与えられているものを愛の中に使用
1 コリント前書 12章に述べられている御霊の賜物は何ですか。それらは何の目的のために与えられましたか。
パウロは,食物について他の者に考慮を払う必要をコリント人に書き送りました。その後に,彼は他の多くの事柄をも取り扱いました。その12章の中では,初期クリスチャン会衆に与えられたいろいろな御霊の賜物を考慮しています。これらの賜物は各クリスチャンに与えられました。それはクリスチャン各自の楽しみとか益のためではなく,他の者の益のためでした。パウロは12章7節から11節にかけて次のように書いています,「各自が御霊の現れを賜わっているのは,全体の益になるためである。すなわち,ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ,ほかの人には,同じ御霊によって知識の言,またほかの人には,同じ御霊によって信仰,またほかの人には,一つの御霊によっていやしの賜物,またほかの人には力あるわざ,またほかの人には預言,またほかの人には霊を見わける力,またほかの人には種々の異言,またほかの人には異言を解く力が,与えられている。すべてこれらのものは,一つの同じ御霊の働きであって,御霊は思いのままに,それらを各自に分け与えられるのである。」
2 エホバはこれらの賜物がどのように用いられることを要求しましたか。
2 すべてのクリスチャンはひとつのからだの成員でした。そして,神からいただいたすべてのものは,全制度の益をはかるためでした。各人は神のみ旨のままに,そのからだの中で立場を持っていました。そして,その建築の計画の中で神の共働者として神からいただいたものを使用する仕方は大切でした。神は愛の御心を持たれる偉大な建て主です。それで,神と共に働く者たちも愛をその動機にしなければなりません。異言を語るとか,預言をするという御霊の賜物をいただいたとしても,その賜物を正しく,かつ正しい動機で用いないなら,それだけでエホバにうけいれられるということはありません。パウロは次のように語りました,「たといわたしが,人々の言葉や御使たちの言葉を語っても,もし愛がなければ,わたしは,やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じてある。たといまた,わたしに預言をする力があり,あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても,また,山を移すほどの強い信仰があっても,もし愛がなければ,わたしは無に等しい。たといまた,わたしが自分の全財産を人に施しても,また,自分のからだを焼かれるために渡しても,もし愛がなければ,いっさいは無益である」。―コリント前 13:1-3,新口。
3 (イ)なぜこれらの賜物はなくなりましたか。いつ?(ロ)それと反対に,どんな特質はなくなりませんか。クリスチャンはその特質をどのように表わしますか。
3 キリスト・イエスの死後,建設の計画はつづけられて行きました。多数の人々に御国の音信を銘記させるため,神の御霊により特別の賜物が備えられました。これらの賜物は,使徒の生存していた初期クリスチャン教会で行使されました。しかし,使徒たちの死とともに,賜物を与えることも終わりました。使徒パウロは,それらが終わるということを知っていたので,コリント前書 13章8節(新口)で,次のように書いています,「預言はすたれ,異言はやみ,知識はすたれるであろう」。しかし,彼らがこれらの賜物を持つかぎり,他の者を建ておこすために,それらを愛の中に用いるべきでした。愛は他の者に表現されるものです。そして,愛はクリスチャンの中に永久に見出される特質です。御霊の賜物は,すたれるかも知れません。しかし,愛はすたれません。愛は決して絶えることがないと,使徒は述べています。愛がどのように表現されるかを示すため,パウロは次のように書きました,「愛は寛容であり,愛は情深い。また,ねたむことをしない。愛は高ぶらない,誇らない,不作法をしない,自分の利益を求めない,いらだたない,恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして,すべてを忍び,すべてを信じ,すべてを望み,すべてを耐える」。―コリント前 13:4-7。
4 御霊の奇跡的な賜物を伝えることは使徒たちの死ともに終わりましたが,私たちがいま研究するためそれについてのことが,なぜ多く聖書中に記録されているのですか。
4 異言,預言そしていやしの賜物を与えることは,使徒の死とともに終わりました。そして,これらの賜物は今日行使されていません。しかし,聖書の中ではそれらのことについて多く記されています。なぜ,私たちの研究のために,神はこれらのことを書きとめさせたのでしょうか。使徒たちの死とともに御霊の奇跡的な賜物は,終わりました。しかし,私たちはこれらの御霊の使用に関連して与えられている教訓を学ぶことができます。パウロは,14章の中で愛を追い求めることと,御霊の賜物の使用とをむすびつけ,それらを比較して,ある賜物は他の賜物よりもはるかにのぞましいと示しています。初期クリスチャン会衆では,賜物はたいへん有益でした。なぜなら各人を建ておこすためにクリスチャンたちが集まったとき,聖書全部とかたくさんの注解の書,あるいは今日の「ものみの塔」のように聖書の研究を助ける雑誌などはなかったからです。賜物のうちどれがのぞましいものでしたか。
5 どちらの賜物がのぞまれましたか。そしてなぜ?
