神の道は愛なり
『神は愛なり』ヨハネ第一 4:16。
神を畏れるあなた方読者は,この記事に用いられている凡ての聖句がカトリツク版の聖書から引用されているのみにお気付きになり,興味を抱かれることでしよう。ここに,主に引用されている公認のカトリツク版は,新約聖書,ラゲ訳と旧約聖抄,萩原訳との二つです。聖書の英語カトリツク版 ― 即ち,ドウエー版とノツクス版からの日本語訳も,亦数ヶ所に於いて用いられています。
聖なる言葉に就いての,これらカトリツクの翻訳が,新教の翻訳と共に,神の驚嘆すべき業をどのようによく示しているかに,あなた方は気付かれてお喜びになることでしよう。その神の業こそ,『神の道は愛なり』ということを証明して居るのです。そして神の御準備を通じて,忠実な人類に対して,どんな祝福が待ち設けられているかをあなた方は悟らるれことでしよう。若しお持ちでしたら,手許にある貴方の聖書を開きながら,ここに印刷されてある講演をお読み下さい。
この講演は,よく宣伝されていた公開の集会に於いて,ワツチタワー協会の会長によつて為されたものであり,同時に,よく知られたニユーヨーク放送局からも放送されたものです。
1 (イ)神の約束の者は誰でしたか?(ロ)彼は遙か昔に生れましたから,人々は今日どんな質問をしますか?
人類を造り給うた至高な神は,我々に書き記された御言葉,即ち聖書を与えました。そして聖書中で多くの問題を説明して居られます。それらの予言は,時いたらば聖者が出て地上のすべての家族を祝福すると告げました。その約束の者は,イエスキリストでありました。人間は罪と不義の中に孕まれたのです。その人間は,今日次の様に不思議がつて居ます ― 今日あの約束の方イエスキリストが生れてから非常に長い期間を経て居るのに,どうしてこんなにも困難が多いのでしよう? どうしてこんなにもきびしい苦しみ,病,悲しみが人々の間に存するのでしよう? 世の中は何故こんなに極端な我慾と不満で満たされて居るのでしよう?―。人類は祝福を望み,それを追い求めて居ります。それ故彼らはこう尋ねます ―『若しイエスキリストが神の約束の裔であり,すべての国民に祝福をもたらす者であるならば,現在何故それについて何らの手もうたれないのだろう?』と。あなた方は,それがどうしてであるかを聖書から理解する為に,どうぞ聖書を読んで下さい。
2,3 (イ)この約束の方は,何処でどの様にして生れましたか?(ロ)処女マリヤは,彼女が約束の方を生むということを,どうして知りましたか?
2 19世紀余り前,イエスキリストはベツレヘムに於いて誕生しました。彼は神の非常に深く愛しみ給うた処女,マリヤより生れました。地上に於いて嘗て起つたことのない程素晴しい事柄が生じました。その一つは,処女からの男子誕生という奇蹟でした。天の御子の生命を処女の胎内に宿し,時いたつて約束の裔を誕生させたのは天にある全能の神でした。神は聖霊によつてそれを遂行されました。神の予言者イザヤはこれについて次の様に予言しました。『故に全能者,自ら汝等に一つの兆を与え給わん。即ち,見よ,一人の童貞女が,一人の男の子を孕みて子をうまん,彼をインマヌエルと名づくべし。』(イザヤ 7:14,荻原訳)イエスの母はダビデ王の系統でしたからダビデ王の世嗣を生むことが出来ました。彼女は,約束の裔を生む者に撰ばれた処女でした。そして彼女はこの事を知つて居ました。何故なら,主の御使ガブリエルが彼女を訪れ,次の聖書記事の如く告げたからであります。
3 『天使云ひけるは,懼る事勿れ,マリア,汝神の御前に恩寵を得たればなり。然て汝懐胎して一子を生まん,その名をイエスと名くべし。彼は,偉大にして高最き者の子と称へられん。又主なる神之に其父ダビデの王座を賜ひて,ヤコブの家を限りなく治め,其の治世は終なかるべしと。マリヤ天使に云ひけるは,我夫を知らざるに,如何にしてか此事あるべき。天使答えて曰く,聖霊汝に臨み給ひ,最高き者の能力の蔭汝を覆はん,故に汝より生るべき聖なるものは神の子と称へらるべし。』― ルカ 1:30-35,ラゲ訳。
4 その様にしてイエスが生れたのは,二つのどんな目的の為ですか?
4 この素晴しい奇蹟は,神の約束の成就として為されたのです。即ち処女が神の子を生むという約束の成就であります。そして,神のもう一つの約束も亦,成就するでしよう。即ち『彼の国は終ることなかるべし』という御約束です。では,神の子は何故その様な方法で生れたのでしよう? それは,先ず第一に,天のみ父即ち至高い神の御名,み言葉,み国を知らせる為でした。イエスは伝道して居られた時,御自分で正にその事を語り告げました。『誰も嘗て神を見奉りし人はあらず,父の御懐に在す独子の自ら説き顕わし給いしなり』(ヨハネ 1:18,ラゲ訳)そうですとも,此の御子は嘗て人間に生れる前,み父と共に住んで居たのです。この御子こそ,天より地にうつされ,『天使たちより少々卑くされたのです。それは我らに御父よりの明らかなお告げを伝える為でした。彼はみ父を知つて居りました。そして,我々が父を知り得るのは,み子が父と共に居た為であります。何故なら,御子は父に祈つて次の様に申しました。『我は地上にて汝に栄光あらしめ,我に為さしめんとて賜し業を全うせり。父よ,世界の存在に前立ちて我が汝と共に有せし光栄をもつて,今汝と共に我に光栄あらしめ給へ。我は,この世より選みて我に賜ひし人々に御名を顕せり。彼等汝のものたりしに之を我に賜ひ,彼等は汝の言を守れり。』(ヨハネ 17:4-6ラゲ訳)この様に,地上に於けるイエスの第一の目的は,父の御名,み言葉,御国を知らしめることでありました。第二の目的は,人類の為,贖いの犠牲を備えることでありました。
5 神がこの様にして人類に示した大きな属性は何ですか?
5 イエスはそれら二つの目的を遂行しましたが,それは我々すべてにとつて大きな祝福であります。それ故神のこの賜物,即ち,神がそれらの目的の為に御子を世に遣し給うたことは,我らに対する神の大きな愛を示して居ます。そして,神の道は愛であるという事を証明して居ます。神は人類に対する愛を繰り返し幾度も表明してまいりました。そして,今日の人々が,神の行動は遅すぎると言つて居るにも拘らず,神は絶えず人類を祝福する為に準備されて居ます。然しながら,我々は,神が我らの為既に何を為し,今何を為して居り,今後更に何を為されるかを一層深く究めるだけの忍耐力を持つて居るでしようか? では次を読みましよう。
6 それなら,神の道は何ですか? 我々はどの様にして神を知つて居る事を証明しますか?
6 使徒ヨハネは,イエスキリストと共に歩んだ経験を通じて,『神は愛なり』と申しました。それは,神の人類を導き,取り扱う道〔方法〕は愛であるという意味なのです。『愛せざる人は神を識り奉らず,蓋神は愛にてまします。神の愛の我等に於てあらわれしは,神が我らをして是によりて活しめんために,其の独子を世に遣わし給いしをもつてなり。愛とはこれなり,即ち我らが先に神を愛し奉りしに非ずして,神御自ら先に我等を愛し給い,我らの罪の為に御子を贖として遣わし給いしなり。至愛なる者よ,神の我らを愛し給いし事斯の如くなれば,我らも亦相愛すべきなり。誰も曾て神を見奉りしことなし,我らにして相愛せば,神我等のうちに止り給いて,之を愛し奉る愛は我らに於て完全なり。』― ヨハネ第一 4:8-13ラゲ訳。
7 我々は,神の御言葉の教えと対照的な,人間の神に関する教えを考えた時,どんな質問をしたくなりますか?
