愛は見分けるしるし
「互に愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう」。―ヨハネ 13:35。
1 愛は永遠のものと言えますか。なぜですか。
「愛は永遠なり」。アブラハム・リンカーンがその花嫁に与えた指輪にこのことばが刻まれていたと言われます。どういうつもりでこの句を刻んだかは確かでないにしても,このことばには真理のひびきがあります。「神は愛である」と,ヨハネ第一の書 4章8節は述べています。神は常に存在していました。「その年の数も計り知ることができない」。(ヨブ 36:26)それでエホバも,愛という性質も,その存在は無限の過去にさかのぼり得ます。更に愛は永遠に存在するでしょう。神には初めも終りもないからです。―詩 90:1,2。黙示 10:6。ハバクク 1:12。
2 クリスチャンにとって,愛を示すことはなぜ可能ですか。忠実なクリスチャンはどれだけのあいだ愛を示すことができますか。
2 神のかたちに造られた人間には,愛という性質がそなわっています。(創世 1:26)もっとも日常生活の営みの中において,すべての人が愛を示すわけではありません。しかし神のみ霊に導かれるクリスチャンは,たしかに愛を示します。「なぜなら,わたしたちに賜わっている聖霊によって,神の愛がわたしたちの心に注がれているから」です。(ロマ 5:5)クリスチャンにとっては,永遠に生きることも夢ではありません。従って神に対して永遠に忠実ならば,クリスチャンは真実の愛を永遠に表わすことができます。愛を示すゆえにクリスチャンは愛のない古い世にあって目立つ存在です。愛はキリストの追随者を見分けるしるしとなっています。
3 (イ)どんな性質によって,キリストの弟子を見分けることができますか。初期クリスチャンの間に見られたそのしるしについて,ターツリアンは何と述べていますか。(ロ)エホバの証者は,兄弟愛を示すことについて,何を言明しましたか。
3 「互に愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう」と,イエスは言われました。(ヨハネ 13:35)初期クリスチャンは態度においても,行いにおいても,愛を示しました。初期クリスチャンの兄弟愛は,異教徒の間に知れ渡っていました。ターツリアンの著わした「弁明」は,異教徒の言葉として次のことを述べています。「彼らは愛し合い,互のために死ぬ覚悟さえある」。今日でもキリストの真の追随者の間には同じ兄弟愛が見られます。それは見分けるしるしです。1958年に神のみ心国際大会が開かれたとき,エホバの証者は,混乱にみち,愛を忘れた世の中にあって次の事を宣言しました。「吡喩的に言って我々は剣を鋤に,槍を鎌に打ちかえた。我々は,それぞれ国籍を異にしても,神の家族の一員であるゆえに互に剣をあげることをしない。また戦いのことを再び学ばず,むしろ平和と一致と兄弟愛を保って神の道を歩むのである」。エホバの証者はこの決意にたがわず,また「兄弟の愛をもって互にいつくしみ」と述べたパウロの教え通りに行動してきました。(ロマ 12:10)互に愛することは,エホバの証者がキリストの追随者であるしるしです。しかし更にどんな点でエホバの証者は初期クリスチャンと似ていますか。
兄弟愛を示す
4 初期および今日のクリスチャンの間に愛の絆があることは,何からもわかりますか。
4 大小を問わずあらゆる事柄において,初期クリスチャンは真実の愛を示し,互を気づかいました。たとえばペテロ,パウロ,ヨハネなど霊感によって仲間の信者に手紙を書いた人々は,クリスチャンのあいさつを送っています。他の人々のあいさつはどうですか。ローマ,コリント,ピリピその他の地にいたクリスチャンが,他の国にいる神のしもべに愛をこめて送ったあいさつも,これら霊感の手紙の中にしるされています。(ロマ 16:21-23。コリント前 16:19-21,24。ピリピ 4:21,22。ペテロ前 5:13。ヨハネ第三 14)このすべては,初期クリスチャンの間に愛の絆があったことを物語っています。今日のエホバの証者も,それと同じ絆によって結ばれています。会衆から会衆へ,あるいは海を越えて,更に地球をめぐって,クリスチャンの愛とあいさつが送られています。たしかに昔と同じく今日でも,真のクリスチャンは心から愛し合っています。―ペテロ前 1:22。