5 のぞましいものは預言することでした。ではなぜ預言することは,いやしの賜物や異言の賜物よりもいっそうのぞましかったのですか。「異言を語る者は,人にむかって語るのではなく,神にむかって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ,霊によって奥義を語っているだけである。しかし預言をする者は,人に語って彼を建ておこし,励まし,慰めるのである。異言を語る者は自分だけを建ておこすが,預言をする者は会衆を建ておこす」。(コリント前 14:2-4,新世)この助言はきわめて実際的です。異言を語る者は,自分自身を建ておこすが,通訳がいないなら会衆は建ておこす益がすこしも得られないとパウロは示しました。彼は,異言で語ることを,音色のはっきりしない戦闘ラッパになぞらえています。容易に分かる言葉で語る方がはるかに良いでしょう。そうすれば,それを聞く者は意味を知って益を受けます。そのわけで,異言の賜物を持つ者に対して,パウロは13節で次のようにすすめました,「このようなわけであるから,異言を語る者は,自分でそれを解くことができるように祈りなさい」。それで,彼は述べられている言葉を人々が理解する必要を強調しています。自分だけでなく他の人々に興味を持つ人は,他の人の益のために何かをしたいとのぞむでしょう。パウロは,その16節のところで異言で感謝をささげることに注意をひいて,次の質問を発しています,「普通の席にいる者は,あなたが感謝をささげても,どうしてアァメンと言えようか。あなたが何を言っているのか,彼には分からない」。それで,会衆内では,他の人にも分かる五つの言葉を語って,教える方が,他の人には分からない言語で1万の言葉を語るよりも良いでしょう。
6,7 (イ)なぜ神は初期クリスチャンたちに異言の賜物を与えましたか。(ロ)預言することはどのように益のあるものでしたか。(ハ)コリント前書 14章では,神から与えられた賜物,あるいは能力をどのように愛の心をもって使用することがクリスチャンの目標であると示されていますか。
6 それでは,なぜ神は初期クリスチャンたちに異言の賜物を与えましたか。これらの者たちが神の真の僕たちであることを示すためであったことは明瞭です。パウロは次のように述べました,「このように,異言は信者のためではなく,未信者のためのしるしである」。(コリント前 14:22,新口)パウロは,このように論じて後,なぜ預言の方がのぞましいかその良い理由を説明しています。仲間のクリスチャンたち,または兄弟たち,すなわちエホバに仕えたいと望む者たちを考慮する故にのぞまれています。預言すること,あるいは理解をもって良いたよりを伝道し他の者を教えることは,会衆内の者と不信者にも益を与えるでしょう。また出席する普通の人も教えをうけてエホバ神を崇拝する仕方を学ぶようになるでしょう。「預言は不信者のためではなく信者のためのしるしである。もし全会衆が一緒に集まって,全員が異言を語っているところに,普通の人か不信者がはいってきたら,彼らはあなたがたを気違いだと言うだろう。しかし,全員が預言をしているところに,不信者か普通の人がはいってきたら,彼の良心はみんなの者に責められ,みんなの者にさばかれ,その心の秘密があばかれ,その結果,ひれ伏して神を拝み,『まことに,神はあなたがたのうちにいます』と告白するに至るであろう。」― コリント前 14:22-25,新世。
