死と陰府は死人を出す
「また死人の復活については,神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか」― マタイ 22:31。
1 宗教上の古典のうち,復活のことを教えているのはどの本だけですか。
神の国の治めるとき,死人の復活がある ― どんな古い宗教の聖典をさぐっても,この事を教えている本は聖書以外にはありません。聖書はその第一の部分がほとんどヘブライ語で書かれ,第二の部分が1900年前の通俗ギリシャ語で書かれました。しかし聖書の第二の部分が通俗ギリシャ語で書かれる前に,第一の部分はヘブライ語からギリシャ語にほん訳されました。ヘブライ語聖書のギリシャ語訳はギリシャ語七十人訳と呼ばれ,70を意味するLXXの記号で表わされます。19世紀前の国際語はギリシャ語で,当時ギリシャ語を知る人ならば,聖書全体を読むことができました。今日聖書は部分訳をも含めて1202の言語に訳されており,おそらくあなたの国のことばにも訳されていることでしょう。聖書は最も多くの言語で最も広く流布されている本です。全能の神の国の治めるとき,死人がよみがえって正義の秩序の下に生命を得るという聖書の教えは,他に類を見ない教えです。
2 なぜある人々は復活のことを聞くと笑いますか。
2 読者の皆さんは,「魂の不滅」を教える宗教のゆえに,死人の復活の必要をあるいは認めないかも知れません。人が死ぬとき,死んだのは人間のからだだけであり,魂はどこか見えない世界で生きているか,あるいは地上の他の生命に生まれ変わっていると考えるならば,復活の必要がなくなります。そこである人は,死人の復活という考えを笑うでしょう。それは理解できることです。しかし死人の復活という聖書の教えは確実な根拠に基づいており,従って嘲笑するよりも,率直に検討するほうが賢明です。イエス・キリストが死から復活した事を,クリスチャン使徒パウロから聞かされたギリシャの哲学者は,人間の魂の不滅を信じていました。私たちはこのような哲学者にならいたくありません。―使行 2:31,32。マタイ 26:38。イザヤ 53:12。エゼキエル 18:4,20。
3 私たちはこれらギリシャの哲人にならうことを,なぜ望みませんか。
3 これらのギリシャ人について,歴史的な記録は次のように伝えています。「その中のある者たちが言った,『このおしゃべりは,いったい,何を言おうとしているのか』。また,ほかの者たちは,『あれは,異国の神々を伝えようとしているらしい』と言った。パウロが,イエスと復活とを,宣べ伝えていたからであった」。また使徒パウロはギリシャ,アテネの最高法廷に立ち,世界をさばく者としてみ子イエス・キリストを,神が死からよみがえしたと述べました。しかし「死人のよみがえりのことを聞くと,ある者たちはあざ笑(った)」と記録されています。(使行 17:28,31,32)これらのギリシャ人は魂の不滅を信じ,従って死人というものはないと信じていました。それで魂が死ぬこと,人間が再び生きるためには復活を必要とするという教えを受け入れなかったのです。
4 古代ギリシャ人の,死者に関する考え方は,バビロニア人とどのように似ていますか。
4 昔のギリシャ人は,人間が死ぬと,ヘーデースと名づけられた神の支配する,見えない地下の世界に死人の霊となって生きると考えていました。死人の魂が住むこの地下の世界は,そこを支配する神の名をとって,後にヘーデースと呼ばれるようになりました。またこの名は墓a を指しても用いられました。古代ギリシャの考えは,アジアのバビロニア人の考えと似ています。バビロニア人は,死人の魂が住む地下の世界を治める神をナーガルと呼び,死者の見えない世界を「帰らざる国」と呼びました。ゆえに古代バビロニア人は,死人の復活を信じていません。b
5 人間不滅の信条と復活の教えが相容れないことは,改革派のユダヤ人のどんな行いからも明らかですか。
5 人間の魂の不滅を信ずるバビロニア人の宗教観念は,死人の復活を教える聖書と矛盾します。20世紀の改革派ユダヤ教徒のした事もそれを物語っています。ユダヤ大百科の「復活」の項に次の記述が見えます。「近年において復活の信仰は物理学のために大きくゆらいでしまった。復活の信仰を表明した旧来の儀式文を変えて,魂の不滅の希望を明白に表明すべきかどうかは,改革派のラビたちの間や,ラビの会議において議論されてきた。アメリカにおける改革派の祈とう書は,すべてそのように変えられた。フィラデルフィアで開かれたラビの会議において,からだの復活を信ずることはユダヤ教の信仰と無縁であり,儀式〔公の崇拝に用いられる儀式文集〕は,復活のかわりに魂の不滅を述べるべきことが表明された」― 第10巻385頁,2節(1905年)。
