「奉仕者」であるとはどういう意味ですか
1,2 (イ)いろいろな国で,「奉仕者」という語は何を思い起こさせますか。(ロ)この語の現代的な用法につき,初期の用法と比較してどんなことに注意する必要がありますか。
あなたは「奉仕者」という語をどこかの国のことばで見たり聞いたりするとき,何を思い浮かべますか。ある国々の言語では,これに相当することばは,「法務大臣」とか「総理大臣」といった,政治上の要職にある人しか指しません。しかし,(この語の語源である)ラテン語を基礎とする,あるいはラテン語の影響を強く受けている言語を持つ国々では,「奉仕者」という語はまた宗教人,一般にはプロテスタントもしくは福音派の僧職者を思い起こさせます。
2 実際,今日用いられている,そしてほとんどの人が考えている「奉仕者」という語の意味は,西暦初期の世紀にこの語が有していた意味とはかなり異なっています。また同様にこの語は,ギリシャ語ディアコノスが種々の言語でたいてい「奉仕者」と訳されているのに,霊感によって書かれた聖書の中で用いられているディアコノスの意味とはかなり異なっています。その違いはどんなものでしょうか。またどのようにして生まれたのでしょうか。
3,4 (イ)ラテン語ミニステルの本来の意味は何でしたか。それで聖書の翻訳の際にこの語はどのように用いられましたか。(ロ)この語の用法にどんな変化が起こりましたか。それはどんな状況が原因となりましたか。
3 西暦初期の世紀において,ギリシャ語ディアコノスとラテン語のミニステルは基本的に同じもの,すなわちしもべを意味しました。従者,給仕その他,個人のしもべがそれでした。したがって聖書がラテン語に翻訳されるようになったとき,ディアコノスを訳すのに選ばれた語は,たいていミニステルでした。しかしやがて,当初用いられていたとおりの,へりくだって仕えるという概念はこの語からしだいに失われていきました。それは,真のキリスト教に対する背教が生じたことに少なからぬ原因がありました。
4 使徒パウロは,エフェソスの長老たちに話した際,わたしが去ったあと,「圧制的なおおかみがあなたがたの中に入って群れを優しく扱わないことを,わたしは知っています。そして,あなたがた自身の中からも,弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事がらを言う者たちが起こるでしょう」と,前もって警告しました。そのような利己的な者たちは,「受けるより与えるほうが幸福である」という原則にのっとって物事を行ないませんでした。(使徒 20:29,30,35)彼らの行ないは,彼らが神のしもべではなく,神の敵のしもべであることを表わしました。―コリント第二 11:12-15,行間。
5 聖書が予告していた背教はどんな結果を招きましたか。それはクリスチャン会衆の指導管理にどんな影響を及ぼしましたか。
5 この予告されていた背教こそ,最後にキリスト教世界を,その多くの教派ならびに僧職者・平信徒の区別とともに生み出したものです。しかしながら,初期の会衆にはそのような区別はありませんでした。マクリントックとストロングの百科事典(第8巻,355,356ページ)は,「長老」に関して次のように述べています。
「彼らの最初の任命方式に関しては明確な説明がなされていないので,……ユダヤ人の間に見られる長老制からある程度類推して,年功の尊重による指名という自然の方法が取られたものと推論するほかはない」。
同百科事典はさらに,後日使徒たちは長老たちを「承認した。ことによると任命したかもしれぬ」と述べ,次のようにつけ加えています。
「すべての長老団において,全体を指導管理するための主宰の職もしくは首位の職の必要が存在した。そこで長老団の中の一人が,年功によってか,または正式の選択により,長老団ならびにその下の会衆の監督(エピスコポス)として奉仕すべき,プリムス・インテル・パレス[同等の者たちの間の主要な者]として指名された」。
また同百科事典は,監督の地位について次のように述べています。
「この職はもともと,同じ教会もしくは管区内の数人の長老が交替で務めることのできないような性格のものではなかったのであるが,管理が順調に行なわれると,同じ人物が長くその職にとどまる傾向が生まれた。そのために,やがて生涯変わらぬ職となった」。