7 神は聖書に記されて居る御自分の約束を果す為に,独子を世に遣し,人間がその創造主を理解し,創造主に近づく助けとしました。神が約束を果す為になされたこの事柄を考えるならば,我々が神は愛であると言わなければならないのは当然です。イエスが我らに教えた道,及び聖書が我らに教える道を考えても,我々は神が愛であることを認識し得ます。然し,神について今日の人々が教えて居る事柄は何と相違して居るのでしよう! 人間のその様な教えを考えた時,そして神が我らの永遠の祝福を考慮してその様なことをなされたと考えた時,我々は次の様に質問したくなります。若し神が愛であるならば,どうして地獄という永遠の苦悩の場所があるのでしよう? そして神の象につくられた何十億もの人間が,どうして死後其処へ行くと言われて居るのでしよう? 其処では,火と硫黄が永遠に燃えつづけて居り,呪われた霊魂が救われることなく絶えず意識し得る苦悩を受けて居ると言われて居ます。また『煉獄』の様な場所さえどうして存在するのでしよう? 霊魂は天国に入れられる前,その煉獄で堪え難い苦悩を受けると言われて居るのです。また,人々の大部分が非常な貧困と失望の中に苦しみ生きて居るのがどうして神の御心と言えるのでしよう? その苦しみが非常にはげしいので,多くの人々は,この地上こそ地獄であると言つて居る程なのです。神が愛であるということは,以上の様な人間の観念や教えと如何に一致するのでしよう? ベレヤに住んで居た,神を畏れ敬う人々は,或事柄に対して使徒パウロの様な者の教を受けた時にさえ,『この事果して然りや否やと,日々聖書をしらべ』たのであります。(使行 17:11ラゲ訳)我々も同様な事をして,ベレヤ人の様にけ高くなれるのです。
8,9 (イ)人間の現在有する艱難の為に,我々は人間の将来についてどんな質問をしますか?(ロ)神が人間より木を愛することはあるでしようか?
8 現在の状態について考えると人間はあわれであります。悲しみのない人が居るでしようか? 人はみな暫しの間生存したかと思うとやがて死んでしまうのです。次に此の世の或教義によれば,人は若し善人でないならば,地獄の火の苦しみを永久に受けなければならないのです。神を愛し神に仕えた辛抱強いヨブはこう申しました ―『婦より生まるる人間は命短かく艱難に満つ。』(ヨブ 14:1荻原訳)人は死んでから,もつとはげしい艱難を受けにわざわざ永遠の苦悩の場所へ行かなくても地上だけの苦悩で充分だと思いませんか? それ故我々は,ヨブが続けて言つて居る事に深い興味をもつて聴きます ―『誠に木には希望ありて,たとい切り倒さるとも,また芽を出して,その若芽は決して絶ゆることなし。その根は,たとい地の中に老い,その切り株は,地下に枯るとも,湿気だにあらばそれは,新しく芽をふきて若き樹の如く枝をいだすなり。されど人間は,死すれば,そは彼と共に消え失せ,人間は,気息絶えなば,彼は何処にありや。』(ヨブ 14:7-10荻原訳)木は神の造つた美しいものです。然し智力はありません。
9 人には智力があります。人は神の象であります。それで,神は人間より木を愛して居られると信ずべきでしようか? 木は切り倒された後にも芽を出して,再び成長するが,人間はそうでない ― それどころか,人間は地上で艱難の多い生活をしたのに,死後もつと神に苦しめられる,と信ずべきでしようか? 我々は誰も死を好みません。若し,我々がただどうしたら出来るかを知つた居さえするならば,我々も緑の木の様に再び芽を出し,心地良い処に住みたいと願うのは当然であります。然し,人間は死んでから何処に居るのでしよう?とヨブが尋ねました。ヨブは,自分が燃えさかる地獄,火の煉獄或は地獄の辺土に居ると信じて居たのでしようか?
10 ヨブは地獄に関して何と祈りましたか? 何故ですか?
10 ヨブは此の『地獄』と言う問題についてどんな事を知つて居たのでしよう? 悪魔サタンはヨブに病をもたらし,そしてその為ヨブの体は腫物でおおわれたのです。其の時,彼は本当に地上で艱難を受けて居る人でした。それ故,地獄に関する一般的教を考えた時,ヨブが神に向つて次の様に言つたのは不思議でありませんか?『願わくば汝われを,地獄に蔵し,汝の震怒のやむるまで我を掩い,我がために期を定め,しかして我を念い給え。』(ヨブ 14:13ド訳)ここに於いて,ヨブは,艱難のあまり自分を地獄にかくして下さいと天の神に祈って居るのです。若し地獄が意識し得る恐ろしい苦悩の場所であるなら,ヨブが其処へ行きたがつたと考えられますか? 確かにヨブは十二分に苦しみました。そして,フライパンから火の中へ跳び込みたいなどと考えたのでありません。まこと彼はその様な事は望みませんでした。然しこの外見上の矛盾を無くする為に,或者は,地獄には至福の場所と苦悩の場所の二部分があるに違ないと想像しました。之と反対に,ヨブはあの様に祈りました。何故なら,ヨブは,神の御準備を知つて居り,又聖書に於ける『地獄』が何を意味するかも知つて居たからであります。ヨブは次の事を知つて居ました。即ち何時か将来に於いて,神はその聖書上の『地獄』へ降つたすべての者を念い給うて,彼らに『義の住む所の』新しい世へ入る機会を与えてくださるという事を知つて居ました。(ペテロ後 3:13ラゲ訳)それなら,その『地獄』とは何でしよう?
11 羊の如く地獄に横たえられる者は誰ですか? 彼らにどんな希望がありますか?
11 詩篇の一記述者は,地獄に関して次の様に申しました ―『もろもろの民よ聞け,賤しきも貴きも富めるも貧しきも凡て地に住める者よ,汝ら耳をそばだてよ。彼らは羊のむれの如く地獄のものと定めらる,死かれらを食らわん,直き者朝にかれらをおさめん,彼らの助力は地獄にて朽ち果て栄光を失わん。』(詩 48:2,3,15,ド訳a)羊は地獄に居ませんが,何百万もの羊が屠られるというのです。その様に多くの人間が,やはり死に,聖書上の『地獄』へくだるというのです。其処では死が彼らを喰い,彼らの助力は朽ち果ててしまうと詩篇記述者が申して居ります。然し次の様に附け加えて居ます。されど神われをうけ給うべければ,わが魂をあがないて地獄の手よりまぬかれしめ給わん』と。―詩 48:16,ド訳。
12 (イ)人間は何故死ななければならないのですか?(ロ)人間が地獄へ行くことが,彼らの霊魂を苦しめる為でないのは何故ですか?
12 詩篇のもう一人の記述者はこう申して居ります ―『誰か生きて死を見ず,又おのがたましいを地獄の手より救いたる者あらんや?』(詩 89:48,ド訳)今日地上に生存して居る人間は,自分自身の力によつても,人の力をかりても,人間の力では決して聖書上の『地獄』からまぬかれる事が出来ません。人間が死ななければならないのは,罪人として生れた為です。我らの先祖アダムとエバがエデンの『楽園』で犯した罪の為,人間は生れながら罪人なのです。そして『蓋し罪の報酬は,死なるに,神の賜は我主イエスキリストに由れる永遠の生命なり。』(ロマ 6:23,ラゲ訳)すべての人は聖書上の『地獄』へ行かなければならないのです。それ故,その事は何らかの方法で人間の霊魂を苦しめる為なのでしようか? この様な事が罪深い霊魂にどうして起り得るでしよう? 神はエゼキエル書 18章4節でこう申して居るのです ―『それすべての霊魂は我に属す,父の霊魂も子の霊魂も我に属すなり,罪を犯せる霊魂は死ぬべし。』それ故聖書によれば,人が『地獄』へ行くという事は,彼が存在しなくなることです。何故なら,彼の霊魂は死ぬからです。そして,暫しなりとも永遠になりとも,彼の霊魂が苦しめられることは全く不可能になります。
13 (イ)若し地獄が苦悩を意味するならば,我々はイエスについて何と論じなければなりませんか?(ロ)ドウェイ訳とノックス訳の比較は地獄を何と示しますか?
13 若し地獄は意識し得る火の苦悩の場所であると論ずる人が居るならば,その人はイエスキリストも亦,罪深い人類の代りになる為にその霊魂苦悩の場所へ行つた,と論じなければなりません。イエスは処女マリヤより生れた神の子なのです。使徒パウロは,イエスの復活について語り,次の様に申しました。『ダビデ彼につきて言う……汝わが霊魂を地獄に棄ておかず,汝の聖者の朽ち果つることを許し給わざればなり………彼(ダビデ)はキリストの復活につきて語れり。それ彼は〔キリスト〕は地獄に棄ておかれず,彼の〔キリスト〕肉体は朽ち果てざればなり。』(使行 2:25-31,ド訳)イエスが3日の間居た聖書上の地獄は,人類共通の墓であります。そして3日目に天の父がイエスを復活させたのはその墓からでした。その証拠に英文ノックス訳は英文ドウェイ訳と異り使徒行伝 2章27,31節で『地獄』という言葉を使わず次の様に言つて居ます。『汝わが霊魂を死の場所に棄ておかず,汝の忠実なる僕の朽ち果つるを許し給わず,彼は先見してキリストの復活につきて語り,彼の死の場所にすておかれず,彼の肉体の朽ち果てぬを言えるなり。』
14 カトリックの権威は『地獄』が一般の墓であることを如何に示して居ますか?
