信仰によって勇気を持ち,強くあれ
「ただ雄々しく強くあって……律法をことごとく守って行い……それは……あなたが賢明な行いをするためである」― ヨシュア 1:17,新世。
1 ユダはどのように悪魔の手先となり,裏切者となりましたか。手ぬかりのない計画を立てたことは何から分かりますか。
西暦33年ニサンの14日,過ぎ越しの晩のことです。その晩おそくエルサレムでは裏切りの計画が進められていました。裏切者は周到な計画をたてました。手ぬかりはありません。満月ではありましたが,あるいは曇るかも知れず,美しいオリブの木の庭で主はその葉陰にすわっているかも知れないと裏切者は考えました。そこでオリブ山の山腹を上る道を照らすため,たいまつが必要です。イエスがオリブ山にいることは間違いありません。裏切者の「ユダは,一隊の兵卒と祭司長やパリサイ人たちの送った下役どもを引き連れ,たいまつやあかりや武器を持って,そこへやってきた」。悪魔の手先であるユダは遂にキリスト・イエスの不忠実な弟子となり,神の子を捕えようとやってきた暴徒の先頭に立ちました。ユダは「その所をよく知っていた。イエスと弟子たちとたびたびそこで集まったことがあるからである」。―ヨハネ 18:2,3,新口。
2 (イ)イエスにとって敵の手に売られたことは,なぜ不意打ちではありませんでしたか。(ロ)敵を目の前にして,イエスはどのように勇気を示しましたか。
2 これはイエスにとって不意の襲撃ではありませんでした。イエスはその晩に裏切られること,その同じ過越の日に苦しみの杭の上で死ぬことをご存じだったのです。「過越の祭の前に,イエスは,この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り,世にいる自分の者たちを愛して,彼らを最後まで愛し通された」。(ヨハネ 13:1,新口)これはその時でした。大勢の人の足音とたいまつの光の近づくのを見て,「イエスは,自分の身に起ろうとすることをことごとく承知しておられ,進み出て彼らに言われた,『だれを捜しているのか』。彼らは『ナザレのイエスを』と答えた。イエスは彼らに言われた,『わたしが,それである』」。(ヨハネ 18:4,5,新口)この事を言うには勇気が必要でした。イエスはそれがご自分の死を意味することをご存じでした。
3 (イ)エルサレムのある2階の部屋で忠実な弟子たちと共にいたとき,イエスはご自分の前途にある出来事を知っていたことをどのように示しましたか。(ロ)ゲッセマネにおける祈りの中でイエスの勇気はどのように示されましたか。
3 それよりも2,3時間前,エルサレムのある「二階の広間」で,イエスは11人の忠実な弟子に新しい事を紹介しました。ユダはそのことを知りませんでした。イエスが次のように言われたとき,ユダはそこにいなかったのです。「またパンを取り,感謝してこれをさき,弟子たちに与えて言われた,『これは,あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため,このように行いなさい』。食事ののち,杯も同じ様にして言われた,『この杯は,あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である』」。(ルカ 22:19,20,新口)御父の御心をなしとげるため,死ななければならない事をイエスはご存じでした。ゲッセマネの庭で切なる祈りを捧げたイエスから「汗が血のしたたりのように地に落ち」ました。イエスは「わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください」と祈りました。(ルカ 22:42,44,新口)この事を祈るには勇気を必要としました。
4 イエスの勇気とペテロの蛮勇をくらべなさい。
4 イエス・キリストは内面的な力を持ち,父なる神に全く信頼していました。それで月明りとたいまつの光の中に進み出て,武器,剣,棒を手にした人々に面と向かい合いました。イエスがご自分のことを告げると「彼らはうしろに引きさがって地に倒れた。そこでまた彼らに,『だれを捜しているのか』とお尋ねになると,彼らは『ナザレのイエスを』と言った。イエスは答られた,『わたしがそれであると,言ったではないか』」。(ヨハネ 18:4-8,新口)イエスは人を恐れませんでした。イエスはエホバに望みをおいたのです。それで物静かではありましたが,勇気がありました。しかしその時にその場かぎりの勇気を示したのは気性の激しいペテロでした。歴史家マルコは次のように告げています。裏切者のユダは「来るとすぐイエスに近寄り,『先生』と言って接吻した。人々はイエスに手をかけてつかまえた。