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神の王国の定める境界ものみの塔 1973 | 10月15日
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36-40,ヨハネ 13:34,ヤコブ 2:8,ヨハネ第一 4:7-12もご覧ください。)この点でわたしたちを助け導くために,エホバはご自分の民を集めて,緊密に結ばれた一つの結合体とされました。それは,強固な防壁に囲まれた,聖書時代の都市の中に住んでいるのに似ています。そのことは,イザヤ書 26章1-4,7節に美しく描かれています。『われらに堅固なる〔都市〕あり 神救ひをもてその垣その囲ひとなしたまふべし なんじら門を開きて忠信を守るたゞしき国民を入れよ……なんぢらとことはにエホバにより頼め 主エホバはとこしえの岩なり 義しきものの道は直からざるなし なんぢ義しきものの道を直く平らかにしたまふ』。―黙示 22:15-21もご覧ください。
17 規準が高すぎると感じられる場合でも,神のことばが助けと励ましを与えることを述べなさい。
17 あるいはあなたは,規準が自分には高すぎると感じて,多少失意しておられるかもしれません。そして,自分のことをあまりにも知りすぎていると言われるかもしれません。しかし,もしそうなら,エホバのほうがあなたのことをはるかによく知っておられるということを忘れてはなりません。『エホバのおのれをおそるる者をあはれみたまふことは父がその子をあはれむがごとし エホバはわれらのつくられしさまを知り われらの塵なることをおもひたまへばなり』。問題の多く,そして悪の多くでさえ,神の目的と親切な備えに対する知識の不足におおむね帰せられます。この点についてパウロがアレオパゴスの法廷で語ったことばを覚えておられますか。「神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます」。これは無意味なことばではありません。無知の時代は過ぎました。悔い改めの時代が来ているのです。結局のところ,各自の責任ということに加えて,各自の選択の機会も与えられているのであり,聖書はそのことを繰り返し示しています。自分の過去の経歴と性格が生来の弱さ,あるいはさらに悪いものを示し,自分ではそれを克服できないと感じる人がいるかもしれません。しかし,神が邪悪な者たちにさえ幾度も呼びかけをされたことは,神と神の規準を故意に退け,無知による哀願の余地も悔い改めも全くない場合でないかぎり,だれの場合にも望みが残されていることを示しています。カインに対する神の警告と呼びかけは,カインが,その時でさえ,もし助けを請い求めさえしたなら,正道に戻りえたことを示しています。―詩 103:13,14。使行 17:30,新。創世 4:6,7。
18 各自の責任と結びつけて,エゼキエルの預言の中では,邪悪な者に対してどんな呼びかけがなされていますか。
18 エゼキエル書第18章の預言全体を通して,各自の責任が強調されています。「罪を犯している魂 ― それは死ぬ」。そして,呼びかけのことばが繰り返し語られています。『悪人もしそのすべて行なひしところの悪を離れ わがすべての法度を守り 律法と公義を行なひなば かならず生きん 死なざるべし』。同様の呼びかけが一つの国民全体に対してもなされました。「なんじらそのもろもろのとがを悔い改めよ……新しき心と新しき〔霊〕を起こすべし……われは死ぬる者の死を好まざるなり さればなんぢら悔いて生きよ 主エホバこれを言ふ」― エゼキエル 18:4,20,21,27,30-32; 33:11,14-19。ヨエル 2:12-14もご覧ください。
19 わたしたちひとりひとりにどんな責任と可能性がありますか。パウロ自身の経歴はこの点でどのように助けになりますか。
19 すでに述べたとおり,この原則は逆の方向にも働きます。(エゼキエル 18:26)どちらにしても,各自の選択と責任とがそこにあります。人は新たな,正しい選択をすることができ,『神を模索してほんとうに見いだす』ことを願うなら,『神を求める』ために新たなスタートを切ることができます。神は遠く離れておられるのではありません。パウロは,以前の性格や行状という面で極端に悪い経歴を持ちながら,『知らないままに,そして信仰のないままに行動していたゆえにあわれみを示された』者の顕著な例となっているのです。―使行 17:27。テモテ前 1:12-16。ガラテヤ 1:13。
