聖書 ― エホバの証者による本
「救に至る知恵を,あなたに与え得る書物」― テモテ後 3:15,新口
1 その年代,書かれた期間,および著者について,どんな事柄は地上の最も偉大な本を独特なものにさせていますか。
この核時代,宇宙時代において,地上で最も偉大な本はどれですか。それは,クリスチャン時代,仏教徒時代(西暦前563年),日本時代(西暦前660年),ローマ時代(西暦前753年)そしてギリシャのオリンピック時代(西暦前776年)前に書かれ始めた本です。しかし,年代は古くても,その価値はすくなくなつていません。全くのところ,その年代は貴重な価値を増し加えています。それはまた,いちばん長い年月をかけて書かれました。最初の章が書かれてから約1610年の後,すなわちクリスチャン時代の第1世紀の終り頃に最後の章は完成しました。それでも,その本の著者は,ただ一人だけです。
2 その著者の名前は,その本の中でどの位出ていますか。ひとりの著者がおられたことは,どんな結果をもたらしましたか。
2 最初から終りにいたるまで,この本はそのひとりの著者の名前のもとに書かれました。まつたくのところ,著者の名前はこの本の中で7000回ぐらい出ています。実際,ひとりの著者を持つているという理由だけで,その本の価値は他のすべての本にまさるのです。そして,いままでの名声よりもさらに大きな名声をこれから得るでしよう。
3 そんなにも長い期間をかけて書かれたその本の著者がただひとりであるのは,どういうわけですか。
3 1600年以上も生き得た人間はひとりもいません。それでは,その本がただひとりの著者によつて,そんなにも長い期間をかけて書かれたというのは,どういうわけでしようか。そのわけはその本の著者が,死んでしまう人間ではないからです。その著者の名前は,その事実を示します。なぜなら,彼の名前はエホバだからです。
4 その著者の名前は,その本の終り近くと始めに近いところで,どのように表われていますか。
4 このすばらしい本の最後から4番目の章の中では,その著者をたたえる叫び,すなわちハレルヤが4度述べられています。それを現代の言葉に訳すと,「エホバをたたえよ!」aという意味になります。(黙示 19:1,3,4,6)その独特の名前は,唯一つの生ける真の神宇宙の創造者の名前です。そのわけで,この有名な本の第2章第4節の中では,彼の名前がその称号と共に記されているのです。すなわち,「エホバ神地と天をつくりたまえる日に天地のつくられたるその由来は是なり」。
5 その本は何と呼ばれていますか。なぜ,その本の中に名前が述べられている御方は,その唯一の著者ですか。彼がその著者であることは,どの本にどんな性質を与えますか。
5 その最初から最後にいたるまで,エホバ神が著者であると言明するこの聖なる本は,聖書です。聖書は,エホバ神が不滅であると言明しています。その35番目の本の第1章第12節は,次のような言葉でエホバに呼びかけています,「エホバよ,なんじは永遠から存在するにあらずや,わが聖なる神,なんじは死なず」。b また,その54番目の本の第1章第17節は,エホバをたたえて次のように述べています,「世々の支配者,不朽にして見えざる唯一の神に,世々限りなく,ほまれと栄光とがあるように,アーメン」。(ハバクク 1:12。テモテ前 1:17,新口)唯一つの神エホバは,永遠者,不朽の御方,そして不滅の御方であられる故,唯一つの著者になることはいとも容易です。エホバ神が著者であられるゆえに,聖書は聖なるもの神聖なるものです。
6 聖書という言葉の語源は,その本は実際には何であると示しますか。なぜ,それは聖なる書物(スクリプチュア)とも呼ばれますか。
6 聖書は,実際にはたくさんの本が集成されたものです。今日,それぞれの本はちがつた名称を持つていますが,エホバ神はそれらの本全部の著者です。バイブルという名前そのものも,この事実に私たちの注意をひきます。なぜなら,その名前はむかしのギリシャ語ビブリアから来ているからです。それは,「小さな書籍集」という意味です。つまり,本の全部を1冊の書物に集成したのです。聖書自体も,その各本のことを「救に至る知恵を,あなたに与え得る書物」と述べています。(テモテ後 3:15,新口)そのわけで,聖書はまた「書きもの」という意味の聖なる書物とも呼ばれているのです。
7 シナイ山で,エホバ神はどのような,直接の仕方で聖書を書くことに加わりましたか。
7 神は,この書物の全集内を流れる一貫した主題を与えました。また,それ以外に神はきわめて顕著な仕方で,聖書を書くことに参加されたのです。有名な十戒は,聖書の2番目の本の中に書かれています。この十戒は,クリスチャン時代よりも16世紀もむかし,アラビアのシナイ山でエホバの預言者モーセに伝えられました。それは最初,石の板の上に書かれました。石の板の上に書かれたことおよびそれが与えられたことについて,聖書の記録は次のように述べています,「〔エホバ神〕シナイ山にてモーセに語ることを終たまひし時律法の板二枚をモーセに賜ふ是は石の板にして神が手をもて書したまひしものなり」「この板は神の作なりまた文字は神の書にして板にほりつけてあり」。この十戒が与えられた民は,十戒にそむきました。そして,モーセは激怒のあまり二つの板をこわしました。「ここにエホバモーセに言たまひけるは汝石の板二枚を前のごとくにきりてつくれ汝がくだきし彼の前の板にありし言を我その板に書さん」。それでモーセがシナイ山からくだつてきたとき,神が書き給うた二つの石の板は,モーセの手中にありました。(出エジプト 31:18; 32:16; 34:1,29)後になつて,モーセは人間に読ませるため別の材料の上に十戒を書き写しました。
