まさにそうした実状のために,キリストの弟子たちはこの世から憎まれ,迫害されます。しかしイエスの追随者たちは,世から離れていることにおいてイエスの完璧な模範に堅く付き従っているので,エホバはキリストの次の祈りに調和して,彼らを見守っておられます。「わたしは,彼らを世から取り去ることではなく,邪悪な者のゆえに彼らを見守ってくださるようにお願いいたします。わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません。真理によって彼らを神聖なものとしてください。あなたのみ言葉は真理です」― ヨハネ 17:15-17。
3 この世に関してどんな質問の答えを見いだすことが必要ですか。
3 「世のものではない」とは何を意味していますか。イエスの追随者はクリスチャン以外の人々との接触を一切避けなければならないということですか。
クリスチャンは孤立主義者であってはならない
4 イエスは追随者たちに,彼らが孤立主義者ではいられなくなるどんな業を割り当てましたか。
4 確かにイエスは,排他的な宗教集団に閉じこもることをご自分の追随者たちに期待されたわけではありません。むしろイエスは,「聖霊があなた方の上に到来するときにあなた方は力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」と述べ,全地にわたる業を行なうようにお命じになりました。(使徒 1:8)さらに次のようにも命じられました。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。(マタイ 28:19,20)このようにして「すべての国の人々」は弟子になりますが,言うまでもなく,すべての国そのものがイエス・キリストの教えを受け入れることを期待すべきではありませんでした。
5 聖書的に許されているどんな方法により,人々はキリスト教に改宗しますか。
5 しかしある方は,『幾つかの国全体がキリスト教に改宗させられたではないか。そのような国々はキリスト教世界として知られる部分を構成しているのではないか』と言うかもしれません。なるほど,ある支配者たちは臣民の宗教を決定し,何のためらいもなく残虐で野蛮な方法を用いてその決定を強要してきました。さらに,架空の地獄の火での責め苦に対する恐れが,名目上のキリスト教へのいわゆる改宗を促す大きな要素となってきました。(伝道の書 9章5,10節と比較してください。)しかし,こうしたことすべては,真のキリスト教の信仰を広めるために許されている唯一の聖書的な方法から大きく隔たっています。この壮大な活動は,積極的な証しをし,教え,弟子を作ることによって行なわれるべきです。世捨て人,世間とは没交渉の修道士や尼僧は,この業を遂行することも,『あなた方の光を人々の前に輝かせなさい』というキリストの命令に従うことも決してできませんでした。(マタイ 5:14-16)しかも,強制された“改宗”と,エホバ神に心からの理性的な献身をするよう,すべての国の正直な心を持つ人々を助ける,証しをし,宣べ伝え,教える業との間には,何の共通点もありません。
「世のものではない」理由
6 エホバの証人が,イエスの弟子たちに関してヨハネ 13章35節に記されているイエスの表現にかなっているとなぜ言えますか。
6 “クリスチャン”という名が偽のレッテルであることが判明した例は数多くあります。いわゆるキリスト教の人々や国々が責めを負うべき貪欲な行為,征服,戦争での虐殺,一般民衆に対する抑圧には目に余るものがあります。しかし,キリストの真の追随者の場合は何と異なっているのでしょう!「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」とイエスは言われました。(ヨハネ 13:35)今日,その表現にかなう人々が実際に存在しています。それはエホバの証人です。彼らの間の愛は,冷酷な競争や人の気持ちをいら立たせること,互いに相手を利己的に利用することなどを意味しません。むしろそれは,一致して語り,分裂がなく,『同じ思い,また同じ考え方で結ばれて』いることを意味します。(コリント第一 1:10; 13:4-8)エホバの証人は神とキリストの考えを学び,それを導きとしてきました。(ローマ 12:1,2。コリント第一 2:16)その考えの非常に重要な部分は,クリスチャンは『世のものであってはならない』ということです。―ヤコブ 1:27と比較してください。
7 使徒 17章30,31節のパウロの言葉は,クリスチャンが世のものとなるのは不似合いであることをどのように示していますか。
