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義とされるものみの塔 1969 | 7月15日
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は天でキリストとともになるように召されたキリストの追随者は,肉のからだでいるあいだに,罪の宣告から早く解放される,という益にあずかります。それは彼らが「新しく生れ」,キリスト・イエスの霊的兄弟として,キリスト・イエスとの一致に入るためです。
キリストの御国の支配する地上で永遠の(生)命を受ける他の人々はみな,キリストの千年統治の終わりに神が行なわれる試みの結果を待たねばなりません。その試みに耐えて神に忠節かつ従順であった人は,肉において義とされます。そのとき彼らは至上者であられる神の地上のむすこ,もしくは娘となります。
以上でわたしたちは,エホバだけが『義とする』ことのできるかたであることを知りました。またエホバはそうすることによって,ご自分がすべての行ないにおいて正しいことを証明されます。使徒パウロはそのことをつぎのように説明しています。「すべての人は罪を犯したため,神の栄光を受けられなくなっており,彼らは価なしに,神の恵みにより,キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて,その血による,信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた……それは,今の時に神の義を示すためであった。こうして,神みずからが義となり,さらに,イエスを信じる者を義とされるのである」― ロマ 3:23-26,口語。
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『こうべを上げ』て救いを知らせるものみの塔 1969 | 7月15日
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『こうべを上げ』て救いを知らせる
エホバの証人の1969年度年鑑より
エホバの証人が困難な状況下で奉仕する国々(その3)
トルコ
真理を発見するならば,さっそく身近かな親類に伝えたいと思います。アンデレの場合もそうでした。彼はメシヤに出会ったらさっそく自分の兄弟シモンにその良いニュースを知らせました。一人の年とった姉妹も同じことをしました。彼女は病気や親類のひどい反対にもかゝわらず,とても熱心であり,聖書について親類に伝えることを止めません。10年前,この姉妹の親類の一人は,国内のいちばん奥地から1100キロ余も旅行して彼女を尋ねてきました。いうまでもなく,彼女は神の国についてその親類の男の人に話しましたが,彼はとても反対し,姉妹のことをあざけり始めました。しかし姉妹はあきらめず,むしろ彼の訪問中に聖書の幾つかの教えに対して彼の目を開いてあげようと巧みにつとめました。姉妹は彼と別れる時に言いました。「私はあなたが聖書の真理を理解できるよう助けてあげてくださいとこれからずっとエホバにお祈りしましょう。真理についてさらに多くのことばを学ぶため,あなたがまた旅行なさる日が来ることを私は確信しています」。この「日」は10年後にやって来ました。
この人はその間,聞いたことを忘れられず,ついに,邪悪なこの世の中での最後の希望はそれしかないのではないかと思うようになりました。彼は家族を連れてその姉妹のいる市に引っ越して来ました。さっそく家族全部が聖書の勉強を始め,間もなく主の民と交わり始めました。彼の子供の一人はバプテスマを受け,父親自身ともう一人の子供はとても熱心な伝道者です。この姉妹は親類のために祈り,また真理を伝えることを止めなかったゆえに,今大きな祝福を得て喜んでいます。
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親類の者を助けるものみの塔 1969 | 7月15日
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親類の者を助ける
◆ ネビス島に住むある人は,別の島で真理を学びました。休暇のため自分の島に帰った彼は,時間を有効に用い,新しい事物の体制の下での祝福について親類の者に話しました。島にいる間,彼は親類や近所の人々12人を御国会館に連れて行くことができました。彼の熱心な伝道の結果,それ以来三つの家族が聖書研究を行なっています。
― エホバの証人の1969年度年鑑より
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読者からの質問ものみの塔 1969 | 7月15日