8 聖書の残りの部分は,どのように書かれましたか。聖書全部の書かれた全期間を通して何は同じままでしたか。
8 十戒は,神御自身が直接に書かれたものです。では,聖書の残りの部分全部も,それと同様な仕方で神の民に与えられましたか。そうではありません! 不完全な被造物である人間が,聖書の残りの部分を書くために用いられました。しかし,それは次の事実を否定するものではありません。すなわち聖書全部の著者は,ただ御ひとりのエホバ神であられること,そして聖書は,各部分を書いた人間の考えや表現を記しているのでなく,エホバ神の御考えと表現を記しているということです。目に見えぬ活動力は,それらの人間の筆者たちの上に働きました。この目に見えぬ活動力は,聖書の唯一つの著者から出て,彼に用いられた筆者たちの上に注がれました。この目に見えぬ活動力は,霊と呼ばれており,その源が聖なる神である故に「聖霊」と呼ばれています。地上の筆者たちは,時が経つにつれてちがう人になりましたが,ただひとつの変らざる聖霊は残りました。そして,その源も同じものですなわち不滅の神エホバでした。
霊感の下に書かれた
9 ダビデとペテロは,むかしの預言者たちが自分自身の衝動力の下に語つたり,書いたりしたのでないとどのように示しましたか。そして彼らは誰の名の下に書きましたか。
9 たとえばエルサレムで支配を行なつた最初のイスラエルの王,ダビデの例を考えてごらんなさい。彼はクリスチャン時代より11世紀のむかしに,たくさんの詩を書きました。聖書に記されているそのような聖なる歌のひとつの中で,ダビデは自分自身の衝動力に駆られて書いたのではないと説明しました。彼は次のように述べています,「エサイの子ダビデの詔言…エホバの霊わが中にありて言い給ふ其さとしわが舌にあり」。(サムエル後 23:1,2)ダビデが死んでから11世紀たつて,ペテロというクリスチャン使徒は,ふたつの手紙を書きました。それらは,聖書のなかに記されています。ペテロは,クリスチャンたちに次のことを思い起こさせています,すなわちダビデのような昔の預言者たちは自分自身の勝手な考えや意志にしたがつて預言を述べたのでなく,天的な源から出ている預言を述べたという事実です。ペテロはこう語りました,「聖書の預言はすべて,自分勝手に解釈すべきでないことを,まず第一に知るべきである。なぜなら,預言は決して人間の意志から出たものではなく,人々が聖霊に感じ,神によつて語つたものだからである」。(ペテロ後 1:20,21,新口)ペテロはまた次のように語りました,「聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は,成就しなければならなかつた。…神が聖なる預言者たちの口をとおして,昔から預言しておられた」。(使行 1:16; 3:21,新口)たしかに,聖書の記者たちは書きました。しかし,彼らはエホバ神のひとつの聖霊の活動力の下に書いたのです。彼らは神の地的な道具として,神の聖なる御名のもとに書きました。
10 イエスはひとりの人をいやしましたが,それによつて,神の御霊が人に働いて1冊の本を書かせ得る十分の力があることをどのように示しましたか。
10 神の聖霊は,悪霊に取りつかれている人から悪霊を追い出すことができます。それと同じ容易さで,神の聖霊は預言者を動かして書かせることができます。神の御子イエス・キリストは,そのことを示しました。彼は神の御国を人々に伝道して,数多くのすばらしい奇跡を行ないました。あるとき彼は悪霊に取りつかれている人から悪霊を追い出しました。おかげで,おしの人は物が言え,目が見えるようになりました。しかし,イエスの宗教的な敵たちは,イエスが悪霊を追い出した方法を非難しました。使徒マタイによると,イエスは彼らにこう言われました,「わたしが神の霊によつて悪霊を追い出しているのなら,神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」。(マタイ 12:28,新口)弟子のルカは,イエスがそのとき次のように言われたと記しています,「わたしが神の指によつて悪霊を追い出しているのなら,神の国はすでにあなたがのところにきたのである」。―ルカ 11:20,新口。
11 「指」という言葉の使用方法から見るとき,聖書が神の指によるものと,どうして言えますか。それでは,聖書は,どんなものの目に見える,感知できる結果ですか。
11 それで,イエスは神の霊を神の「指」と語りました。神の指は,直接の仕方で二つの石の板の上に十戒を書きました。しかし,神は人間を用いて聖書のいろいろの本を書かせたとき,神の象徴的な指である御霊は,これらの人々のペンを走らせたのです。(申命 9:10)詩篇 8篇3節のなかで,ダビデは神にこう語つています,「我なんじの指のわざなる天を観なんぢの設けたまへる月と星とをみる」。ダビデよりもずつと以前にいた預言者モーセは,エホバ神により用いられて十の破壊的なわざわいの中の3番目のわざわいをエジプトの地にもたらしました。これは,エジプトの魔術者たちがまねることのできないわざわいでした。それで,彼らは支配者であるパロに,「これは神の指なり」と言いました。(出エジプト 8:18,19)「指」という言葉がそのように用いられていることから,聖書は神の指によつて書かれたと言うことができます。なぜなら,聖書は神の聖霊すなわち目に見えない活動力の働きによつて書かれたからです。それで,聖書の最初から終りまで,創世記から黙示録まで,神の指は聖書を書きました。神の聖霊なる活動力は目に見えません。しかし,それは目に見える,感知できる結果をつくり出します。聖書は,神の御霊によつて,すなわち神の指が動くことによつてつくり出された目に見える,感知できる結果です。それで,神は聖書の天的な著者であられます。