6 改革派のユダヤ人は,聖書のどんな明白な言葉を信じませんか。
6 それで改革派のユダヤ人は,聖書のエゼキエル書 18章4,20節の明白な言葉を信じていません。「罪を犯した魂は必ず死ぬ」。
7 かつてのパリサイ人パウロは,復活についてペリクスに何と述べましたか。
7 イエス・キリストの時代の人であったクリスチャン使徒パウロは,死から復活した後のイエス・キリストを奇跡的に見ました。パウロはユダヤ人に生まれた人です。そして死人の復活を信じたユダヤ教のパリサイ人の一人でした。ローマの裁判官ペリクスの前に立ったとき,パウロはユダヤ教のパリサイ人に関して次のように語りました。「わたしは〔モーセの〕律法の教えるところ,また預言者の書に書いてあることを,ことごとく信じ,また,正しい者も正しくない者も,やがてよみがえるとの希望を,神を仰いでいだいているものです。この希望は,彼ら自身も持っているのです……ただ,わたしは,彼らの中に立って,『わたしは,死人のよみがえりのことで,きょう,あなたがたの前でさばきを受けているのだ』と叫んだだけのことです」。ペリクスは,死人の魂の下る下界の神をプルトーと呼んだローマ人の考えを,おそらく持っていたことでしょう。―使行 24:14-21。
8 (イ)キリストの復活には何人の証人がいますか。(ロ)キリストの復活には,死んだ人々にとってどんな意義がありますか。
8 復活に関する記述の中で使徒パウロは,自分をも含めて500人以上の証人が復活したイエス・キリストを見たことを述べています。イエス・キリストは公衆の前で苦しみの杭につけられて殺され,墓に葬られてのち,復活したのです。死体を盗み出す者がないようにその墓は封印され,番兵さえ置かれていました。(コリント前 15:3-9。マタイ 27:57–28:4)自分や仲間の信者がイエス・キリストの復活の偽りの証人ではないことを論じて,パウロはキリストの復活が死に定められた人類にとって何を意味するかを次のように指摘しています。「しかし事実,キリストは眠っている者の初穂として,死人の中からよみがえったのである。それは,死がひとりの人〔最初の人アダム〕によってきたのだから,死人の復活もまた,ひとりの人によってこなければならない」。(コリント前 15:20,21)イエス・キリストの復活は,他の人々すなわち死んだ人間が復活するための道を開きました。
9,10 (イ)イエスが殉教者の死に敢然と直面できたのはなぜですか。(ロ)イエスの言葉は復活のあることをどのように保証していますか。
9 西暦33年,イエス・キリストは殉教者の死に直面しても勇気がありました。イエスは,ご自分の天の父である全能の神が,三日目に死からよみがえらせて下さることを確信していたからです。それによって神は,イエスが天に戻り,犠牲として与えた人間の生命の価値を自ら神にささげることを可能にします。地上にあった時,イエス・キリストは復活について多くの事を言われました。あるとき,イエスは死人が最後のさばきを受けるためによみがえることを,次のように述べました。「それは,父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に,子にもまた,自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。そして子は人の子であるから,子にさばきを行う権威をお与えになった。このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き,善をおこなった人々は,さばきを受けるためによみがえり,悪をおこなった人々は,さばきを受けるためによみがえって,それぞれ出てくる時が来るであろう。わたしは,自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして,わたしのこのさばきは正しい。それは,わたし自身の考えでするのではなく,わたしをつかわされたかたの,み旨を求めているからである」― ヨハネ 5:26-30。c
10 そこで私たちは復活のあることを確信できます。
各人の問い
11 従って各人の心にどんな疑問が生じますか。