7 イエスの追随者たちが『この世のものではない』立場を保つべき非常にもっともな理由が幾つかあります。4,000年ほどの間,人類の大多数は「希望もなく,世にあって神を持たない者」でした。(エフェソス 2:12)とはいえ,人間の罪ゆえにエホバから離反していた長い期間は定めなく続くことはありません。使徒パウロは19世紀前,神が,「どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられ(る)」と述べました。なぜなら,『ご自分が任命したひとりの人[イエス・キリスト]によって人の住む地を義をもって裁くために日を定められたからです』。パウロは,神が「[イエス]を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになった」とも付け加えました。(使徒 17:30,31)このことは,背教したキリスト教世界を含め,この不義の世が裁かれ,有罪とされ,永遠に根絶されることを確かに示すものです。ですから,クリスチャンであると唱える人々がこの世のものとなるのは何とも不似合いなことです。
8 どんな業が,「終わり」の近いことを示し,エホバの民が『世のものであってはならない』別の理由となっていますか。
8 イエスの復活から1,900年以上が経過し,背教したキリスト教世界とサタンの世の残りの部分に対する神の裁きの執行は間違いなく間近に迫っています。(ペテロ第二 3:10。ヨハネ第一 5:19)その間にも,エホバの証人は全地で神の音信をふれ告げており,人類のうち悔い改めて感謝の念を持つ人々は「さわやかにする時期」を享受しています。(使徒 3:19-21)この時代に関するイエスの預言的な言葉と一致して,265万人以上のエホバの証人は今205の国々で「王国のこの良いたより」を宣べ伝えています。この業から神のご意志にかなう程度にまで「あらゆる国民に対する証し」が生み出される時,「終わりが来るのです」。(マタイ 24:14)それで,この邪悪な体制の終わりがごく間近に迫っているため,エホバの民に「世のものではない」ことが求められる十分な理由が確かにあります。
9 (イ)サタンの世がまさに終わろうとしている以上,わたしたちは王国の関心事とその要求をどう見るべきですか。(ロ)今,どんな質問はわたしたちの考慮に値しますか。
9 サタンの世がまさに終わろうとしている以上,わたしたちが本当に神の王国を第一に求めているかどうか確かめるのは非常に肝要なことです。(マタイ 6:33)年齢,教育,社会的地位がどのようなものであろうと,「わたしたちはみな,神の裁きの座の前に立つことになるのです」。(ローマ 14:10)では,わたしたちは王国に関する要求を生活の中で実践していますか。それとも実際は,真のクリスチャンを憎むこの世と歩調を合わせるためにいまもって奮闘していますか。世の野心や希望を抱いていますか。非聖書的な世の流行をまねていますか。世で偶像視されている人々をあがめていますか。「世との交友が神との敵対であること」を忘れてはなりません。(ヤコブ 4:4)それでは,神の敵となることを未然に防ぐために,どうすれば世の汚れを避けることができますか。この世にあるもので,わたしたちが退けなければならないものには何がありますか。
世に対する愛を退けなさい
10 ヨハネ第一 2章15,16節は,エホバの民が愛してはならない,この世にあるどんな三つのものについて述べていますか。
10 使徒ヨハネはこう書きました。「世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその人のうちにありません。すべて世にあるもの ― 肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと ― は父から出るのではなく,世から出るからです」。(ヨハネ第一 2:15,16)ここでヨハネは,この世にあるもので,エホバの民が愛してはならない三つの基本的なものを挙げました。
11 クリスチャンが「肉の欲望」に屈するべきでないのはなぜですか。
11 「肉の欲望」は,サタンの支配下にあるこの邪悪な世にごく一般に見られる有害で死をもたらす多くの常習的行為へとわたしたちを導きかねません。その中には,罪深い肉の「業」―「淫行,汚れ,みだらな行ない,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事柄」があります。「そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません」という使徒パウロの警告を無視しておきながら,罰を免れることなど決してできません。(ガラテア 5:19-21)実際,悔い改めることなく「肉の業」を習わしにする人々は,この世のものであり,約束された王国にあずかることはありません。その王国は,エホバのみ名を立証し,地を楽園へと変えるのです。(ルカ 23:43)ですから,クリスチャンが「肉の欲望」に屈してはならないというのは明らかなことです。