地的な聖書筆者を確認
12 それでは,実際には誰が聖書をつくりましたか。しかし,カトリック教会の宗教家たちは,何と主張しますか。
12 エホバ神が地的な僕たちを用いて聖書をつくつたことは矛盾したことではありません。エホバ神は,地的な僕たちを使用し,秘書,筆記者,または筆者として用いたのです。それで,1943年3月1日号の(オハイオ州)トレドの「ブレイド」内の報告記事を読むとき,まつたく驚かざるを得ません。それは,その前日「無原罪懐胎教会」で語つた一宗教制度の牧師の言葉を報告していました,「聖書はローマ・カトリック教会だけに属する。このことは,ぜひ認められるべきであるが,一般に認められてない。カトリック教会が聖書をつくつたのだ。カトリック教会は,聖書を保存した。そして,カトリック教会は聖書を解釈する。他の者たちは聖書を読むことができる ― そうすることは強くすすめられている ― しかし,このこと以上には,彼らは聖書についてなんらの権利をも持つていない。全能の神は,この貴重な特権をカトリック教会の手中だけに置いたのである。カトリック教会が聖書をつくつたというのは奇妙に聞える,なぜならこの本は神の言葉であり,その中のどの言葉も,神により究極的に権限づけられたからである。しかし,我々は神がこのことをされた仕方を想起せねばならぬ…カトリック教会は聖書をつくつただけでなく,聖書を保存した…全能の神…も最高の法廷,すなわちカトリック教会を設立して,彼の憲法なる聖書の意味が何であるかを決定し給う」。それに共鳴しているたくさんのパンフレット,雑誌,そして新聞の広告は,「聖書はカトリックの本」という大胆な見出しをつけて,出版されました。
13 16世紀のあいだ,幾人の人々は聖書全部を書くために用いられましたか。それらの筆者の中には誰が含まれていますか。
13 そのような宗教的な言明文や主張は,一般大衆にあてて出版されています。それで,一般の大衆は,事実を知る権利を持つています。基礎的な事実は何ですか。今日,聖書の中のある本には,それを書いた者の名前がつけられています。はつきり分かるかぎり,16世紀中に30人以上の人々が用いられて聖書全部が書かれました。これらの筆者の中に,次のような人がいます,モーセ,ヨシュア,サムエル,ガド,ナタン,エレミヤ,エズラ,ネヘミヤ,モルデカイ,ダビデ,ソロモン,アグル,レムエル,イザヤ,エゼキエル,ダニエル,ホセア,ヨエル,アモス,オバデヤ,ヨナ,ミカ,ナホム,ハバクク,ゼパニヤ,ハガイ,ゼカリヤ,マラキ,マタイ,マルコ,ルカ,使徒ヨハネ,パウロ,イエスの異父弟であるヤコブ,ペテロ,イエスの異父弟のユダ。
14 それらの聖書筆者全部については,どんな事実がくつきり浮び出ますか。そして霊的に言うと,イエスの足跡に従う全部の弟子は,何と呼ばれますか。
14 これらの有名な聖書筆者の身元と背景をしらべるとき,びつくりする事実がくつきりと浮かびあがつて来ます。彼らはみな生来のヘブル人,イスラエル人,すなわちユダヤ人でした。しかしルカがギリシャ人であつたと信ずる人々はいます。ラテン人は,ひとりもいません。彼らはアブラハムの子孫でした。エホバ神はアブラハムのすえによつて地上の全地を祝福すると約束しました。アブラハムはヘブル人です。(創世 12:1-3; 14:13)イサクとヤコブを通しての彼の子孫は,ヘブル人と呼ばれました。(創世 39:14,17; 41:12。出エジプト 1:15,16,19。ヨナ 1:9)神はヤコブの名前をイスラエルに変えました。そのわけで,彼の子孫の12支族はヤコブ人と呼ばれず,イスラエル人と呼ばれたのです。(出エジプト 9:7)ヤコブ,すなわちイスラエルは,臨終のときに将来の王権の祝福を息子のユダに与えました。それで,ユダの王系と,その支族の王にかたく従つたイスラエル人は,ユダヤ人と呼ばれるようになりました。(創世 49:10。列王紀下 16:6。ゼカリヤ 8:23)イエス・キリストは,ユダの支族に属する者でした。神の約束された王であるイエスにしつかり従う追随者は,みな霊的な意味ではユダヤ人です。彼らの心は汚れから離れる割礼をうけたのです。―黙示 5:5。ヘブル 7:13,14。
15 筆者パウロは,自分の書いた手紙の中で,自分自身を何と呼びましたか。
15 聖書のうちの14の本を書いた使徒パウロは,次のように述べました,「わたしもイスラエル人でありアブラハムの子孫…である」。(ロマ 11:1,新口)「八日目に割礼を受けた者,イスラエルの民族に属する者,ベニヤミン族の出身,ヘブル人の中のヘブル人…」。―ピリピ 3:5,新口。
16 それで,聖書はどんな種類の本であるということができますか。そして,「ユダヤ人のすぐれている点」について,パウロは何と書きましたか。
16 この観点に立つと,聖書はカトリックの本とは言えず,むしろヘブル人の本,イスラエル人の本,ユダヤ人の本と言えます。ユダヤ人のクリスチャンであつたパウロは,そのことに同意する言葉をローマにいるクリスチャンたちに宛てて書きました,「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく,また,外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえつて,隠れたユダヤ人がユダヤ人であり,また,文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であつて,そのほまれは人からではなく,神から来るのである。では,ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。それは,いろいろの点で数多くある。まず第一に,神の言が彼らにゆだねられたことである」。―ロマ 2:28から3:2まで,新口。
