「光の子どもとして歩んでゆきなさい」
「あなたがたはかつてはやみでしたが,今は主との関係で光となっているのです。光の子どもとして歩んでゆきなさい」― エフェソス 5:8。
1 ヨハネの福音書はどのように命と光を密接に関係づけ,またやみと対照させていますか。
使徒ヨハネは確かに命と光が不可分であることを信じた人の一人でした。彼の福音書と第一の手紙の中でこのことがいかに強く強調されているかに注目してください。彼はその福音書を書き始めるに当たってまず「ことば」(すなわち人間になる以前のイエス)を紹介し,ことばと神との密接な関係について述べます。それからヨハネは,「彼[ことば]によって存在するようになったものは命であり,命は人の光であった。そして,光はやみの中で輝いているが,やみはそれに打ち勝ってはいない」と語ります。こうしてヨハネは時を移さずに光とやみとの間の抗争について述べ,やみが,命と光を人類に与えるための神の「主要な代理者」であった彼に勝てないことを示しました。―ヨハネ 1:1-5。使徒 3:15。
2 (イ)真の光はだれが得られるようになっていますか。(ロ)光をかかげる者イエスをだれが受け入れ,だれが受け入れませんでしたか。
2 次いでヨハネは,サタンの権威の下にあるやみの領域から逃げるのにどうしたらよいか分からないでいるかもしれない人たちの助けになる,啓発的な事柄を語ります。その光から益を受けるかどうかを決定する要素は,わたしたちの背景や過去の経験や生来の気質よりもむしろわたしたち自身の態度や反応の仕方であることをヨハネは示しています。事実,非常に有利な背景を持っていても,ヨハネが指摘している通り,人は光を受け入れないかもしれません。まず,光はすべての人が差別なく得られるものであることを示して彼は,「どんな人にも光を与える真の光が世にはいろうとしていた」と述べます。一般人類の世は「彼を知らなかった」,つまりイエスが何のためにおられたのか気付かなかった,ということを述べたあとヨハネは次のように言葉を続けます。「彼[イエス]は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった。しかし,彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子どもとなる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである」― ヨハネ 1:9-13。
3 (イ)その時代のユダヤ人にはどんな責任がありましたか。(ロ)イエスを受け入れた人々はどのように祝福されましたか。どんな根拠に基づいて?
3 状況のなんと見事な要約でしょう! 言うまでもなく,その時代のユダヤ人は最も望ましい背景を持っていました。そして彼らの過去の経験は,イエスを神から送られたメシア,律法が指し示していた方として受け入れる最善の理由を彼らに与えました。(ローマ 10:4)人間として生まれたイエスは彼らの一人で,いわば彼ら自身の家に生まれたのですが,それでも大多数の人はイエスを受け入れませんでした。大多数の者のその悪い態度は,イエスが「過分の親切と真理とに満ちていた」ことを感謝してイエスを実際に受け入れた者たちの良い態度と対照をなして一層よく目立ちました。答え応じた人たちが「神の子どもとなる権限を与え」られたことにも注目してください。「その者たちが,信仰を働かせていたから」でした。すなわち,彼の名が表わしていたものへの信仰,「彼の血を通してなされた贖いによる」,そしてわたしたちが「その血に対する信仰」を働かせることによる「[有罪宣告からの]釈放」を備えた方への信仰でした。―ヨハネ 1:12,14。エフェソス 1:5-7。ローマ 3:25。使徒 4:12。
4 イエスは人類のために神が行なわれた備えについてどのように述べられましたか。それにはどんな条件がありましたか。
4 これは,わたしたちがやみから神のメシア王国の光と自由の中に逃げ込む正しい措置を取るのにどのように助けになりますか。これに対する一番良い答えは,ヨハネの福音書をもう少し調べることによって得られます。ヨハネ 3章16節から21節の,イエスがニコデモに話された言葉を見ますと,さらに多くの情報が得られます。まずこう書かれています。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされたからです」。そうです,人類の世は,神とその愛するみ子が大きな犠牲を払われたために,光のみならず「永遠の命」をも得ることができるようになったのです。しかしながら,それには一つの非常に重要な条件を満たさねばなりません。すなわち「信仰を働かせる」ことです。そのようにして人は正しい態度また反応を示します。信仰を働かせないこと,または働かせようとしないことは,その人が神の不利な裁きを受ける者であること,またはそのような者としてとどまることを意味します。―ヨハネ 3:16,18,36。
