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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1953
塔53 9/1 310–315ページ

死の王の支配打砕かる

1 死は人間に,どんな精神的道徳的破壊をもたらしましたか?

死の王の支配はただに人類に肉体的破壊をもたらしたばかりでなく,精神的道德的な破壊をもたらしました。ごつごつな関節,曲つた背,傷ついた神経系など,病院に満ち満ちて居りますが,その外にも自制心の欠乏,不義な行為,非道徳的行為人間の属性(特質)の一般的不均衡等数限りなくあるのです。サタンは人間の本能的礼拝心を創造主からそらし被造物へと向けてしまいました。『彼らは神を知つたのに,これを神として崇めず,また感謝せず,その思念は空虚なものとなり,その愚かな心は暗くなつた。彼らは自ら賢いと主張しながら愚かな者となつてしまつた。そして朽ちない神の栄光を,朽ちてしまう人間や鳥や獣や地を這うものと取りかえたのである。』(ロマ 1:21-23,口語)人々は,その文明の程度により,太陽や火や偶像や金銭や財産や或は人間自身や人間の制度等を未だに崇拝して居ります。ヱホバに対する余りある第一の愛と,隣人に対する第二の愛の代りに,サタンは自我と恐怖と貪慾と憎みとを植えつけました。第一の攻撃によつて我々の太初の両親を罪に誘つた大敵サタンは,罪を死と共に王とならせ支配させました。その時以来,すべての者は神の栄光を見失い,完全な従順の印を失いました。ヱホバは正義と完全の完全なあらわれであり,聖なる方であります。聖き,完全な従順,清浄等を何らかの方法で欠乏して居る者は,一人としてヱホバに受け容れられません。

2 アダムの罪過と彼の子孫のそれとの相違は何ですか?

2 では,アダムの罪過と,モーセの時代までのアダムの子孫との罪過の相違は何なのでしよう? パウロは次の様に書きました ―『しかも,死はアダムからモーセに至るまで,アダム ― 彼は来るべき者の型であつた ― の罪過と同じ罪過を犯さなかつた者の上にも支配力をふるつた。』(ロマ 5:14,口語)アダムは完全につくられました。彼の器官のうちには,何の欠点も何の弱点もありませんでした。彼は聖なる律法を授けられました。そしてその重要性を理解認識する為の能力も持つて居ましたし,完全に従順となる為の能力も己のうちに備えて居ました。しかるに,かくもすべての能力を備えて居ながら,彼は謀叛者となつたのであります。彼の不従順は意識的であり自覚してのことなのであります。しかしアダムの子孫の場合はそれと異つて居ります。彼らは,アダムの如き完全性も,又完全な従順に対する才能も持つて居ません。彼らは悪いことをしても夫は許されないことではありません。然し彼らは皆同じ程度の責任を持つて居ません。

3 責任の程度を決定するものは何ですか? 実例をあげて下さい。

3 責任は,各人の持つて居る神の御心に関する知識の程度によつて左右されます。アダムの不従順後,神は人間の為すべき事に関する命令や,不従順に対する刑罰の宣告を明白に記した律法を直ちに与えることはしませんでした。反つてこう記されて居ます ―『律法がない処には律法の違反は存在しない。』(ロマ 4:15)従つてカインがアベルを殺した時,カインは決して無罪とはなり得なかつたけれども,上記の理由で神はカインの刑を執行せず,ヱホバはカインを呪の下に生き続けさせました。そしてカインは将来には滅ぼされることになつていました。アダムからモーセに至るまでの間に生存して居た人々は,モーセの律法を有して居なかつたから,それを守る義務もなかつたのであります。

4 悪人はどうして何の申し訳も出来ませんか? 無智は彼らを解き放ちますか?

