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人びとが,「平和だ,安全だ」と言うその時に,突然の滅びが臨む!目ざめよ! 1973 | 4月22日
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使徒が書きしるした「エホバの日」とは,神がまさしくそうした責任を問うご予定の時を意味しています。しかし,そのとき生き残る人たちがいます。そして,諸国民の不敬虔な道を退け,義を愛し,きたるべき「突然の滅び」を免れたいと願う人たちすべてに対しては,昔のイスラエルに語られた次のような励みの多いことばが適用されます。
『わが民よ ゆけ なんじの室にいり汝のうしろの戸をとじて憤りのすぎゆくまでしばしかくるべし 見よ エホバはその所をいでて地にすむものの不義をただしたまわん 地はその上なる血をあらわにして殺されたるものをまたおおわざるべし』― イザヤ 26:20,21。
神が世の平和運動を退ける理由
エホバ神はそのみことば聖書の中で,「平和の神」と呼ばれています。(ロマ 15:33)しかし,エホバは,『どんな代価を払ってでも平和を得る』ということには賛成されません。エホバにとっては,義にのっとった平和でなければ,平和はありえません。また,エホバとその目的を度外視する平和協定は,エホバに祝福されるものでもありません。
きたるべき平和のために諸国民の協定はまさにその種のものです。彼らは平和を望んではいますが,それは単に何世紀にもわたって自ら選んできた同じ生き方を続けられるようにするためにほかなりません。物質的繁栄を考えてはいますが,霊的繁栄を気にかけてはいません。イエス・キリストの弟子で異父兄弟であったヤコブのことばは,キリスト教世界の諸国民を含めて,彼らのことをよく描写しています。ヤコブはこう書きました。
『汝らのうちの戦争はいずこよりか,争いはいずこよりか,汝らの肢体のうちに戦う欲より来たるにあらずや。汝ら貪れども得ず,殺すことをなし,妬むことをすれども得ることあたわず,汝らは争い,また戦す。汝らの得ざるは求めざるによりてなり。汝ら求めてなお受けざるは,欲のために費やさんとて妄に求むるがゆえなり』― ヤコブ 4:1-3。
では,諸国民は「平和だ,安全だ」とされる時を活用し,誤った道を捨てて,義を求めるでしょうか。その時を活用して,自分たちの創造者についてもっとよく学び,創造者の意志や目的を成し遂げるわざに専念するでしょうか。
日々の新聞で読む事がら,ラジオやテレビで見聞きする事がら,また自分自身の日常の経験や人びととの接触 ― こうした事がらすべてを考えると,そのような誠実な動機は欠けていることがわかります。今日の大多数の人びとの思いや心の中にまっ先に浮ぶのは神への愛や隣人への愛でないことは明らかです。それゆえにこそ,人類は今日見られるような嘆かわしい状態に陥っており,恐るべき危機に直面しているのです。
宗教諸団体による祝福が成功を保証するものとはならない理由
世界の宗教諸団体が今日の平和運動を是認し,支持し,またそれに参加している以上,平和運動は何らかの点で神からの祝福を得ることが保証されているなどと考えるのは重大なまちがいです。それとは正反対で,そうした動きは同運動の破滅を示すものです。
実際のところ,世界の宗教諸団体は,神ご自身のみ子が述べた道とは全く逆の道を取ってきました。キリスト・イエスは,『彼の〔王国〕はこの世のものならず』と述べて,その真の追随者は世のものではないと言われました。(ヨハネ 18:36; 17:14)しかし,何世紀にもわたって,世の宗教諸団体は政治勢力と売春を行ない,政治勢力に対する影響力を得ようとしてきました。
キリスト教世界の宗教諸団体については特にそう言えます。それらの宗教諸団体は,黙示録 17章で地の王たちと親密な関係を持つ者として描かれ,『大いなるバビロン』と呼ばれる象徴的な淫婦と同一視されることは免れられません。『地の王たちをつかさどる』象徴的な都としての大いなるバビロンは,この世の宗教諸団体が地的諸政府の上に何世紀もの間保持してきた『霊的な』連合帝国を的確に表わしています。
聖書の黙示録は,大いなるバビロンが諸国民を神に導くのではなくて,神に敵対させ,『小羊』キリスト・イエスと戦わせようとしていることを示しています。諸国民は,キリストの王国による支配を退け,また王国を告げ知らせてそれを支持する人たちを退け,迫害しさえすることによって,キリストと戦っています。―黙示 17:1,2,14,18。
キリスト教世界の宗教指導者たちが世界の現在の平和運動を称賛し,その成功のために祈願をささげようと,わたしたちは,神がそうしたことをどう見ておられるかを知っています。イザヤ書 1章15節はこう述べます。
『我なんじらが手をのぶるとき目をおおい 汝らがおおくの祈りをなすときも聞くことをせじ なんじらの手には血みちたり』。
そうです,キリスト教世界の宗教諸制度は,みずからの手を血染めにしてきました。キリスト教世界の諸教会は,初期の世紀における悲惨な十字軍から,中世の「宗教戦争」や宗教裁判を経て,わたしたちの世代に生じた世界的規模の戦争に至るまで,政治諸国家の戦いを支持し,諸国家に神の祝福があることを保証しては戦いを勧めることさえしてきました。今や諸教会がいよいよ深く政治に介入していることは,諸教会がその心を真に変えてはいないことを示しています。したがって,その祈りは決して神に聞き入れられません。
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正真正銘の世界平和はどのようにして訪れるか目ざめよ! 1973 | 4月22日
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正真正銘の世界平和はどのようにして訪れるか
「平和の神」は,世界平和,正真正銘の平和をもたらす独自の備えを設けておられます。その備えとは,神ご自身のみ子の治める政府,つまりメシヤの王国です。昔,メシヤについて預言者イザヤは霊感を受けてこう書きました。
『政事はその肩にあり その名は…平和の君ととなえられん その政事と平和とはましくわゝりて限りなし かつダビデの位にすわりてその〔王国〕をおさめ今よりのちとこしえに公平と正義とをもてこれを立てこれを保ちたまわん 万軍のエホバの熱心これをなしたもうべし』― イザヤ 9:6,7〔新〕。
天に基礎を持つその政府は,何らかの「恐怖の均衡」によってではなく,恐怖の原因をすべて除去することによって,永続する平和をもたらします。その政府は,ミカ書 4章3節の『その剣を鋤に打ちかえその槍を鎌に打ちかえん 国と国とは剣をあげて相攻めずまた重ねて戦争を習わじ』ということばを成就している人たち,それゆえにすでに剣や槍を鋤や鎌に打ちかえた人たちだけをその臣民として受け入れるのです。平和を愛するそのような臣民のことを考えれば,その預言が引き続き
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