7 エホバの備えられた賜物は,それぞれ使用されて,益のあるものでした。しかし,この預言の賜物はのぞましいものでした。なぜなら,それは兄弟たちを建ておこし,人々にエホバの崇拝を教えることに最も益のあるものだったからです。いただいた御霊の賜物がどんなものであったにせよ,愛の原則ははっきり示されます。そして,これらの賜物が用いられる仕方は,他の者に思いやりを持って,益を与えることに示されました。そのことは,エホバ神に仕える者に対してエホバ神の備えたもうすべてのことについても言えます。「すると,兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時,各自はさんびを歌い,教をなし,啓示を告げ,異言を語り,それを解くのであるが,すべては徳を高めるためにすべきである」。(コリント前 14:26,新口)はっきり分かるとおり,真のクリスチャンは,他の者を建ておこすために万事を行ないます。
現代の建ておこす計画
8 現代のクリスチャン会衆は,御霊の奇跡的な賜物を使用していませんが,彼らを建て起こすためにどんな準備が設けられていますか。
8 聖書から明白に分かるとおり,初期クリスチャン会衆を建ておこすために御霊の奇跡的な賜物が与えられたことは,使徒たちの死とともに終わりました。今日では,真のクリスチャンはいやしの賜物とか,異言で語る賜物を使用していません。今日,クリスチャン会衆を建ておこすために他の手段を使うことができます。エホバは御自分の御言葉,聖書を与えられました。聖書はいま1000以上の言語で読むことができます。それに加えて,神権的な出版物は数多くあります。それらは,教えるわざと建ておこすわざのみちびきとなります。エホバは次の命令により今日のための御準備を設けられました,「約束をして下さったのは忠実なかたであるから,わたしたちの告白する望みを,動くことなくしっかりと持ちつづけ,愛と善行とを励むように互に努め,ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか」。―ヘブル 10:23-25,新口。
9 会衆の集会に定期的に出席することは,他の者に対してどのように思いやりのあることですか。
9 会衆の集会に定期的に集まることは,ぜひ実行されねばなりません。各人は会衆の集会に出席してたがいに励ますように自らを鞭打たねばなりません。特にこの悪い時代,サタンの悪い組織制度の終りが近づいているゆえ,いっそう出席するべきであります。ある人は自分自身の考え方によりたのんでいて,個人的な研究をする方が時間をもっと有効に使えると感ずるかも知れません。しかし,そうする人は何をしていますか。彼は明らかに他の者に考慮を払っておらず,自分だけのことを考えています。会衆の集会に定期的に出席するとは,私たちが他の者に思いやりを示し,他の者に興味と愛を持っていると示します。私たちが集会に行くのは,他の人の言葉を聞いて益を受けるため,あるいは教訓を受けるためではありません。むしろ,たがいを建ておこすことに参加するためです。このような集会において私たちの希望は言い表わされて,他の者は建ておこされます。私たちが公に語ることは,あたかも霊感をうけて話すように,瞬間的なもの,事前の考えなしであってはなりません。私たちは秩序だった神権制度内にいる故,考慮すべき主題を知っています。そして,私たちはまえもってそのことを準備し,すべての人の益のために建ておこす考えに貢献します。これは,現代における御自分の僕たち全部の者に対するエホバの御準備です。
10 他の者に興味を示して,私たちの持っているものを愛をもって使用することは,会衆を建ておこすことにどのような結果をもたらしますか。
10 エホバの僕たちが定期的に集まることは建ておこすことに益があると知ります。すると,隣人や家族および善意者を愛する私たちは,いっしょに集会に出席するよう彼らを招待したいとのぞむでしょう。また,特別な骨折りをしてまでも,集会の重要性を認識しない人々の霊的な弱さを考慮するでしょう。そして彼らを見出し,私たちといっしょに集会に伴うようにするでしょう。もし自動車を持っているなら,たとえ余計な時間がかかっても,善意者を助けて集会に連れてくるでしょう。もし電話があるなら,私たちは電話で他の人に話して,愛の心から彼らに集会のことを思いおこさせます。会衆内の他の者たちは,私たちの努力に感謝を示すでしょう。そして,私たちも他の人が善意者を集会に連れてくるために努力をしたことに感謝を示すべきです。見知らぬ人が来るなら,私たちはその人たちを必ず歓迎し,関心を持つべきです。―ピリピ 2:1-4。