4 死の王の支配下における悪人は急速に堕落しました。天に於いても地に於いても,至上なる審判主の永遠の力と神格を見ることが出来ました。従つて彼らは真理を斥け不義の道に歩んだことに対して何の申訳も出来ません。それらの人々は,神の与えた律法を持たずして,自分達自身の家庭や,国家の支配者の為の律法をつくりはじめました。或人々は,神の審判をのがれたい一心から,神の御心や罪が何であるかについて全く知らなかつたと言つたのです。そこでその存在を無視する色々な宗教が起つたのであります。彼らはその起源も罰も説明できず,宇宙からそれを除くことに関する神の御準備を説明することも出来ません。彼らはそれを無視してもその呪から解き放たれることは出来ず,反つて,その鎖によつてますます縛られるばかりです。何故なら,罪を行うものはすべて,不法を行う者であり,罪は不法であるからです。(ヨハネ第一 3:4)すべての不義は罪であります。

死の王の支配

5 (イ)罪が王として支配した結果は何ですか?(ロ)ヱホバは,何故イスラエルに律法を与えましたか?

5 ここにもう一人の王が紹介されます。それは人格化された罪,王としての支配をふるう罪であります。罪は何たる王なのでしよう! 地上に在つて汚された彼のすべての民を見てもごらんなさい。全世界にまたがり猛威をふるう犯罪,堕落行為,偽善行為等は益々ひろがり,何百万という人々が,罪を犯し良心を抑えつけて,罪という王に賞讃の意を表明して居ります。罪の王と死の王に対してすべての生ける人々は例外なく屈服して居ますが,この世界的支配こそ,それらの王が我らの最初の両親に起因して居る証拠であります。神は,罪に関して人間の心を呼びおこし,神の救に眼を向けることを教える為,御自分の選民に組織だつた律法集をあたえました。それは,創造から2512年後,予言者モーセを通じて与えられたのです。それによれば,神は罪を悪人の所為にするのであります。罪や正義と不義,及び贖の方便に関する神の御心を人間に示すことの出来る人間的法典は一つとしてありません。神の律法がそれを明白に定義して居り,その祭司職は,罪がただ特定なる贖を通じてのみ除かれるという事を予表しました。救助は,ただ神の御約束を通じてのみもたらされるのであります ―『では律法とは何であるか。犯罪をあらわにする為に定められたものである。それは約束の与えられた裔が至るまでである。』― ガラテヤ 3:19,24,新世。

6,7 イエスが全く罪がないということはどうして可能ですか? そして贖を備える為に,イエスはどんな段階をふむ必要がありますか?

6 パウロが,来るべき者と言つて居るのは,一体誰のことでしよう? 来るべき者とは,死よりの解放者,アブラハムの裔,モーセの如き予言者でなければなりません。罪の結果として死が来たのであるから,罪を除いて死を征服する為には,誰か罪より全く自由な者が必要なわけです。それはイエスキリストであります。婦よりうまれた者のうち,全く罪なき唯一人のものであります。彼は,聖く全く汚なく生まれました。だがそれは,彼の母が全く汚なかつた為ではありません。何故なら彼女はアダムの系統をひくユダヤの処女であつたからです。彼が聖く全く汚のないことは,彼が罪なき完全な父親,ヱホバ神によつて生まれた為であります。二人の両親によつて子が生まれる場合,生命の精が父親より出でて,母の胎内の卵子に合い,それによつて母親が自分の子を産みだすのであります。イエス誕生に関する神の御予定の時いたり,彼の完全な生命は天より処女マリヤの胎内にうつされました。この様にして,キリストイエスは,罪人アダムからは人間の生命を受けず,アダムの裔マリヤからただ人間の肉体を受けただけであります。マリヤによつて生まれる為に,イエスは自分のあらゆる天の栄光と地位から離れなければなりませんでした。イエスは,過去の限りなく長い期間に於いて,御父と共にあり,創造の仕事にも加つたのであります。彼は,太初に生まれた神の独子であり,ヱホバは彼を通じて,他のすべての見ゆる物見えざる物を創られました。(ヨハネ 1:1-3。コロサイ 1:15-18。黙示 3:14)イエスの誕生に関して神の御予定の時いたるや,神は御子をつかわし,一人の婦によりて律法のもとに生まれしめました。それはイエスが律法のもとにある人々を買い戻し,我々も子らとして受け容れられる為なのでした。(ガラテヤ 4:4,5)イエスはモーセの律法のもとに,一イスラエル人として生まれました。然し彼はその律法によつて有罪とされませんでした。何故なら彼は,その律法を完全に守つた唯一人の人間であるからです。

