聖書は万民救済を教えますか
現在までの約19世紀間,あるクリスチャンたちは,万民救済を教えてきました。東洋にも,すべての魂はついに『涅槃』の境地に達する,と教えている宗教があることから,今日幾億という多くの人々は,この万民救済を信じており,かつこの教は,キリスト前の幾世紀も昔から始まつた,と言うことができます。しかし,神の言葉である聖書は,万民救済を教えますか?
今日の『万民救済教会』は,ほぼ200年むかしの時から始まりました。しかし,万民救済という教えは,最後の使徒が死の眠りについてから程なくして,始まつたのです。ある派の人々は,早くも西暦130年に万民救済を教えました。195年,アレキサンドリアの一教父は,それを教え,そして弟子のひとりであるオリゲンは,その教えを強く提唱しました。神が地獄の火の中で人間を永遠に苦しめ,しかも良い結果がひとつも得られないなどということは到底信ずることができないとオリゲンは考えました。それで,地獄のすべてのくるしみから人は癒され,かつ地獄のくるしみというものは,その目的を達成すれば,直ぐに無くなると,オリゲンは主張しました,『正道から迷い離れたすべての理智の魂は,遅かれ早かれ神と和解するようになる。その進化は長い期間を要し,ある場合には数え切れない程の長い期間を要する。しかし,神がすべてのものの中にあつて,すべてになる時がくる。』
カトリックの神学者たち,特にオーガスチンは,オリゲン主義というものに強く反対しましたが,万民救済という教えを奉ずる人々は,カトリック教会の中だけでなく,キリスト教と称する他の宗教制度の中にも居りました。11世紀には,アルビ教派がその教えを唱え,14世紀にはロラルド派が,そして15世紀には多くの『宗教改革以前の改革者たち』が,その教えを唱えました。多くの牧師たちは,万民救済という教えを説いたため,カトリック制度とプロテスタント制度の如何を問わず,自分の属する宗教制度より破門を宣告されたり,追放されたり,その地位を剥奪されてしまいました。
17世紀の英国では,万民救済という教えを唱えると,その人は異端をひろめる者と見なされ,投獄された時がありました。他の『異端』を唱える者は,死罪に処せられました。17世紀のアメリカ合衆国の宗教的な植民地マサチューセツ州では,万民救済を教えたジョン・ガチェルに次の宣告が言い渡されました。すなわち,『さらし首にして,その舌を引き抜き,赤く熱した鉄を舌に突き差す。』
万民救済を奉ずる大部分の人はある程度は正しいようです。
そのひとりの人は,『悪しき者に対する永遠の罰(くるしみ)は,神の正義を証するものではなく,むしろ神の不正を証するものである』と述べていました。聖書は悪しき者を罰する地獄のくるしみと,人間の魂不滅を教えているのである,と万民教済を奉ずる人々は信じています。それで,地獄のくるしみが,永遠に続くということについて,彼らは疑いの念を抱いています。ある人は,そのような地獄のくるしみは,5万年の終りにくる大ヨベルの時に消滅してしまうと,考えていました。
万民救済という説を裏づけようとしてオリゲンが用いた聖句の中には,コリント前書 15章25,28節(新口)があります,『なぜなら,キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは,支配を続けることになつているからである。……御子自身もまた,万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは,神がすべての者にあつて,すべてとなられるためである。』オリゲンの主張は,こうです,神が遂には,すべての者にあつてすべてとなる,ということから,知性を持つすべての創造物は,遂には神と和解するにちがいない,というのです。
万民救済を裏づけるために用いられている別の聖句は,ピリピ書 2章10,11節(新口)です,『それは,イエスの御名によつて,天上のもの,地上のもの,地下のものなど,あらゆるものがひざをかがめ,またあらゆる舌が,「イエス・キリストは主である」と告白して,栄光を父なる神に帰するためである。』あらゆるものがひざをかがめ,またあらゆる舌が告白する,というのであるから,結局生きている人は遂にはみな神と和解するようになる,と万民救済を奉ずる人々は,主張しています。
