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読者からの質問ものみの塔 1975 | 1月15日
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語ったさい,パウロは,自然かつ現実の事がらを例として取り上げていました。その聖句を広義に取っても,死んだ人は自分の罪から放免されていると言うことができます。
死亡過程自体ではなく,死そのものが,罪の払う相応の値となっています。聖書はこう述べています。「罪の報いは死です」。(ローマ 6:23)このことは,人が死ぬなら,その人はもはやそれまでの罪の記録について責められることはない,という意味です。そして,仮にイエス・キリストの犠牲とその人をよみがえらせるという神の目的とがなかったとすれば,その人が再び命を得ることは決してないでしょう。しかしそれでも,その人は罪から放免された状態にあります。神がその人についてもう一度調べ,罪に対するさらに違った罰を課するということはないからです。
このことは,何かの犯罪行為を犯して服役している人の立場と比べることができるでしょう。ひとたび刑期を終えた後に,その人が同じ犯罪について再び裁判にかけられ,罰せられることはありません。
したがって,死から地上の命によみがえらされた人の場合も,かつてその人を死に定めた罪の記録が再びその人に不利な影響を及ぼすことはありません。刑務所から釈放された人の場合と同様に,その人の前には,法律に従って行動する機会が置かれています。とはいえ,復活を受ける人は依然同じ人間です。死は,その人の人格や罪に走る傾向を変えてはいないのです。復活によって,その人は,アダムから受け継いだ罪と不完全さの影響すべてから全く自由にされた完全な人間になったわけではありません。死んだために義と宣せられたわけではないのです。刑務所から釈放された人の場合と同様,自分の肉の弱さに負けないよう懸命な努力を払わなければなりません。地上で永遠の生命を得るための神の備えを十分に活用し,いわば,人生のかつて終わったところから再び始めなければなりません。
死ぬ以前に送っていた生活の影響で,中には,他の人より悪い行ないに走る強い傾向を持っている人もいることでしょう。事実聖書には,『義者と不義者との復活がある』と書かれています。(使徒 24:15)ですから,死んだ時に不義者であった人は,地上の命の復活を受ける時にも不義者のままです。
このように,罪の記録から放免されはしますが,死はその人の人となりに何の変化ももたらしません。地上の命によみがえらされる人々は,死んだ時と同じ人間,つまり罪人であるアダムの子孫です。そうした人々は,幾世紀も昔に,エリヤやエリシャ,またイエス・キリスト,ペテロ,パウロなどによってよみがえらされた人々と全く同様に,不完全な人間のままです。それら過去の人々は死んでよみがえらされることによって,永遠に生きることのできる完全な人間となったのではありません。ですから,新秩序のもとで地上によみがえらされる人の場合,死を免れることができるのは,罪を贖うイエスの犠牲の備えから進んで益を受けようとする人だけです。
罪を贖う取決めを含む,命のための神のご準備は,聖書の「啓示」の中で命の水の川として象徴的に描かれています。(啓示 22:1,2)ですから,この『川』の水を『飲む』ことにより,復活を受けた人々は罪のあらゆる傾向からしだいに解き放たれ,完全な人間になってゆきます。
彼らが完全な人間となるまで,エホバ神はそうした人々のことを完全な意味で命を得たとはみなしません。明らかにこの理由で,聖書は,地上によみがえらされる人々について,キリストの王国の支配する「千年が終わるまで生き返らなかった」と述べています。その千年の期間に,キリストの贖いの益が人類に適用されます。―啓示 20:5。
「兄弟たちは夜のうちにパウロとシラスをともにベレアに送り出した。彼らは到着すると,ユダヤ人の会堂にはいった。さて,ここの人たちはテサロニケの人たちよりおうようであった。きわめて意欲的な態度でみことばを受け入れ,それがそのとおりかどうかと日ごとに聖書を注意深く調べたのである。その結果,彼らのうち多くの者が信者となり,また,評判の良いギリシャ婦人,また男子のうちのかなりの者もそうなった」― 使徒 17:10-12。
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今生きている多くの人は決して死なないものみの塔 1975 | 1月15日
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今生きている多くの人は決して死なない
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