7 最初のアダムは,イエスキリストに如何に似て居るのでしよう? 最初のアダムは罪人となつた行動過程に於いては,決してイエスに似て居りません。全く似て居ません。甞て完全であつたアダムが,現在罪人であるすべての人類の父となつたのであるから,その人間の救助者,贖主となつて彼らの負債の取消しをし,救助する為には,もとのアダムと同様に完全な人でなければなりません。この事は使徒パウロの良く知り得たところであります。最初のアダムとイエスとの似て居る点は,同じ物をもて同じ物をつぐなわねばならぬという事実にあるのです。(申命 19:21)アダムは最初,罪も汚も全くなく完全な人間でありました。勿論人間と神の混合物ではなかつたのです。それ故神の子も同様でなければなりません。若しこの必要がなかつたならば,彼は形をあらわすこと,つまり甞て天使がアブラハムやロトやその他の者にあらわれた場合の様に人間として見ゆる形をとるだけで充分であつたでしよう。然し,犠牲として,正義の要求にそう為には,完全な人間としての器管が必要だつたのです。その為イエスは普通の人間の如く,人間処女より生まれたのです。何故ならこう記されて居ます『犠牲と供物とをあなたは好まれなかつた。そして私に身体を備えて下さつた。』『そこで,子らが血と肉とを有つて居た故に,彼もまた彼らと同じものを具えられた。』― ヘブル 10:5; 2:14。

8 (イ)人間の救助は,神の何によらなければなりませんか? そして,それに必要な犠牲は如何に予表されましたか?(ロ)死の王の支配は,ただ如何にすることによつて打ち砕かれますか?

8 ヱホバが人類を罪とその罰から救助し給うことは,ただヱホバの正義によるばかりであり,必然的に自由な賜物であります。彼は怒るにおそく,溢れるばかりの御慈愛に富み,不正と罪悪に対して寛容を示されています。然し決して罪を清算するわけではありません。(出埃 34:6,7)必要な犠牲は,アベルの捧物によつて予表されました。アベルは,自分の群の動物を殺し血を流したのであります。又,イスラエルの過越節や彼ら年毎の贖の捧物によつても,アブラハムが我が子を捧げることによつても示されました。イエスはその捧物となる為に,御父の名を証明する為に来たのであります。彼はこう申しました ―『この様に人の子の来たのは仕えられる為ではなく,仕えるためであり,この生命を多くの人々への贖として与える為である。』(マタイ 20:28)イエスは,生命の仲介主でありながらも,殺されたのであります。然し,神は彼を高くしてイスラエルへの悔い改めと,罪のゆるしを与える救主としたのであります。罪は死をもたらしました。神の仔羊は,世の罪を除く為に来たのであります。然し破滅へ運命づけられた古い世の罪を除く為でなく,正義の新しい世を形成する人々の罪を除く為に来たのであります。(使行 3:15; 5:31。ヤコブ 1:15。ヨハネ 1:29)ただこれによつてのみ,死の王の支配を打ち砕き得るのであります。

9,10 (イ)我々は,生命に対する神の御準備の恩恵を如何にして獲得出来ますか?(ロ)この御準備はヱホバ神に関し何を啓示しますか? それは誰を集めるのですか?