5 イエスはどんな重要な原則を述べられましたか。それはどのように作用しますか。
5 イエスは次に重要な原則を述べられました。「さて,裁きの根拠はこれです。すなわち,光が世に来ているのに,人びとが光よりやみを愛したことです。その業が邪悪であったからです」。その「裁きの根拠」は,今日でも,それが初めて話された時と同じく真実です。また同じように作用します。故意に「いとうべき事がらをならわしにする者は,光を憎んで光に来ず,自分の業があばかれないようにするのです」と,イエスは説明されました。『彼の民が彼を迎え入れなかった』理由はそこにありました。彼ら,特に「盲目の案内人」であった指導者たちは,伝統や偽善に対する自分たちの好みを暴露されたり,妨害されたりするのを望みませんでした。今日でも同様の状態が特にキリスト教世界の中に見られます。―ヨハネ 1:11; 3:19-21。マタイ 15:7-9; 23:16-26
6 過去においてどんな生活を送っていたにせよ,どんな段階を踏むことができ,また踏むべきですか。
6 それでもまだあなたはご自分の道をはっきり見定めておられないかもしれません。わたしの過去の生活は検閲には耐え得ない,とあなたは言われるかもしれません。仮にそうだとしても,あなたは人類に対する神の大きな愛,「その親切と堪忍と辛抱強さ」について初めて聞いた時,どんな反応を示しましたか。「悔い改めのない心」を示すようなことをせずに,タルソスのサウロのように,心の奥底で良い態度を示したかもしれません。もしそうであれば,あなたは自分の清くない状態を,もしかしたらある点で非常に不潔であることを,正直にまた謙そんに認めたでしょう。これは以前の生き方に対する心からの後悔の念をあなたに抱かせたでしょう。そのためにあなたは,「神の温情があなたを悔い改めに導こうとしている」事実と一致した行動を取ったでしょう。それが最初の段階,すなわち悔い改めです。パウロはアグリッパ王に対して,「悔い改め,かつ悔い改めにふさわしい業をして神に転ずるようにとの音信を伝えてまわりました」と述べた時,さらに幾つかの段階を示しました。言い換えれば,真に悔い改めたなら次に転向し,つまり行状を改め,次いで神のご意志を行なうための献身という段階を踏み,魂を込めて神につくし神に全く頼らねばならない,ということです。このようにしてあなたは「信仰を働かせる」,つまり信仰を活動させるのです。―ローマ 2:4,5。使徒 26:20。
7 献身したことを公に示すものは何ですか。イエスは弟子になる者たちにどんな励ましを与えられましたか。
7 あなたはこれらの段階を踏みましたか。そして自分が神に献身した証拠を,エホバのクリスチャン証人たちが見守る時に水のバプテスマを受けることにより公に示しましたか。もしそうであれば,あなたはイエスの真の弟子であり追随者である,と権威をもって言うことができます。あなたを励ますためにイエスが言われたことに注目してください。「わたしは世の光です。わたしに従う者は決してやみの中を歩むことがなく,命の光を持つようになります」― ヨハネ 8:12。
8 神の王国の支配する時に天的希望を与えられている人々と地的希望を与えられている人々を,聖書はどのように区別していますか。
8 西暦33年のペンテコステ以来,イエスの直弟子たちは確かに,天的相続財産を継ぎ,「神の性質にあずかる者」となり,不滅性を得るという「生ける希望への新しい誕生」を与えられました。この人々は,キリスト・イエスと彼の天の王位を共にする「小さな群れ」を構成します。(ペテロ第二 1:4。ペテロ第一 1:3,4。ルカ 12:32。コリント第一 15:54。啓示 3:21)しかしながら,イエスはある時,「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らは……一つの群れ,ひとりの羊飼いとなるのです」と言われました。これらの「ほかの羊」は,天の王国が支配する楽園の地上で永遠に生きる希望を与えられており,マタイ 25章31節から46節に述べられている,そして現在成就しつつあるたとえ話の中の,キリストの霊的兄弟たちに善を行なう羊のような人々と同一視されています。彼らはまた啓示 7章9節から17節に,そして14万4,000人の天的級のことが説明された後述べられている「大群衆」と同一視されています。―ヨハネ 10:16。
