「わたしはそう望むのです」
ガリラヤのある都市には,イエス・キリストが病人をいやし,悪霊を追い出したという知らせがすでに届いていました。その都市で,体じゅうらい病の男がイエスのところへやって来ました。
そのらい病人はうつ伏し,それからひざまずいてイエスに懇願し,「あなたは,ただそうお望みになるだけで,わたくしを清くなさることができます」と言いました。次いで起きたことを聖書はこう伝えています。「そこでイエスは哀れに思い,手を差し伸べて彼に触り,『わたしはそう望むのです。清くなりなさい』と言われた。すると,すぐにらい病は消え,彼は清くなったのである」― マルコ 1:40-42。ルカ 5:12,13。
この男の人はらい病に悩まされていました。らい病はその当時忌まわしい病気とされていました。病気が感染するのを恐れ,人々はらい病人を避けるのが常でした。しかし,イエスはどんなことをされたでしょうか。手を差し伸べて,らい病人に触ったのです。イエスは恐れることなく,むしろその人に対する同情心に動かされたのです。
イエスは忙しい方でしたが,個々の人の感情や必要,状況を理解することに決してやぶさかではありませんでした。イエスが他の人に個人的な関心を示されたそのような貴重な例は数多くあります。イエスのこうした特質のゆえに,わたしたちはイエスに引き寄せられ,慰めを与えられ,力付けられます。助けを必要としている人々に対する,今日でも変わらないイエスの気持ちを雄弁に物語る表現は,イエスがらい病人に対して語られた,「わたしはそう望むのです」という言葉をおいてほかにありません。
この時,イエスはご自分の父,エホバ神の特質を見事に表わしておられました。とこしえの神また完全な神であられるので,エホバは何にも事欠かれることはありません。それでも,ご自分の愛と知恵を他の者たちに分かつことを好まれました。それで,天と地に,愛する能力を備えた,理性を持つ知的な生物を創造されたのです。そして,被造物全体に必要物を寛大に備えておられるだけでなく,祈りに耳を傾け,個々の人の心を調べることにより,きめの細かい個人的な関心を払っておられます。―ローマ 8:26,27。
人々に私心のない個人的な関心を示すことにより,イエスの真の追随者は,自分たちがエホバ神に見倣う者であり,時には自分たちも知らないような神のご意志を成し遂げる場合のあることを示します。
『もう一度訪問したいのです』
イエスはご自分の弟子たちに神の王国の良いたよりを宣べ伝えるようお命じになりました。(マタイ 24:14; 28:19,20。使徒 1:8)エホバの証人はその使命を非常にまじめに受け止めているので,すべての家を訪問し,聴く耳を持つ人々に聖書の音信を熱心に伝えています。
特に際立った成功を収めている福音宣明者は,自分の区域の人々に誠実で個人的な関心を抱く人たちです。そのような個人的な関心があれば,「良いたより」の宣明者は区域の人々についてできる限りの事を知るため,人々の語ることに耳を傾けるはずです。優れた医師は,患者を注意深く診察するまでは処方せんを渡しません。同じように,クリスチャンの心が人々を助けたいとの願いに満たされているなら,やはり区域の人のことを知りたいと思うはずです。そうすることによって初めて,エホバの証人は個々の人に適切な援助を与えることができるのです。
ですから,宣べ伝える業のためにエホバの証人にできる最善の準備は,口頭での提供の仕方を暗記することではなく,心の準備をすることです。会う人々に対して心からの純粋な関心を抱いていれば,何を言ってよいか分からなくなることは決してありません。人々を霊的に助けることを話し,また行なえるでしょう。
宣教の際,他の人に個人的な関心を抱いていれば,その家をあとにしてからも自分の会った人々について考え続けるものです。その結果,再び訪問したいという願いを抱くようになります。