5 (イ)ある人々の考えによれば,「愛餐」とは何でしたか。それは義務でしたか。(ロ)今日のクリスチャンには愛のうちに集まるどんな機会がありますか。
5 初期クリスチャンは「愛餐」と呼ばれるものを時おり催しました。(ユダ 12)それがどんなものであったかは,聖書にしるされていません。しかしこれは物質的に豊かなクリスチャンが,物に乏しい信者を招いて開いた宴会であったようです。みなし子,やもめを交え,富む者も貧しい者も,兄弟のよしみをもって豊かな食卓につらなりました。その弊害のために廃止されるまで,愛餐は背教のクリスチャンの間でも盛んに行なわれたようです。しかし忠実な初期クリスチャンの間において,これが兄弟愛の表われであったことは疑いありません。愛餐は義務ではなかったのです。それが義務であったとは聖書にしるされていません。それで現代の真のクリスチャンは,「愛餐」を復活していないのです。しかし今日エホバの証者の大会は,霊的な意味の兄弟姉妹が大会の簡易食堂で食事を共にしたり,また豊かな霊的食事を共にする機会となっています。―マラキ 3:10。
6 (イ)初期クリスチャンの集まりはどんなものでしたか。(ロ)クリスチャンの交わりから,どんな二重の益が得られますか。
6 初期クリスチャンは会衆の集会を開き,集まった時に励まし合いました。(ヘブル 10:24,25)このような集まりに来て交わるのは楽しいことであり,非常に有益ことでした。西暦190年頃,改宗したターツリアンは,当時のクリスチャンについて次のことを書いています。「我々は祈りによって神に近づくため,会衆として集まる……我々は神の本を読むために集まり合う。たしかに初期クリスチャンは,集会において,また他の時に集まって交わることの価値を認めていました。たとえば,コリントのクリスチャンが,町に多い不道徳な人々と交わったならば,どんな事になったと思いますか。大英百科事典のコリントの項を見ると,アフロダイテの崇拝と関連していた。「この町の肉欲と官能のしきたりは,この偉大な町の精神的風土を悪と不道徳なものにした」とあります。(第11版7巻151頁)パウロの時代のコリントはこのような町でした。コリントにいた真のクリスチャンは,「まちがってはいけない。悪い交わりは,良いならわしをそこなう」と警告したパウロの霊感のことばを心に留め,賢明に行動したに違いありません。(コリント前 15:33)彼らがクリスチャンの交わりに精を出したことには,二重の益がありました。それは保護になると同時に,クリスチャンの間に兄弟愛の精神,家族の暖かいふんい気をかもしたに違いないからです。
7 (イ)今日のクリスチャンはなぜ交わりに注意すべきですか。良い交わりはクリスチャン会衆内に何を生み出しますか。(ロ)クリスチャンが社交的に交わるとき,有意義な時を過ごすための提案を述べなさい。
7 今日でもエホバのクリスチャン証者は,聖書を学ぶため定期的に行なわれる会衆の集会につどいます。これは助け合い,励まし合う機会となります。また不道徳な世に住んでいるゆえに,交わりにも注意しなければなりません。悪い交わりは良い習慣をそこないますが,良い交わりは良い習慣を養います。今日でも良い交わりは保護となり,クリスチャン会衆内に暖かい家族のふんい気をかもします。くつろいだつきあいの時にも,クリスチャンは徳を高める会話をすべきです。互に訪問したとき,テレビの話ばかりする必要はありません。経験を話し合ったり,聖書のゲームやクイズをするのも良い方法でしょう。夫婦,老人も若い者も子供も時に集まって楽しい一晩を過ごすのはよいことです。これは神のことばを一緒に学ぶ良い機会ではありませんか。会衆で学ぶその週の「ものみの塔」を一緒に準備するのもよいでしょう。もちろんすべての人が楽しむに違いありません。そしてクリスチャンの愛の中にますます強く結ばれることになります。集まる機会を悪用して,神を汚す行いをしてはなりません。―コリント前 10:31。エペソ 5:3-5。