9 今日のエホバの証人はイエスの『一つの羊の群れ』にどのように相当しますか。
9 200万を優に上回るエホバの証人は今日,神の言葉の真実さを証しする生きた証拠となっています。彼らの中には天的希望を持つ少数の中核をなす人々がいます。その人々の周囲には,神の王国が支配する時に地上で生きる希望を持つ,増加の一途をたどる多数の人々が集まっていて緊密な関係を保っています。そして彼らはキリストの「兄弟たち」に可能な限りの支持を与えることを喜びとしています。(マタイ 25:40)両グループは,「ひとりの羊飼い[の下に]」「一つの群れ」を形成しており,イエスはご自身の羊,つまり彼ら全部に関して,「わたしの羊はわたしの声を聴き,わたしは彼ら[の名前]を知り,彼らはわたしに従います。そしてわたしは彼らに永遠の命を与え」ます,と言われました。彼らは皆神と家族の関係に戻され,そのために「神の子たち」と呼ばれます。そして『命の光』を受けて喜んでいます。―ヨハネ 10:3,27,28。ローマ 8:19-21。
光の中を歩んでつまずかないようにする
10 ヨハネは神およびキリストと分け合うことを望む人々にどんな助言を与えていますか。
10 次にヨハネの第一の手紙を検討し,献身して神の側に立ちかつイエスの足跡に従い始めた人々への優れた率直な助言を幾つか見ることにしましょう。ヨハネは福音書の場合と同じくまずイエスについて,今回は「命のことば」として,書くことから始めます。そして自分自身とのみならず,「父との間,またみ子イエス・キリストとの間」の分け合う関係について述べます。それからヨハネはいつもの力強い調子で論じます。「神は光であり,神と共にはいかなるやみもありえません。『神と分け合う者である』と言いながらやみの中を歩きつづけるなら,わたしたちは偽りを語っているのであり,真理を実践してはいません」― ヨハネ第一 1:1-7。
11 (イ)真理に関する知識はどの程度の責任をもたらしますか。(ロ)箴言 4章23節から27節はわたしたちが責任を直視するのにどのように助けとなりますか。
11 この言葉が示している通り,エホバとその目的に関する知識は,豊かな祝福と啓発を与えるほかに,回避できない責任をもたらします。それは単にわたしたちが真理について明確な知識を持っているかどうかだけの問題ではありません。むしろ,さらに鋭い質問は,わたしたちが心の中で真理にどのように反応しているかという質問です。それはわたしたちの公私の生活における行状全体に表われます。あらゆる状況や可能性に対するわたしたちの見方やわたしたちの取る方針を決定するのは,心の態度,すなわち心の中の真の自分です。神の言葉は次のように述べています。「守られるべき他のすべてのものに勝って,あなたの心を守りなさい。そこから命の源は発するからである。……あなたの目は,まっすぐ前方を見なければならない。……あなたの足の道を平らかにしなさい。そしてあなたのすべての道が固く据えられるように。……あなたの足を悪から取り除きなさい」― 箴 4:23-27,新。
12 (イ)人の中の「光」はどのように,またなぜ「やみ」となる可能性がありますか。(ロ)そのことを示すどんな例がイエスの時代に見られましたか。
12 しかし仮に真理の知識を,あるいはエホバの民の中における自分の立場を,悪いまたは不純な動機で利己的な目的のために用いようとするなら,わたしたちは不純な見方で物事を見ており,問題に対するわたしたちの見通しは誤ったもの,ゆがんだものとなるでしょう。自分では気づかないかもしれませんが,霊的な方法で正しく見ることはできないでしょう。イエスはこう言われました。「体のともしびは目です。そこで,もし目が純一[全く一方方向,焦点が合っている]であれば,あなたの体全体は明るいでしょう。しかし,目がよこしまであれば,あなたの体全体は暗いでしょう。実際のところ,あなたにある光がやみであれば,そのやみはいかに深いことでしょう」。(マタイ 6:22,23)わたしたちは,正しく取るなら自分の益となる事柄そのものにつまずくでしょう。なぜなら,『わたしたちの心の目』が見るものは光ではなくてやみだからです。そのよい例はイエスの時代の宗教指導者たちに見られます。もし彼らがイエスを神の取り決めにおける「主要な隅石」として受け入れていたなら,どんなに豊かに祝福されたことでしょう! しかし彼らはイエスを退けました。彼らはイエスにつまずき倒れました。実際,彼らのイエスを退ける態度は極度に強く,その憎しみはイエスを殺すほどのものであったので,神の激しい不利な裁きが彼らの上に臨みました。「この石の上に落ちる人はこなごなになるでしょう。これがその上に落ちる人は,みじんに砕かれるでしょう」とイエスが言われた通りでした。―マタイ 21:42-44。ローマ 9:32,33も参照。