11 愛の心を持つクリスチャンは奉仕のことにどんなに忙しい場合でも,見知らぬ人が会衆の集会にはいるとき,どのような行いをしますか。
11 そのことを実際的に適用しましょう。エホバの忠実な僕は,いまたいへん忙しいと言えます。いつも集会に行くとき,しなければならぬいろいろのことを考えているでしょう。たとえば,後日の奉仕のための文書とか他の供給物を得たり,奉仕活動についての報告を提出したり,新しい予約を提供したり,宣教のわざをするための区域を得たりします。御国会館に行くと,計画したことを行ないます。しかし,もし愛の心と思いやりを持っているなら,初めて集会に出席する見知らぬ人のことよりも,これらのことを大事にするでしょうか。もし自分の個人的なことをなるべく早く済ませて,集会場から去りたいなら,見知らぬ人のことをすこしも考えずに自分の仕事を大急ぎでするでしょう。しかし,それは制度を建ておこすことではありません。見知らぬ人を歓迎して,その出席を歓待するのは,ほんの数分で済むでしょう。愛は表現されるもの,示されるものです。監督だけが見知らぬ者を歓迎するのではありません。見知らぬ者を歓迎するために,監督は明確な取りきめを組織すべきです。これはエホバからうけたよろこびを分かち合う仕方です。見知らぬ者を歓迎したとき,研究の集会が終わって後に,必要な事務の仕事をして将来の奉仕を準備する時間は,必ずあるでしょう。―テモテ前 3:2。ペテロ前 4:8,9。
12 見知らぬ者は,建てる者の群れの中になぜ真実に歓迎されますか。
12 献身した建設者は,次のことを認めています,すなわち会衆内に来て会衆の一員になる見知らぬ人は,建てる活動に参加してその荷を担うということ,それは建てる計画のためにさらに多くの援助者をみちびき入れるエホバ神の御準備であるということです。そのためにこそ私たちが日々祈り求めて,働かねばならないのです。それで,見知らぬ者は,建てる者の群れの中に歓迎されねばなりません。―マタイ 9:37,38。
13 肉体的に病気な者あるいは霊的に病気の者には,どんな関心が示されるべきですか。
13 クリスチャン奉仕者はひじょうに忙しいでしょう。しかし忙しいあまり,他の人の姿が見えないのに気がつかないということがあってはなりません。もし会衆の一員が欠席しているなら,何が原因ですか。その人は病気になりましたか。慰めが必要ですか。監督にたずねることができます。もしだれかが病気になったなら,その病気になった人を建ておこして励ますために適当な発表を会衆にすることができます。一方,霊的なことの認識を失って建ておこす計画に活発でなくなる人もいくらかいます。彼は他の事柄にかかわり合ってしまうので,集会に定期的に出席できなくなるでしょう。ヘブル書 10章23-25節に命令があるにもかかわらず,このことは生ずるかも知れません。熱心に建ておこす者は,弱い人を援助するためにいっしょうけんめい努力すべきです。時間と注意をかけると,霊的なことに対する彼の認識は再燃されて,彼は宣教にふたたびかたく立つでしょう。いまは私たちの心をそらすものや罠がたくさんあります。物質主義は狡猾な敵です。建ておこすために2,3の適切な言葉を語ることは,悪い影響に屈した人を大いに益します。大いなる建て主,エホバは会衆の制度を通して,彼を愛する者たちを建ておこす手段を設けられました。―ヤコブ 5:19,20
建ておこされるものに注意
14 (イ)賢明な建設者は自分のわざに興味を持っていると,何が示しますか。(ロ)互いに建ておこすような会話をどのようにすることができますか。