14 死人は,意識し得る苦悩を受けて居るのでなく,眠つて居るのである,と聖書が言つて居ります。死人が聖書上の『地獄』へ行つて苦しめられることは不可能です。何故なら『地獄』と言う言葉は,旧約聖書中のヘブル語『ショオル』と新約聖書中のギリシャ語『ハーディス』から英語の『ヘル』即ち地獄と訳されたのです。そのヘブル語『ショーオル』が65回出て来る中,ドウェイ訳は63回を『地獄』と訳し,『坑』及び『死』と夫々1回づつ訳して居ます。(ヨブ 17:16。ホゼヤ 13:14,ドウェイ訳)然し前10節に引用したヨブ記 14章13節に於いて,ノックスは『ショーオル』を『地獄』と訳さず『墓』と訳して居ます。彼は他の処でもそれを『地獄』と訳さず『墓』と訳して居ます。(創世 37:35; 42:38,英文ノックス訳)この様にして,カトリックの学問も,聖書上の『地獄』が人類一般の墓である事を認めて居ります。
15 地獄にあつて感覚を有する者が居ますか? 聖書は何と示して居ますか?
15 それなら,誰かが死んで地獄へ行つた時,その人は其処にあつて何らかの感覚を有して居るでしようか? 彼に何らかの苦悩を受ける意識があるでしようか? 人の言葉ならず神の言葉はこう答えて居ます ―『生ける者はその死なんことを知る,然れど死ぬる者は何事をも知らず,また応報をうくることも重ねてあらず,その憶えらるる事も遂に忘れらるるに至る。凡て汝の手に堪うることは力をつくして之を為せ,そは汝の往かんところの地獄には工作も計謀も知識も智慧もあることなければなり。』(伝道 9:5,10,ド訳)この聖句に於いてノックスはショーオルを『墓』と訳して居ます。或教師達は人は死後煉獄で苦しみを受けると教えて居ます。そして若し人が煉獄や地獄で生きて居るというならば,その苦難や苦痛を感ずる為には理念や知識や意識を或程度有して居なければなりません。これと反対に,詩篇 145篇4節荻原訳は次の様に明言して居ります。『彼の気息出でゆけば,彼は土に帰り行き,彼の企は,即日亡ぶなり。』詩篇 6篇6節(ド訳)にもこうあります ―『そは死にありて汝をおもいいずることなし,地獄にありては誰か汝に感謝せん?』 聖書によれば,人は死んだ時,考える事や感ずることがなくなり,『地獄』即ち聖書上の地獄へ行きます。其処は,一般の墓であり,復活の時まで其処に眠るのであります。人が,其処で意識し得る休息を楽しむことはないのであります。
16 イエスが死から甦えらせたラザロの体験は,地獄にある者について何を示して居ますか?
16 イエスの友ラザロは4日の間墓に死んで居ました。イエスは弟子達にラザロの死について語つた時,ラザロは眠つて居ると言いました。弟子達はイエスがそう言つたのは,ラザロが末だ死んで居らず単に休息して居ると言う意味なのだと考えました。ヨハネ伝 11章11-15節はこう告げて居ります ―『「われらの友ラザロ眠れり,されど我よび起さん為に行くなり,」弟子たち言う「主よ眠れるならば癒べし」イエスは彼が死にたることを言い給いしなれど,弟子達は寝ねて眠れるを言い給うと思えるなり。ここにイエス明白に言い給う「ラザロは死にたり。我かしこに居らざりし事を汝らの為に喜ぶ,汝らをして信ぜしめんとてなりされど我ら今その許に往くべし」』ここに於いて,イエスは新しい世に於ける復活が何であるかを示す素晴しい機会を得ました。それは実際に死んで墓にあつたラザロを甦えらすことによつてでした。イエスが其処へ着いた時,ラザロの姉妹マルタはイエスにこう言いました ―『主よもし此処にいまししならば,我が兄弟は死なざりしものを。』後にイエスはラザロを墓より甦えらせました。然し,ラザロが地獄で火の苦難を受けたとか,4日間煉獄に居たとか,地獄の辺土に居たとか,或は天使達と共に天国に居たとかいう事を語つた証拠になる記事は,聖書中に少しもありません。確かに,若しラザロが墓以外の何処かに居たのならば,そして,彼の霊魂が生きているまま何処かへ行つたのならば,彼は故郷のベタニの町へ帰つた時にも,その事について知つて居たことでしよう。そして彼はそれを使徒ヨハネに告げたでしようし,使徒ヨハネはそれを彼の書いた聖なる福音書中に記したことでしよう。然し彼はそうしませんでした。それ故ラザロはただ伝道の書 9章10節の言つて居る事を経験したまでのことです。即ち,人が死んだ時行く地獄,即ち墓には,智慧も知識も意識も行為もないという事を体験したのです。
17 死後の霊魂の受ける永遠の苦悩の様なものを神が考えることは,何故決してあり得ませんか?
17 神が煉獄や地獄に於ける永遠の苦悩を期待する様なことは決してあり得ません。神がその様な事を考えることは絶対にあり得ません。神が決してその様なことを考えたことのない証拠は,聖書中に示されて居ます。即ち神は聖書中でその様なことに反対して次の様に申して居ります。『ベンヒンノムの谷に於いてトペテの崇邱を築きて,その子女を火に焚んとせり,我これを命ぜずまた斯ることを思わざりし。』神が御自分のお造りになつた生物に対して,その様な考えを懐いたことは決してありません。それなのに神の背教の民は,自分の息子娘を火の中へ投げいれて,焚き,偽りの神々の偶像に捧げたのです。これを見た神はこう申しました ―『地方の神々此処にその丘陵宮を得,子等達はその神々の栄誉の為に犠牲として焚かれん。こは我が命ぜしことなき儀式にして,我が彼らに課したることも,また想像たることもなきものなり』(エレミヤ 7:31,及び19:5英文ノックス訳)全くです,愛に満ち給う神が,神の象につくられた生き物を苦しめる為,生きながらの人間を犠牲として火に投げ入れるなどと想うことは,決してあり得ないことです。そして,死んだ人間の霊魂を火の中に入れて煉獄の苦難を与えたり,永遠の苦難を与えたりする教理は,愛の神にはさらに考えられません。
18 テサロニケ後書 1章7-9節に於ける如く,聖書中に於いて火は何を示して居ますか?
18 聖書中に於いて,火の話がある場合,それは完全な破滅を示して居り,永遠の苦悩を示して居るのでありません。例えばテサロニケ後書 1章7-9節の聖句の如くです ―『これ主イエスその能力の天使等をしたがえて天より顕れ給う時のことにして,即ち焔の中に於いて,神を知らざる人々,我主イエスキリストの福音に従わざる人々に報い給う時にあたりて,彼等は主の御顔とその能力の光栄とを離れて終りなき亡びの罰を受けん,』ここに於ける滅亡は,害や損傷を与える意味でありません。神が或物を滅亡したり焼いたりする時,神はそれを完全に消滅させるのです。
19 神は誰をにくみ,誰に憐みを示しますか?
19 さて,神が,神をにくむ者を祝福することはありません。詩篇 144篇20節(ド訳)はこう声明して居ります ―『主はおのれを愛しむものをすべて守りたまえど,悪しき者をことごとく滅し給わん。』神の愛の表現は,神の憎む者にまでは及びません。神は神を愛する者に対してのみ憐みを施し給うのです。『我はヤヴエにして汝等の天主,又妬の天主にして,我を憎む者に対しては,父の悪業の罰を,その子等に,その孫にその曾孫にも及ぼし,これに反して,我を愛し,わが掟を守る者には慈悲をその人々の一千人目の血族にまで示す。』(出埃 20:5,6,荻原訳)皆さん,神は神を憎む者に対してのみ,怒りを示し給うと言うことにお気づきでしよう。単に或罪深き状態のもとに或父親から生れたというだけの理由で,神が人間を悪み給うことはありません。すべての成人は,みな自由な道徳的行為者であります。人はすべて,誰に仕えるのか自分で決めることが出来るのです。神は,神をにくみ拒否する者を愛しません。神は,神を愛する何千何万もの人々に憐みを表明されます。ですから神を畏れ神を愛することは大きな価値があります。その事によつて,我々は火の破滅からまぬかれることが出来るのです。即ち神が悪人を滅す火の破滅からです。
愛の表現
20 我々が生存して居るという事は,如何に神の愛の表現ですか?