米国コネティカット州に住む一人のエホバの証人は,ある日家から家の宣べ伝える業で出会った若い婦人について自分の母親に話しました。その証人は母親にこう話しました。「彼女は大きな青いひとみで私を見つめ,『私は神なんか信じていません』と言ったわ。でも,何かあるように思えるの,お母さん。だから,もう一度訪問してみようと思うわ」。
その証人は再び訪問しました。聖書研究が始まり,6か月後にその若い婦人は家から家の宣べ伝える業にあずかるようになり,その後間もなくバプテスマを受けてクリスチャンになりました。かつて無神論者だったこの女性は,今ではエホバの証人の旅行する監督の夫人になっています。
他の人々に個人的な関心を示す点でわたしたちがエホバとイエスに見倣うので,人々はわたしたちとわたしたちの教える神の言葉の真理に引き寄せられます。
『互いに対して気づかいを示しなさい』
クリスチャン会衆内でイエスの弟子たちを一つに結び合わせているのは,互いに対するその愛ある関心です。(ヨハネ 13:35。ガラテア 6:10)使徒パウロはクリスチャン会衆を人体になぞらえ,その成員相互の関心と互いに依存し合う関係について描写しています。パウロはこう書きました。
「目は手に向かって,『わたしにあなたは必要でない』とは言えず,頭も足に向かって,『わたしにあなたがたは必要でない』とは言えません。……体に分裂がないように,その肢体が互いに対して同じ気づかいを示すように[すべきです]」― コリント第一 12:14-25。
「互いに対して同じ気づかいを示す」という部分に相当するギリシャ語の表現には,字義的に言って『互いのことを心配すべきである』という意味があります。(王国行間逐語訳)これは,会衆の成員が互いに対して抱くべき個人的な関心の強さを強調するものです。パウロはこの点に関して説得力のある論議を展開し,こう述べています。「一つの肢体が苦しめば,ほかのすべての肢体がともに苦しみ,一つの肢体が栄光を受ければ,ほかのすべての肢体がともに喜ぶのです」― コリント第一 12:26。
他の人に対して個人的な関心を払うことにより,わたしたちは人々の内にある良いものを引き出します。他の人々の内に良いものを生み出す可能性を認め,それを育むのです。
聖書は,バルナバが宣教の友として,マルコとも呼ばれたヨハネに個人的な関心を払ったことを伝えています。第1回宣教旅行の際にマルコがパウロとバルナバに迷惑を掛けたことを知ってはいましたが,マルコの内に秘められている良い面を認めていたのです。その結果,マルコは霊的に進歩するための助けを得,神のすばらしい僕になりました。(使徒 13:5,13; 15:36-39。テモテ第二 4:9-11)マルコはやがて神の祝福を受けて,自分の名の付された聖書の一つの書を霊感を受けて書き記すという際立った特権にあずかりました。
同様に米国でも,一人のクリスチャンの長老は会衆内のある十代の少年に個人的な関心を払いました。長老は,会衆の集会場所である王国会館を建てるに当たって,一緒に来て手伝うよう若者を招きました。その帰り道に二人はよく軽食を取り,話し合いました。少年は今では成長し,巡回監督として奉仕しています。しかしこの巡回監督は,その長老が自分に対して個人的な関心を払ってくれたことを,霊的な成長における最も重要な出来事の一つとして今なお記憶しています。
真のクリスチャンであるわたしたちは,他の人々に個人的な関心を払うことにより,人生の喜びと目的の新たな輝きを味わうことができます。わたしたちが聖書の音信を分かつ相手の人々だけでなく,若い人やお年寄り,病人,孤児ややもめ,そして自分自身の家族の成員を含む会衆内の霊的な兄弟姉妹たちにも関心を示せます。そうすることによって,その人たちの生活を幸福で満ちたものにできるのです。
同時に,わたしたちは神が様々な仕方で報いを与えてくださることにも確信を抱けます。イエスが請け合っておられるように,「受けるより与えるほうが幸福」なのです。(使徒 20:35)それでは,神を心から愛する者すべてが他の人々に個人的な関心を示す点で天のみ父に見倣ってゆきたいものです。イエスはその模範を示して,らい病人に言われました。「わたしはそう望むのです」。