17 (イ)聖書を書いた人は,みなクリスチャンでしたか。(ロ)何が彼らを一致のうちにむすべつけて,ひとつの御霊が彼らの上に働いたことを示しましたか。
17 ユダヤ人の預言者は,みな神の油注がれた者,メシヤなるキリストを指し示しました。彼らが彼に希望をかけたことは,昔の預言的な書きものを一致のうちにむすびつけました。しかし,聖書筆者全部が王であるキリストに従つた者という意味におけるクリスチャンではありません。イエス・キリスト以前の聖書筆者は,もちろん,彼の弟子になることはできません。使徒ペテロも,こう述べています,「この救については,あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも,たずね求め,かつ,つぶさに調べた。彼らは,自分たちのうちにいますキリストの霊が,キリストの苦難とそれに続く栄光とを,あらかじめあかしした時,それは,いつの時,どんな場合をさしたのかを,調べたのである」。(ペテロ前 1:10,11,新口)クリスチャン時代以前に書いた人のうちの最後の者はマラキでした。彼の本は,ヘブル語とアラミヤ語で書かれた聖書の正典すなわち正式の目録の最後になつています。マラキの後,聖書の残りの本を書いた8人の筆者たちは,みなユダヤ人のクリスチャンでした。彼らは当時に用いられていた通俗のギリシャ語を用いて書いたのです。その中で,彼らはエホバの昔の記者たちが書いた多くの預言が,ユダの支族に属する約束の王イエス・キリストに,どのように適用するかを指摘しました。彼らもまた,イエスに関連して生ずる事柄を預言しました。それで,すべての筆者たちは,メシヤあるいはキリストによる神の御国については,たがいどうし十分に一致調和していたのです。このことは,著者なる神の唯一つの霊が,彼ら全部の上に働いたことを証明します。
彼らの共通の召
18,19 (イ)彼らはユダヤ人の国籍を持つていたということの他に,何がこれらの聖書筆者の全部をむすびつけましたか。(ロ)その質問に対して神が答え給うた言葉を学ぶときに,どんな巻本は私たちにとつて特別の興味を引くものになりますか。
18 霊感をうけた聖書の筆者全部がクリスチャンではありません。しかし,国籍がユダヤ人であるということのほかに,もう一つのものは彼らを互にむすびつけました。それは何でしたか。彼らの共通の召です。彼らの召とは何でしたか。彼らの召が何であるか,エホバ神御自身の言われている言葉に耳を傾けてみましよう。パレスチナ戦争の只中であつた。1947年,ある昔の写本が発見されたために,聖書に対する世界的な関心は高まりました。その写本は,ローマ市で発見されたのではなく,パレスチナの死海北西部に近いところで発見されたのです。これらの写本は,死海写本と呼ばれるようになりました。それはラテン語で書かれておらず,ヘブル語で書かれています。考古学者の研究によると,それはクリスチャン教会,または会衆が(西暦)33年にエルサレムで設立されたときより1世紀以上もむかしに書かれたものです。これらの写本のうち,もつとも顕著なものは,イザヤの預言のヘブル語写本です。それはほとんど完全に近いかたちで保存されました。
19 (1952年)「ハーパーの聖書辞典」(英文)は,654頁aのところで次のように述べています,「この写本は,イエスが生まれる前に死海の洞窟に置かれて,彼の死後約2000年が経過するまで,その全部は発見されなかつた。洞窟内で発見されたイザヤ書の巻本は,おそらく青年であつた主がナザレで読んだものに類似しているであろう。(ルカ 4:1,6-19)それは,我々が今日読む預言とあまりちがつていない。写本家たちの犯した綴字とか間ちがいなどの微少なちがいがあるだけである。」
20,21 (イ)この死海巻本の36頁の欄で,神はその選んだ民の召しが何であると告げていますか。(ロ)(1949年の)「聖書のソンチノ本」の中でイザヤ書 43章10節にはどのような注がされていますか。
20 この写本は,ローマ・カトリック教会が保存しなかつた多数の写本のうちのひとつです。その36頁の欄には,イザヤ書 43章1,10-12節のヘブル語の聖句があります。それを現代の言葉に訳すと,次のようです。「ヤコブよ,あなたを創造した方,そしてイスラエルよ,あなたをつくつた方エホバはこう言われる。『恐れてはならない。私はあなたがたをふたたび買い戻した。私はあなたの名前であなたを呼んだ。あなたは私のものである』」。「『あなたがたは私の証者である』とエホバは言われる。『私のえらんだ僕である。それは,あなたがたが私を知つて私を信じ,私が同じものであることを信じ得るためである。私の前につくられた神はなく,私の後にも,ひとりもない。私 ― 私はエホバであり,私の他に救い主はない』。『あなた方の中に見知らぬ者がいなかつたとき私自身が告げて,救いをほどこし,聞かせた。それで,あなた方は私の証者である。私は神である』とエホバは言われる」。