9 それならば,我々は,如何にして神の恵深き御恩恵を受けて滅亡よりのがれ得るのでしよう? 罪とその結果を無視することによつてではありません。又律法の契約を守ることによつてでもありません。パウロはこう宣明して居ります ―『律法をもたないで罪を犯したすべての人は,律法なしで亡びるであろう。そして律法の下にあつて罪を犯したすべての人は律法によつて裁かれるであろう。』(ロマ 2:12,新世)従つてすべての者が当然死ぬでしよう。誰も救われないでしよう。ユダヤ人も他の人々もすべて罪人であります ―『ところが,今や神の義は律法とは別に現われた。これは律法にも予言者にも証明されて居る。つまりイエスキリストへの信仰によつて,信ずる者すべてに与えられる神の義である。そしてそれには差別がない。』(ロマ 3:21,22)贖の犠牲に対する信仰の表明は,我々に余りある御慈愛をもたらします。即ちそれによつて我々は御子の前に御怒を受けずに立つ,自由の賜物を受けるのであります。イエスキリストの贖による救を受け容れ,ヱホバに献身し,忠実な奉仕をすることにより,我々は神に義とされる保証を得るのであります。この様にして,我々は神の恵み深き御準備の恩恵を得,滅亡よりのがれ得るのであります。

10 神の御準備は非常に高貴で寛大で,憐み深いものなので,人類の言語をもつてそれを表現することは全く不可能であります。そして,それは神の正義を表わして居ます,そのことは過去に起った罪を,神が忍耐して許されたことに依つて示されて居ます。またすべての国から御名の民として人々を義なる者と言われたことを以ても示されています。それは,ユダヤ人の中よりであろうと,諸国民の中よりであろうとアブラハムの信仰と同じ信仰を表明する人々を集めるのであります。それらの人々はこう言えるのです ―『それで私たちは信仰によつて義とされたのであるから,私たちの主イエスキリストによつて,神と和いで居る。そして彼のおかげで,私たちは,今受けて居るこの恵みに,信仰によつて,導き入れられている。そして神の栄光に与かるという希望を喜んで居るのである。』(ロマ 5:1,2,口語)教会級に属する人々は,天的の栄光を予期するのであります。ヱホバの他の羊たちは,義とされた時,地的神の如き像の栄光を予期するのです。アダムは最初にこの神の像に造られたのでした。

11 (イ)罪悪と神の自由の賜物とは如何なる対照物ですか?(ロ)その賜物の結果として,我々はどんな福祉を享受しますか?

11 然し結果として死をもたらした罪過と,神の自由な賜物とは相反する対照であります。神の自由な賜物は,我々が罪人アダムの子孫として受ける害以上に,我々信仰を持つ者の為には善きことを達成してくれます。何故なら一人の人の罪悪の為に多くの人々が死んだけれども,神の余りある御親切と,自由な賜物と,一人の人間イエスキリストの溢るるばかりの御親切とにより,更に多くの恩恵が多くの人々に及んだからであります。(ロマ 5:15)我々は今日,御父との間に,助主として正しき方,イエスキリストを有して居ります。彼は,慈愛に富む祭司であり,罪なく汚されず,罪人と離れて居り,無智な誤つた人々を穏かにあつかい得る方であります。我々は一層確かにされた神の御言葉,よりよい知識,神の御霊,神の制度を有して居ります。我々は御子を通じての神との新しい関係を喜びます。我々は,忠誠に関する多くの忠実な模範を有して居り,奉仕の栄光ある宝を有して居るのです。これが我々の生活に於いて罪の王の力を打ち砕く武器となることをどうして疑い得ましようか。

12 神の,被造物に対する余りある御慈愛は,何のうちにあらわれて居ますか?