するとイエスのそばに立っていた者のひとりが,剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり,その片耳を切り落した」。(マルコ 14:45-47,新口)その僕の名はマルコスです。しかしイエスはペテロに言われました,「『剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は,飲むべきではないか』。それから一隊の兵卒やその千卒長やユダヤ人の下役どもが,イエスを捕え,縛りあげて,まずアンナスのところに引き連れて行った。彼はその年の大祭司カヤパのしゅうとであった」。―ヨハネ 18:10-13,新口。
5 極度な敵の圧迫の下でも,イエスはどんな行いを拒絶しましたか。また敵の手だてをどのように暴露しましたか。
5 イエスは武器をとって戦うことにより勇気を示したのではありません。また弟子たちがそのような方法で勇気を示すのを望まれなかったのです。それでイエスは,ペテロが切りつけた僕の耳に手を触れて,おいやしになりました。静かな勇気をもってイエスは「自分にむかって来る祭司長,宮守がしら,長老たちに対して言われた,『あなたがたは,強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には,わたしに手をかけなかった。だが,今はあなたがたの時,また,やみの支配の時である』」。(ルカ 22:52,53,新口)エホバ神と神の御子の敵であるサタンは,宮で教えていたイエスを白昼とらえることをしませんでした。サタンは,おくびょう者たちが夜のやみにこっそりまぎれて卑劣なことをするようにしむけたのです。悪魔のように憎しみに満たされている人は光を見ることができません。「『光の中にいる』と言いながら,その兄弟を憎む者は,今なお,やみの中にいるのである』」。(ヨハネ第一 2:9,新口)イエスの言われたことは全く本当です,「今はあなたがたの時,また,やみの支配の時である」。手向かわないためには勇気が必要でした。
6,7 (イ)さばきの場にひき出されたとき,イエスはだれに頼りましたか。なぜ?(ロ)それに反して,イエスの弟子たちはイエスの捕えられたときに何をしましたか。
6 この話の最中にイエスの弟子たちはうしろに退き,「皆イエスを見捨てて逃げ去った」。(マルコ 14:50,新口)しかし人々がイエスを引き立てて大祭司の家にはいったとき,ペテロは遠くからその後をつけて行きました。「シモン・ペテロともうひとりの弟子とが,イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いであったので,イエスと一緒に大祭司の中庭にはいった。しかし,ペテロは外で戸口に立っていた。すると大祭司の知り合いであるその弟子が,外に出て行って門番の女に話し,ペテロを内に入れてやった」。(ヨハネ 18:15,16,新口)しかしこの二人の弟子にはその時イエスの側につく勇気がありましたか。いまユダヤ人の宗教指導者の前にひとり立ち,後にローマの支配者の前に出た時のイエスのようにひとりで立つ力と信仰を持っていましたか。それは彼らにやがて臨もうとしていた試練でした。イエスはその時,勇気をためす大きな試練を受けていました。そして自分とサタンとの間にそのとき行なわれていた戦いを十分に理解していました。イエスはエホバにより頼んだのです。それで生命を愛するすべての人のために正しい手本を残しました。イエスは次のように言うことができました,「勇ましくあれ。心を強くせよ。ただエホバを待ちのぞめ」。―詩 27:14,新世。
7 ニサンの14日のその晩,イエスは11人の忠実な弟子たちに次のことを告げていました,「あなたがたは,わたしの試練のあいだ,わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。それで,わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように,わたしもそれをあなたがたにゆだね……るであろう」。それからイエスはペテロにむかい,次の言葉を言われました,「シモン,シモン,見よ,サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし,わたしはあなたの信仰がなくならないように,あなたのために祈った。それで,あなたが立ち直ったときには,兄弟たちを力づけてやりなさい」。そこでペテロは答えました,「主よ,わたしは獄にでも,また死に至るまでも,あなたとご一緒に行く覚悟です」。しかしイエスは言われました,「ペテロよ,あなたに言っておく。