11 ゆえにきわめて個人的な質問が心に浮かびます。すなわち私またあなたが何時か死んで墓に葬られたなら,私たちは復活つまり死の眠りから生命に戻ることを神から許されますか。もしそうであれば,その事はどうしてわかりますか。だれが私たちと共によみがえりますか。死からよみがえらない人がありますか。この問題は,聖書の最初の部分すなわちヘブライ語聖書しか受け入れないユダヤ人の多くにとっても関心の的となってきました。
12 聖書は復活の日の模様をどのように描いていますか。
12 キリスト教国において一部の宗教家は,復活の日の情景が,そのとき生きている人々にとってどんなものかを描写しようと試みています。そして人間のからだのいろいろな部分が風を切って飛んでくると,死んだ時に同じからだのものであった別の部分とくっつくというような,きわめて奇怪な情景を想像してきました。聖書はエゼキエルの幻の中においてさえ,このように奇怪な復活の光景を述べていません。預言者エゼキエルは,かれた骨の谷の幻の中で,全能の神の力により骨がつらなって再び肉をつけるのを見ました。(エゼキエル 37:1-10)聖書の巻末の本は,天と地の悪の勢力が逃げ去ってのち,地上におこる復活の模様を象徴的に述べています。その描写に奇怪なところは少しもありません。希望を与えるこの幻は,地上におこる復活にだれが与るかを知る手がかりとなっています。
13 黙示録 20章11節から15節において,どんな幻がヨハネに与えられましたか。
13 クリスチャン使徒ヨハネの見たこの幻は,黙示録 20章11節から15節に描かれています。「また見ていると,大きな白い御座があり,そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って,あとかたもなくなった。また,死んでいた者が,大いなる者も小さな者も共に,御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが,もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ,この書物に書かれていることにしたがって,さばかれた。海はその中にいる死人を出し,死も黄泉もその中にいる死人を出し,そして,おのおのそのしわざに応じて,さばきを受けた。それから,死も黄泉も火の海に投げ込まれた。この火の海が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな,火の池に投げ込まれた」― 黙示録 21章8節もごらん下さい。
14 復活に関して,黙示録 20章13節は,ヨハネ伝 5章28,29節にあるイエスの言葉よりもなぜ包括的ですか。
14 すべての人が陸で死ぬわけではなく,地のふところにある墓に葬られるわけではありません。(創世 1:9,10)難船,あらし,海戦のために死んで海のもくずとなった無数の人々は,陸にひき上げられず,墓に葬られていません。(列王上 22:48,49。歴代下 20:36,37。詩 48:7。ダニエル 11:40)それで人類の復活の日を描いた黙示録 20章13節は,「死も黄泉もその中にいる死人を出す」と同時に,「海はその中にいる死人を出し」たと述べているのです。黙示録 20章13節のこの言葉は,「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き……よみがえって……来るであろう」と述べたイエスの言葉よりも広い範囲の復活を指していることがわかります。―ヨハネ 5:28,29。
15 なぜ「海」は「火の池」に投げ入れられませんか。
15 もうひとつ次の点に注目しなければなりません。すなわちここで言う黄泉をどう理解するにしても,黄泉に死んでいる者と海に死んでいる者とは別の人であり,黄泉と海とは別のものです。海の死人は水の中にいます。地球上に存在する文字通りの海が消滅することはありません。黙示録 20章14節に「死も黄泉も火の地に投げ込まれた。この火の池が第二の死である」と書かれているのは,そのためです。文字通りの海が「火の池」に投げ込まれるならば,それは火を消してしまうでしょう。そして海のかわりに火の池がなくなってしまうに違いありません。しかし聖書から見て,「火の池」の象徴する「第二の死」がなくなる事はありません。象徴的に言って,この「火の池」は永遠に燃えつづけます。
16 聖書の黄泉はギリシャ人の考えた黄泉とどのように違いますか。なぜそうですか。