12 (イ)「目の欲望」とは何ですか。それはどのように霊的な意味で人の立場に影響を与えることがありますか。(ロ)「目の欲望」に関して,どんなことを自問するのは良いことですか。
12 「目の欲望」は,この世のものとなっている人々の別の特色です。彼らは富と所有物を蓄え,それでいながら満足する様子が全くありません。エホバの証人の広めている聖書の真理にある程度の関心を払いながらも,結局は「目の欲望」に屈し,そのために霊的な進歩を遂げていない人々も大勢います。新しい衣服,車,家,電気器具,目を喜ばせる他の多くのものに対する欲求があまりにも強くなって,イエスが言われたとおり,「富の欺きの力,またほかのいろいろなものへの欲望が食い込んで来てみ言葉をふさぎ,それは実らなくなってしまいます」。(マルコ 4:18,19)興味深いことに,サタンはエバを誘惑したとき,エバが自分の目で見ることのできる禁じられたものに対する欲望を起こさせました。しかし,目で見えるものに手を伸ばさせてイエスに罪を犯させようとしたときのサタンの努力は完全に失敗しました。(創世記 3:1-6。ルカ 4:5-8)ではあなたはどうですか。立派なイエスの模範に従っていますか。それとも,「目の欲望」を満足させるために時間や注意やエネルギーが過度に奪われ,王国の関心事がおろそかにされていますか。もし霊的な関心事が重大なものでなくなっているなら,事態を改善するためにただちに手を打ってください。
13 パウロやある箴言の言葉に示されているように,貪欲な「目の欲望」は何につながることがありますか。
13 貪欲な「目の欲望」は,不正直,ねたみ,強欲,それに神の不興を招くほどの他の罪につながることがあります。パウロが述べているように,「貪欲な者」は「神の王国を受け継が」ない人々の一部なのです。(コリント第一 6:9,10)適切なことに,知恵の言葉,箴言もこう警告しています。「忠実な行ないの人は多くの祝福を得,富を得ようと急いでいる者は潔白を保てない。そねむ目を持つ人は貴重なものを求めて勇み立つが,窮乏が自分に臨むことになるのを知ってはいない」。(箴言 28:20,22)貪欲でそねむある人々に貧困がただちに臨むことはないとしても,彼らは神の恵みを受けずに死ぬか,この事物の体制の終結の時に悲惨な終わりを迎えることになります。―マタイ 24:3。ルカ 12:13-21。
14 (イ)「自分の資力を見せびらかすこと」はどのように示されるかもしれませんか。(ロ)こうした「見せびらかすこと」,自慢,高い地位を求めることの根本にあるものは何ですか。(ハ)自分が手に入れたものや,業績と思えるものを誇示したいという誘惑に抵抗すべきなのはなぜですか。
14 エホバの僕たちは「自分の資力を見せびらかすこと」をも避けなければなりません。自分が手に入れた高価なものをひけらかしたいという気持ちは非常に大きな誘惑となり得ます。しばしばこうした悪い欲望が高じて,他の人に後れをとるまいとするだけではなく,物質面で他の人より何歩も先んじようとあくせくするようにもなります。それに似ているのが,自分が成し遂げたと考えられる事柄を自慢することです。地位や身分を得たいと望む人は,著名人との友好関係を培い,そのような人々の支持を得ることまでするかもしれません。しかしこのようにして利用されるままになっている人は愚かであり,過度に野心的な人は最後には『口で大げさなことを語りながら,自らの利益のために人物を称賛する』,ユダの時代の「不敬虔な者たち」のようになるかもしれません。(ユダ 4,16)このように高い身分を求めることや見せびらかすことなど,すべての根本にあるのは罪深い誇りです。(箴言 8:13; 16:18; 21:4)ですから,確かに,自分が手に入れたものや自分の業績と思えるものを誇示するという誘惑に抵抗しなければなりません。ここで当てはまるのは,次の箴言です。「あまり多くのはち蜜を食べるのはよくない。また,人々が自分の栄光を探り出すこと,それは栄光だろうか」。(箴言 25:27)大半の人々が滅びに至る広い道を歩いているので,「災いです! すべての人があなた方のことを良く言うときには」というイエスの言葉は実に時宜にかなったものです。―ルカ 6:26。
『世は過ぎ去りつつあります』
15 (イ)使徒ヨハネは「世のものではない」ことが求められる基本的な理由として何を挙げていますか。(ロ)忠節なクリスチャンは自分たちの主要な努力を何に向けるべきですか。