きょう,鶏が鳴くまでに,あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。(ルカ 22:28-34,新口)サタンがすべてのクリスチャンを麦のようにふるうこと,従って弟子たちにはもっと信仰が必要なことを,イエスはご存じでした。弟子たちは助け主すなわち神からの聖霊を必要としていました。イエスはこの助け主を送ると約束しました,「しかし,わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが,わたしが去って行くことは,あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ,あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば,それをあなたがたにつかわそう。それがきたら,罪と義とさばきとについて,世の人の目を開くであろう」。―ヨハネ 16:7,8,新口。
勇気を持つ助け
8 五旬節のとき,勇気を与えるどんな助けが備えられましたか。それはどの預言の成就でしたか。どんな結果をもたらしましたか。
8 のちほど五旬節の日にこの助け主がきて,イエス・キリストの忠実な追随者は聖霊を注がれ,神のこの聖霊に動かされた人々は多くの国の言葉で「神の大きな働き」を述べました。(使行 2:11,新口)これはまたヨエルの預言の成就であると,ペテロは語りました。「『神がこう仰せになる。終りの時には,わたしの霊をすべての人に注ごう』」。むすこ,娘,若者,老人,僕たちに霊が注がれます。ペテロは力強く述べました,「このイエスを,神はよみがえらせた。そして,わたしたちは皆その証人なのである。それで,イエスは神の右に上げられ,父から約束の聖霊を受けて,それをわたしたちに注がれたのである。このことは,あなたがたが現に見聞きしているとおりである」。(使行 2:17,32,33,新口)五旬節のその祭の日にクリスチャン会衆に「加わったものが三千人ほどあった」のです。五旬節の日に人々はこの助け主の力を見聞きしました。今日でも人々はエホバの証者の上に働いているこの力の結果を見ています。
9 イエスの捕えられた夜のペテロの経験は,ペテロが神の助けを必要としていたことをどのように示していますか。
9 イエスが捕えられ,縛られて祭司長の下に連れて行かれたとき,ペテロや他の弟子たちはこの助け主すなわち聖霊の賜物を持っていませんでした。それでペテロはイエスの身を案じながら門の外に立っていたのです。そのとき「門番の女がペテロに言った,『あなたも,あの人の弟子のひとりではありませんか』。ペテロは『いや,そうではない』と答えた」。(ヨハネ 18:17,新口)ペテロは,イエスと同じガリラヤ人であることを人々の前で否定しました。ルカは,身のひきしまるようなこの光景を述べています,「ペテロは言った,『あなたの言っていることは,わたしにわからない』。すると,彼がまだ言い終らぬうちに,たちまち,鶏が鳴いた。主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは,『きょう,鶏が鳴く前に,三度わたしを知らないと言うであろう』と言われた主のお言葉を思い出した。そして外へ出て,激しく泣いた」。(ルカ 22:60-62,新口)ペテロには神の助け,信仰,聖霊,クリスチャン兄弟との交わりが必要でした。他方イエスは天の御父へのすばらしい信仰を示していました。イエスが助けを求めることのできる人は一人もなかったのです。イエスにできたこと,また望んだことはエホバに望みを置くことでした。それでイエスには勇気があったのです。
10 イエスは,弟子たちに臨もうとしていた試練に対してどのように彼らにその準備をさせましたか。イエスが死ぬことはなぜ必要でしたか。
10 イエスは,これらの出来事をすでに弟子たちに告げ,妥協しないクリスチャンの身に何がふりかかるかを警告していました。「わたしがこれらのことを語ったのは,あなたがたがつまずくことのないためである。人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな,それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。彼らがそのようなことをするのは,父をもわたしをも知らないからである。わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは,彼らの時がきた場合,わたしが彼らについて言ったことを,思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは,わたしがあなたがたと一緒にいたからである。