21 エホバ神は,明白な言葉の中に,その選んだ民ヤコブまたはイスラエルの召しが彼の「証者」になることである,と言明しました。ユダヤ人のイスラエル・ダヴリュ・スロトキイ博士は,「聖書のソンチノ本」(英文,1949年)の中の207頁で,イザヤ書 43章10節について次のように注解しています,「諸国家とその神々は,その主張を証明することができない。それで,神は『私の証者』そして私の僕と述べられているイスラエルに,神の神性の独特なることを証言せよ,と命じているのである。すなわち,彼のごとき神はむかしになく,今後も決してないということである」。
22 (イ)モーセは誰でしたか。いつの時から彼は顕著な証者になりましたか。(ロ)モーセがそのようなエホバの証者であると何が証明しますか。
22 霊感を受けた聖書の筆者の最初の者は,預言者モーセでした。彼はイスラエルの国民のレビの支族に属していました。従つて,イザヤ書 43章10-13節にあるエホバ御自身の言葉から判断すると,モーセはエホバの証者のひとりでした。エホバは聖なる御使を奇跡的に燃えるしばの中に現われさせました。そして,その御使により ― 神モーセにいひたまひけるは我は有てある者なり又いひたまひけるは汝かくイスラエルの子孫にいふべし我有といふ者我をなんぢらに遣したまふと,神またモーセにいひたまひけるは汝かくイスラエルの子孫にいふべしなんぢらの先祖たちの神アブラハムの神イサクの神ヤコブの神ヱホバわれを汝らにつかはしたまふと是は永遠にわが名となり世々にわがしるしとなるべし」(出エジプト 3:2,14,15)その時から後,モーセはエホバの顕著な証者になりました。彼が書いた聖書の最初の5冊の中で,創世紀から申命記にいたるまで彼はエホバ(יהוה)cという名前を1833回用いました。それでは,モーセがエホバの証者であり,その召しに真実を保つたということを正しく否定できる人がいますか。宗教的な偽善者,言いまぎらす人,真理をかくす人をのぞいては,ひとりもいません。ヘブル人にあてた手紙を霊感の下に書いたクリスチャン筆者は,その11章と12章の中で,モーセをエホバの証者の中に記しています。しかし,モーセはエホバの最初の証者ではありません。
23 誰が最初の忠実な証者でしたか。彼の生涯の終りは,何の始まりをしるしづけましたか。
23 ヘブル書を記した人は,アダムの次男であるアベルを最初の忠実なエホバの証者と記して,次のように述べています,「信仰によつて,アベルはカインよりもまさつたいけにえを神にささげ,信仰によつて義なる者と認められた。神が,彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが,信仰によつて今もなお語つている」。(ヘブル 11:4,新口)創世記 4章4,5節には,こう書かれています,「アベルもまた其羊の初生と其肥たる者を携へきたれりエホバアベルとそのそなえものをかへりみたまひしかどもカインとそのそなへものをばかへりみたまはざりし」宗教的なしつとに駆られたカインは,御旨にかなつた忠実なエホバの証者であつた弟のアベルを殺しました。これは,むかしのアベルの時から今日にいたるまで,宗教家がエホバの真の証者たちに加えてきたあらゆる暴行の始まりでありました。
24,25 (イ)ヘブル書 11章は,その表の中でどんな人の名前をあげていますか。(ロ)ヘブル書を書いた人は,前述の人々がエホバの証者であることをどのように示していますか。
24 ヘブル書 第11章は,アベルの後のエホバの証者の表を記しています。預言者たちであつたエノクとノア,家長たちであつたアブラハム,イサク,ヤコブ,アブラハムの妻サラ,ヤコブの息子ヨセフ,預言者モーセ,石垣にかこまれていたエリコの滅びに生き残つた遊女ラハブ,裁き人たちであつたギデオン,バラク,サムソン,そしてエフタ,ダビデ王と預言者サムエルの名前があげられています。筆者には,他の預言者たちの名前を述べる時間がありません。しかも彼が『獅子の口を止めること』に言及したとき,獅子の穴から安全に出て来た預言者ダニエル以外の誰を考えていたでしようか。エホバの証者が剣によつて殺される,と彼は述べたとき,首を切られた洗礼者ヨハネのことを心に描いていたのかも知れません。彼らが受けたつらい仕打ちを述べた後に,ヘブル書 11章は次の言葉で閉じています,「さて,これらの人々はみな,信仰によつてあかしされたが,約束のものは受けなかつた。神はわたしたち(クリスチャンたち)のために,さらに良いものをあらかじめ備えて下さつているので,わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない」。(ヘブル 11:39,40,新口)しかし,ヘブル書を書いた人は,彼らがエホバ神の証者であつたことをどのように示していますか。次の2節を語ることによつて,そのことを示しています。
25 「こういうわけで,わたしたちは,このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから,いつさいの重荷とからみつく罪とをかなぐり捨てて,わたしたちの参加すべき競走を,耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり,またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走ろうではないか。彼は,自分の前におかれている喜びのゆえに,恥をもいとわないで十字架を忍び,神の御座の右に座するに至つたのである」。―ヘブル 12:1,2,新口。
26 彼らが,誰の「多くの証人」であつたと何が示しますか。それで,誰がヘブル語とアラミヤ語の聖書の著者でしたか。誰を用いることによつて?