12 神には溢れるばかりの御親切があります。一つの罪悪の為に人類は呪の状態に審かれました。然し賜物に依つて一つならず多くの罪悪より義と宣言せられました。自分の行動によつて,自分は罪悪を犯さずヱホバの御名を汚したことは一度もないと意識的にでも無意識的にでも主張出来る人間がどうして居ましよう。それなら次の御約束は何と良く納得出来るものでしよう ―『不正を赦して頂いた者,罪をかばつて頂いた者は幸である。主〔ヱホバ,新世〕から罪を認められない人は幸である。』(ロマ 4:7,8,口語)1918年,神の民たちは,唇の汚と人間に対する恐怖をあらわし,ヱホバに公けの讚美を捧げることを怠りました。だが,彼らの証言が復興し,彼らが再び神の恵みのうちに入り,彼らの罪が神の後にかくされた時,彼らは何という幸運を得たのでしよう!

13 ヱホバは,地上に関し,栄光あるどんな前途を先見し目的を立てましたか? それは,どんな手段によって,実現されるのですか?

13 それなら,ヱホバが先見し目的を立て給うた栄光ある前途について考えてもごらんなさい。彼は,罪も死もない世を創めました。そして,そのあらゆる敵を打ち滅ぼす時,彼の目的は再び罪も死もない世をもつことです。男も女も,完全な肉体と心を持ち,罪からも不正からも解き放たれ,如何なる弱点も病も持たず,永遠に地上で生活するのであります。彼らは生命ある王として,海の魚,空の鳥,地にあるもろもろの生物を支配するのです。この栄光ある賜物は,新しい天の一千年統治を通じてもたらされるのです。それら新しい天,即ち新しい見えざる支配力は,神の溢れるばかりの御慈愛を豊かに受けてイエスキリストと交り,キリストと共に苦難に与かつた人々で形成されるのであります。それは使徒パウロが次の様に申して居る通りであります ―『もし一人の罪過のために,死がその一人を通して,すべての人の上に支配力をふるつたとするならば,まして溢れる恵みと義の賜物とを受けた人々は,一人の人イエスキリストによつて,生命にあつて支配力をふるうに違いない。』― ロマ 5:17,口語。

14 神の正義は,人類に対する救助の御準備中に,如何に示されて居ますか?

14 ヱホバの正義は,彼のあらゆる交りに於いて明白にあらわされて居ります。ヱホバの御座の基は正義であるという事を認識せずして,彼の御行為を正しく理解出来る者は一人も居ません。使徒パウロは,聖書を除いては如何なる文学作品もその右に出ることが出来ない程すぐれた論理を以つて,呪がキリストにより如何に取り除かれたかを示して居ます。神はイエスを供物として捧げ,イエスの血に信仰をもつ人えの宥めの供物としたのです。即ち,使徒パウロは,次の如く言つて居ます。『そこで一つの犯罪によつて,すべての人に処罰がもたらされたように,一つの義の行いによつて,すべての人が義とされ生命に入れられるであろう。実に,かの一人の人の不従順によつて,多くの人々が罪人とされたように,この一人の人の従順によつて多くの人々が義人とされるであろう。』― ロマ 5:18,19,口語。

溢れる恵みの王の支配

15,16 (イ)罪の支配に挑む王は誰ですか?(ロ)どんな手段によってですか? 又その結果はどうなりますか?

15 ごらんなさい,罪の王の支配に挑み,罪の王の力を殺ぐもう一人の王があらわれるのです。それは溢れる恵みの王であります。罪は死と共に一致して支配して来ました。溢れる恵みは,正義によつて支配します。罪は死をもたらしましたが,溢れる恵みの王は生命をもたらします。罪は,ヱホバと御言葉について偽りを語つた毒蛇の針の如きものであります。真理はその針より人を解き放ちます。『死の針は罪であり,罪の力は律法である。』(コリント前 15:56,口語)律法の言う所はすべて,律法の下にある者に語り,どの人も物が言えなくなり,世界中の人は神からの罪を蒙ることでしょう。この点から考えると,ヱホバの御準備は何と恵みにあふれたものなのでしよう! それは次に記されて居る通りであります。『律法は罪過を増す為に入り込んで来た。しかし罪が増したところには,御恵みもそれだけ多く増して来た。こうして,罪が死を用いて支配力をふるつたように,御恵みもまた義によつて支配力をふるい,私たちの主イエスキリストによつて永遠の生命に至らせるのである。』― ロマ 3:19; 5:20,21,口語

