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6ロ 「証しをするものは三つ」新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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6ロ 「証しをするものは三つ」
「証しをするものは三つあるのです。霊と水と血であり,その三つは一致しています」
― ヨハネ第一 5:7,8。この翻訳は,C・ティッシェンドルフ(第8版,1872年); ウェストコットとホート(1881年),アウグスチヌス・メルク(第9版,1964年); ホセ・マリア・ボーベル(第5版,1968年); UBS; ネストレ-アーラントによるギリシャ語本文と一致しています。
小文字写本,No.61(16世紀)およびNo.629(ラテン語およびギリシャ語,14-15世紀)とウル訳クは,「三つあるのです」の後に,次の言葉を加えています。「天には,父,言葉,そして聖霊; そして,これら三つは一つである。(8)また,証しをするものが地に三つある」。しかし,シナ写,アレ写,バチ写,ウル訳,シリ訳ヘ,ペはこれらの言葉を省いています。
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6ハ ご自身のみ子の血をもって新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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6ハ ご自身のみ子の血をもって
使徒 20:28 ― ギ語,διὰ τοῦ αἵματος τοῦ ἰδίου
(ディア トゥー ハイマトス トゥー イディウー)
1903年
「ご自身のみ子の血をもって」
現代英語聖書,F・フェントン訳,ロンドン。
1950年
「ご自身の[み子]の血をもって」
クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳,ブルックリン。
1966年
「ご自身のみ子の死によって」
今日の英語聖書,アメリカ聖書協会,ニューヨーク。
文法的に言えば,この句は,ジェームズ王欽定訳やドウェー訳がしているように,「ご自身の血をもって」と訳すことができるでしょう。これは多くの人にとって難解な句とされてきました。アレ写,エフ写,ベザ写,シリ訳ヘ(欄外)(モファットの訳はこれらに基づいている)が,「神の会衆」とではなく,「主の会衆」と読んでいるのは恐らくそのためです。本文をそのように読むなら,「ご自身の血をもって」という読み方には少しの困難も伴いません。しかし,シナ写,バチ写,ウル訳は「神」(定冠詞を伴う)と読んでおり,ここを普通に訳せば,『神の血』となります。
「血をもって」という句のあとに,τοῦ ἰδίου(トゥー イディウー)というギリシャ語が続いており,この句全体は「ご自身の血をもって」とも訳せます。この「ご自身」という語のあとに単数形の名詞が省かれているものと考えられます。それは,恐らく,神と最も近い関係にある,独り子イエス・キリストであると思われます。J・H・モールトンは「新約ギリシャ語文法」(A Grammar of New Testament Greek,第1巻[序文],1930年版,90ページ)の中でこの点にふれ,次のように述べています。「ἴδιος(イディオス)について話を終える前に,明確に示された名詞を伴わないὁ ἴδιος[ホ イディオス]の用法について述べておかねばならない。これはヨハネ 111 ; 131,使徒 423; 2423に見られる。我々はパピルスに,近い関係にある者に対する愛称語としてこうした単数形の用いられている例を見いだす。……Expos.VI.iii.277ページで,わたしはあえてこのことを取り上げ,使徒 2028を『ご自身のものである方』と訳したいと思う人々(B・ワイスを含む)への励ましとした」。
ホートも,「ギリシャ語原語による新約聖書」(The New Testament in the Original Greek,ウェストコットおよびホート編,第2巻,ロンドン,1881年,付録,99,100ページ)でこう述べました。「現在あるすべての文献に影響を及ぼすようなごく初期の写しを作るさい,ΤΟΥΙΔΙΟΥ[トゥー イディウー,『ご自身の』]のあとのΥΙΟΥ[ヒュイウー,『み子の』]が脱落したと考えられなくはない。これを挿入すればこの句は少しも難解でなくなる」。
新世界訳聖書はこの句を字義通りに訳出し,ἰδίουのあとに角かっこに入れた「み子」を加えて,「ご自身の[み子]の血をもって」と読んでいます。
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6ニ 「すべてのものの上におられる神」新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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6ニ 「すべてのものの上におられる神」
ローマ 9:5 ― ギ語,καὶ ἐξ ὧν ὁ χριστὸς τὸ κατὰ σάρκα, ὁ ὢν ἐπὶ πάντων, θεὸς εὐλογητὸς εἰς τοὺς αἰῶνας· ἀμήν
(カイ エクス ホーン ホ クリストス ト カタ サルカ,ホ オーン エピ パントーン,テオス エウロゲートス エイス トゥース アイオーナス; アメーン)
1934年
「肉の系譜によれば,キリストは彼らから出たのです。すべてのものの上におられる神が代々にわたってたたえられますように。アーメン」。
リバーサイド新約聖書,ボストンおよびニューヨーク。
1935年
「キリストも(生来の系譜に関する限り)彼らの出です。(すべてのものの上におられる神がいつまでもたたえられますように。アーメン。)」
新訳聖書,ジェームズ・モファット訳,ニューヨークおよびロンドン。
1950年
「キリストも,肉によれば彼らから出たのです。すべてのものの上におられる神が永久にほめたたえられますように。アーメン」。
クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳,ブルックリン。
1952年
「肉によれば,キリストは彼らの種族の出です。すべてのものの上におられる神がいつまでもたたえられますように。アーメン」。
改訂標準訳,ニューヨーク。
1961年
「生来の系譜によれば,メシアは彼らから出たのです。すべてのものをしのぐ至上の位におられる神がいつまでもたたえられますように。アーメン」。