26 ヘブル書を書いた人が,その11章の中で名前を述べているものや説明している者そしてイエス・キリスト以前にいた人々のことを「多くの証人」と呼んでいることに気をつけて下さい。しかし,誰の証者ですか。ただひとつの答しかありません。エホバの証者です。イエス・キリスト以前に書かれた聖書の最後の本,すなわちマラキの書いた預言は,エホバの名前を48回も述べています。イエス・キリスト御自身も,このマラキの預言を引用して,それが霊感されたものであること,および正しくエホバの御言葉の一部であることを示しています。(マタイ 11:7-15。マラキ 3:1; 4:5,6)それで,モーセからマラキにいたるまで正典の聖書を書いた人はみなエホバの証者でした。そして,ヘブル語とアラミヤ語で書かれている霊感された聖書は,みなエホバがその著者であつて,エホバの証者によるものでした。
エホバのクリスチャン証者
27,28 (イ)イエスは生まれてから何になりましたか。どうしてそうですか。(ロ)彼はどんな政治支配者に向かつて,その事実を告白しましたか。それで,彼はどんな称号を得ましたか。
27 その手紙の筆者が書き送つたヘブル人のクリスチャンたちは,「多くの証人に雲のように」かこまれていました。そして「信仰の導き手であり,またその完成者であるイエス」を仰ぎ見るようにと告げられました。このイエスは,殉教者の死をとげたのです。すると,イエスもエホバの証者であつた,ということですか。そうです。天から来られた神の御子イエスは,イスラエルの国のユダの支族に属するダビデ王の家系に生まれました。生まれてきたイエスは,イスラエルの国民のひとりになりました。エホバ神は,イザヤ書 43章10-12節の中で,イスラエルの国民にむかつて,次のように言われていました,「『あなたがたは私の証者である』とエホバは言われる」。それで,イエスは地上に生まれてエホバの証者になりました。イエスは,ローマ総督ポンテオ・ピラトの前でも,この事実を否定しませんでした。このピラトはイエスを死刑に宣告した者です。「それでは,あなたは王なのだな」というピラトの質問に対して,イエスはこう答えました,「あなたの言うとおり,わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ,また,そのためにこの世にきたのである」。―ヨハネ 18:37,新口。
28 イエスが証者であることを強調するため,使徒パウロは「ポンテオ・ピラトの面前でりつぱなあかしをなさつたキリスト・イエス」と語つています。(テモテ前 6:13,新口)同様に,使徒ヨハネは,アジア地方にいる七つの会衆に手紙を書き送つたとき,次のように述べています,「忠実な証人,死人の中から最初に生れた者,地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから,恵みと平安とが,あなたがたにあるように」。―黙示 1:4,5,新口。
29 イエスは,ニコデモに語られたとき,御自分が証者であることをどのように告白しましたか。
29 さらに,イエス自身の口から,彼がエホバの証者であるという告白の言葉を聞きます。彼はイスラエルのユダヤ人の教師ニコデモにむかつて次のように述べているのです,「わたしたちは自分の知つていることを語り,また自分の見たことをあかしているのに,あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。わたしが地上のことを語つているのに,あなたがたが信じないならば,天上のことを語つた場合,どうしてそれを信じるだろうか。」― ヨハネ 3:11,12,新口。
30,31 (イ)ヨハネは,イエスが証者であることについて,どのような注解を述べていますか。(ロ)イエスは,ナザレの会堂で神の言葉をどのように語りましたか。
30 それから幾節か後のところで,使徒ヨハネはこのことについての注解の言葉を次のように述べています,「上から来る者はすべてのものの上にある。地から出る者は,地に属する者であつて,地のことを語る。天から来る者は,すべてのものの上にある。彼はその見たところ,聞いたところをあかしているが,だれもそのあかしを受けいれない。しかし,そのあかしを受けいれる者は,神がまことであることを,たしかに認めたのである。神がおつかわしになつたかたは,神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである」。(ヨハネ 3:31-34,新口)イエスは,自分の故郷の町ナザレの会堂にいたとき,安息日に神の言葉をたしかに語りました。彼は神の御言葉を読んだのです。1947年に死海近くで発見されたものに似ているイザヤの巻本が,係りの者から彼に渡されました。イエスはその61章1節と2節のところを開いて,こう読まれました。
31 「主エホバの霊われに臨めり,こはエホバわれにあぶらをそそぎて貧しき者に福音をのべ伝ふることをゆだね,我をつかはして心のいためる者をいやし,とらはれびとにゆるしをつげ縛められたるものに解放をつげヱホバのめぐみの年…を告しめ」。―イザヤ 61:1,2。ルカ 4:16-19。
32,33 (イ)イエスはそのとき,御自分がエホバの証者であることを示すために,何と言われましたか。(ロ)エルサレムの宮で,イエス・キリストがどんな預言者になるとペテロは述べましたか。