13 わたしたちが他の人々に影響を及ぼすことについて,何に留意することが重要ですか。
13 自分が他の人々にどんな影響を及ぼすかを考えることも大切です。パウロはコリント人に次のように書き送りました。「すべての事は許されています。しかし,すべての事が霊的に築き上げるわけではありません。おのおの自分の益ではなく,他の人の益を求めてゆきなさい」。次いで彼は,「あなた自身のではなく,相手の人の」良心の問題が関係している場合には特に「つまずきのもととならないように」注意しなければならない,と説明しています。彼はまたローマ人に,「兄弟の前につまずきとなるものを置かないこと,これをあなたがたの決意としなさい」と助言しました。確かに,もしあなたの振る舞いによって「兄弟に憂いをいだかせているなら,あなたはもはや愛によって歩んではいません」。―コリント第一 10:23-33。ローマ 14:13-15。
14 (イ)イエスのどの二つの言葉が,つまずかせることに関し,その重大性と危険を強調していますか。(ロ)このことについてヨハネはどんな意見を述べていますか。
14 イエスもこのことについて非常に強く言われました。もしわたしたち自身に,自分をつまずかせているものが何かあるなら,それを取り除きなさい,と言われました。また他の弟子たちについては,「わたしに信仰を置くこれら小さな者のひとりをつまずかせるのがだれであっても,その者にとっては……臼石を首にかけられて,広い大海に沈められるほうが益になります」と言われました。さらに,「これら小さな者のひとりが滅びるのは,天におられるわたしの父にとって願わしいことではありません」とも言われました。(マタイ 18:6-10,14)もし「あなたがたの心の目」が本当に啓発されていて,「これら小さな者のひとり」びとりがエホバの目にいかに貴重であるかを悟っているなら,ヨハネが強力な口調で次の意見を述べた理由が分かるでしょう。「自分の兄弟を愛する者は光の中にとどまっており,その者につまずきのもととなるものはありません。しかし,自分の兄弟を[一人でも]憎む者はやみの中におり,やみの中を歩んでいます。そして自分がどこへ行くのかを知りません。やみがその者の目をくらましているからです」。ヨハネをしてこのように書かせたものは彼のひたすらな愛と忠誠でした。これらはわたしたちの態度や行状を支配するところの心の優れた特質で,「真の義と忠節のうちに創造された新しい人格」の一部を形成します。―ヨハネ第一 2:10,11。エフェソス 1:18; 4:24。
15 どう歩むかについてパウロはどのように警告しまた訴えていますか。
15 さらにパウロの真剣な訴えに注目してください。「あなたがたはもはや……諸国民と同じように歩んではいません。彼らは精神的な暗やみにあり,神に属する命から疎外されています。それは彼らのうちにある無知のため,またその心の無感覚さのためです」。後ほど彼は積極的な面から築き上げ,こう述べています。「愛される子どもとして,神を見倣う者となりなさい。……光の子どもとして歩んでゆきなさい。光の実はあらゆる善良さと義と真実さとから成っているのです」。なんと立派な,人の心を引き付ける実でしょう! 彼はこう結論します。「自分の歩き方をしっかり見守って,それが賢くない者ではなく賢い者の歩き方であるようにしなさい」― エフェソス 4:17,18; 5:1,2,8-15。
光を吸収し反映する
16 (イ)光を輝かすことにおいて問題となるのは振る舞いだけですか。(ロ)イエスがピラトと顔を合わせた時,どんな重要な問題が論じられましたか。