16 我々の歓びは何と大きなものなのでしよう! 罪は未だに此の世のもののうちに於いて支配力をふるつて死へと導いて居るけれども,溢れるみ恵みも王となつて支配力をふるい,生命へ導くことが出来るのです ―『だからあなた方は自分を罪に死んだもの,キリスト・イエスにあつて神に生きているものと考えなさい。それ故に,罪をしてあなた方の死ぬべき体を支配せしめ,その結果あなた方に情慾をほしいままにさせることのないようにしなさい。またあなた方の体の諸器官を不義の器として,罪に渡してはならない。自らを死から生きかえつた者として,またあなた方の体の諸器官を義の器として神に献なさい。』― ロマ 6:11-13,口語。

17 我々は,自分の行動走路<コース>に関して自らどんな重要問題について自問すべきですか?

17 親愛なる読者の皆様,あなた方は御自分を如何に献げて居りますか? どんな行動規則があなたの生活を支配して居りますか? それは基本的真理に固く従つた原則ですか? それとも情慾に従つた原則ですか? それは神の御命令への従順ですか? それとも肉の満足を得る為のものですか? あなた方は,御自分の生命をヱホバに献げましたか? あなた方は,ヱホバの証者の聖書研究会や,会衆の集会に定期的に出席する喜びを味つたことがありますか? あなた方は円熟して,300人のギデオンの小軍勢の様に,自分を奉仕に捧げて居りますか? 300人のギデオン軍は「おのおの自分の立場を守つた」と記されて居ます。我々はすべて罪の奴隷として前途に死をのぞんで居るか又は従順の奴隷として前途に正義をのぞんで居るのかの何れかであります。

18 我々はどんな撰択をしなければなりませんか? そして,勝利の側につく為には,我々は何をする必要がありますか?

18 我々は奴隷使用者か,解放者かの何れかを選ばなければなりません。サタンの虚言を支持し,不道徳的な生活をし,偶像崇拝をすることは,罪と死の王を支持し,その代価を受けることを意味します。ヱホバに仕えることは,現在に於いて我々を鎖から解き放ち,我々は神の賜物である永遠の生命の保証を受けます。あなた方もその救助を宣明することに加わりますか? 若し未だそうして居ないならば,今勝利の側に加わりなさい。我々の過去の実は,現在になつてみれば恥かしい様な物でなり立つて居ります。何故なら,それらの物の最後は死であるからです。『しかし今や,あなた方は罪から解放されて神に仕える者となつたのであるから,あなた方の得る結果は聖化であり,その終りは永遠の生命である。』(ロマ 6:22)『彼を通じて,私したちは絶えず神への讃美の犠牲,即ち彼の御名をほめ讃える唇の実を献げようではないか。』(ヘブル 13:15,口語それならば我々を主イエスキリストにある神の愛から離し得るものは,死も生命も,天使も,政府も,今ある物も,これから来る物も,権力も,高きも深きも又他の如何なる物もないと確信出来るでしよう。

19 光のうちに歩む為,我々は何をしなければなりませんか?