8 (イ)エホバの証者の間にある兄弟愛と家族のふんい気には,どんな要素が貢献していますか。(ロ)パウロのどんな経験は,クリスチャンの抱く兄弟愛を示していますか。
8 兄弟愛とクリスチャンの暖かさに貢献するもう一つの要素があります。それは何ですか。エホバのしもべはすべて唯一の真の神に祈ります。地上のどこにいても,その思いと叫びは祈りとなって天の父に達します。彼らが一つの思いに結ばれているのも当然です。(エペソ 4:4-6)彼らはキリストを通して同じ方法で祈り,神の是認する事柄を祈ります。(ヨハネ 14:6,14)ゆえに「何事でも神の御旨に従って願い求めるなら,神はそれを聞きいれて下さる」ことを確信しています。(ヨハネ第一 5:14)現代のクリスチャンも初期クリスチャンのように,互のために祈ります。(コロサイ 1:9。テサロニケ後 1:11。コリント後 9:14。ピリピ 1:3-5。ピレモン 4。ロマ 1:9,10)パウロは仲間の信者のために祈り,また同時に「わたしたちのために,祈ってほしい」と願いました。(ヘブル 13:18。コリント後 1:11。ロマ 15:30)今日のクリスチャンと同じく,1世紀の信者も集まったとき,一緒に祈りました。たとえば,パウロがミレトにおいてエペソ会衆の古い人々と会ったとき,「一同と共にひざまずいて祈り」ました。つづいて起きたことは,人々の愛をよく物語っています。「みんなの者は,はげしく泣き悲しみ,パウロの首を抱いて,幾度も接吻し,もう二度と自分の顔を見ることはあるまいと彼が言ったので,特に心を痛めた」。クリスチャンは兄弟愛を抱いていますか。この出来事を見れば,答えは明らかです。これらクリスチャンの監督は,忠実な使徒パウロを愛していました。―使行 20:16-18,36-38。
愛は苦難に打ち勝つ
9 初期クリスチャンはどんな愛を第一に考えましたか。そしてどんな保証を与えられていましたか。
9 愛と祈りによって初期クリスチャンは一致を保ち,迫害や試練に打ちかちました。エホバにささげた祈りの中でも,愛のことが述べられています。ピリピ人に宛てたパウロの言葉に注目して下さい。「わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって,どんなに深くあなたがた一同を思っていることか,それを証明して下さるかたは神である。わたしはこう祈る。あなたがたの愛が,深い知識において,するどい感覚において,いよいよ増し加わ(る)……ように」。(ピリピ 1:8,9)1世紀の忠実なクリスチャンの間に愛があふれていたことは疑いありません。しかし家族や友人を気づかうあまり,神のみ心を行なうことと忠実をなおざりにしましたか。そのような事は決してありません。神への愛は何時も第一でした。そして必要とあれば,忠実を守るために生命を犠牲にすることもいとわなかったのです。愛する仲間のクリスチャンが残酷な仕打ちと死にあうのを見たり,また自分がそれと同じ目にあうのは,容易なことではありません。しかし苦難のただ中にあっても,初期クリスチャンは兄弟から愛されていること,また何よりも重要なことに忠実な神の愛の中に留まっていることを確信できました。
10 西暦64年のローマの大火は,クリスチャンにどんな影響を与えましたか。
