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神の民を導く,賢く,思慮深く,経験のある人々ものみの塔 1979 | 3月1日
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たけています。めいめい弱いところもありますが,それと共に強いところも持っています。もしわたしたちが他の人たちの強いところを高く評価しそれから益を受けるなら,わたしたちも『自分の進歩がすべての人に明らかになるようにする』ことができます。(ローマ 12:3-10,16)知識と洞察力を持つ,謙そんでまじめな,神を恐れるそのような牧者たちの与える助けによって預言の真実性は証明され,今日の神の羊の群れは非常に『多くなってその土地で確かに実を結び』,神のとこしえの誉れとなることでしょう。―エレミヤ 3:15,16,新。
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会衆内で教える者としての資格を身につけるものみの塔 1979 | 3月1日
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会衆内で教える者としての資格を身につける
「あなたがたの中で知恵と理解力のある人はだれですか。その人は,知恵に伴う柔和さをもって自分のりっぱな行状の中からその業を示しなさい」― ヤコブ 3:13。
1 クリスチャン会衆内で教えるものとして仕える人々がその資格を備えていることは,どうして大切ですか。
教える者の影響は,有益であるか,有害であるかのどちらかです。崇拝の問題においては特にそうです。イエス・キリストはパリサイ人を指して,「彼らは盲目の案内人なのです。それで,盲人が盲人を案内するなら,ふたりとも穴に落ち込むのです」と言われました。(マタイ 15:14)パリサイ人の非聖書的な教えに盲目的に従った人々は,霊的破滅と死に向かって進みましたが,神の子の健全な教えに注意を払った人々は,命への道を歩みました。(マタイ 7:13-20,24-27)命が関係しているという事実がある以上,クリスチャン会衆内で教える者として奉仕する人々は是非ともその資格のある人々でなければなりません。
2 使徒パウロはなぜ,「すべての人の血について潔白である」と言えましたか。
2 使徒パウロがエフェソス会衆の長老たちに自分について言ったことからわかるように,クリスチャンの教える者は,自分の責任の扱い方いかんによって,流血の罪を負うことにもなれば,流血の罪を免れることにもなります。使徒は言いました。「きょうこの日に,わたしがすべての人の血について潔白であることに関して,あなたがたに証人となってもらいます」。(使徒 20:26,27)エフェソス会衆のどの長老がいつ不忠実になって聖書を曲げ始め,自らの霊的破滅に向かおうとも,また仲間の信者に害を及ぼそうとも,それをパウロの責任にすることはできませんでした。(使徒 20:29,30と比較してください)流血の罪は彼ら自身が負うことになったでしょう。使徒は「神のみ旨をことごとく」伝えるべく全力を尽くしたからです。救いに必要なことは何一つ控えることなく伝えました。耳をくすぐるとか,間違った態度や言葉や行動を強力に暴露する話題を避けるなどして人気を得るようなことは,彼の望むところではありませんでした。―テモテ第二 4:3,4と比較してください。
3 パウロの模範を見て,わたしたちは会衆内で人々を教える資格を持つ人にどんなことを期待しますか。
3 クリスチャン会衆内で人々を教える資格のある
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