32 それから,イエスはこう述べました,「この聖句は,あなたがたが耳にしたこの日に成就した」。その成就を示すために,彼は「エホバの恵みの年を告げ」始めました。エホバはそれを宣明させるために,彼に油を注がれたのです。それで,イエスは,御自分がエホバの証者であることを証明しました。(ルカ 4:20-22)イエスは,殉教者の死を遂げても忠実を保つた証者と証明しました。その後,使徒ペテロはエルサレムの宮に集まつたエホバの崇拝者の群れに向かつて,イエスこそモーセがイスラエルに述げた言葉のうちで預言していた預言者である,と公に告げたのです。
33 「汝の神エホバ汝の中汝の兄弟の中より我のごときひとりの預言者を汝のためにおこし給はん汝らこれに聴くことをすべし…エホバ我に言たまひけるは…我かれら兄弟の中より汝(モーセ)のごときひとりの預言者を彼らのためにおこし我言をその口に授けん我が彼に命ずる言を彼ことごとく彼らに告べしすべて彼が我名(エホバ)をもて語るところのわが言に聴したがはざる者は我これを罰せん」。―申命 18:15-19。
34 モーセのごとき預言者であるイエス・キリストは,どんな者でなければなりませんか。そして,イエスにならう彼の弟子たちは何でなければなりませんか。
34 預言者であつたモーセは,非常に際立つたエホバの証者でした。彼は権力のあるエジプトのパロに向かつてもエホバの御名を宣べたのです。使徒ペテロだけでなく,クリスチャン殉教者ステパノも,イエスがよみがえりを受けると預言されていた預言者は,モーセのごときもの,しかしモーセよりも大きな預言者である,と述べました。(使行 3:20-23; 7:37,52,53)モーセの預言を成就したイエス・キリストは,モーセのごとき預言者でした。しかし,モーセよりも大きな預言者だつたのです。神の新しい世における永遠の生命を目標にして走るクリスチャン競走のすべての走者は,大いなるモーセであるイエスを仰ぎ見て,イエス・キリストにまねなければなりません。(ヘブル 12:1,2)使徒パウロは,こう語りました,「わたしがキリストにならう者であるように,あなたがたもわたしにならう者になりなさい」。(コリント前 11:1,新口。テサロニケ前 1:6)それで,真のクリスチャン,キリストの真の追随者たちは彼にならつて,エホバの証者でなければならぬという真理は明白になります。真のクリスチャンは,エホバの証者です。
35 (イ)誰の改宗のときまで,生来のユダヤ人たちは証者になるように生まれて来ましたか。(ロ)ユダヤ主義を捨ててキリスト教を受けいれたユダヤ人たちは,何になりましたか。しかし,キリスト教を拒絶したユダヤ人たちは,何であることを中止しましたか。
35 ユダヤ人の使徒たちや,イエス・キリストの弟子たちは,真のクリスチャンがエホバ神の証者である,という事実を証明するものでした。イザヤの巻本の43章10-12節でイスラエルの国民に告げているエホバ御自身の言葉から見るとき,ユダヤ人でなかつたコルネリオがキリスト教にはじめて改宗する以前に生まれた生来のユダヤ人は,みなエホバの僕,エホバの証者になるように生まれて来ました。そのような生来のユダヤ人が,いろいろの言伝えを持つユダヤ教を捨てて,使徒の時代にクリスチャンになつたとき,彼らはエホバの証者であることを中止したわけではありません。彼らは,その指導者なる大いなるモーセ,イエス・キリストのごとく,エホバのクリスチャン証者になりました。イエス・キリストを大いなるモーセとして受けいれなかつた生来のユダヤ人は,エホバの証者であることを止めたばかりか,エホバの生来の「しもべ」級であることも中止しました。一方,クリスチャンたちは,イザヤの巻本の55章4節がイエス・キリストに適用することを認めました,「視よわれ彼をたててもろもろの民の証とし又もろもろの民の君となし命令する者となせり」。
36 五旬節の日に油そそがれたユダヤ人たちは何になりましたか。
36 西暦33年の五旬節<ペンテコスト>の祝の日に,イエスに従つたユダヤ人の弟子たちは,イエスと同じようにエホバの聖霊で油を注がれました。このようにして,彼らはいま霊的なユダヤ人になり,霊的イスラエルの新しい国民,すなわちエホバの僕と証者たちの新しい国民になるため油を注がれたのです。―ペテロ前 2:9。
37 (イ)五旬節の日に,ペテロはどんなヘブル語の聖書を引用しましたか。彼は,どんな結論の注解を述べましたか。(ロ)それで,ペテロは彼が何であると示しましたか。
37 使徒ペテロは,その日ユダヤ人のクリスチャンたちに聖霊が注がれたことを説明したとき,ヨエルの預言の巻物の中から,次の言葉を引用しました。「その後われわが霊をすべての人に注がんエホバの大なるおそるべき日の来らん前に日は暗く月は血に変らんすべてエホバの名をよぶ者は救はるべし」。(ヨエル 2:28-32)ペテロは次に詩篇 16篇8-11節を引用しました。それは次のように述べています。「われ常にエホバをわが前におけり…そは汝わがたましひを陰府にすておきたまはず…」。ペテロはまた詩篇 110篇1節をも引用しました,「エホバわが主にのたまふ,我なんぢの仇をなんぢの承足とするまではわが右にざすべし」。それから,ペテロは,霊感をうけたこれらの聖句についての注解の中で,次のように語りました,「神はこのイエスを復活させた。私たちはみな,この事実の証者である…だからイスラエルの全家はこのことをしかと知つておくがよい。あなたがたが杙につけたこのイエスを,神は主またキリストとしてお立てになつたのである」。(使行 2:14-36,新世)ペテロは,間ちがいのない明白な仕方で,その最初から次のことを示しました。すなわち霊的なユダヤ人あるいはイスラエル人である彼は,エホバの油注がれた証者であるということです。このエホバは,御子イエス・キリストをショオールの死から復活させて,御自分の右に坐らせ,そしてイエスによりその聖霊を注がれたのです。