そのようなわけで,一人の長老もしくは監督が永久的な首位権を他の人々の上に行使し,他の人々にその特権を与えないようになりました。こうして,長老の一団が会衆を導くという形は徐々に排除されました。a
6 (イ)会衆について「君主制形態」の制度という場合,それは何を意味しますか。そのような制度の発達を促したのは何ですか。(ロ)一人の人間に権力を集中することが,信仰と信条の真の一致を維持するクリスチャン的方法である,と聖書は示していますか。もし示していないとすれば,それをするための手段は何ですか。
6 このようにして「君主制形態」の制度,すなわち統治権と種々の特典が,他の者を除外して一人の人物だけに与えられる体制が発達しました。(コリント第一 4:8と比較してください。)ヒエロニムス(西暦四世紀)は,ただ一人の監督(エピスコポス)が首位権を持つようになったのは,「主の実際の任命によるのではなく,むしろ習慣による」もので,分裂を防ぐための一つの手段である,と述べたと言われています。したがって,一人の人間が強大な権威を付与され,その増大した権力によって,異なる意見を持つ者たちをすべて従わせるときに,一致は最もよく保たれるという考えがあったわけです。(サムエル前 8:4-7,19,20と比較してください。)それとは対照的に,使徒ペテロは仲間の長老たちに対し,彼ら相互にゆだねられている群れを牧するよう,「神の相続財産である人びとに対していばる者のようにではなく,かえって群れの模範となり」,へりくだった態度で互いに譲り合うよう勧めました。(ペテロ第一 5:1-6)使徒パウロもまた,監督は,「自分の教えのすべに関して信ずべきことばを堅く守る」ときに初めて,「健全な教えによって説き勧めることも,また,言い逆う者を戒めることもできる」ということを示しています。彼らは,真理と神の聖霊の力に対する信仰を示さねばなりませんでした。―テトス 1:7,9-11,13。テモテ第二 2:24-26と比較してください。
7 背教は,会衆内で責任を与えられている人々に対して用いられる聖書的用語の用法にどんな影響を及ぼしましたか。「監督」に相当するギリシャ語について,このことはどのように真実でしたか。
7 会衆内の責任ある立場で兄弟たちに奉仕する人々に対して用いられた聖書的な用語は,背教のゆえに,やがて異なる意味を帯びるようになりました。「監督」を意味するギリシャ語エピスコポスは本来,牧者のように会衆の霊的福祉に心を配って会衆の利益を見守る,もしくは監督する務めを持つ各長老すべてを表わすものでした。(使徒 20:28)しかし英語の「ビショップ(司教)」(ラテン語エピスコプスを通してエピスコポスより来た)は,広い地域の中の多数の会衆の上に支配的な権力を行使する宗教要人を表わすようになりました。これは,一人の監督すなわちローマの司教が,首位権ならびにあらゆる場所のクリスチャンの監督と会衆全部に対する監督と指導の唯一の権利を主張する教皇制度の発達において,その極に達しました。
8 「ミニスター」という語についても,それによく似たどんな変化が起きましたか。
8 「ミニスター(奉仕者)」という語についても同じことが言えます。ラテン語では,ギリシャ語ディアコノスを訳すのにこの語が用いられました。したがって本来は「しもべ」を意味し,また宗教的な意味では,補佐として一団の長老たちと共に働いた,会衆内の一団の「しもべたち」の一員のことでした。その時以来「ミニスター」は,会衆すなわち教会の上に唯一の完全な統治権を持つ(大きなグループには『補佐の牧師』がいることもある)宗教要人を指すようになりました。したがってその人はその会衆内で神の特別のしもべ(ミニスター)と考えられています。今日多くの国で,「ミニスター」という語は,カトリックの司祭(「司祭<プリースト>」という語は,ラテン語プレスビテルを通して,ギリシャ語のプレスビテロス[長老]から来ている)とは違った者として,ほとんどプロテスタントの僧職者にしか用いられません。例えばラテン・アメリカで,私は「ミニスター」ですというふうに自己紹介するならその人はたいていの場合プロテスタントの説教者,プロテスタントの教会の建物の中の説教壇に立って会衆を教える人と考えられます。
9 「ミニスター」という語が伝える現代的な概念と,西暦初期の世紀にラテン語のこの語が持っていた意味とを比較しなさい。