10 西暦64年,ローマが大火にあうと,一般の人はその責任がネロにあるものと考えました。そこでネロは当時の不人気なクリスチャンに責任を転嫁しようと企てたのです。タシタスの年代記は次のことをしるしています。「ネロは例の手を用いた。身に覚えがなくても罪を自白するような放とう者や社会の落伍者を集めてきて,このような者の証言により多くのクリスチャンを罪に定めた。放火の明らかな証拠があったからではなく,クリスチャンは人類を憎むものとされたからである。彼らは極度に残酷な仕打ちを受けて殺され,またあなどりを受けた。ある者は毛皮をまとい,犬に殺され,十字架につけられ,火あぶりにされ,夜間の照明として燃やされた」。
11 忠実なクリスチャンはどんな愛を失うことがありませんか。パウロはこの事をどのように述べていますか。今日のクリスチャンはどうですか。
11 これは1世紀のキリストの追随者が経験した激しい迫害の一例に過ぎません。しかし苦しめられ,殺されても,忠実なクリスチャンは神を愛し,また神からの愛を失いませんでした。ローマ大火の8年ほど前にローマのクリスチャンに宛て,パウロの書いたことばは,当時のクリスチャンにも今日のクリスチャンにもあてはまります。「わたしは確信する。死も生も,天使も支配者も,現在のものも将来のものも,力あるものも,高いものも深いものも,その他どんな被造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から,わたしたちを引き離すことはできないのである」。(ロマ 8:38,39)今日でもクリスチャンは苦しみにあいます。しかし家庭で反対にあっても,投獄されても,シベリヤの強制収容所に送られても,迫害する者の手によって残酷な仕打ちにあっても,全世界のエホバのしもべの愛,そして天からは神の愛がそれらの人々にそそがれています。それゆえに敵対する者がクリスチャンに打ち勝つことはできません。たとえ忠実な人の生命を奪っても,その人に対する神の愛を奪うことはできません。―マタイ 10:28。
12 クリスチャンは互をどう見ますか。この点について,ターツリアンは何を述べていますか。
12 クリスチャンが互を気づかい,愛を示すのは,迫害の時だけではありません。日常生活の中で,どんな状態の時にもクリスチャンは兄弟愛を示します。初期クリスチャンは互に兄弟姉妹の関係にありました。(使行 9:17; 21:20。コリント前 1:1; 16:12。ロマ 16:1。ヤコブ 2:15。ヘブル 13:23)ターツリアンは,当時のクリスチャンに対して不信者が怒りを抱いたことを,次のように述べています。「我々の間で兄弟の呼び名が使われるのを見て彼らが怒るのは,彼ら同志の関係が愛情に関する限り偽りのものだからであろう」。初期キリスト教の時代と同じく,今日でもキリストの真の追随者は互を兄弟姉妹と考え,老若を問わず仲間のクリスチャンを尊敬します。(テモテ前 5:1,2)国籍や人種の相違は壁とはなりません。クリスチャンは,「互の愛を熱く保」つからです。―ペテロ前 4:8。
愛はどのように建て起こすか
13 (イ)クリスチャンの夫はどのように愛を示しますか。それはどんな結果となりますか。(ロ)クリスチャンの夫は何を備えますか。
13 「愛は人の徳を高める」と,パウロは書きました。(コリント前 8:1)どうしてそうなのか考えてごらんなさい。家庭においてクリスチャンの夫はかしらとして,愛においても,徳においても,霊の思いにおいても模範を示します。また正義を愛する品行の正しい人であるゆえに,妻や子供に不正直の悪い手本を示すことはありません。エホバを愛し,神のことばにある正義の原則を愛するならば,霊のことを重んずるでしょう。その考え方や物事の判断は,聖書の戒と原則に基づいています。その家庭には霊的なふんい気がみなぎっていることでしょう。やさしい夫は妻をいたわります。世間の夫が時にするように人前で自分の妻をけなしたりしません。クリスチャンの夫は妻を建ておこします。妻のつくる食事をほめ,その他何事についてもほめるように心がけます。また女性としての弱さを思いやり,その福祉に心を配ると共に,霊的にも夫婦が歩みをそろえて行くようにします。話の準備や宣教,神権的な務めをはたすのに忙しくて,妻と子供を顧みないような事があってはなりません。変わることのない愛を以て夫は,物質的な糧と霊的な糧の両方を備えます。―テモテ前 5:8。エペソ 5:25-29。