けれども今わたしは,わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている。しかし,あなたがたのうち,だれも『どこへ行くのか』と尋ねる者はない」。(ヨハネ 16:1-5,新口)イエスに親しく接して,完全な人であり,神の子であり,メシヤであって数々の奇跡を行なったイエスを目のあたりに見た弟子たちにとって,イエスが苦しみの杭の上で死ぬこと,祈り求めよと教えた永遠の御国を設立するために死からよみがえされることを理解するのは困難でした。しかしイエスはこれらの事をすべて語りました。彼らが聖霊を受けるとき,理解することをイエスは知っていたからです。しかし彼らが聖霊を受けることは,イエスが死んでよみがえされ,御父のもとに上って14万4000人の忠実な追随者のために場所を備えることに依存していました。
11 何のゆえにパウロは上にある報いを得ようと勇気をもって励むことができましたか。
11 天に備えられたその場所を望み見て,使徒パウロは語りました。「目標を目ざして走り,キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」。(ピリピ 3:14,新口)この天の報いを得るために,パウロは勇気をもって走りつづけました。パウロは圧迫されたときにくじけてしまいましたか。ふりかかる患難の下にあって絶望しましたか。彼は次のように答えています,「だれが,キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か,苦悩か,迫害か,飢えか,裸か,危難か,剣か。『わたしたちはあなたのために終日,死に定められており,ほふられる羊のように見られている』と書いてあるとおりである。しかし,わたしたちを愛して下さったかたによって,わたしたちは,これらすべての事において勝ち得て余りがある」。(ロマ 8:35-37,新口)それゆえにパウロは雄々しく励みつづけることができました。
12 (イ)イエスが世に勝ったことは,その追随者にとってどのように力の源ですか。(ロ)それでクリスチャンは他の人に対してどんな態度をとりますか。
12 パウロの信仰は固く,どんな困難にあってもゆるぐことがありませんでした。あなたもそれと同じく強い信仰を持っていますか。パウロは今や自分の経験によって,あの過越の晩イエスが使徒たちに言われたことを会得しました。「見よ,あなたがたは散らされて,それぞれ自分の家に帰り,わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや,すでにきている。しかし,わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。これらのことをあなたがたに話したのは,わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは,この世ではなやみがある。しかし,勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハネ 16:32,33,新口)「わたしはすでに世に勝っている」とイエスが言われたのは,弟子たちもまた勇気を出すならば世に勝つことができるという意味でした。イエスはひとつ心を持ち,人間を恐れませんでした。(詩 86:11)そのようにイエスの忠実な追随者も勇気を持ち,エホバに信仰と希望を置いて強い心を持たなければなりません。キリストの足跡に従って神の御心を行なう追随者のひとりびとりはこのような勇気を持つとき,どんな宗教家,政治家,実業家をも恐れません。その人はエホバの御名にのみ栄光を帰するからです。人を尊敬はしても,あがめたり恐れたりはしません。「人を畏ればわなにおちいる,エホバをたのむ者は護られん」― シンゲン 29:25。
歴史上の手本
13 モーセは勇気のどんな手本を示しましたか。
13 神に献身した人々の生活の中には本当の勇気を示した数多くの手本が見られます。モーセはこのような手本を残した人のひとりでした。イエスが弟子たちに勇気を持てとさとされたように,むかしモーセもヨシュアと全国民にむかって勇気を持つようにとすすめました。パロの前に立ってエジプトにくる十の災を告げたモーセは勇気がありました。そのうちイスラエルの人々をエジプトから導き出し,紅海を渡ってシナイの荒野に導いた時にもモーセは勇気を必要としました。またひとりシナイ山に上ってエホバ神から十戒を授けられ,それらの律法に従ってイスラエル人を導くためにも勇気が必要でした。