9 このように,最初は謙そんとへりくだりを表わした語が,地域社会の中で比較的に高い地位を示唆する語となってしまいました。昔ラテン語を話す人が,私はミニスターです,と自己紹介したなら,それはその人が召使頭または女中としてだれかの家のしもべとして働いていることを意味したでしょう。しかし今日では「ミニスター」という肩書はたいていの場合,医師,弁護士,また種々の分野の専門家に匹敵する立場をその持ち主に与える,この世的にかなり著名度の高い,信望のある肩書となっています。これは,イエスのことばの引用の中で用いられているディアコノスの意味とは非常に異なっています。前の記事で見た通り,イエスのことばの中では,ディアコノス(しもべもしくは奉仕者)は「奴隷」と並べて置かれており,『偉い』者または「第一」の者と見られていた人々とは反対の者とされています。(マタイ 20:26-28)このようにして,ラテン語ミニステルの本来の意味は,「ビショップ」(エピスコポス,監督)の場合と同じく,教会におけるその用い方のゆえに,人々の思いの中であいまいなものになってしまいました。
10 (イ)教会がこのように意味を曲げたので,わたしたち神のことばの研究者は,どうする必要がありますか。(ロ)もし翻訳聖書に,ギリシャ語ディアコノスの訳として「ミニスター」という語が用いられているなら,わたしたちはその語からどんな人を脳裏に描くべきですか。
10 もしわたしたちが神のことばの誠実な研究者であるなら,このことはわたしたちにとってどんな意味をもつでしょうか。それは,翻訳聖書を読むときに「ミニスター」という語に出会うならその都度考えを調整して,この語の本来の意味を思い起こす必要がある,ということです。そうしなければ,わたしたちはイエスの助言の要点や,イエスの使徒や弟子たちが霊感によって述べたことばの要点を理解することができないでしょう。しかし考えを調整するなら,わたしたちは,演説を行なう優れた能力や優れた行政手腕を持つ,立派な服を着た,または正装した人を脳裏に描くのではなく,むしろ,ディアコノスすなわち(この語のラテン語における本来の意味での)ミニスターにもっとぴったりした人,つまり太陽の照りつけるほこりっぽい道を歩いて行く,気どった様のない神のしもべ,または食卓で他の人々に給仕をする,前掛けをかけた人などを脳裏に描くでしょう。―コリント第二 10:10; コリント第一 2:1-5; ルカ 17:8と比較してください。
11,12 (イ)世界的にみて,「ミニスター」が宗教的な意味で用いられている範囲はどのくらいですか。(ロ)「神の目的におけるエホバの証人」という本のドイツ語訳は,この語の翻訳に際して生じうる問題をどのように示していますか。
11 また,次のことは指摘するだけの価値があります。それはつまり,多くの,事実ほとんどの言語に,宗教的な意味での英語の「ミニスター」に相当する語がない,ということです。イタリア語,フランス語,スペイン語,ポルトガル語などのラテン語系の言語には,確かにそのような語があります。しかし,ドイツ語やオランダ語,スカンジナビアの諸言語(ノルウェー語,スウェーデン語,デンマーク語)やスラブ語系の言語(ポーランド語,ロシア語その他),またアジアその他の場所の言語には,「ミニスター」に当たる語はありません。ドイツでは,叙任された僧職者は,「宗教上のしもべ」と呼ばれます。
12 例を挙げますと,「神の目的におけるエホバの証人」という本の英語版は223ページで,「定期的また習慣的に福音を教え伝道するエホバの証人はみなミニスターです」という主張がなされたことに触れています。ドイツ語版では,この陳述の最後の部分が,彼らは「説教者,すなわち聖職者」です,となっており,英語「ministers」が括弧内に入れてあります。(Prediger〔説教者〕またはGeistliche〔聖職者〕[ministers])その同じページの中でこの本のドイツ語版は,「宗教のミニスターたち」という語が用いられている米国選抜徴兵局の手紙を引用する際に,再び「説教者」に相当するドイツ語を用いており,そのあとで,「聖職者」に相当するドイツ語を括弧内に入れています。(“Prediger”[Geistliche])
13,14 (イ)「新世界訳」が,ラテン語系でない,あるいはラテン語の影響を受けていない言語に訳されているところでは,「ミニスター」と「ミニストリー」の代わりにどんな語が使われていますか。(ロ)それらの翻訳は,「ミニステリアル・サーバント」の代わりにどんな表現を用いていますか。