38 ヨハネは,その最初の手紙の中で,彼が証者であることをどのように示しましたか。そして,聖書の終りにいたるまで,ヨハネはイエスが証者であることをどのように示しましたか。
38 使徒ヨハネは,その五旬節<ペンテコスト>の日に,ペテロと共にエルサレムにいました。ヨハネは,その御名がエホバである唯一つの神の証者である,と明白に表わし示しました。ヨハネ第一書 3章14節の中で使徒ヨハネは,次のように書いています,「わたしたちは,父〔エホバ〕が御子を世の救主としておつかわしになつたのを見て,そのあかしをするのである」。そして,聖書のいちばん最後の本の中で,ヨハネは栄光をうけたイエス・キリストが幻の中で彼にこう語つている,と述べています,「アァメンたる者,忠実な,まことの証人,神につくられたものの根源」。「これらのことをあかしするかたが仰せになる『しかり,わたしはすぐに来る』。この後の言葉にたいして,ヨハネは「アァメン,主イエスよきたりませ」と答えています。(黙示 3:14; 22:20)それで,聖書のいちばん最後にいたるまで,ヨハネはイエス・キリストが天の御父なるエホバの証者であることを強調しました。ヨハネはまた,彼自身がエホバ神の証者であると証言しました。
39 (イ)聖書の最後の27冊は,誰によりそしてどのように私たちに与えられましたか。(ロ)ペテロは,使徒の書いたものを霊感された聖書と,どのように同位に置いていますか。
39 ヨハネ,ペテロそして他の第1世紀にいたエホバの証者たちは,口で語る言葉だけによらず,その書いたものによつても証言をしました。その結果,クリスチャンたちは聖書の最後の27冊を持つにいたりました。それらの本は,昔のヘブル語やラテン語で書かれたのでなく,第1世紀の国際語である通俗のギリシャ語で書かれたのです。エホバ神は,霊的なイスラエルの新しい国民に属する8人,すなわち油そそがれた8人のユダヤ人の国民に霊感を与えて,第1世紀の終る時までには私たちのために聖書を完成させました。それで,たとえば使徒ペテロは,使徒パウロが霊感をうけて書いたものを「ほかの聖書」と同位に置いています。ペテロは次のように書いています,「わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは,わたしたちの愛する兄弟パウロが,彼に与えられた知恵によつて,あなたがたに書きおくつたとおりである。彼は,どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には,ところどころ,わかりにくい箇所もあつて,無学で心の定まらない者たちは,ほかの聖書についてもしているように,無理な解釈をほどこして,自分の滅亡を招いている」。―ペテロ後 3:15,16,新口。
40 聖書は,誰によつて始められ,誰によつて完成しましたか。それで,聖書は誰による本と言えますか。
40 それで,エホバ神がその著者であられる聖書は,その証者によつて始められました。そして聖書はその証者によつて完成されました。そのわけで聖書的な矛盾なしに次のように言うことができます。すなわち聖書はエホバの証者による本である,ということです。黙示録 19章6節の述べるごとく,「ハレルヤ!」であります。
[脚注]
a ア標の詩,135:1。146:1の脚注も見なさい。マックリントクとストロングの「サイクロピデイア」第4巻32頁は次のように言つています。「ハレルヤ(ヘブル語でハレルーヤあなた方は,ヤハすなわちエホバをたたえよ)あるいは(ギリシャ語形で)アレルヤは多くの詩篇の冒頭に立つ言葉である。…バビロンの滅亡について天における勝利の大讃歌の中で,使徒はまぼろしの中に,大きな雷の声に似た大コーラスがこう叫ぶのを聞いた,『アレルヤ,全能の主なる神は治めたもう』そして,御座から聞えた次の声に唱和した『なんじら僕たちそして小なる者も大なる者も彼を恐れるなんじらよことごとく我らの主をたたえよ』。(黙示 19:16)
b 聖書のウエストミンスター訳(1937年)から引用。また,ロザハム訳,アメリカ訳,モハット訳,そしてヘブル語聖書の新世訳をも見なさい。
c あるヘブル語の学者はそれをヤーベ,またはヤウエと発音します。クリスチャン・ギリシャ語聖書の新世訳(英文)の25頁にある序言第1節を見なさい。
[447ページの写真]
上に掲げられているイザヤ書の死海写本(DSIa)の直接複写写真は,大事に保存されたヘブル語の書物の54欄の最初です。これは右から左へ読みます。これはイザヤ書 第1章1節から26節の一部を含んでいます。この最初の頁は,29行で,神の御名יהוהのヘブル語四子音文字は,3,10,12,13,21,27行および第5行の最初の2文字,全部で7回出ています。