20 神が今までに為された事,及び将来に於いて為し給うことは,すべて愛のあらわれであります。それ以外のものではあり得ません。何故なら『神は愛なればなり。』我々の存在そのものすら,神の愛の表現であります。神は我らを造り生命を与えて下さいました。『命の泉は御身のもとにあり』(詩 35:10,荻原訳)神は自力存在者であります。神の始りは何時だろうと想像しようとしても無駄です。神には始りがないからです。神には始めも終りもありません。神は,創造を始めないうち,独りで居られました。然し,神はあらゆる物を創造して生み出すことに大きな歓びと幸福とを持ちました。それは,今日我々が自分の周囲に神の創造の素晴らしさを見ることが出来る為にです。すべて神の造られる物は,神に従順である時,神の栄誉と讃美とをもたらします。神は,智力のある地上生物,即ち人間を創造しました。彼ら人間が生きたがる事は当然です。何故なら,神は彼らに生命を与え,更にその生命を保持する慾望をも与えたからであります。単に生存するという事だけでは完全でありません。幸福に生存する事,創造主を讃美する機会のある生活こそ,人類に完全な歓びをもたらすものです。
21 大自然は,創造主が愛の神であるという事を如何に証明して居ますか?
21 我々は,自分の周囲を眺める時,創造主は愛の神であるという事をすべての大自然が証明して居るのに気づきます。神はすべての物を人類の楽しみの為に造りました。大自然のうちに,神の寛大さを見出して下さい。彼は人類の為にあらゆる食糧を備えて下さいました。即ち,我らを活気づける水の外に,果物,野菜,木の実,穀類等すべてを備えて下さいました。我々の生活必需品に関する限り,神は人類に溢るるばかり豊かに与えています。我々が地上の色々な処へ旅行する時,色々異つた種類の食物をみます。それら異つた種類の食物は,みな異つた人々に食べられて磁養となり,どれも食べておいしい物ばかりです。神は,我らの衣類や住宅の必要も考慮して下さいます。神は羊毛を産する動物をつくりました。野原には,着物の原科となる綿や繊維植物を生やし,又住宅用の木材,枝,葉等を産する木を植えて下さいました。動物の皮さえも着物に使うことが出来ます。この様に豊かに,我々は自分の体の保護や着物として必要なものすべてを持つことが出来るのです。人類が為すべきすべては,自分達の才能をいかして,それらの物を正しく用いることです。
22,23 (イ)神は我らにどんな感覚を与えましたか? それはどんな目的の為ですか?(ロ)人間は生命をどの様に楽しめますか? 人間は常に何処に住みたがるでしようか?
22 神が我らにくださつた此の体を考えて下さい。そして人間はその体で何をする事が出来るか考えて下さい。人は見ることが出来ます。同僚を見,有生と無生とを問わず神の造り給うた素晴しい物すべてを見ることが出来ます。感ずることも出来ます。そして物が熱いか冷いかを告げ,たとえ見ることが出来なくても,指で触れて物の形を見分けることが出来ます。神は我らに素晴しい味覚を与えました。我々はどんな物を食べようとも,それを区別できます。たとえ,この食物とあの食物の間に,極く僅かな味の違いしかなくても,我々はそれを区別できます。神は我らに聴覚を与えました。小鳥の歌声に,波のさかまく音に,また様々に聞える風の音に耳をそばだてては,その中に音楽のしらべを感じとることが出来ます。神は我らに聴覚を与えて,我々が愛する者の声を聞ける様にしてくださいました。即ち,兄弟姉妹の声,父母の声,友の声が聞けます。我々には彼らがどんな意味で何と言おうとして居るのか分ります。神は我らに嗅覚をも与えました。それによつて,我々は神のお造りになつた壮麗な花の香,大気いつぱいにひろまる快よい天然の匂,それから我らの食べるおいしい食物の匂を嗅ぐことが出来るのです。
23 これらすべての感覚は神が我々に貴い賜物としてくださつたのです。神は我らの生活に楽しみを増す為に,それらの賜物をくださつたのであり,現在或は今後に於いて苦しみを与える為にくださつたのでありません。それは,神が最初から御自分の生物を愛して居られた事を示して居ます。神のお造りになつた生物は,地上に於いて何とよく生命を楽しみ得るのでしよう! 人間は歩けます,走れます,登れます,泳げます。飛ぶことすら出来ます。然し鳥の様な自然の翼で飛ぶのでなく,機械をつかつてです。そして,人間は神が人に与えた思考の賜物の力によつて,神の自然法則を応用し,空中へ飛びあがれる様にその機械をつくつたのです。これらはすべて神が我れに与えた物であります。我々は自力で発展し進化した生物ではありません。我々は偶然地上にあらわれたのでありません。我々は造られたのです。神のみ力によつて造られたのです。そして我々の持つて居る物は,すべて神よりの賜物であります。愛の神の祝福なのであります。現在,不完全ではありますが,人間は五官を享受し,また住家として此の地を享受して居ます。若し物事が完全で平和に満ちて居るならば,人間は永久に地上に住むことを満足に思うでしよう。今あなた方は満足でありませんか?
24 脳は何をすることが出来ますか? そして神のその賜物は何を示しますか?
24 若し神があなた方の頭の中に入れた脳の働きがないならば,あなた方は本当に自分が生きて居る事も分らないことでしよう。その脳は何と素晴しい器官なのでしよう! それは何と素晴らしい記録をするのでしよう! 現在の我らの短い生存期間に於いても,それは何と感受性にとんで居るのでしよう! それによつて,我々は何と多くの事を想い出せるのでしよう! それは物事を考案するのに何たる想像をするのでしよう! 何と良く論じ得るのでしよう! その脳には意志があり我々に行動させ,或コースを撰ばせます。我々の此の脳には良心があり,その良心は正義の訓練を受くることが出来ます。我々の脳を使用し得る範囲には限りがない様に思われます。それは,科学,天文学,数学或は工学などの研究をすることが出来ます。それは地上の人々の家や,働き場所を作る為に,大きな建物の構造を究め尽くすことが出来ます。それは言語を研究し,工夫し発展さすことが出来ます。我々は人間の脳の為し得ることを一々挙げて,その尽くる所を知りません。何故なら,今日人間は全地に住んで居て,みなその脳を夫々多くの異つた方法で使つて居るからです。即ち,或者は人間の祝福の為に使い,他の者は,悲しいかな人間の傷害の為に使つて居るのです。堕落した人間の脳の使用法がどうであろうと,脳を人間に与えた方は神であり,脳そのものは確かに神の愛のあらわれであります。
25 神は人間にどんな属性を与えましたか?
25 もう一つ重要なことがあります。即ち神は人間に神御自身の属性〔特性〕を与えました。神の属性は愛と智慧,正義と力,であります。神はアダムを創造する時,それらの属性を最初の人間アダムにうえつけました。何故なら神はアダムを御自分の象の如くに造つたからです。『神は愛なり』(ヨハネ第一 4:8)『智慧と権能は神に在り。』(ヨブ 12:13)』正と義にその王座は基されたり。』(荻原訳詩 96:2)『ちからは神にあり,神はひとたび之をのたまえり,われ二次これを聞けり。』(詩 62:12)
26 神は愛をあらわして,人間にどんな物を治めさせましたか?
26 以上の聖句は,神が智慧と愛と正義と力の神であることを証明して居ます。これらの属性は最初の人に完全にうえつけられたのです。若しその属性に全人類が従つて居るならば,今日の地上は,住むに美わしい園となつて居るでしよう。神は人間に愛情あふるる関心を寄せ給うて,彼らに指導力を与えました。それは,卑い動物の世話と,全人類の家族の交際に責任をもたせる為でした。『天主のたまいけるは我らの像の如くわれらに肖りて人間を造らん。しかして彼等に,海の魚,天の鳥,家畜,地の総ての獣および地に匍うあらゆるはうものを治めしめんと。』(創世 1:26,荻原訳)人間を撰んでそれらすべての物を治めしめた神は,寛大であり,愛に満ち給うて居りました。
27 神は人間をどこにおきましたか? そして,人間が孤独な生活をしない様に神はどんな備をしましたか?