13 他の場合においても同様で,新世界訳聖書がデンマーク語,ドイツ語,オランダ語,日本語などの言語に訳されたとき,英語の「ミニスター」「ミニストリー」そして動詞形の「ツー・ミニスター」が使われている場合はいつでも,それらの言語の「しもべ」とか「奉仕」という意味の語か,あるいは「仕える」という形を用いて訳す必要がありました。
14 例えば日本語の場合は,ディアコノスを訳すのに,奉仕者(「謙そんに仕える人」)という複合語が使われています。「新世訳」の英語版の中に見られる「ministerial servants(奉仕のしもべ)」は,デンマーク語では,「会衆内のしもべたち」という意味のデンマーク語に訳されています。スウェーデン語では「補佐のしもべ」という表現が用いられており,ドイツ語の場合は,直訳で「奉仕職の補佐」という意味のDienstamtgehilfeが使われています。
15,16 (イ)クリスチャンは,ことばをこじつけるのではなく,聖書の用語の用法についてどのような正しい関心を持つべきですか。(ロ)あらゆる国の人々に良いたよりを伝える際,これをどのように示しますか。
15 ことばは,種々の考えを一人の人間から他の人間に伝えるのに用いられる手段にすぎません。大切なのは考えが正しく伝えられることです。とりわけクリスチャンの間では,考えの一致と見解の調和が重要です。霊感を受けた使徒は,コリント第一 1章10節で,「あなたがたすべての語るところは一致しているべきです。あなたがたの間に分裂があってはなりません。かえって,同じ思い,また同じ考え方でしっかりと結ばれていなさい」と述べています。
16 このために,もしわたしたちが,「ミニスター」という語をギリシャ語ディアコノスを表わすものとして見たり用いたりするなら,一般に行なわれている宗教の説教師という考えではなく,へりくだったしもべという聖書的な考えを心に銘記しておくべき理由は一層大きくなります。わたしたちは世界的な会衆の一員ですから,ただ一つのことばを基礎にして,キリスト教についてのわたしたちの考えやキリスト教の標準を公式化しようとは思いません。もしそのことばがある言語に特有のもので,他の言語にないのであればとくにそうです。わたしたちはいつも,理解しやすい,しかも正しい考えを明確に示す表現を用いることに努めています。それらは,可能な限り,そして翻訳が許す限り,あらゆる種類の人々が,住んでいる場所と話す言語とを問わず,容易に理解できる表現でなければなりません。というのは,使徒パウロも次のように言っているからです。「あなたがたも,舌で,容易に理解できることばを出さないなら,何を話しているのかどうして人にわかるでしょうか。あなたがたは,実際には空気に話していることになるのです」― コリント第一 14:9。
「叙任」はどこに位置を占めるか
17 「叙任」という語は何を意味しますか。
17 英語で用いられるとき,「叙任」という語は「奉仕の,もしくは聖職者[司祭]の職を授けること。手を置くかまたは他の形でクリスチャンの奉仕の職務に就かせること。叙任式により取り分けること」を意味します。―ウェブスター第三新国際辞典。
18,19 (イ)どんな意味で,キリスト・イエスの真の弟子はみな「ミニスター」と言えますか。(ロ)神の,バプテスマを受けたしもべとなる人はみな,会衆内で奉仕し責任を担う特別の務めに「任命」されますか。
18 キリスト・イエスの真の弟子になる人々はみな神の「しもべ」になります。ラテン語の古い意味によれば,彼らはみな「ミニスター」と呼ぶことができます。なぜならそのラテン語はもともと同じもの,すなわち「しもべ」を意味したからです。しかし,わたしたちが見てきたように,聖書は確かに,幾人かの人々が,特別の奉仕の割り当てにおいて仕えるべく会衆内で『任命』を受けていて,任命を受けたという意味での「しもべ」であることを示しています。長老や補佐のしもべたちの場合がそれです。―テトス 1:5。テモテ第一 3:1-13。
19 それらの人々はバプテスマによってそのような任命を受けるのではありません。使徒パウロは,「だれに対しても性急に手を置いてはなりません」とテモテに書き送ったとき,バプテスマのことを言っていたのではなく,会衆内での奉仕の務めとそれに伴う責任を人々に任ずる行為のことを述べていたのです。(テモテ第一 5:22。テモテ第一 3:1-15と比較してください。)パウロ自身バルナバとともに,特定のわざのために聖霊により『取り分けられて』いました。それでアンティオキアの一団の長老たちは,そのことを認め,『彼らの上に手を置き』ました。―使徒 13:1-5。使徒 6:1-6に記録されている,ある特定の奉仕の割り当てを扱う「確かな男子七人」を『任命』したときの使徒たちの行為と比較してください。