14 約束の地を探ったときに,本当の勇気が見られましたか。
14 約束の地の様子をうかがうためモーセの手によって選ばれ,遣わされた12人の間者も,勇気を必要としました。間者たちは北方のネゲブに行き,山地にはいって,土地にどんな人々が住むかを見ようとしたのです。土地に住む人々は強いですか,弱いですか。多いですか,少ないですか。土地は良いですか,悪いですか。間者は町,住居,天幕,城の様子をうかがうはずでした。土地は豊かですか,やせていますか。その中に木がありますか。間者の出発する前にモーセは言いました,「あなたがたは,勇んで行って,その地のくだものを取ってきなさい」。彼らはそうしました。「四十日の後,彼らはその地を探り終って帰ってきた」。(民数 13:17-25,新口)そして何を報告しましたか。その地には乳と蜜とが流れていました。その証拠として彼らは果物をたずさえてきました。これはすべて良い知らせでした。しかし10人の間者はその地に住む人々を恐れました。それで堅固な城壁のある町のことを語り,恐れにおののいた彼らはその地にはいらないようにと告げました。しかしヨシュアのように勇気のあったひとりの間者はこう言ったのです,「わたしたちはすぐにのぼって,攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。(民数 13:30)しかし大多数の間者の報告のためにイスラエル人は恐れました。彼らはエホバ神に信頼を置かなかったのです。彼らはモーセとその兄弟アロンにむかって不平をつぶやき,多くの人は「ああ,わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。この荒野で死んでいたらよかったのに」と言い出しました。―民数 14:2,新口。
15 イスラエル人が約束の地に進み入るのをはばんだものは何でしたか。しかしヨシュアとカレブはどのように人々を励まそうと努めましたか。
15 人を恐れ,カナンの地を所有していた政府を恐れたイスラエル人は前に進むことをためらいました。しかも彼らはその前の年,エホバ神の導きの下にエジプトから救われて紅海を渡ったのです。それはまだ彼らの記憶にあらたなはずでした。モーセとアロンは人々の態度を見てイスラエル全会衆の前にひれふしました。その地を探った二人の忠実な人ヨシュアとカレブはその衣を裂き,「イスラエルの子孫の全会衆に語りて言ふ我等が行巡りて窺ひたりし地は甚だ善き地なりヱホバもし我等を悦びたまはゞ我らをその地に導きいりて之を我等に賜はん是は乳と蜜との流るゝ地なるぞかし唯ヱホバに逆ふなかれ又その地の民を懼るゝなかれ彼等は我等の食物とならん彼等の影となる者は既に去れり且ヱホバわれらと共にいますなり彼等を懼るゝ勿れ」― 民数 14:5-9。
16 イスラエル人は何を欠いたために,荒野でさまよう者となりましたか。
16 これらのイスラエル人が何世紀も後に出たダビデと同じ気持ちを持っていたならば,熱意をこめて「すべてヱホバを俟望むものよ雄々しかれ,なんぢら心をかたうせよ」(詩 31:24)と叫んだことでしょう。そして前進したに違いありません。しかし勇気に欠けた彼らは荒野にとどまり,そこでさまよう者となりました。信仰のない世代が死にはてるまで彼らは40年ものあいだ流浪の民となるのです。勇気を持ったならば征服者となり得たのに,何と面目ないことでしょう。
17 イスラエル人に忠告を与えたとき,120歳のモーはどのように信仰を表わしましたか。
17 反逆した者たちは40年たつうちに死んで,この国民がヨルダン河を渡り,約束の地にはいる時がきました。120歳のモーセにも死期が迫っていましたが,その信仰はおとろえていませんでした。なぜならモーセは確信を抱いてその国民に次の言葉を語ったからです,「汝の神ヱホバみづから汝に先だちて渡りゆき汝の前よりこの国々の人を滅しさりて汝にこれを獲させたまふべしまたヱホバのかつて宣ひしごとくヨシュア汝をひきゐてわたるべし」。イスラエルの新しい世代の人すべてを前に,モーセはきわめて強いさとしの言葉を語っています,「汝ら心を強くしかつ勇め彼らをおそるゝなかれ彼らの前におののくなかれそは汝の神ヱホバみづから汝とともに往きたまへばなり必ず汝を離れず汝をすて給はじ」― 申命 31:3,6。
18 モーセはヨシュアにどんな助言を与えましたか。ヨシユアの勇気ある指導に,人々はどのように応じましたか。
18 モーセは指導者であるヨシュアに親しく次の言葉を語りました,「汝はこの民とともに往き往昔ヱホバがかれらの先祖たちに与へんと誓ひたまひし地に入るべきが故に心を強くしかつ勇め汝彼らにこれを獲さすることを得べし」(申命 31:7)イスラエル人は勇気を示してこの新しい勇敢な指導者に従いましたか。彼らがそうしたことは歴史にしるされています。彼らはヨシュアと共にヨルダン河を渡って進撃し,エホバは敵に対する勝利を与えました。