27 『天主なるヤヴェは人間をとりてエデンの園の中につれ行き,そのところを耕し,かつ守らしめ給えり。天主なるヤヴェは,人間に命じて,宣まいけるは「なんぢは,園のいかなる樹の果をも食うことを得。ただし善悪を識り別くる樹よりは,その果を食うべからず。汝,これを食わば必ず死すべきなり。』(創世 2:15-17,荻原訳)それから,神は男の助力者として愛らしい完全な妻を与えました。それは人間を全地に満たす為でもありました。『天主はこれらを祝し給い,かつ,天主彼等に宣まいけるは,「生めよ,殖えよ,地に満てよ。それを従わせよ。海の魚をも,天の鳥をも地に動くすべての生けるものを治めよ」と。』(創世 1:28,荻原訳)神の愛の表現のもう一つ! 即ち,神は単に男と女を造つて楽園の家に住ませ,彼らがただ二人,さびしく動物達と生活する様にしたのでありません。全くですとも,神は人間を地上に満たす手段として,人類間に幸福な家庭生活の備をしたのです。神は申しました ―「さてあなた方は繁殖て,此の地上に満ち,地を服従せなさい。子供を生みなさい。そしてあなた方の様に成長させ,彼らにも繁殖させなさい。此の全地が人間で満たされるまでそうしなさい。同時に此の地上を完全な楽園にしなさい。これはあなた方の家なのです」と。確かに造主は,人間を造り地上楽園に住ませて,大きな愛を示されました。
愛の試験
28 神が楽園に禁断の木を植えた事は,人間の幸福と満足が何にかかつて居たと示しましたか?
28 若し人間が引き続き神の愛のうちにあつたならば,今日に於いて,物事は全く異つて居るでしよう。然し,人間は神の愛から離れ,自分自身の道に歩みました。人間がその様なことをしたにも拘らず,神は人類を見すてませんでした。『蓋神のこの世を愛し給えることは,御独子を賜う程にして,是総て之を信仰する人の亡びずして永遠の生命を得ん為なり。』(ヨハネ 3:16,ラゲ訳)然し或人々は次の様に不思議がります ―「では,神は楽園に善悪を知る木をおいたことに於いてはそれ程愛があつたと言えません。此の木や,人間にその果を食べることを禁じた事などは,どうして神の愛のあらわれと言えましよう?』と。然し,人間の為に最も善い物を知つて居られるのは創造主であります。造主は,人間を造り此の地上に置いた御自分の目的を知つておられます。アダムとエバが彼らの家族と共に幸福と満足とを維持できるかどうかは,実に彼らが神の祝福を絶えず感謝するかどうかにかかつて居ました。若し神が一度人間の生活から離れてしまわれたならば,彼らは満足を得ることも,生命を楽しむことも出来ません。何故なら彼らは父の愛を失うからです。そしてその父の愛こそ生活に欠くべからざる物だからです。神が注意を払つて居られた事は,人間が絶えず神のお喜びと祝福とを受け,本当に神を礼拝しつづけることでありました。それ故,それは神の愛,正義,智慧,力,及び神の律法の効力に左右されたのであります。人間の律法によつたのでありません。
29 (イ)人間は自分を支配すべきでしたか?(ロ)そこで神は人間の中に何を見出したいと思いましたか?
29 神は人間が自分を支配する様にはなさいませんでした。神は,地上の事柄一切を処理する為,そして人間に物事を行わせる為に,完全な準備を整えてくださいました。即ち,神が人間に行わせるのに一番善いとお考えの道に沿つて,物事を為させるためです。これはすべて,創造物の祝福の為になされたのです。現在,人間は神の至上権と神の全宇宙支配権を認識感謝すべきであります。若し何らの感謝も表明されないならば,自然その祝福は失われるでしよう。神は人間にこう申しました ―『園のいかなる樹の果をも食うを得。ただし善悪を識り別くる樹よりは,その果を食うべからず。なんぢ,これを食わば必ず死すべきなり。』(創世 2:17,ラゲ訳)この事は神が人間を支配するという事を示して居ります。然しその支配は,権力や強制によるのでなく,また地獄の火の苦悩で嚇すことによるのでもなく,人間の認識と感謝の心に訴え,創造主に対する人間の愛に訴えてなされるのです。神は愛をもつて支配するのです。神が人間に実行する様申しつけた事はただあの特別な樹の果を食べるのでありませんよ,という事だけでした。神が人間のうちに見出だしたいとお考えになったのは,従順でした。
30 人間は感謝したならば,何を為したでしょう?
30 従順は,あなた方を祝福して居られる方の御心を行い,感謝することによつて表現されます。神が人間に望んで居られる事は,人間自身の為になるのです。若し人間が感謝し有難がり,み父に対し愛を懐くならば,神は正に造主のお望みの事を行うでしよう。人間は何を持つて居たでしよう? 神から戴いた物以外何も持つて居ませんでした。そして人間の持つて居た物はすべて,人間の為になる物ばかりでした。それ故,人間は造主に対して愛と感謝の念を持つべきです。人間は,神が人の為に定めた原則を守り固守しなければなりません。人間はエホバ神こそ立法者であり,人のとるべき行動過程を決める方であるという事を銘記しなければなりません。人間はそれらの神の律法と御命令とを尊重しなければなりません。それ故,神は人間を簡単に試験しました。それは,人間の食べる事に関する従順の試験でありました。人間は,単にその禁じられた木から離れてさえ居たならば,神に感謝し神を愛して居た事を表明し得たでしように。
31 エバは誰に聴くことを選びましたか?
31 エバとアダムは神を愛していませんでした。何故なら彼らは,あの木の果を食べたからです。サタンである悪魔は,蛇を通じて自分をエバの前に現わしました。そしてエバは造主を信じないでサタンなる蛇を信じたのです。蛇はエバにこう言いました ―『「天主は,誠に汝の園のすべての樹の果は食うべからずとのたまいしか」と。かの女が蛇に応えけるは,「園の樹の果を我らは食うことを得。されど園の中央なるかの樹の果は,天主のたまわく,なんじら,そを食うべからず,またこれに触るるべからず,これなんじらが死なざらんためなり」と。しかるに,蛇は,かの女に云いぬ,「汝ら決して死することあらじ。なんじら,そを食わば,たちどころになんじの眼はひらけて,なんじらは,天主の如くなり,善悪を識り別くるに至らん。天主は,それをよく知り給うがゆえなり「と。』(創世 3:2-5,荻原訳)
32 アダムとエバは何の欠乏を示しましたか? 何故ですか?
32 エバは,禁断の果を食べたことに於いて,いささかの愛も示しませんでした。アダムも亦,その果を食べることによつて,自分の我を表明しました。彼らの心には少しの愛もありませんでした。神が彼らに与えた素晴らしい物に対して感謝もせず,それを有難いとも思わなかつたのです。彼らは,自ら不従順となり,自分達自身の律法をつくつたり,善悪を自分で決定したりすることを善としたのです。そして,もはや,すべての力と智慧と愛を持つて居られる宇宙の大至上者の御導きを仰ごうとしませんでした。全くです,今や彼らは上手に行動し,自分達自身の律法をつくり,自分達自身による生活をし,神の様になれると考えたのです。ああ,何と愚かなことでしよう! 何故なら,人間は,生命を楽しむ為には至上者の律法と御準備と祝福の方法とを認めなければならないからです。そして,人間がしなければならないと考えて居る事柄は問題でないのです。
33 その時,人類に対する神の愛がうすれなかつた事を神は如何に示しましたか?
33 我らの最初の両親達は,あの楽園に於いて,神に反抗したのです。然し神の愛はうすれませんでした。次のお約束に於いて,神は人類家族に対する,神の愛の道をあらわしました。『なんじ〔蛇〕とかの女の間に,またなんじの苗胤と,女の苗胤との間に,われは敵対をあらしめん。かれはなんじの頭を打ち砕きなんじはかれの踵をいためん」と。』(創世 3:15,荻原訳)そこで神はアダムとエバにその大家族をもうける為に充分な生存期間を与えたのです。神は,アダムの苗胤で神の祝福に感謝する人々の,愛をかち得ることが出来ると承知して居ました。一方,意識的悪人となり,神の律法と御準備通りに住みたがらない人々は,神に滅ぼされるのです。その様な者が,神の女の苗胤によつて祝福されることは永久にありません。彼らは蛇の苗胤として打ち砕かれるのです。
34 アダムとエバはどんな権利を失いましたか? 然し人類の住家に関する,神の目的は,依然として何ですか?