そして,彼らは,ロマ書 5章18節(新口)も用います。『このようなわけで,ひとりの罪過によつて,すべての人が罪に定められたように,ひとりの義なる行為によつて,いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。』この聖句に関して,1930年に出版された万民救済派の出版物は,次のように述べています,『この対照は,完全なものである。アダムの一つの罪過は,キリストの一つの正しい行為によつて,相殺されてしまう。アダムの行為は,遂には全人類に影響を及ぼす。それで,キリストの業も,遂には全人類を必らず義とするにちがいない。……アダムの罪過によつて,すべての人が罪を犯す機会だけを持つようになり,ある人は罪人になつて,ある人は罪人にならない,というのであるならキリストの行為によつて,受け入れる人だけが義とせられる,と言うことができる。しかし,人間はみな罪人である。それで,キリストの業によつて義とせられるのも,必至のことである,と認めねばならない。そのどちらも,実際の事柄であり,万民に関するものである。』
聖書の見地
創世記から黙示録までの聖書全部から見て,ある人々が救を得ない,ということは,はつきり分ります。神は罪の宣告をアダムに告げられた時,『あなたは,ちりだから,ちりに帰る。』と言われました。それは,亡びであつて,救いではありません。ソドムとゴモラについては,それらは永遠の裁きの罰を『受け,人々の見せしめにされている。』と聖書に書かれています。ヨハネ黙示録 21章8節(新口)では,すべての悪しき者の受くべき報いは,『火と硫黄の燃えている池である。これが第二の死である。』と書かれています。この第二の死からの復活とか,救についてはなにも述べられていません。―創世 3:19。ユダ 7,新口。
たしかに,キリストは『死の力を持つ者,すなわち悪魔を,御自分の死によつて亡し』ます。悪しき者たちは,『滅びることになつている怒りの器』です。彼らの名前は『腐り』,『山羊』級の人々は『永遠の刑罰』を受けます。辞書によると,亡ぼすということは,無にする,存在を無くす,ということです。また滅亡は絶滅,根絶,全滅を意味します。―ヘブル 2:14。ロマ 9:22,新口。シンゲン 10:7。マタイ 25:46,新口。
万民救済を信じている人々は,神の慈悲ということを強調しています。しかし,神は慈悲を示すと共に,公正ということをも無視せず,人々を選び分けられます。『私は,あわれもうとする者をあわれむ。』『神は悪しき者に対して日ごとに怒りを感ぜられる。』ことさらに悪を行つて,神のいましめに聴き従わない者たちに対して,神は『あなたがたが災にあう時に,笑う』と言われています。―出エジプト 33:19,新口。詩 7:11,欽定。シンゲン 1:24-32,新口。
万民救済という説を奉ずる人々は,偽りの教理をつくり出してしまい,自分たちの信仰と,愛の神とを一致調和させようとしています。しかし,それは間ちがつた行です。愛の神と,永遠苦悩の刑罰ということを結びつけて考えるのは不可能であるため,彼らは限られた期間の刑罰というものをつくり出しました。彼らは苦悩という考えを取り除くべきでした。ところが刑罰の期間を永遠のものにまでひきのばしても良いと考えています。全滅,破滅,絶滅,死滅は,永遠の刑罰です。しかしそれらには,意識を持つ永遠苦悩という考えが結びつかないため,愛の神と一致調和いたします。
彼らがこの間ちがいの考えをつくつたのは,すべての魂が不滅である,という偽りの教えに従つているからです。知性を持つすべての人間は,一度この世に生まれてからは,永遠に生き続けるにちがいない,と彼らは信じています。そして,そのような人間が神により永遠に苦しめられるとは,無益なことであつて,とうてい考えられない故,すべての人は,遂には神と和解するであろう,と彼らは結論しています。
しかし,聖書の何処を見ても,知性のある魂に不滅性があるなどとは書かれていません。かえつて,聖書には,『罪を犯せる魂は死べし。』何人も『おのが魂を陰府より救う』ことができず,そしてキリストは『おのが魂をかたぶけて死にいたらしめ』と書かれています。クリスチャンたちは,不朽性を求めており,復活をうけるとき,不滅性を着せられるでしよう。―エゼキエル 18:4。詩 89:48。イザヤ 53:12。ロマ 2:7。コリント前 15:53,54。
『罪の支払う報酬は死である。しかし,神の賜物は,私たちの主キリスト,イエスにおける永遠の生命である。』(ロマ 6:23,新口)どんな人でも皆生命を頂くというのであるなら,それは賜物でありません。賜物と言うからには,選び分けがなされます。神の言葉の示すところによると,人間の選ぶべき事柄は,生命かもしくは死であつて,幸福の生命か,もしくは苦悩の生命ではありません。『我は生命と死を汝らの前に置けり。』(申命 30:19)もし生命を重んじようとせず,神の正義の律法に従つて生活しようとしないなら,その人は自分の生命を失います。その場合に,神は賢明,公正で,かつ愛であられます。アダムとエバは,生命を重んじなかつたために,ちりに戻りました。同じように,もし生命を重んじないなら,人はみな死滅してしまいます。それは人間の運命です。