新英訳聖書,オックスフォードおよびケンブリッジ。
1966年
「人間としてのキリストは彼らの種族に属しています。すべてのものを支配しておられる神がいつまでも賛美されますように。アーメン」。
今日の英語聖書,アメリカ聖書協会,ニューヨーク。
1970年
「メシアは彼らから出ました。(わたしは人としてのその出身について語っています。)すべてのものの上におられる神がとこしえにたたえられますように。アーメン」。
新アメリカ訳,ニューヨークおよびロンドン。
これらの翻訳は,神に言及し,かつその備えのゆえに神がたたえられるようにと述べる独立した文あるいは節の文頭にあるものとしてὁ ὤν(ホ オーン)を扱っています。ここと詩編 67:19,七十人訳ではθεός(テオス,『神』)という主語のあとにεὐλογητός(エウロゲートス,『たたえられる』)という述語があります。―詩編 68:19の脚注参照。
G・B・ウイナーは自著,「新約聖書の慣用句に関する文法」(A Grammar of the Idiom of the New Testament,第7版,アンドーバー,1897年,551ページ)の中でこう語っています。「主語が主要な概念を成している場合,とりわけそれが他の主語と対照を成している場合,述語は主語のあとに置かれることがあり,時にはその位置になければならない。詩編 67:20,セプトゥアギンタ[詩編 67:19,七十訳]と比較。そしてローマ 9:5の場合も,もしὁ ὢν ἐπὶ πάντων θεὸς εὐλογητός[ホ オーン エピ パントーン テオス エウロゲートス]などの言葉が神に言及しているなら,これと同じであり,これらの語の位置はきわめて適切であり,むしろこの位置になければならない」。
ローマ 9:5の構文に関する詳細な研究が「第四福音書の原作者と批評論文」(The Authorship of the Fourth Gospel and Other Critical Essays,エズラ・アボット著,ボストン,1888年,332-438ページ)の中で行なわれています。345,346,および432ページで,アボットはこう述べています。「しかし,ここで,ὁ ὤν[ホ オーン]はτὸ κατὰ σάρκα[ト カタ サルカ]によって,ὁ χριστός[ホ クリストス]から分離されている。読む際には,この間に休止が入るべきである。τό[ト]が付されることによってκατὰ σάρκα[カタ サルカ]が特別に強調されているため,その休止は長くなる。また,これに先行する文は文法的に完結しており,論理的にも他の何をも必要とはしない。キリストがユダヤ人から出たというのは肉に関する事柄だからである。一方,すでに(334ページで)見たように,この節のすぐ前に記されている,キリストの到来がもたらす計り知れない祝福によって最高潮となる数々の祝福は,当然のことながら,すべてのものを支配しておられる方である神に対する賛美と感謝の念を示唆している。同時に,頌栄は文末の᾿Αμήν[アメーン]という語によっても示されている。それゆえ,いかなる観点からしても,これを頌栄の構文と取るのが平易で自然である。……σάρκα[サルカ]のあとに休止を入れるのが自然であることは,我々のもとにある最も古い写本類のこの語のあとに点の打たれている事実にも示されている。これを立証している写本としてはアレ写,バチ写,エフ写,L……がある。大文字体の写本,アレ写,バチ写,エフ写,L……の他に,σάρκαのあとに終止符を打っている小文字写本を少なくとも26は挙げることができる。その終止符は一般に,それらの小文字写本が αἰῶνας[アイオーナス]や᾿Αμήν[アメーン]のあとに打っているのと同じである」。
ですから,ローマ 9:5は神に賛美と感謝を帰しているのです。この聖句はエホバ神とイエス・キリストとを同一視するものではありません。
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6ホ 「偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの」新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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6ホ 「偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの」
テトス 2:13 ― ギ語,τοῦ μεγάλου θεοῦ καὶ σωτῆρος ἡμῶν Χριστοῦ Ἰησοῦ
(トゥー メガルー テウー カイ ソーテーロス ヘーモーン クリストゥー イエースー)
1934年
「偉大な神およびわたしたちの救い主であるキリスト・イエスの」
リバーサイド新約聖書,ボストンおよびニューヨーク。
1935年
「偉大な神およびわたしたちの救い主であるキリスト・イエスの」
新訳聖書,ジェームズ・モファット訳,ニューヨークおよびロンドン。
1950年
「偉大な神およびわたしたちの救い主であるキリスト・イエスの」
クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳,ブルックリン。
1957年
「偉大な神およびわたしたちの救い主であるイエス・キリストの」a
「聖書」(La Sainte Bible),ルイ・スゴン訳,パリ。
1970年
「偉大な神およびわたしたちの救い主であるキリスト・イエスの」
新アメリカ聖書,ニューヨークおよびロンドン。
1972年
「偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの」
「現代英語の新約聖書」,J・B・フィリップス訳,ニューヨーク。
ここでは二つの名詞がκαί(カイ,「および」)で結ばれており,最初の名詞の前には定冠詞τοῦ(トゥー)が付いているのに対して,二番目の名詞の前には定冠詞がありません。同様の構文がペテロ第二 1:1,2にも見られますが,2節では神とキリストのあいだの違いが明確にされています。このことは異なった二者がκαίで結ばれている時,前者に定冠詞が付いているなら,後者に定冠詞を繰り返し付ける必要のないことを示しています。ギリシャ語本文中のこうした構文の例は使徒 13:50; 15:22; エフェソス 5:5; テサロニケ第二 1:12; テモテ第一 5:21; 6:13; テモテ第二 4:1に
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