20,21 パウロ,テモテ,そしてアルキポの例は,会衆内のある成員たちが,会衆内で割り当てを受けることにより,任命されたという意味での「しもべ」もしくは「ミニスター」であることをどのように示していますか。
20 それで,真のクリスチャンは(兄弟も姉妹も同じように)みな奉仕しますが,会衆内の特定の奉仕に任命されるのは,その中の一部の人です。といってもそれは,そのような任命を受けていない兄弟姉妹は平信徒級であるという意味ではありません。使徒パウロは,「自分の行程と,主イエスから受けた奉仕の務め[ディアコニア; 奉仕,行間逐語訳; 職務,新英]すなわち……良いたよりについて徹底的に証しすることを全うできさえすれば,わたしは自分の魂を少しも惜しいとは思いません」と言いましたが,その時彼が,自分に与えられた,「[イエスの]名を諸国民」すなわち異邦人「に……携えて行く」特別の奉仕の務めに言及していたことは明らかです。(使徒 20:24; 9:15。使徒 21:19; テモテ第一 1:12; コロサイ 1:25と比較してください。)ローマ 11章13節で彼はこう言っています。「わたしは実際には諸国民への使徒なのですから,自分の奉仕の務め[ディアコニア; 奉仕,行間逐語訳]を栄光あるものとします」― 使徒 1:15-17,20-25。
21 同様に,パウロはテモテに「自分の奉仕の務め[ディアコニア]を十分に果たしなさい[あなたがなすべく召された務めをすべて行ないなさい,新英]」と言ったときにも,エフェソスでテモテにゆだねられていた特別の奉仕の務めのことを言っていました。会衆内のある問題を正すのを助けるべくテモテはエフェソスに残されていました。(テモテ第二 4:5。テモテ第一 1:3,4)コロサイ 4章17節では,パウロはこの「特別のことば」をアルキポに与えています。「主にあって自分が受け入れた奉仕の務め[ディアコニア; 任務,新英]を終始見守り,それを全うするように」。コロサイの他の弟子たちもみな神のしもべでしたが,アルキポは明らかにある特定の奉仕の割り当てを受けたのです。それには長老の一団が手を置くことが伴ったにちがいありません。
会衆内の「叙任された」しもべたち
22 キリスト・イエスとその弟子たちの示した聖書的先例に従うと,「叙任された」という語は,今日この語が有する意味において,だれに当てはまりますか。
22 ではどんなことが理解できますか。イエスには多くの弟子がありましたが,12人を使徒として選び出された,つまり「選び」「任命」された,ということです。(マルコ 3:14,15。ルカ 6:12,13。ヨハネ 15:16)パウロとバルナバは,諸国民に良いたよりを携えて行くべく,アンティオキアの弟子たちの中から選ばれて特別に「任命された」ことをわたしたちは知っています。(使徒 13:47)また,パウロがエフェソスの長老たちに,聖霊が彼らを,会衆内の残りの人々に仕えるべく「任命した」,と話したことも知っています。(使徒 20:17,28)これらの場合いずれも,彼らがバプテスマを受けた時ではなく,バプテスマのあとにそのような任命が行なわれています。それで今日でも,神の民の会衆内には,特定の資格で会衆に仕えるべく任命されている人々(バプテスマを受けてかなりたっているのが普通)がいます。そのように会衆から特別の奉仕の任命を受けた人たちは,叙任という語が今日有する意味において,「叙任された」と言えるでしょう。b
23,24 (イ)政府機関は一般に,「任命された奉仕者」という表現をどのように理解していますか。もし彼らの質問の中でこの表現が用いられたなら,どのように答えるべきですか。(ロ)公の証言が行なわれている地域内の人々を自分の「会衆」と言ったり,人々の家の戸口の登り段を自分の「説教壇」と言うのは適切ですか。