16 では象徴的な「火の池」に投げ込まれる黄泉とは何ですか。黄泉にいる者はどんな状態におかれていますか。ひとつの事は確かです。聖書にいう黄泉は,非クリスチャンの古代ギリシャ人が,その神話に描いている黄泉ではありません。
17 古代ギリシャ人はどんな二つの意味に復活を解しましたか。
17 「新約聖書神学辞典」第1巻369頁,「ギリシャ人の世界における復活」の項に次のことが出ています。「魂の輪廻を別にして……ギリシャ人は二つの意味において復活のことを語っている。イ,復活は不可能である……ロ,復活はまれに起こるかも知れない奇跡である……ダイアナのアポロニウスがローマにおいて死んだ少女を復活させたことが物語られている……15万デナリの寄付があった……世の終わりに大ぜいの人が復活するという考えは,ギリシャ人の間になかった。フィルギアの碑文の中でそれは非難されているように思える〔復活に希望を持つ者はみじめである〕。使徒行伝 17章18節にあるアナスタシス〔復活〕の語を聞いた人々は,それが固有名詞であると間違って考えたらしい」。(17章31節および以下を参照)d アポロニウスがよみがえらせた少女は言うまでもなく再び死にました。
18 異教徒と異なり,神の民はどんな希望を抱きましたか。
18 マクリントック,ストロング大百科1891年版第4巻9頁の最後の節は,次のことを述べています。「陰府に時を過ごすことが一時的であり,過渡的であると考えたのは,信仰のあるヘブライ人だけであった。異教徒はその世界のむこうに何も認めなかった。彼らはそこに永遠に閉じ込められると考えた。復活という考えは,異教徒の宗教また哲学に全く異質のものであった。しかし神の真の民の心に宿されていたすべての希望は,死からよみがえる見込みと結びついていたのである。罪のもたらした悪を無効にし,滅ぼす者を滅ぼすことを可能にするのは復活であるゆえに,誘惑者の砕かれることを保証した最初の約束において,それは表明されている」。―創世記 3章15節,ロマ書 16章20節を見て下さい。
19 それで聖書の黄泉は,ギリシャ人の考えた黄泉とどのように違いますか。
19 それで聖書のいう黄泉という言葉は,異教徒のギリシャ人が考えていた黄泉とは異なります。聖書は黄泉にいる人々が復活することを何度も述べているからです。それは古代バビロニア人が言ったような「帰らざる国」ではありません。では聖書にいう黄泉はどこにあるのですか。黄泉にいる人々はどんな状態におかれていますか。それは死者が「一時的に時を過ごす」場所ですか。正しい答えは聖書からのみ得られます。その真実の答えを基礎にして,私たちは固い信仰を抱くことができるでしょう。聖書は何と述べていますか。
黄泉
20 黄泉にいる者は,どんな状態にあるに違いありませんか。
20 クリスチャン・ギリシャ語聖書の最古の写本の中に,黄泉(ヘーデース)という語は10回出ています。e 聖書の黄泉にいる人は生きていますか。聖書をその書かれている通りに読む人ならば,黙示録 20章13節に「死も黄泉も」「その中にいる死人を出し」たと書かれている事からも,黄泉にいる人には生命がないと言うでしょう。また死の中にいる死人が生きているわけはありません。同じく黄泉にいる死人が,生きているはずはありません。ところが異教のギリシャ神話に影響されているキリスト教国の宗教家に言わせると,そうではありません。「黄泉にいる死人は本当に死んでいるのではない。死んでいるのはからだだけであって,魂は不滅であるから生きている。魂は神から離れているという意味において,死んでいるに過ぎない。その事を別にすれば,黄泉にある不滅の魂は実際には生きているのだ」と,キリスト教国の宗教家は論じます。しかしこれは正しい論議ですか。黄泉に死んでおり,黄泉から復活する人々の状態について,聖書はその事を教えていますか。聖書をしらべてごらんなさい。
21 (イ)黄泉は天にありますか。(ロ)クリスチャン会衆は黄泉に行きますか。
21 クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で,黄泉という語がはじめて出てくるのはマタイ伝 11章23節です。その中で主イエス・キリストは言われました,「ああ,カペナウムよ,おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう」。(またルカ 10:15)それで黄泉が天にあるはずはありません。黄泉の語が次に出てくるのは,マタイ伝 16:18です。イエスは使徒ペテロにむかって「我はまた汝に告ぐ,汝はペテロなり,我この磐の上に我が教会を建てん,黄泉の門はこれに勝たざるべし」(文語)と,言われました。イエスのこの言葉は,イエスの追随者の会衆が死んで黄泉の門を通り,黄泉に死んでいる人々の中に数えられるという意味です。