16 これまで検討してきた聖句は主に光の子としてのわたしたち個人の振る舞い,また他の人々に対するわたしたちの責任と関係のあるものでした。しかしながら,神の言葉にはもう一つ別の顕著な面があります。「わたしは世の光です」とイエスは言われました。そしてパウロはキリスト・イエスが「光を広めるであろう」と言いました。(ヨハネ 8:12。使徒 26:23)これらの聖句はどのように成就しましたか。イエスが正しい生活を送られ,模範的な振る舞いをされただけで成就しましたか。クリスチャンと称する多くの人が光を輝かせるのはその程度までです。しかし,イエスが最後に逮捕されてピラトの前に連れて来られた理由はそれだったのですか。つまりイエスの親切で善良な行ないのためでしたか。もちろん,そうではありません。それに関係していたのは,イエスをめぐる,統治権と王国の権威に関する問題でした。そのことは,ピラトが「あなたはユダヤ人の王なのか」と質問したことから分かります。それに答えてイエスはご自分が王国を有していること,したがって王であることをすぐに認められました。しかしピラトがそれを憂慮する理由はありませんでした。「わたしの王国はこの世のものではありません。……わたしの王国はそのようなところからのものではありません」と,イエスは言われたからです。―ヨハネ 18:33-36。
17 (イ)イエスが教え宣明された事柄すべての主要なテーマは何でしたか。(ロ)イエスはこの光を最後までどのように輝かせましたか。(ハ)どの聖句がこの点でイエスを導き励ましましたか。
17 その王国は確かにイエスの伝道の内容と教えのすべての主題であり,基礎であり,中心的真理でした。マタイの述べるところによると,バプテストのヨハネが逮捕された後,「イエスは伝道を開始し,『あなたがたは悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです』と言いはじめられ」ました。興味深いことにマタイは,その特定の時に,また場所で,「やみに座する民は大いなる光を見,死のような影の地域に座する者には,光がその上に昇った」という預言が成就したことを指摘しています。(マタイ 4:12-17。イザヤ 9:1,2)イエスは,その極めて重要な真理について証しすべきご自分の責任を鋭く自覚しておられました。イエスはピラトに次のように言われました。「真理について証しすること,このためにわたしは生まれ,このためにわたしは世に来ました。真理の側にいる者はみなわたしの声を聴きます」。(ヨハネ 18:37)イエスはみ父の言葉を完全に吸収しておられました。そしてエホバの約束が王国,すなわちご自分が約束の王となる王国を中心とするものであることを認識しておられました。イエスは神の独り子でしたから,「子」について述べている詩篇 2篇4節から8節,イザヤ 9章6,7節などの預言がご自分を指しており,ご自分に成就するものであることをご存じでした。また,次のこともご存じでした。すなわちエホバが彼に「わがしもべ」と呼びかけ,彼を「もろもろの国びとの光として与え,盲人の目を開き,囚人を地下の獄屋から出し,暗きに座する者を獄屋から出させる」,さらに「わたし[エホバ]はあなたを,もろもろの国びとの光となして,わが救いを地の果にまでいたらせよう」と言われているイザヤの預言はご自分に言及されているものであることをご存じでした。(イザヤ 42:1,6,7; 49:6,新)事実,それらの聖句の中の幾つかは,み使いガブリエルがイエスの母親のマリアに懐胎を告げた時,またイエスの両親が嬰児のイエスを神殿に連れて行った時にシメオンにより,イエスに言及するものとしてすでに引用されていたことをご存じでした。―ルカ 1:31-33; 2:25-32。
18 (イ)イエスの模範的な祈りはどんな重要な真理を強調していますか。(ロ)光をかかげる者としてのイエスが完全に取り除かれたように見えたとき,事態はどうなりましたか。
18 イエスはご自分が吸収したものをすべて忠実に反映されました。このことは,王国と神のみ名を清めることとを結びつけた,イエスの模範的な祈りの最初の部分に見られます。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においても成されますように」。(マタイ 6:9,10)その王国の音信は一条の光のようにイエスの宣教期間中ずっと輝いていましたが,宗教上の反対という嵐の雲が沸き起こり,イエスが衆目の前で恐ろしい刑柱に掛けられ死なれた時,完全に消されたかに見えました。その後どうなったでしょうか。それから51日目のペンテコステの日に,ペテロはエルサレムで大群衆を前に話を行ない,聖霊がそそがれたことは,神が本当にみ子を死人の中からよみがえらせてご自身の右に高められ,聖書が成就した証拠である,と説明していました。―使徒 2:22-36。
19 真の光を反映することについて初期クリスチャン会衆はどんな記録を残していますか。