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読者からの質問
● ローマ人の兵卒がキリストのわきを槍でついた時にイエスは,すでに死んでおられましたか。―象牙海岸の一読者より。
そうです。ヨハネ伝 19章31-37節の記録は,その兵卒がイエスをつき刺す以前にイエスが死んでおられたことを明らかにしています。
モーセの律法によると,処刑された罪人は夜どおし刑柱にかけられるのではなく,神の律法を無視して土地を汚すことのないように,その日のうちに埋められなければなりませんでした。(申命 21:22,23)もしイエスやイエスのかたわらの罪人たちが刑柱の上でいつまでも生きていたならば,時はすでに日暮近かったので,彼らは日没に始まる安息日ののちにも刑柱の上にとどまったにちがいありません。このことを避けるため,ユダヤ人は3人の足を折ってしまうように頼みました。
1966年10月21日号「メディカル・ワールド・ニューズ」誌に発表されたように,フランスの研究者であるジャック・ブレハン博士は,この理由についてつぎのように述べています。「クラリフラギウム(crurifragium)すなわちはりつけにされた者の足を折ることによって,息をふき返らせることがないようにした。……ユダヤ人は3人の罪人の足を折って,彼らを刑柱からはずすように頼んだ。それで兵卒たちは盗人たちの足を折った。しかしイエスのところに来た時,兵卒たちはイエスがすでに死んでいるのを見た」。ブレハン博士は,なぜイエスだけが死なれたかに関して,起こり得る二つの理由を上げています。(1)「盗人たちはくぎづけにされるよりもむしろ縛りつけられていたのかもしれない」。(2)「キリストは[刑柱につけられる]以前の扱いにより,相当衰弱していた」。
イエスが生きておられたならば,兵卒たちは彼の足をも折ったことでしょう。しかしそうではありません。聖書は次のように述べています。「しかして[兵卒ども]イエスに来りしに,はや死にたまふを見て,その脛ををらず。しかるに一人の兵卒,鎗にてその脅をつきたれば,たゞちに血と水と流れいづ」― ヨハネ 19:33,34。
ヨハネの記述は確かにはっきりしていますが,マタイ伝 27章49,50節を読む場合,最初にかかげたような疑問が起こるにちがいありません。そこには次のようにしるされています。「しかしほかの者たちは言った『そのまゝにしておけ。エリヤが彼を救いに来るかどうかを見よう』。もうひとりの男はやりを取り,イエスのわきを突き刺した。すると,血と水が流れ出た。イエスは再び大声で叫び,それから息が絶えた」。(新)問題となるのは,傍線を付した箇所です。ある人はここを読んで,イエスはつきさされた時生きておられたと考えるかもしれません。
フランス語や英語の「エルサレム聖書」,ドイッ語の「エルバーフェルダー」や「アッシャフェンブルガー」またスペイン語の「モデルナ」や「バレーラ」,「ナカール・コルンガ」を含む多くの聖書翻訳は傍線を付した文を省略しています。他の翻訳はそれらの言葉を含みますが,カッコにいれるとか,脚注を付して説明しています。たとえば,シナイ写本とかバチカン1209などの幾つかの重要な写本の中にはその文が入れられているが他のものにはないと「新世界訳聖書」初版の脚注にはあります。かなりの数の学者は一人の写本家がヨハネ伝 19章34節にある言葉を誤ってマタイ伝 27章49節に入れたと考えています。
「新世界訳聖書」のギリシア語聖書の部分は,主としてウェストコットとホートの訳によるすぐれた本文に基づいています。重視されているすぐれたこの本文は,マタイ伝 27章49節で,例の文を本文中に入れていますが,それに二重の角カッコを付しています。その理由として,この文が「写本家によって取り入れられたと思われる点がかなり強い」と述べています。事によると将来,マタイ伝 27章49節に関する写本の証拠がもっと得られるかもしれません。
いずれにしても,イエスがやりでさされた時すでに死んでおられたことは,ヨハネ伝 19章31-37節のはっきりした説明から明らかです。それでマタイ伝の記述はこのことを考慮に入れて理解されねばなりません。マタイはイエスがわきをやりでさされた時がいつであったかもはっきり述べておらず,イエスが刑柱につけられた時に起こったできごとの一つとして簡単に記録しています。しかしヨハネの記述は,時を明確に示しています。このことから考えると,マタイの記述を理解する場合,ヨハネの記録を考慮に入れて理解しなければならないことになります。そうするならば実際に矛盾はありません。
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