22 黄泉の門は,なぜイエスの会衆に勝てませんか。
22 しかし「黄泉の門」は,なぜイエスの会衆に勝たないのですか。この「門」はイエスの追随者の前に永遠に閉じられているのではありません。それで黄泉は「帰らざる国」とはならないでしょう。それはなぜですか。それはのちにイエスが,聖書の巻末の黙示録 1章17,18節において年老いた使徒ヨハネに言われたことのためです。復活して昇天したのちのイエス・キリストは,ヨハネに次のことを言われました。「恐れるな。わたしは初めであり,終りであり,また,生きている者である。わたしは死んだことはあるが,見よ,世々限りなく生きている者である。そして,死と黄泉とのかぎを持っている」。天のイエス・キリストは死と黄泉のかぎを持っているゆえに,「黄泉の門」を開いて,その中に死んでいる会衆を外に出し,再び生命を与えることができます。
23 イエスの約束によれば,イエスは何時,黄泉に勝ちますか。
23 この事を知っておられたので,イエスは黄泉の門がご自分の会衆に勝つことはないと言われたのです。イエスは黄泉に勝ち,ご自分の会衆を黄泉から解放します。ヨハネ伝 6章39,40節において,イエスはこの事をはっきり約束しました。「わたしをつかわされたかたのみこころは,わたしに与えて下さった者を,わたしがひとりも失わずに,終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは,子を見て信じる者が,ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして,わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
24 (イ)聖書の中で黄泉と結びつけられているのは,どの言葉ですか。(ロ)詩篇 16篇10,11節によれば,イエスは死んだとき,どこに行きましたか。
24 クリスチャン・ギリシャ語聖書中に黄泉という語は10回でていますが,興味深いことにそのいずれの場合にも,「死」という言葉が一緒に使われています。(黙示 1:18。6:8。20:13,14)それで黄泉と結びついているのは死であって,生命ではありません。これに関連して次の質問が出ます。イエス・キリストご自身が死なれて,その友アリマタヤのヨセフの墓に葬られたその日に,イエスはどこに行きましたか。(マタイ 27:57-61)この事について真実を語る資格のある人は,イエスと親しく交わった使徒ペテロです。イエスが死んで葬られてから51日後の五旬節の日に,ペテロをはじめ,イエスの他の弟子たちは神のみ霊を注がれました。そこで神のみ霊に感じたペテロは詩篇 16篇10,11節を次のように引用しています。「あなたは,わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず,あなたの聖者が朽ち果てるのを,お許しにならないであろう。あなたは,いのちの道をわたしに示し,み前にあって,わたしを喜びで満たして下さるであろう」。ペテロの引用したこの言葉を書いたのは,やはり霊感された神の預言者ダビデ王でした。
25,26 五旬節の日,ペテロはダビデとイエスについて何と語りましたか。
25 神のみ霊にみたされた使徒ペテロは,五旬節の祭りのために集まった何千人のユダヤ人にむかって,次のことばを述べました。
26 「兄弟たちよ,族長ダビデについては,わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ,現にその墓が今日に至るまで,わたしたちの間に残っている。彼は預言者であって,『その子孫のひとりを王位につかせよう』と,神が堅く彼に誓われたことを認めていたので,キリストの復活をあらかじめ知って,『彼は黄泉に捨ておかれることがなく,またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。このイエスを,神はよみがえらせた。そして,わたしたちは皆その証人なのである。