23 以上のことを考えるとき,もしある政府機関が,時々あるように,市民の職業や地位を調べるなら,人はどうすべきですか。彼らは,「叙任された奉仕者」という表現を,任命された管理者,会衆に霊的な物を供給する人,会衆の「牧師」もしくは牧者として行動する人,と理解しています。例えば辞典類は,「宗教儀式を執り行なう権威を持つ者」と,一般に理解されている「奉仕者」に関する教会の定義を挙げています。そのような政府機関は,「奉仕者」という語を使っても,個々のクリスチャンすべてが良いたよりを他の人々に伝えるために個人的に努力を払って行なう奉仕のことを言っているのではありません。それで回答のさいには,そうしたことばに自分自身の定義を付すよりも,当局者が知ろうとしていることに従って適切に答えるのがよいでしょう。
24 例えば人々は,戸別訪問をする伝道者が,わたしの奉仕する「会衆」は,証言の行なわれている地域内に住む人々のことです,と言うとは考えもしないでしょう。ですからその地域内の人々は,証言を行なっている人を自分に仕える「奉仕者」と認める,あるいは受け入れることをしないかもしれません。そして実際に彼ら自身の宗教に所属しているかもしれません。同様に,もしわたしたちが伝道地域内の人々の家の戸口の登り段を,良いたよりを携えて行く人の「説教壇」であると言うとするなら,またたとえ彼が,三分から五分の「聖書の話」と自分で呼んでいるものを話したとしても,彼らはその答えを正しく理解するでしょうか。その「説教壇」というのは,一般の人々が来るように招待されている建物の中の演壇,と普通は理解されているのです。
25 もし会衆内で実際に奉仕の任命を受けているなら,「叙任」された日としてどの日を挙げることができますか。
25 もちろん,正当に権限を与えられている人によって,特定の奉仕を行なう立場に実際に任命されているなら,そのように答え,また「叙任」された日付として,バプテスマを受けた日ではなく,任命権を持つクリスチャンの一団がそのような任命を行なうことによって,事実上『その人の上に手を置いた』日を告げるとよいでしょう。
26 初期クリスチャンたちはみな,会衆内での奉仕の特定の務めに任命されましたか。そのことは彼らの一致に影響しましたか。
26 初期のクリスチャン会衆においては,バプテスマを受けた信者はみな聖霊で「油そそがれ」,天への召しを受けていました。にもかかわらず全部が全部,使徒,預言者,教える者,長老,あるいは奉仕のしもべであったわけではありません。したがって,バプテスマを受けたあと,みながみな特定の奉仕に任命されたわけではありません。それでも全員が,コリント第一 12章12節から30節で使徒が指摘しているとおり,全部が共に協力し「互いに対して同じ気づかいを示す」多くの肢体のある一つの体のように,共に奉仕しました。
27 神および仲間の人間に対する奉仕に関して,わたしたちすべては今日どんな健全な態度を喜んで取るべきですか。
27 それでわたしたちは,特定の奉仕や責任に正式に任じられる資格を持ちそれに任じられていてもいなくても,わたしたちすべてが,この時代に対する神のご意志を成し遂げるために協力して奉仕することができますように。わたしたちはみな,真理を他の人々に語る共通の特権を大切にし,それを熱心に用いて,わたしたちの生活に光と希望をもたらした良いたよりを他の人々と分かち合いましょう。
「目は手に向かって,『わたしにあなたは必要でない』とは言えず,頭も足に向かって,『わたしにあなたがたは必要でない』とは言えません。それどころか,実際には,体のなかでほかより弱く見える肢体がかえって必要なのであり,また,体のなかでほかより誉れが少ないと思う部分,これをわたしたちはより豊かな誉れをもって包みます」― コリント第一 12:21-23。
[脚注]
a ダグラスの「新聖書辞典」(158ページ)も,「ある有能な人物が,長老司教[長老監督]会の永久議長となったとき,地方の諸会衆の中に君主制形態の司教制度[監督制度]が出現した」ことを示唆しています。
またエルサレム聖書も,テトス 1章5節に関する脚注の中で,「最も初期においては,各クリスチャン共同体は長老の一団によって運営された」と述べ,また「一つの集団によって支配されていた地方的会衆が……一人の司教[監督]によって支配される会衆へと変容していった」ことに言及しています。
b 使徒 14章23節は,小アジアの町々におけるパウロとバルナバの働きについて語り,彼らは『彼らのために[各]会衆に年長者たち[長老たち]を任命した』,と述べています。ここで欽定訳は,「任命した」という語に対して「叙任した」という語を用いています。