新しい世を目の前にして勇気を持つ
19 新しい土地に進み入るために,イスラエル人は何を必要としましたか。
19 イスラエルの人々にとってこれは新しい世にはいるにも似たことでした。それは新しい土地であり,荒野ではなくてきわめて良い地,実際にエデンの楽園のような地でした。彼らはその地を得るために努力し,戦うことさえも必要でした。しかし自分たちの力による戦いではありません。神への信仰を必要としたのです。神の僕モーセの語った通りです,「汝の神ヱホバみづから……汝の前よりこの国々の人を滅しさりて……」。
20 (イ)新しい世の希望に関してどんな質問がいまの終わりの時に当然におきますか。(ロ)多くの人は神の新しい世に対する信仰の深さをどのように証明していますか。
20 この組織制度の終結する終りの日において,何人の人が正義の新しい世に進みいる勇気を持っていますか。いったい何人の人が新しい世にはいることを望んでいますか。何人の人は公に,また家から家にそれを伝道する勇気を持っていますか。偉大なるモーセ,キリスト・イエスは地上に約束された土地,新しいエデンの園であなたが生きられるように,あなたのために死なれました。あなたはそのことを信じますか。また正義の新しい世のことをどれだけ信じていますか。宗教的な建物の中で,あるいは心の中で「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように」と祈るだけですか。(マタイ 6:10,新口)何十万人を数えるあらゆる国々の男女は御国を祈り求めるだけでなく,1900年前にイエスとその忠実な追随者のしたように公に御国を語り,実際に御国を宣べ伝えています。あなたもそのひとりですか。
21,22 エホバがヨシュアに与えられたすすめの言葉から,今日の私たちはどのように益を受けることができますか。
21 今日の私たちのためにパウロの書いた言葉を読んで下さい。「これらの事が……書かれたのは,世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」。(コリント前 10:11,新口)エホバから次の言葉を告げられたヨシュアのようにあなたは感じますか。「ただ強く,また雄々しくあって,わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い,これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで,勝利を得るためである。この律法の書をあなたの口から離すことなく,昼も夜もそれを思い,そのうちにしるされていることを,ことごとく守って行わなければならない。そうするならば,あなたの道は栄え,あなたは勝利を得るであろう」。(ヨシュア 1:7,8)信仰と勇気はそのことをする鍵でした。信ずる者すべてが完全な「律法の書」である聖書から離れないならば,今日でも信仰と勇気によって同じことができます。聖書を読みなさい。聖書を学びなさい。聖書に生きなさい。エホバ神と御子を知る知識を得ることをあなたの生命の問題にしなさい。全くそれは生命にかかわることです。―ヨハネ 17:3。
22 エホバ神の教えを離れて右か左に曲がる人は決して賢い行いをすることができません。知恵はエホバ神の授け給うものです。エホバ神はあらゆる知識の源です。今日,人間の必要とする知らせはエホバの御言葉の中に書きしるされています。たしかに多くの人は,聖書を評して時代おくれの本,古代史の本だと言います。はたしてそうですか。あなたの救いはその中に書かれているのです。生命と死 ― あなたはそのいずれを選びますか。今日のたいていの人にとって,聖書をしらべるには勇気が必要です。まして聖書を学んだり,他の人とそれを論ずるにはいっそうの勇気がいります。ヨシュアに対してエホバが「この律法の書をあなたの口から離すことなく,昼も夜もそれを思い」,「勝利を得る」ためにそうせよと告げられたのであれば,今日の私たちが賢明に行なうためにそうするのは是非とも必要です。この世でそのことをするために勇気を持ちましょう。キリストの教えを信じてその通りに生活する人は,たとえ患難にあっても,必要とする勇気を失わないでしょう。「この組織制度の神」サタンは,イエスの友でなかったのと同様にその人の友ではありません。サタンはイエスの敵でした。サタンはすべてのクリスチャンの敵です。しかしクリスチャンは勇気をもってサタンの世に打ち勝つことができます。