それで,イエスは神の右に上げられ,父から約束の聖霊を受けて,それをわたしたちに注がれたのである。このことは,あなたがたが現に見聞きしているとおりである。」「事実ダビデは天に上らなかった。しかし彼自身語っている,『エホバはわたしの主に言われた,わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで,わたしの右にすわっていなさい』。」「だから,イスラエルの全家は,この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが〔杭〕につけたこのイエスを,神は,主またキリストとしてお立てになったのである」― 使行 2:27-36,一部は新世。
27 どのようにしてイエス・キリストは,ご自身の会衆を黄泉から復活させることができるようになりましたか。
27 霊感によって語ったペテロは,主イエス・キリストに関し,イエスが「黄泉に捨ておかれ」なかったこと,また詩篇 16篇10節の成就するため,その魂が黄泉に捨ておかれなかった事を明白に述べています。それでイエスが死んで記念の墓に葬られたとき,その魂は黄泉にあったのです。三日目に全能の神はイエスを黄泉から復活させ,復活したのちのイエスに「死と黄泉のかぎ」をゆだねました。ゆえにイエスは,黙示録 1章18節において,「わたしは死んだことはあるが,見よ,世々限りなく生きている者である。そして,死と黄泉とのかぎを持っている」と言うことができたのです。これらのかぎを持っているために,イエスはご自分の会衆をも含めて,黄泉に死んでいるすべての者をよみがえらせることができます。f
28 (イ)五旬節の日,詩篇 16篇10節を引用したペテロは,どの言語で語りましたか。(ロ)それで聖書の黄泉が何であり,どこにあるかを,どのように見出しますか。
28 ヘブル人すなわちユダヤ人であった使徒ペテロは,五旬節のその日,ヘブライ語で語ったに違いありません。そこで詩篇16篇を引用したときにペテロが使ったのは,ヘブライ語聖書をギリシャ語に訳した七十人訳ではなくて,ヘブライ語の聖書でした。それでペテロはギリシャ語の黄泉(ヘーデース)を使わず,ヘブライ語聖書の言葉,陰府(シェオール)を使いました。実は黄泉(ヘーデース)は,七十人訳においてヘブライ語陰府(シェオール)をギリシャ語に訳した言葉なのです。g 霊感されたヘブライ語聖書中,陰府(シェオール)という語は,ペテロの引用した詩篇 16篇10節をも含めて63の聖句中に65回出ています。ヘブライ語聖書の詩篇 16篇10節は,「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず,あなたの聖者に墓を見させられないからである」h となっています。従って陰府(シェオール)が何であり,どこにあるか,また陰府(シェオール)にいる人々がどんな状態にあるかを知るならば,聖書にいう黄泉(ヘーデース)が何であり,どこにあるか,また黄泉(ヘーデース)にいる人々がどんな状態にあるかを同時に知ることになります。
[脚注]
a ローマ人の宗教においてヘーデースに相当する神は,下界の神プルトーでした。死者の神としてのヘーデースの名は,「霊界をつくる神」という意味です。それはこの神が,死んだ人間を見えない者に変える力を持つからです。―マクリントック,ストロング大百科,第4巻9頁,ヘーデースの項。またリデル,スコット希英辞典,第1巻21頁2欄の項。1948年版。
b 「大いなるバビロンは倒れた。神の国は支配する」,43頁2,3節
c イエス・キリストの言われたこの言葉についてくわしくは,1965年3月1日号「ものみの塔」にある記事「墓から生命によみがえる」および「墓からさばきによみがえる」をごらんください。
d ゲルハルト・キテル編ドイツ語版。ジオフレイ・ブロムレイ英訳1964年版。オランダで出版されたもの。
e 最古のギリシャ語写本中には,コリント前書 15章55節にヘーデース(黄泉)の語がなく,代わりにサナトス(死)の語がそこに使われています。
f ルカ伝 16章23節にある黄泉の説明については,1965年5月15日号「ものみの塔」295頁11節をごらん下さい。
g ギリシャ語七十人訳に黄泉(ヘーデース)の語は,73回出ています。
h 新世界訳,アメリカ標準訳,ヤング訳,改訂標準訳,アメリカ訳。しかしロザハム訳は陰府(シェオール)のかわりに黄泉(ヘーデース)。
[263ページの図版]
復活したイエスはパウロにあらわれる