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『結合のきずな』としての愛は,「完全な」ものであるものみの塔 1983 | 3月15日
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です。「いまだ神を見た人はいない。父に対してその懐の位置にいる独り子の神こそ,彼について説明したのである」― ヨハネ 1:18。
16 ヨハネと仲間の弟子たちは,何をもって父親のような神の愛にこたえ応じましたか。そして,『愛のきずな』は,油そそがれた残りの者と「ほかの羊」に関してどのようなものとなりましたか。
16 霊によって生み出された神の子の一人として,使徒ヨハネは,エホバ神およびそのみ子であられる「独り子の神」,イエス・キリストと家族関係にありました。ヨハネと仲間のクリスチャンたちは,子としての愛を持って,父親のような神の愛情にこたえ応じました。その愛は,彼ら相互の間,また目に見えない彼らの天的な父との間の『結合のきずな』でした。加えてその愛は,霊によって生み出された人々を,神の霊的な子たちとして,またクリスチャンの兄弟姉妹たちとして固く結び合わせました。今日その『結合のきずな』を調べてみると,それが「完全な」ものであることが分かります。油そそがれた残りの者の成員はエホバ神の共なる崇拝者またその証人として,離すことができないほどにぴったり結び合わされているからです。この愛は,神の家族内に,またクリスチャンの兄弟関係のうちにとどまれるよう彼らを守っています。注目すべきことに,神の神殿にいる彼らの仲間の崇拝者たち,つまりキリストの「ほかの羊」の「大群衆」も,今日のエホバの証人たちを申し分なく完全に結合させる,冷えることのない同じ愛を示しています。わたしたちは心を固くし,どんな「創造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえない」という使徒パウロと同じ確信を抱くことができますように。―ローマ 8:38,39。
どのように答えますか
□ どのような意味で,すべての家族はその名を神に負っていますか
□ この事実は,クリスチャン会衆内のすべての人にどのような影響を及ぼすはずですか
□ ヨナタンはだれを予影していましたか
□ 愛が信仰や希望よりも偉大なのはなぜですか
□ 愛はどのようにわたしたちを神と結合させますか
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愛を身に着け,常にそれを身にまとうものみの塔 1983 | 3月15日
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愛を身に着け,常にそれを身にまとう
1 わたしたちが身に着けるべきものとは何ですか。それに関して最大の試練が臨むのはいつですか。
愛が「結合の完全なきずな」である以上,それはわたしたちが偽善的にではなく身に着けるべき最重要な特質です。わたしたちは,誠実さを尽くしてそれを絶えず身にまとっていなければなりません。それは本当の自分を隠すための外とうではありません。今日のわたしたちを諭すため,次のような霊感による言葉が保存されてきました。「あなた方の愛を偽善のないものにしなさい。……兄弟愛のうちに互いに対する優しい愛情を抱きなさい」。(ローマ 12:9,10)わたしたちの愛,この『結合のきずな』の純粋さを試す最大の試練は,これから ― 近い将来に臨みます。
2 愛は,予備的なものが何もなくても身に着けることができるものですか。
2 それで今は,わたしたちがその愛を培う絶好の時です。その特質を身に着けることにつながるすべての段階をいま踏まなければなりません。それゆえに使徒パウロは,イエス・キリストの献身してバプテスマを受けた弟子たちが行なうべき様々な事柄を推薦したその結びとして,「これらすべてに加えて,愛を身に着けなさい。それは結合の完全なきずななのです」と述べました。(コロサイ 3:14)では,わたしたちが身に着けなければならない愛のほかの「これら」とは何でしょうか。
分裂をもたらす要素に打ち勝つ
3 コロサイ 3章9-13節によると,愛を身に着けるために踏まなければならない段階とは何ですか。
3 使徒パウロやヨハネの時代にも,分裂の原因となり得た幾つかの特色もしくは要素がありました。しかし,以前にはもっともであったそれらの理由を,その重要性の点で無視し,無価値なものと考えるべき時が来ていました。クリスチャンすべては一人の霊的な頭,イエス・キリストのもとにある一つの会衆,一つの協同体でした。分裂を生み出すすべての肉的な理由は,断固はねつけなければなりませんでした。一致をもたらす霊的な事柄こそ,絶えず前面に押し出されるべきでした。この点と一致して,使徒パウロはさらにこのように述べています。「古い人格をその習わしと共に脱ぎ捨て,新しい人格を身に着けなさい。それは,正確な知識により,またそれを創造した方の像にしたがって新たにされてゆくのです。そこにはギリシャ人もユダヤ人もなく,割礼も無割礼もなく,異国人も,スキタイ人も,奴隷も,自由人もありません。ただキリストがすべてであり,すべてのうちにおられるのです。したがって,神の選ばれた者,また聖にして愛される者として,優しい同情心,親切,へりくだった思い,温和,そして辛抱強さを身に着けなさい。だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなく許し合いなさい。エホバが惜しみなく許してくださったように,あなた方もそのようにしなさい」― コロサイ 3:9-13。
4 1世紀の会衆内で互いに仲良くしてゆく必要があったのはなぜですか。どんな根拠に基づいてある事柄は無視されたと思われますか。
4 生まれた国,宗教的背景,社会的立場,人種また皮膚の色などに関して前述の相違点があったため,会衆内で互いに仲良く生活することには難しさもありました。互いを理解し,互いを受け入れる必要がありました。こうした点は肉的な人々にとっては重大な問題であったかもしれませんが,神とみ子イエス・キリストにとっては全く重要な問題ではなかったからです。イエス・キリストは,これらのすべての相違が行き渡り,存続していた時代に全人類のために死なれたのです。もちろん,広い心を持った人なら,自分自身の魂の寛大さから,一般的な原則に従ってそうした相違を無視することもあったでしょう。そのようにすることはまさしく良いやり方,いやそれどころか正真正銘の人道主義的行為だったかもしれません。それでも,そこには純粋な無私の愛は欠けていたかもしれません。
5 分裂の種となりうる事柄を無視するに際し,エホバの証人は普通の人間が示すどんなものにとどまっていてはなりませんか。そうすることによって彼らはだれと結び合っていることを示しますか。
5 その理由で,献身してバプテスマを受けたわたしたち,完全な人間の命をあらゆる種類の人のためにお与えになった方の追随者であるわたしたちは,単なる形式的行為や,愛想の良さ,感じの良さ,行儀の良さ,優しさなどにとどまっていてはなりません。エホバ神の霊の実である誠実で私心のない愛を動機としなければなりません。この実は他の人々の益と福利を求めます。他の人々の霊的な福祉や幸福に役立つことなら喜んで行ないます。
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