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新世社会内で円熟を目ざして努めるものみの塔 1963 | 10月1日
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遂に監督すなわち会衆を代表する奉仕者になることもあるでしょう。監督となるとき,常にエホバに頼り,羊のような人々の会衆はエホバの会衆であることを認識して,監督の職にともなうすべての責任をはたします。
32,33 (イ)円熟した奉仕者にはどんな特別な機会が開かれるかも知れませんか。(ロ)これらの奉仕に選ばれる資格を得るのに,何が役立ちますか。
32 このほかにも全時間宣教に携わる機会,「必要の大きな処」に行き,多くの場合に困難な事情の下で神の他の羊を助けて奉仕する機会があります。あるいは幾つもの会衆を巡回する監督また地域の監督として奉仕することになるかも知れません。これらの宣教奉仕の特権のほか,外国に行って伝道する宣教者,あるいはベテルのメンバーとなる機会もあります。ベテルは世界各国にあって伝道のわざを監督する事務所です。
33 これは円熟をつちかい,円熟を身につける進歩の道行きと言えるかも知れません。それは安易な道,努力のいらない道ではなく,また奇跡的に達成されるものでもありません。それは常に心を用い,学び,考え,行ない,伝道し,御霊の実を表わし,他の人に愛を示すことの結果です。それは無私の気持で常に与えることを意味します。円熟するにつれて,人は他の人の荷を負うようにもなります。それはクリスチャンの責任であり,愛の表われです。―ガラテヤ 6:2。
34 パウロはどのように円熟を示しましたか。
34 たしかにクリスチャンの円熟にはすばらしい祝福がともないます。私がキリストにならう者であるように私にならいなさいと他の人々にすすめるまでに進歩したパウロは,この事を示しました。たしかに,パウロは信仰において全く成長した人でした。パウロはその生涯の終りに近づいたとき,確信をもって次のように述べました,「わたしは,すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき,走るべき行程を走りつくし,信仰を守りとおした。今や,義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には,公平な審判者である主が,それを授けて下さるであろう。わたしばかりでなく,主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」。―テモテ後 4:6-8,新口。コリント前 11:1。
35 新世社会内で円熟を目ざして励むことを,どのように見るべきですか。
35 円熟はすべてのクリスチャンの目標でなければなりません。円熟は宣教における最高の満足と喜びをもたらします。最大の喜びは他の人々との親しい関係またエホバとの親密な関係を認識することから生まれるからです。円熟するとき,私たちはエホバの祝福を常に意識するようになります。それでエホバの新世社会内で「全き人」に成長しようと努めてゆくとき,その進歩を何物にも妨げられてはなりません。円熟を得る私たちの目的が,エホバをほめ,行いと手本によって偉大な主権者のみをほめることでありますように。そうするとき他の人々は従うべき良い手本を見ることになります。ピリピ人に宛てたパウロの言葉はそのことをよく言い表わしています,「だから,わたしたちの中で全き人たちは,そのように考えるべきである。しかし,あなたがたが違った考えを持っているなら,神はそのことも示して下さるであろう。ただ,わたしたちは,達し得たところに従って進むべきである」。―ピリピ 3:15,16,新口。
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病気に負けないものみの塔 1963 | 10月1日
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病気に負けない
◇ 病気が宣教に参加することと,定期的な奉仕とを妨げるとはかぎりません。次はオーストラリアの経験です。「私たちの会衆の一姉妹は,『ものみの塔』予約運動期間中に,大きな手術をうけるため入院しましたが,それまでに12の予約を得ていました。手術は火曜日に行なわれ,成功しました。木曜日には私たちの面会も許されました。行って驚いたことには,彼女は手術後で気分がすぐれないにもかかわらず,同室の患者たちからすでに四つの予約を得ていました。しかも,この予約は手術の前ではなく,手術後に得たとのことでした」。―1963年エホバの証者の年鑑から
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