神の御予定の時に,悪しき者はみな亡ぼされてしまいます。その故に,その時,生きているすべての人は,神とキリスト,イエスに従い,神は,すべての生ける人々にたいしてすべてのものとなります。そして,どの人も跪き,またどの舌もキリストは主である,と告白します。しかし,その時には,悪しき者の膝と舌は亡びてしまつています。
しかし,ロマ書 5章18節の聖句の示すように,人は必然的に罪を受けついだのであるから,必然的に生命をうけつぐのであつて,どちらもいわば自動的な事柄である,という反論については,どうですか? そのような結論は,創世記から黙示録に至るまでの神の言葉と矛盾しています。正しい行為をする時に生命は得られると,神の言葉は再三再四示しています。永遠の生命は,無理強いにアダムに与えられたのではありません。永遠の生命は,条件づきで,賜物として与えられました。それで,永遠の生命がアダムの子孫に無理強いに与えられる,ということはありません。そして又,聖書の何処を見ても死が賜物であるとは,書かれていません。死は刑罰であつて,死罪に値する者は,とうてい死を避けることはできません。―エゼキエル 18:31,32。
ロマ書 5章18節の意味は,新世訳によつて明白になります。『ひとつの過ちによつて,すべての種類の人々は,処罰を受けるようになつた。それと同様に,ひとつの義の行によつて,すべての種類の人々は,生命を受けるにふさわしい義者である,と認められるようになつた。』ギリシャ語聖書の中で,『すべて』という言葉が時折り用いられていても,それは文字通りに『すべて』という意味ではなく,『すべての種類』という意味です。その例は,使徒行伝 2章17節です。大部分の聖書訳によると,神は『私の霊をすべての人に注ごう』と言われています。しかし,五旬節の時に,神は文字通りのすべての人に聖霊を注がず,ごく僅かな人々だけに注がれました。神は「むすこ,娘,若者と老人,男女の僕たち」に聖霊を注ぎました。それで,新世訳は次のように訳しています,『私のいくらかの霊をあらゆる種類の人々に注ごう。』テモテ前書 2章3,4節(新世)でも,『あらゆる種類の人々が救われるのは』神の御意である,と訳されています。
万民救済の教えの害
今までに生存したすべての人は,遂には神と和解するようになる,という教えは,害をもたらすでしようか? たしかに,その教えは害をもたらします。その教えは,先ず自由な道徳行為者の崇拝をうけるにふさわしい神の栄光を奪い取つています。さらに,その教えは,大論争を無効のものとしてしまいます。神はその大論争のために人類の生存を今まで許しておかれ,かつその大論争に最大のよろこびを感ぜられています。つまり,誘惑とか迫害を通して,人類を欺こうとするサタンのあらゆる手段にも拘らず知性を持つ創造物は,果して忠実を保ち得るであろうか?というのがその大論争です。もし,全人類と,サタン自身も遂には神と和解して,永遠の生命を得るというなら,いつたいどの理由にもとづいて,ヱホバはサタンの注意を,忠実を保つたヨブの行に向けさせたのですか?
万民救済という説は,悪魔の仕かける罠であつて,何をしようとしなかろうと救は得られるという約束をさしのべるため,クリスチャンたちはすつかり安心してしまいます。今日,神が御自分の御言葉の上に照り輝かす真理の光を,以前に感謝して受け取つた者でありながら,なんらかの理由で不満を感じ,自分たちの小さな運動をつくりあげる多くの人々は,この万民救済という説を奉じています。それらの人々は,万民救済説を奉ずることにより,自分自らは意識しなくても,自分たちが忠実を無くしたことを,弁解しています。しかし,イエスが『亡びの子』と名づけられたユダと同じく,それらの者には,救の希望が全くありません。ひとたび啓発を受けながらも,墜落して行くこれらの者たちについて,『ふたたび悔改めに立ち帰ることは不可能である。』とパウロおよびペテロの両人は述べています。―ヨハネ 17:12。ヘブル 6:4-6。ペテロ後 2:4-22,新口。
西暦2世紀から現在の20世紀にいたるまで,多くのクリスチャンたちは,善意の気持から万民救済を教えてきました。しかし,聖書はその説を教えていません。神は愛であると共に公正です。神は,愛の御心から,御自分の条件に従う者たちに永遠の生命を提供し,また公正の御心から,その賜物を拒絶する者には永遠の死を受けさせる,と定められました。