34 不従順となつた為にアダムとエバは地上に住む権利を失いました。彼らは楽園内の家を失い,エデンの園から追放されました。然し彼らの子孫に関して神は約束をしてくださいました。即ち,神の約束の苗胤があらわれて,事態を変化させてくれるであろう,と約束なさいました。人間は現在ほんの暫しの間だけしか生存しませんが,本来神は人間を永久に地上の家に住ませようと準備されたのです。この地は人間の住家として造られたのであり,天でも煉獄でもなく,また永遠の苦悩の場所,地獄でもありません。『主かく宣給う。主は天を創造し,また地をも,己が意のままにつくり成して之を堅くし給えり。主は之を徒然に遊ばすために創造し給わず,人の住所に成し給えり。』(イザヤ 45:18,ノックス訳)神は更に申しています ―『如此わが口よりいずる言葉もむなしくは我にかえらず,わが喜ぶところを成し,わが命じおくりし事のうちに栄えん。』(イザヤ 55:11,ド訳)人間の家である此の地球は,燃え去つて,消滅するのではありません。神は,此の地がいたずらになるとは申しませんでした。神はいたずらに此の地を創造したのではありません。神はそれを人間の住家としてつくつたのです。それが完全な人間で満たされ,それ全体が楽園と化する様につくり給うたのです。詩篇 104篇の5節はこう申して居ます ―『エホバは地を基のうえにおきて永遠にうごくことなからしめ給う』と。伝道の書 1章4節(荻原訳)はつけ加えています ―『人は,去り人は来れど地は永久に存す。』此の地は,人間の住家として永しえに存在するでしよう。そして,時いたらば,神は此の地上に完全な人間を住ませるでしよう。即ち,彼らは歓びと繁栄のうちに永しえに住まわせられるのです。その時,人はみな絶えず神を讃えるのであります。何故なら神の道は愛であるからです。そして神は人間の福利と祝福の為にそうして居られるからです。
愛の賜物,書籍
35 どんな書籍が神の愛の賜物ですか? それはどの様にしてつくられましたか?
35 上記の引用文はすべて聖書から引用したものです。この最も素晴らしい書籍は,神の愛の賜物であります。何故なら,それには神のお約束が記録されて居るからです。それは,神が過去6000年の間,如何に人間と交わり,従順な人々を現代に至るまで如何に祝福し,導いて来られたかを示して居ます。キリスト前の16世紀に於いて,神は聖書をその現在の形に書き始めさせました。それはモーゼの書で始められました。次いで霊感を受けた他の記述者達があらわれ,すべての書は神の導くがままに書かれました。紀元98年頃,使徒ヨハネは,遂に聖書中の最後の書を書き終えました。
36 神の予言者の書に関して,使徒ペテロは何と言いましたか?
36 聖書中,35冊以上の書はキリスト教徒の教会が発足しない中に書かれました。使徒ペテロはそれらの書について語り,次の様に書き記して居ます。『尚堅くせられし予言者の言葉,我らにあり,汝ら之を以つて暗き所を照らす燈とし,夜明けて日の汝らの心の中に出ずるまで之を省みるを善しとす。先ずこの事を知るべし,即ち聖書の予言は総て一個人の解釈を以て解せらるるものに非ず,そは予言は昔人意によりてもたらされずして,神の聖人達が聖霊に感動せられて語りしものなればなり。』― ペテロ後 1:19-21,ラゲ訳。
37 我々にとつて最も善い案内書は何ですか? 何故ですか?
37 さて,これらすべての事柄は,我らの利益となる為に書かれたのです。神は,聖書が保存される様にしました。何故なら聖書は神御自身のものであり,神の霊感によつて書かれたものだからです。従つて,神の御言葉は我らすべてにとつて完全な案内者です。我らは聖書に意を向け,それを研究すべきであります。それは我々を賢くして,救を得させます。パウロはテモテにそう申しました。『幼少より聖書を知ればなり。即ち聖書はキリスト・イエズスに於ける信仰を以つて,汝を救霊の為に敏からしむることを得。聖書は皆神感によるものにして教授するに,勧告するに,譴責するに,正義に於いて教育するに有益なり。これ神の人の全うせられて,凡ての善業に備えられん為なり。』― チモチオ後 3:15-17,ラゲ訳。
38,39 (イ)どんな本が神の目的を啓示しますか? 神は,アブラハム,ダビデ,ダニエルに何を約束なさいましたか?(ロ)御国は人類の為に何を安全にするでしようか?
38 確かに我々は聖書を信頼し得ます。人間の語つた言葉以上に信頼できます。それは神の真理の言葉であります。そして,アダムから現代に至るまでの人間の歴史を示し,更に近い将来に何が起るかも告げて居ります。聖書は,新しい世に対する神の御目的を啓示します。我々は,聖書に意を向ける時,新しい世に関する神のお約束を聞くことが出来ます。その新しい世では,忠実な人類すべてが祝福をうけるのです。大昔のこと,神はアブラハムにこう約束なさいました ―『地のすべたの民は,なんじの子孫によりて,祝せらるべし。これなんじが,わが言葉に聴き従いたる事によりてなりと。』(創世 22:18,荻原訳)アダムは不従順になり,人類のうえに罪と悲しみと死をもたらしました。然し,神は従順なアブラハムに約束しました。即ちアブラハムの苗胤であるイエスキリストによつて,すべての国民が祝福されると約束したのです。後に,神はダビデに人類の支配者を約束しました ―『我汝の後に汝の苗胤をあげて,汝の子らとなさん。われ彼が国をたて,彼は我に家をたてん。我かれが王座をとこしえにたてん。われ彼にとり父となり,彼は我にとり子とならん。われ汝の前にありし者よりとりし如く,彼より憐みをとり去らじ,反つて我が家に彼を住ませ,永しえに我が国にすましめん。而して彼の王座は永しえに堅固からん』― パラリポメノン(歴代上)17:11-14,ドウェイ訳。
39 何世紀か後に神はダニエルに霊感を授けて次の様に予言させました。『これらの諸々の国の日に天の神一つの国を建て給わん,是は何時までも滅ぶること無からん,此の国は他の民に渡されず,却つてこの諸々の国を打ち破りてこれを滅さん。是は立ちて永遠にいたらん。』(ダニエル 2:44,ド訳)これらの聖句は,他の多くの聖句と共に,神が忠実な男女を祝福する為に建て給う国を指し示して居ります。そのみ国は人類を安全に自分の家に住ませるのです ―『かれら家をたてて之にすみ葡萄園をつくりてその果を食うべし………かれらが造るところの果はほかの人くらわず………狼とこひつじと食物をともにし,獅も牛も藁をくらい,蛇はちりを糧とすべし。かくてわが聖山のいずこにても害うことなく,傷ることなからん,これ主のみことばなり。』イザヤは,更に王と王の統治についてこう申して居ます ―『正義をもて貧しき者をさばき,公平をもて国のうち卑しき者のために断定をなし………おおかみは小羊と共にやどり,豹は小山羊と共にふし,犢牡獅肥えたる家畜と共に居りて,小さき童子にみちびかれ,牝牛と熊とは食物を同にし,熊の子と牛の子と共にふし獅は牛の如く藁をくらい,乳児は毒蛇のほらにたわむれ,乳ばなれの子は手をまむしの穴に差し延べん,斯くてわが聖山の何処にても害うことなく傷ることなからん,そは水の海をおおえる如く,主をしるの知識地にみつべければなり。』― イザヤ 65:21-25及び11:4-9,ド訳。
40 み国のもとに於いて,国々間の戦争はどうなりますか?