20 イエスはこの同じ可能性と責任をどのように強調されましたか。
20 ヨハネ 3章16-19節(新)のイエスのことばの中にも,同じあわれみのこもった論議が含められています。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え(られた)……それは,彼が世を裁く[罪に定める]ためではなく,世が彼によって救われるため」です。これは冗談に語られたことばではありません。それはほんとうにその可能性を含む事がらでした。イエスは「どんな人にも光を与える真の光」でした。しかし,イエスの言われたとおり,「人びとは光よりやみを愛し」ました。「その業が邪悪であったから」です。それは彼らの選択でした。彼らはそこにとどまることのほうを好みました。―ヨハネ 1:9,新。
21 エホバを尋ね求める人々について詩篇 24篇3-6節の中でどのように描写されていますか。
21 あなたとしては,どうして詩篇 24篇3-6節に描かれる世代とともにならない理由があるでしょうか。『エホバの山にのぼるべき者はたれぞ その聖所に立つべき者はたれぞ 手きよく心いさぎよき者そのたましいむなしきことを仰ぎのぞまず 偽りの誓ひをせざるものぞその人なる かゝる人はエホバよりさいはひを受け その救ひの神より義を受けん かくのごとき者は神をしたふものの〔世代〕なり ヤコブの神よ なんぢのみ顔を求むる者なり』。〔新〕
22 イザヤ書 55章6,7節の中で,どんな優れた呼びかけがなされていますか。
22 そうです,どうしてイザヤ書 56章6,7節に言い表わされる呼びかけに答え応じない理由があるでしょうか。「あなたがたは,見いだせる間にエホバを捜し求めなさい。近くにいてくださる間に呼び声を上げなさい。邪悪な者はその道を離れ,害意をいだく者はその考えを捨てなさい。エホバに帰りなさい。あわれみを施してくださるのです。わたしたちの神に帰りなさい。寛大にゆるしてくださるからです」(新)。あなたもこれを経験し,またこうした祝福にあずかれるのです。
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神の政府のもとでの人間の幸福ものみの塔 1973 | 10月15日
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神の政府のもとでの人間の幸福
1,2 人間が地上で生活を十分に楽しむための主要な要素の一つはなんですか。
庭園のような環境の中で健康に生活できるとすれば,それはなんとすばらしいことでしょう。清く澄んだ湖や流れ,そして健康的な食物と澄みきった空気があれば,生活はほんとうに楽しいものになります。さらに,すべての人が共通の目的,つまり地球の資源を人類の益のために使うという点で協力するなら,そこでの仕事は喜びあふれたものになります。そうした状態になれば,地球はほんとうにパラダイスになります。
2 もとより,こうした願わしい状態をもたらすためには,喜ばしい環境や協力的な人々以上のものが必要です。すなわち,清潔で腐敗することのない政府が必要です。「正しい者が権力を得れば民は喜び,悪しき者が治めるとき,民はうめき苦しむ」ということは容易に理解されるからです。(箴言 29:2,口語)人間が考え出したいろいろな政府は,望ましい状態をもたらすという点で失敗してきました。それは,そのような願わしい政府を持つことは不可能であるという意味ですか。
3,4 神は地に対して何を意図しておられますか。そして,すべての者の幸福を保証するために何を行なわれますか。
3 創造者は聖書の中で,地を治める義の政府を意図しておられることを明らかにしておられます。創造者は「幸福な神」であり,また,人間の創造者であるので,人間の幸福な生活のためにどんな政府が必要であるかを知っておられます。(テモテ前 1:11,新)創造者は,ご自分の預言者エゼキエル
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