19 罪と死の王の支配は,人類にとつては,泣き悲しむ暗い夜でした。溢れる恵みの支配のはじまりは,新しい日の曙に似て居ります。『夜は更けて,暁は近い。私たちは暗闇の行いを捨てて,光の鎧を着よう。』『というのはあなた方はすべて光の子であり,昼の子であるからだ。私たちは夜の子や,暗闇の子ではない。』(ロマ 13:12。テサロニケ前 5:5,口語)我々は光のうちに留まる為,兄弟愛をもつて歩み,使徒ヨハネが勧告した新しい誡命を守らなければなりません。何故なら,暗闇は過ぎ去り,既に真の光が輝いて居るからです。(ヨハネ第一 2:8,口語)その光のうちに歩みつづけることにより,我々は罪の王に打ち勝つことが出来るのであります。

20,21 (イ)悪魔はヱホバに対してどんな非難をあびせましたか? それが偽りであると誰が証明しましたか?(ロ)イエスキリストと共に証明の業に加わり,死の王に打ち勝つ者は誰達ですか?

20 さて,ヱホバの溢れる恵みが死の王に対しても窮極の勝利をおさめることに関し一寸考えてごらんなさい。悪い意志の創始者サタンはヱホバは頼りにならず,ヱホバの御言葉に信頼することは出来ないと言い,そのことはすべての天の創造物が証明して居るとヱホバを非難しました。地上に於いて,その非難を斥け,悪魔が虚偽者なることを証明し,悪魔を滅す者としての資格を獲得し,それによつてヱホバの御言葉と御名を立証する者は誰でしよう? それは最初のアダムではありませんでした。何故なら,彼は創造主を非難するその陰謀に協力したからです。その為に,地上にはヱホバの義を受ける完全なる人間が一人も居なくなりました。然し,ヱホバの溢れるばかりの御親切によつて「人の子」が地に来り,第二のアダムとしての資格を得たのです ―『最初の人アダムは生命のある生身となつた。終りのアダムは生命を与える霊となつた。第一の人は地から出ており,「土の人」である。第二の人は天から出たのである。』(コリント前 15:45,47,口語)『実に私たちは知つている,キリストは死人の中からよみがえらされたのであるから,決して再び死なれないであろうことを。死はもはや彼を支配しない。』『しかし神は彼をよみがえらせて,死の苦しみを解かれた。彼は死に捉えられていることのできない方であつたからである。』(ロマ 6:9。使行 2:24,口語)キリストは悪魔が虚偽者であることを証明しました。ヱホバの律法の尊厳も彼を死に封じ込めておくことが出来なかつたのです。何故なら,彼は全く罪がないからです。従つて神は彼を甦えらせて,死の力を持つ悪魔を死によつて滅ぼす資格をそなえた者としたのです。勝ちる得たキリストはこう叫んで居ます ―『私は死んだ。しかし見よ,私はいつまでも,いつまでも活きて居る。そして死と地獄との鍵を有つて居る。』― ヘブル 2:14。黙示 1:18。

21 神が愛をもつて,他の人々もキリストと共に証明の業に参加出来る様にとりきめて下さつたことを考えて下さい。忠信にして召され,潔められた14万4000の祭司達の復活について語り,パウロは次の様に申して居ます ―『朽ちる者が朽ちないものを着,死ぬものが死なないものを着る時に,聖書に記された次の言葉は実現するのである。「死は勝に呑まれてしまつた。おお死よ,お前の勝はどこにあるか,おゝ死よお前の針はどことにあるか。』(コリント前 15:54,55,口語)それらの人はイエスキリストを通じて勝利を得,サタンは間もなくそれらの人々の足で踏み砕かれるでしよう。又,善意ある人々,つまり地上に於ける永遠の生命の希望をもつ忠信な他の羊級も,キリストを通じて勝利を獲得するのです。彼らは,復活によつてであろうと,又今生きながらにハルマゲドンを通過して新しい世に入り永遠の生命を獲得するのであろうと,とにかく死に打ち勝つのであります。何故なら,彼らは,永遠の御国の祝福に与かるからです。『そして,もはや死はないであろう。そしてもはや歎きも,叫びも,苦しみも,ないであろう。前にあつたものは過ぎ去つたからである。』(黙示 21:4,口語)人間の最後の試験が終つた時,死の王の支配は,生命の王の支配でおきかえられるのであります。

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