40 その日に,そのみ国のもとでも国々間の戦争があるのでしようか? ミケアス(ミカ)4章3,4節(荻原訳)に聴いて下さい ―『彼は諸々の民の中にて総ての者を判き,遠きに至るまで,力強き民族の中にありて,正義をのべ給う。彼らはその剣を鋤に,鎗を葡萄の剪枝の刀に作らん。もはや民は民にむかいて剣をふりかざさず,人々は以後戦を習わず。各々の人は,おそるることなく,その葡萄の樹の下に,無花果の樹に住む。そは万軍の主の口,それを約束し給いたればなり。』神の約束の苗胤,キリストイエスこそ,み国を通じて以上の祝福を人類家族にもたららす方であります。即ち神がイエスを王にして建てん,と宣言したみ国を通じてであります。
41 マリヤに語つた天使の言葉の成就は,イザヤ書 9章6,7節の成就に如何に通じましたか?
41 さて,処女マリヤに語つた天使の言葉を想い出して下さい ―『然て汝懐胎して一子を生まん,其の名をイエズスと名づくべし。彼は偉大にして最高き者の子ととなえられん。又主なる神之に其の父ダヴィドの玉座を賜いて,ヤコブの家を限りなく治め,其の治世は終りなかるべし,と。』(ルカ 1:31-33,ラゲ訳)これは,イザヤ書 9章5,6節(荻原訳)の成就でありました。『そは一人の幼児が,我らの為に生れ,一人の男の子が我らの為に賜わればなり。主権は,彼の肩にあり。彼の名は「意見を与うる者の驚異,強き神,永遠の父,平和の君」と,となえられん。その御者は主権の充満にして,その平和は終なかるべし。彼は,ダヴィドの玉座と,その王国を司さどり,彼はそれを固め,又今より永遠に至るまで,正と義とを保持し給うべし。万軍の主の熱誠は,かくの如きことを成し遂げ給うべし。』
42 イエスは弟子達にどんな祈りを教えましたか? そして,その祈りの成就は,この世の国々にとつて何を意味しますか?
42 イエスは,自分がこの新しい世の支配者という高い地位に招聘されたことを知つて居ました。それ故彼は,自分の使徒達にそのみ国を祈り求める様教えました。何故なら,彼らはイエスと共にそのみ国へ入れられようとして居たからです。『み国の来らん事を,御旨の天に行わるる如く地にも行われん事を。』(マタイ 6:10,ラゲ訳)クリスチャンは今日に至るまで,これと同じ祈りをして居るのです。然し,あなた方は,何を祈り求めて居るのか考えたことがありますか? あなた方は,神の御旨が天に行わるる如く地にも行われる様にと天の父に祈る時,実際にはこの地に存する悪い組織すべてを破滅して下さいと祈つて居るのだという事がお分りですか? 何故なら地上の国たみ達は神の御旨を行つて居ないからです。あなた方はダニエルが予言した如く,それら悪い組織が除去されてその代りに神のみ国を来らして下さいと祈るのです。それ故,あなた方は今その祈りをやめてしまいますか? 或はみ国とその祝福をお望みですか?
贖と復活
43 イエスはどの様にして,人間が永遠の生命を得ることが出来る様にしましたか?
43 イエスは,地上に於いて天の父の聖名とみ言葉を立証したばかりでなく,人類の必要とした贖をも備えました。それは,カルヴァリに於ける完全な犠牲としての死によつて備えられたのです。神の律法は,アダムの子孫に罪の宣告を与えましたがイエスは,完全な罪なき人間としての生命を与えて,その宣告を償いました。此の様にして,イエスは,あの反逆的アダムが,末だ生れぬ子孫に関して失つたすべての物を,あの宣言より買い戻したのです。こうして,イエスは人間が永遠の生命を得る事が出来る様にしました。それ故に使徒パウロはこう書いて居ます ―『蓋罪の報酬は死なるに,神の賜は我が主イエズキリストに由れる永遠の生命なり。』(ロマ 6:23,ラゲ訳)アダムが罪の報酬として得たすべては,死であり,火の燃ゆる地獄や煉獄に於ける永遠の生命ではありません。若し,我々が今日イエスキリストを受け容れるならば,キリストを通じて我らに与えられる神の自由な賜物は,新しい世に於ける永遠の生命です。イエスはこう申しました ―『蓋父は生命を己の裏に有し給う如く,子にも亦生命を己の裏に有する事を得させ給えり。且人の子たるにより,審判する権能を之に賜いしなり。汝ら之を怪しむなかれ,墓のうちなる人ことごとく神の子の声を聞く時来らんとす。斯くて善を為しし人は,出でて生命に至らんが為に復活し,悪を行いし人は,審判を受けんが為に復活せん。』― ヨハネ 5:26-29,ラゲ訳。
44 死は誰によつてもたらされましたか? だが,誰を通じて生命がもたらされましたか? 彼はどれ程の間統べ治めますか?
44 ここでイエスは次の様に約束して居られます。即ち,時至らば墓にある者は悉く墓から出て来て或人は生命と新しい世の祝福を得る為に復活し,他の者は審判を受ける為に復活するのです。その審判は或者を滅亡にわたします。何故なら彼らは,その時,キリストの統治する神の国と一致しないからです。生命はキリストイエスを通じてもたらされるのです。それはテモテ前書 2章5,6節(ラゲ訳)に記されて居る通りであります。『蓋神は唯一に在し,神と人との仲裁者も亦唯一なり。是人たるキリストイエスに在して,衆人の己を贖として捧げ給い,時いたりてその証拠ありしなり。』最初の人アダムは,世に罪をもたらし,罪により死をもたらしました。故に彼の子孫である我々すべてに死が及びました。人間キリストイエスはすべての信者に贖を備えました。イエスは,死より復活した後,天の神に贖を献上しました。そして,今や神はイエスが新しい世の王として統治する為,彼を天の王座に着かせました。使徒パウロはこう言つて居ります ―『彼すべての敵を御足の下に置き給うまでは,王たらざるを得ざるなり。最終に亡ぼさるべき敵は死なり。』(コリント前 15:25,26,ラゲ訳)キリストの統治は神の人類に対する愛の表現で,人類の為に用意されたものです。神は生命を愛し給い死を愛しません。死は罪の報酬であります。エホバは,悔い改めて彼に帰る罪人を愛します。最初の人が罪を犯し,エホバに反抗したからとて,神は人類家族に反しません。然し,神は,若し我々が生命を望むならば,我々は神の律法に従い,神の御準備に追従すべきである,と主張なさつて居ます。
何時
45 これらすべては,何時起りはじめますか? 我慾と憎しみは,すべての国々を何に導いて居ますか?
45 或人はこう申します ―「成程,あなたは神の道が愛であると言つて居ます。では何時それらすべての事が生ずるのですか?」と。この解答を得る為に,マタイ伝 24章をごらんになつて下さい。その章は,御国がたてられる時にあらわれる多くの特徴,例えば戦争,疫病,飢饉,地震,クリスチャンの迫害等の徴について告げて居ります。其処でイエスは弟子達に語りました。即ち若しクリスチャンがそれらの事柄が同時に地上に生ずるのを見るならば,此の古い組織制度は間もなく過ぎ去り,新しい正義の政府である神の国が天に打ち建てられたと知りなさい,と申したのです。この神の国こそ,イエスが弟子達に祈り求めなさい,と教えたものです。イエスは申しました『其の時,多くの躓きて,互に反応し互に憎くま……ん。』(マタイ 24:10,ラゲ訳)さて,これこそ,今日の地上に於ける本当の有様ではございませんか? まこと,我慾が支配権をふるつて居ります。これは人が今までに見たことも,これから再び見ることもない程の『大いなる艱難』に通ずるのです。この艱難は,すべての悪と悪を行う国々を破滅してしまうのです。その大艱難の絶頂は,ハルマゲドンの戦であります。法王もこの戦について語る様になつたのです。その戦は,悪魔サタンと共に,あらゆる悪い天使,及びこの悪い制度に仕えて居るあらゆる人間をみな滅しつくしてしまいます。
46 質問ハルマゲドンの戦はどうして神の愛の表現なのでしよう?
46 では,この戦が,神の人類家族に対する愛の表現なのでしようか? そうなのです。神は悪人の死ぬことを少しも喜びません。然し,神が悪人すべてを滅すことは,人類にとつて祝福であります。『主なる神言たまふ。我は活く,我悪人の死ぬるを悦ばず,悪人のその道を離れて生くるを悦ぶなり,汝ら翻り翻りてその悪しき道を離れよ,イスラエルの家よ,汝らなんぞ死ぬべけんや。』(エゼキ 33:11,ド訳)この様に,人が神の命令と御導きに離反することは非常に馬鹿々々しいことです。あなた方は,ただ自分の意志と生活法とを押し通したいと言うだけでどうして死を撰びましよう? 神は,神の御命令に従わない者を,打ちほろぼし,完全にぬぐい去り消滅させるでしよう。これこそ悪人に生ずる事なのです。(詩 144:20,ド訳。テサロニケ後 1:7-9)この様に悪人が滅せられることは,正義を愛するすべての人の為,どうしても必要なことです。その様な悪人を宇宙から抹殺することは,神の正義に対する愛と,人類に対する御親切のあらわれです。
47 神はどんな人で此の地を満たしますか?