14 クリスチャンは家族の霊的な必要をどのように顧みますか。それにはどんな益がありますか。
14 クリスチャンの夫また父親は,妻と家族の霊的な必要をどのようにみたしますか。家族そろって勉強する合理的な計画をたて,それを実行するのは一つの方法です。静かで落ち着いた家庭のふんい気の中で家族そろって神のことばを学ぶのは,すばらしいことではありませんか。それは聖書にもすすめられていることです。(申命 6:4-9。エペソ 6:4)家族そろって祈り,聖書と聖書の手引きを学ぶことは,家族を一致させ,幸福にします。このような家族には愛と喜びがあふれています。
15 クリスチャンの妻はどのように愛を示しますか。
15 やさしい妻は献身的で貞節です。クリスチャンの妻はパウロの次の助言に従うでしょう。「教会がキリストに仕えるように,妻もすべてのことにおいて,夫に仕えるべきである……妻もまた夫を敬いなさい」。(エペソ 5:24,33)家事を勤勉にはたすのは,妻の愛の表われです。夫と協力して子供の教育にあたるのもそうです。この点で両親が一致しているならば,愛は増し加わり,家族の霊的な福祉も増進されます。―箴言 31:10-31。
16 クリスチャンの子供はどのように両親を建ておこしますか。神に対する愛と神のことばに対する尊敬をどのように示しますか。
16 子供たちも愛を示して両親を建ておこすことができます。親のいいつけに従って家事を手伝い,何かと手助けするのはやはり愛のある行いです。また家族そろって勉強する時間に,子供が聖書と聖書の手引きを用意するのを見るならば,親は喜びます。親に従う子供は,エホバを愛する子供です。親に従うならば,神と神のことばに対して愛と尊敬を示すことになります。「子たる者よ,何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである」― コロサイ 3:20。
17 (イ)クリスチャンの集まりに関して,愛はどんな行動をさせますか。なぜですか。(ロ)会衆の集会で,だれかがあいさつせずに前を通ったならば,どんな反応を示すべきですか。
17 会衆内においても,愛は建ておこします。集会に出席し,参加するように人を動かすのも愛です。なぜならば,そうすることによって霊的にみがき合えるからです。集会に出席すれば,そのこと自体,他の人を励まします。注解を述べることは他の人を強め,また建ておこします。(箴言 27:17。伝道の書 4:9-12。マタイ 18:20)しかしたとえば会衆の集会において,だれかがあいさつもせずに自分の前を通ったとします。そのときすぐに気を悪くしますか。それとも愛を示しますか。おそらくその人は心配事があるか,それとも物思いにふけっているのかも知れません。その人に対して何をすべきですか。冷淡にすることではなくて,暖かさと愛を示すことが必要です。愛と理解を示しなさい。兄弟たちのことを悪く思ったり,言ったりするよりも,そのほうが遥かに良いではありませんか。―コロサイ 3:12,13。
18 もてなしを示すには,物質的に豊かでなければなりませんか。もてなしによって,どのように他の人を建ておこせますか。
18 物に乏しい兄弟を物質的に援助するのも,愛を示す道です。私たちはもてなしによって愛を示すことができます。しかし物質的に豊かでなければ,もてなしができないわけではありません。クリスチャンであるゆえに苦しみを受けている人にとって,それを分かつ人がいることは大きな力となります。私たちは私的な事柄に干渉すべきではありません。しかし力づける経験を語り,また現在と将来における神の祝福を語って励ますことができます。このように励ますのにお金はかかりません。しかも兄弟に対する愛は貴重なものです。霊的に弱い人も中にはいます。兄弟から愛を示されるとき,その人々は自分たちの特権をいっそう深く認識することでしょう。私たちは聖書や聖書の手引きをその人々と学び,その人々を宣教に訓練できます。ですから何時でも兄弟愛を示す機会を求めましょう。―ヘブル 13:1,2。