19 その時以降,その一条の光は光度を増し,光の幅も広くなりました。王国の音信が,コルネリオを皮切りに諸国民に伝えられたときには特にそうでした。(使徒 10章)その音信を思いと心に吸収した人々は,『あなたがたは世の光です。……あなたがたの光を人びとの前に輝かせなさい』というイエスの命令を思い起こし,その光を反映することによって答え応じました。(マタイ 5:14-16)使徒の活動の記録全体はこのことを確証しており,パウロが「神の王国について徹底的な証しをし」た時の出来事,そしてイザヤの預言がさらに成就したことを指摘して結論としています。(使徒 28:23-28)ペテロもクリスチャン会衆の上にある主要な責任について次のように書きました。「あなたがたは,『……特別な所有物となる民』であり,それは,やみからご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださったかたの『卓越性を広く宣明するため』です」― ペテロ第一 2:9。
20 (イ)サタンまたはそのしもべたちが,エホバよりも強く光る可能性がありますか。(ロ)エホバがイザヤを通して予告されていたように,エホバの民の現在の歴史は何を示していますか。
20 いわゆる暗黒時代が幾世紀か続いた後の今日の状態はどうでしょうか。サタンの奉仕者たちが,「自分を……光の使いに変様させて」光をおおい隠すことに大変成功しているとしても,エホバにとってそれは問題ではありません。エホバはいつの場合でも勝利者です。エホバにとっては確かに「くらきも光もことなることなし」です。(コリント第二 11:14,15。詩 139:11,12)わたしたちにとって夜は無限に長いように思えますが,夜明けを遅らせうるものは何もありません。昇る太陽は最初に最も高い丘や山,またその上に建てられている都市とか神殿に当たります。まさにその通りのことが起きました。1870年代から見られる,基本的真理とそれに関連した諸活動の復興は,早朝の光のようでした。次いで1914年から1918年までの,短い激しい試練の期間の後,忠実な者たちに再び与えられた神の恵みという太陽の光は,1919年にさんさんとそそぎ始めました。その時から彼らの道は本当に「いよいよ輝きを増して」います。(箴 4:18,口)彼らは,エホバがシオン,すなわちご自分の組織に語りかけられたときに予告された次のことを経験しています。『起きよひかりをはなて なんじの光きたりエホバの栄光なんじのうえに照り出でたればなり みよくらきは地をおおい やみはもろもろの民をおおわん されどなんじの上にはエホバ照り出でたまいてその栄光なんじのうえに顕わるべし もろもろの国はなんじの光にゆき もろもろの王はてりいずるなんじが光輝にゆかん』― イザヤ 59:20; 60:1-3; 62:1-3。イザヤ 2章2,3節もご覧ください。
21 今日,どんな人々がエホバの「しもべ」を構成していますか。彼らはどのようにエホバの栄光を反映していますか。
21 エホバの「しもべ」は現在,キリスト・イエスを頭として奉仕している人々を包含し,「証人」のしもべの組織体,すなわち霊的イスラエルを形成しています。彼らに対してエホバは,「あなたがたはわたしの証人……わたしが選んだわたしのしもべである」と言われます。(イザヤ 43:10-12,新)これらの人々は,多くの羊のような仲間と共に,王国を世界中で宣明することにあずかっています。彼らは神の言葉,聖書のページから輝く,常に増し加わる解明の光を,感謝の心を抱いて吸収しています。こうして霊的イスラエル人は,「エホバの栄光を鏡のように反映」しています。個人的な振る舞いと,『王国のこの良いたよりを人の住む全地で』宣べ伝えることによってそれを反映しています。―コリント第二 3:4-6,16-18。マタイ 24:14。
22 エホバの献身したしもべたちはどんな祈りをささげますか。またどのようにそれにふさわしく生きますか。
22 霊的イスラエルの残りの者と彼らの仲間は,神から与えられた王国伝道の業と弟子を作るわざを,喜びをもって推し進めています。以上のことと一致して彼らがエホバにささげ,また他の人々にも加わるよう熱心に勧める祈りは,詩篇 43篇3,4節に美しく表現されています。『願わくはなんじの光となんじの真理とをはなち我をみちびきてその聖山とその帷幄とにゆかしめたまえ さらばわれ神の祭壇にゆき又わがよろこびよろこぶ神にゆかん ああ神よわが神よ われ琴をもてなんじをほめたたえん』。