47 宇宙の最高支配者は,完全な人類家族で満たされる,完全な地をもたらすでしよう。それなら神が悪人を地上にのこし,地を堕落させる必要がどうしてありましよう。神は愛の表現として,男女の完全な社会を産み出し,幸福と平和と富裕をもたらし,人類の完全な生活に満足を与えようとて居られるのです。神の目的は,この地上を,悪人でなく,幸福な正しい生物で満たすことなのです。
48 ノアの日の洪水は,ハルマゲドンが神の愛の表現であると如何に示して居ますか?
48 ノアの日に於いて,あの大洪水はどうしても必要なものでした。地は悪人で満たされて居ました。何故なら一般の人々は神に反抗したからです。例外は,ノアの直接の家族でした。彼ら8人は正義を愛し正義を宣教しました。人々は,ノアを通じての神の警告によつて心を更え自分を清めようとしませんでした。そこで,神は当時存在した政府もろとも,人々を滅しました。何故なら,神は人を造つたことを悔いたからです。神は人々の堕落した有様を悲しみました。それ故,神は彼らすべてを滅したのです。ノアは神を愛しました。そして神はノアとその家族の4夫妻を愛しました。神は,彼らを,あの古い不敬虔な世の破滅となつたあの災難から護りました。神は,ノアとノアの妻,及び3人の息子とその妻達が幸福に生命を楽しめる様に,最初の世とその世の人すべてを滅さなければなりませんでした。神は再びそれと同じ事をするでしよう。神はそれをしなければなりません。あの大洪水が神の愛の表現であつた様に,神がハルマゲドンの戦を起すのも,愛の表現なのです。それは,正義を愛する人々に,平和な調和した生活を永遠にさせる為,今どうしても必要なのです。
49 人間は,如何にして単なる生存以上の事を知りますか?
49 生命を幸福に楽しむことは,ただ神のもとに於いてのみ出来るのです。我々は今日生きて居ます ― 正にその通りです。然し極く僅かの者しかこの生命を楽しんで居ません。人は生存して居ます。然し,誠実な人が神を知り,神の正しい御命令を守り,神の善い原則に従つて生活する時,その人は,はじめて幸福な生活をするのです。『主の祝福は人を富ます,人の労工はこれを加うるところなし。』(箴 10:22ド訳)我々が祈り求めて居るエホバのみ国は,全地に及び,従順な人類にとつて永しえの祝福となるでしよう。
50 今,ハルマゲドンの到来しないうちに,何が宣べ伝えられなければなりませんか? それは,人間が何を為す為にですか?
50 『全能の神の大いなる日』の戦,ハルマゲドンを前にひかえて居る今日,此の世の破滅と神の国建設に関する善い便りが,地の四方のはて,海の島々にいたるまで宣明されなければなりません。(黙示 16:14-16,ド訳。マタイ 24:14)丁度,ノアが来らんとする大洪水を知り,正義の伝導者となり,当時に於ける救いの便りを宣べ伝えた如く,ハルマゲドンと神の国を知つた者は,証言となる為に『此の福音』を全世界に宣べ伝えなければなりません。主なる神によりたのみ正義と謙遜とを求めない限り,ハルマゲドン戦争の破滅から遁れる道は一つもありませせん。唯これによつてのみ,ノアとその家族があの大洪水を切り抜けたと同様に,『おそらくは主の怒りの日にあたりて,汝らは救を見出さん。』(ソフォニアス(ゼパニヤ)2章3節,荻原訳)神は変りません。神はこの悪い世の終りにあたり,全地にある神の民すべてを保護することが出来ます。
51 神は誰か証人をたてましたか? 彼らの目的と仕事と道は何ですか?
51 それ故,神 は『み国のこの福音』が,もろもろの国たみへの証言となる為に,全地に宣べ伝えられる様にして居ます。この宣教が終了してから,あの終り即ちこの組織制度の全き終りが到来します。神は,御自分の証人(証者)をたてました。それらエホバ神の証者達は,その事に関し非常に熱心です。彼らは,人々が神の道を知るのを望んで居ります。彼らは,み国の善い便りを全世界に宣べ伝えることによつて,神への感謝を表明して居ます。エホバの証者達は,この音信を人々に伝える責任を深く感じて居ます。彼らは政治的でも商業的でもありません。また神無き共産主義の様な偽りの希望には反対して居ます。彼らは天の神を愛し,神と王なる御子イエスキリストに仕えたいと心から願つて居ます。彼らは,他の人々も神を知り神に仕える事を望んで居ります。彼らは,正義を愛するすべての人々を励まして,彼らの伝道する事柄を聖書によつて証明させて居ます。誰でも,聖書 ― カトリック版のであろうとなかろうと ― その聖書を手にして,自分に対する神の御準備が何であるかを,心ゆくまで証明することが出来ます。すべての者は聖書によつて証明すべきです。即ち古代のベレヤ人の為した様にすべきです ―『此処〔ベレヤ〕の人々は,テサロニケに在る者等よりは,高尚にして,熱心に言葉を承け,此の事果して然りや否やと,日々聖書を調べ居たり。』― 使行 17:11,ラゲ訳。
52 我々は,エホバの証者として,基本的どんな事柄を信じますか?
52 我々はエホバの証者として,聖書を通じて,最初の人が罪を犯し,人類家族すべての上に死をもたらしたと信じて居ます。然しエホバ神は人類を愛し給い,人類が新しい世で生命を獲得出来る様に,買い戻しの御準備をして下さいました。神は,世の罪を取り除く為に,み子イエスキリストを与えました。
53 我々は復活,及び新しい世に於ける生命獲得の成功,失敗について,どんな証拠をあげますか?
53 我々は聖書によつて,次の事を学び,また証拠立てます。即ち,復活は神の言葉中に教えられて居る最大教理の一つであり,現在墓にある者は,甦えされて永遠の生命への機会を与えられ,イエスの忠実な追従者の小さい群は,キリストの花嫁として天の生命を獲得し,他の信ずる人々は,地上に復興される楽園で嗣業を受けつぐという事を確信して居ます。神に対する愛を表明し,神の御旨を忠実に行おうと願い求める人々は,永久に生きるでしよう。神の律法に従わない者は,永久に死ぬでしよう。
54 我々はハルマゲドンが来ないうちに,何を求めるべきですか? 何故?
54 新しい世は我々の目前にせまつて居ります。我々は主の怒りの日に救を得る事が出来る様に,ハルマゲドンの来ないうちに正義と謙遜を求めるべきです。エホバ神は彼を愛する者を怒つては居ません。エホバは,悪魔と悪鬼達と,悪魔に仕えて居る地上の民に対して,怒りをあらわします。これら悪い者どもは,神の婦の裔に打ち砕かれ,消滅するでしよう。
55 我々はどんな本を求めて,読み且研究すべきですか? 何故?
55 神は愛によつてすべての事を行われました。神は御目的を聖書中にあらわしました。そして我々の御言葉に信頼できます。聖書は今まで真実であると証明されました。そして,我々は将来に於ける神のお約束に信仰をもてます。幸福な永遠の生命を得る為には,我々は大いなる創造者エホバ神と,その御子を知らなければなりません。それ故にイエスは神にこう申したのです ―『抑々永遠の生命は唯一の真の神にて在す汝と,其遣わし給えるイエス・キリストを知るにあり。』(ヨハネ 17:3,ラゲ訳)カトリック訳聖書でもプロテスタント訳聖書でも一部お求めなさい。その聖書をお読みなさい。そして,あなた方が此の雑誌で読んだ事柄が聖書的真理であるという事を,自ら納得ゆくまで証明なさい。神は,愛をもつて,み言葉である聖書を貴方の為に保存されたのです。ですからそれをお読みなさい。生命と,生命に対する貴方の機会を学び知りなさい。そして神の道は愛であると証明しなさい。
[脚注]
a 標準聖書詩篇 49篇。標準の聖書はカトリツクの聖書よりも詩篇 10篇から147篇迄1篇づゝ進んでいます。