愛を示しつゞけなさい
19 なぜ神の組織につき従うべきですか。だれの態度にならいますか。
19 まず何よりも私たちは,神への忠節な愛を持ちつづけなければなりません。また神から用いられている組織に固くつき従うことが必要です。組織から離れてはなりません。他に行くべきところはないからです。多くの者がキリストに従うのをやめたとき,ペテロのとった態度に私たちもならう必要があります。「それ以来,多くの弟子たちは去っていって,もやはイエスと行動を共にしなかった。そこでイエスは十二弟子に言われた,『あなたがたも去ろうとするのか』。シモン・ペテロが答えた,『主よ,わたしたちは,だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは,あなたが神の聖者であることを信じ,また知っています」。(ヨハネ 6:66-69)忠節でありなさい。愛を示し,クリスチャンの組織内に暖かい家族のふんい気をみなぎらせるように何時も努めて下さい。愛し合う家族は,一緒に過したり一緒に物事をすることを楽しみにしています。ゆえに今日,真のクリスチヤンが幸福な神の家族として愛し合い,共に働き,祈り,時を過ごすのは当然です。
20 多難の前途を思うとき,何が必要ですか。
20 この世が終わりに近づくにつれて,前途はますます多難です。そこで私たちクリスチャンはエホバに対し,また新旧を問わず仲間のクリスチャンに対して心を大きく開かなければなりません。パウロはコリント人に告げています,「コリントの人々よ。あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており,わたしたちの心は広くなっている。あなたがたは,わたしたちに心をせばめられていたのではなく,自分で心をせばめていたのだ。わたしは子供たちに対するように言うが,どうかあなたがたの方でも心を広くして,わたしに応じてほしい」。(コリント後 6:11-13)互に心を広くして真実の愛を示しましょう。
21 シュラミの乙女の言葉に歌われているように,愛はどれほど価値あり,また永続するものですか。
21 ソロモンの雅歌にしるされたシュラミの乙女と羊飼の恋人との美しい預言的な愛の物語を思いおこしてごらんなさい。ソロモンがこの乙女に語らせている言葉に注目して下さい。それはキリストの油そゝがれた追随者がキリストに対して抱く愛を表現したものですが,それはすべてのクリスチャンに価値のあるものを含んでいます。シュラミの乙女の言葉は,変ることのない忠節な愛を崇高なものとして歌いあげています。「われを汝の心におきて印のごとくし,なんじの腕におきて印のごとくせよ,其は愛は強くして死のごとく,ねたみは堅くして陰府にひとし,その焔は火のほのほのごとし,いともはげしき焔なり愛は大水も消ことあたはず,洪水も溺らすことあたはず,人その家の一切の物をことごと与へて愛に換んとするとも尚いやしめらるべし」。(雅歌 8:6,7,文語)まことに愛は貴いもの,滅びることのないものです。
22 各クリスチャンは何を負っていますか。それを払いきることができますか。なぜ?
22 各クリスチャンは決して払いきることのできない負債を仲間に対して負っています。「互に愛し合うことの外は,何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は,律法を全うするのである」と,パウロは書きました。(ロマ 13:8)人は一生のあいだ他の人々に愛を負っています。ゆえに愛の道に歩んで下さい。愛は真のクリスチャンを見分けるしるしです。愛は何時までも絶えることがないのを忘れてはなりません。クリスチャンとしていま真実の愛を表わしなさい。そうすれば愛の神エホバの約束する,すばらしい新しい秩序において何時までも愛を表わすことができます。