15 ヨハネは「世のものではない」ことが求められる基本的な理由をわたしたちに説明し,こう付け加えています。「さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」。(ヨハネ第一 2:17)この「世」,つまり不義の人間社会は足早に近づく「大患難」で間もなくその最後を迎えようとしています。(マタイ 24:21)その時には,この世の政治的,商業的,および偽りの宗教の諸要素が全く何の痕跡も残らぬほどに破壊されます。したがって,真のエホバの証人で,間もなく無に帰するこれらの諸要素に自分の時間とエネルギーと資力をつぎ込める人がいるでしょうか。むしろ忠節なクリスチャンは,自分たちの主要な努力を,王国の関心事やとこしえに続くものを促進することに向けます。加えて,こうした忠節と信仰により,エホバの民はイエス・キリストが行なわれたと同じように,不義の人間社会である「世を征服」します。(ヨハネ 16:33)そうです,それから彼らは,ノアとその家族が大洪水を生き残ったように,この世が神による滅びによって過ぎ去る時に生き残るのです。―ペテロ第二 2:5。
16 これからどんな質問を考慮しますか。
16 では,この世が過ぎ去りつつあることからすると,クリスチャンは世の社会問題にかかわることをどう見るべきですか。教育,仕事の取り引き,レクリエーションに対してどんな態度を取るべきですか。これらの質問をこれから注意深く考慮します。
何と答えますか
□ イエスの真の追随者たちはこの世のものではありませんが,その世とは何ですか
□ キリストの弟子たちは,どんな業が割り当てられているゆえに,孤立主義者となることはできませんか
□ エホバの証人が「世のものではない」理由にはどんなものがありますか
□ ヨハネ第一 2章15節から17節の助言に従うため,エホバの民は世のどんな三つの基本的なものを愛してはなりませんか
[10ページの図版]
エホバの証人は「世のものではない」が,すべての国の人々を霊的に助ける業に忙しく携わっている
[12ページの図版]
「世のものではない」のであれば,わたしたちは肉の欲望や目の欲望に屈することも,自分の資力を見せびらかすこともしない
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『世からの汚点のない状態』にとどまりなさいものみの塔 1984 | 10月1日
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『世からの汚点のない状態』にとどまりなさい
「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」― ヤコブ 1:27。
1,2 清い崇拝に求められる事柄にはどんなものがありますか。
エホバは清い崇拝を求めておられます。(ヨハネ 4:23,24)とりわけ,汚れのない宗教は,困窮している人々に対する積極的で愛ある関心を促進します。(ガラテア 2:10)そうした崇拝には,世,つまり神から離反し,「邪悪な者[悪魔サタン]の配下にある」不義の人間社会から汚点のない状態に自分自身を保つことも求められます。―ヨハネ第一 5:19。
2 弟子ヤコブは,「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです」と書き,こう続けました。「すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」。別の訳は次のようになっています。「わたしたちの父なる神の目に清くて,損なわれていない宗教はこうです。すなわち,困っているときに孤児ややもめを助けに行き,世に汚されないよう自分を守ることです」― ヤコブ 1:27,エルサレム聖書。
3 今わたしたちはどんな質問を考慮しますか。
3 ではエホバの僕であるわたしたちは,どのようにすれば「世に汚されないよう」自分を守ることができますか。世の社会問題,教育上の取り決め,事業の進め方,レクリエーション活動などの問題について聖書はどのような見解を示しているでしょうか。
『世に汚されないよう守る』
4 ヨハネ 17章14節およびイザヤ 2章2-4節は,わたしたちとこの世との関係について何を示していますか。
4 エホバの証人であるわたしたちは「世のものではない」ので,わたしたちは不義の人間社会とは異なっていなければなりません。(ヨハネ 17:14)そのために一つには,世の政治問題に関して中立を保つことが求められます。世の暴力行為に巻き込まれることも避けなければならず,『その剣をすきの刃に打ち変えた』者として平和を追い求めなければなりません。―イザヤ 2:2-4。
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