14 良い建築をする人は,その建物に注意を払います。1週間にわずか3時間とか4時間ではなく,毎日その建てものについて考えます。それは大切であり,彼はそのことについて働きつづけ,それについて語ります。また,なにかをする前に,計画を立てます。どんな種類の基礎が置かれたか,その基礎の上に何が置かれるかを彼は知っています。そして,建てているあいだそのことを考えつづけます。(コリント前 3:10。テモテ前 4:15)他の建設者と話し合うとき,建てていることについて話し合います。霊的な建設者も同じでなければなりません。彼の職は霊的に建てることで,それについて考え,そのために働きつづけます。彼が他の者と交わるとき,その会話は建ておこすものです。彼はエホバとキリスト・イエスの例に従い,いつでもエホバの言葉により人を建ておこします。毎日たくさんの良いことを語ることができます。日々の聖句と注解があります。それはわずかな霊的な食物ですが,日中私たちがエホバに奉仕することを援助します。それは以前に読んだものかも知れませんが,それは建ておこすものです。これを読んでいるいま,あなたは今朝考慮した聖句と注解を思い出すことができますか。ある家庭では,両親は夕食のときに朝論じた聖句のことを述べて,家族の者が学んだ大切な教えをその日中おぼえていたかどうかをしらべています。クリスチャンの中では,たくさんのことを論じます。宣教学校にはいっている人は,話の割当をうけ,また全部の人は復習に参加します。野外活動のときのすばらしい経験のことを語りなさい。私たちが戸口で会う人とか,研究している人々は質問を提出します。私たちは協会の出版物で非常に大切な論議を読みます。私たちは,だれかがそれらのことを繰り返して述べ,新しく学んだことを語るのを聞いて感銘を受けます。霊的なことを考えつづけ,語りつづけるのは,心をさわやかにします。―コロサイ 3:7,8,16,17。ピリピ 4:8,9。
15 クリスチャンの活動は,どのように他の者を建ておこしますか。
15 もし私たちが正しく考えて,エホバの御言葉を通して学んだことを実際に行なうなら,毎日の模範と活動により,他の人を建ておこすことができます。特にすべての会衆内で組織されている訓練計画ではそうあるべきです。ここでも他の者に対する愛と思いやりを示さねばなりません。野外伝道の訓練計画にあずかり,経験の少ない人を援助してその宣教を改善するよう割当てられるなら,いっしょに働く人のために時間,考え,力,そして注意を向けます。他の人と会うためにわざわざ遠い所へ出かけて行かねばならないでしょう。しかし,これはクリスチャン制度全体を建ておこすのに良いことです。もし自分自身のことだけを考えているなら,自分ひとりの働く区域か地域を持って,ひとりだけで働くことにまったく満足するでしょう。私たちは自分の教えに注意をはらいます。しかし,他の者たちを救うために,彼らをも援助したいとのぞみます。「自分のことと教のこととに気をつけ,それらを常に努めなさい。そうすれば,あなたは自分自身とあなたの教を聞く者たちとを,救うことになる」。―テモテ前 4:16,新口。
16 (イ)古い世のことを追い求めるためにすべての時間をささげることはなぜ愚かですか。(ロ)知恵のあるクリスチャン建設者は,どのように行ないますか。
16 私たちはもちろん,他の者も御国宣教のわざを忙しくしているなら,エホバが滅びに定めているこの世の活動にまきこまれない保護をうけるでしょう。次のような人をどうお考えになりますか。この人は自分の住んでいる町が一つの建物をこわして,その跡に大道をつくると知ります。ところがこの人はその建物を買って,それにペンキを塗り,装飾し,美化し,そしてその修繕にたくさんの時間を費します。ところが,町の当局者は来て,その建物をこわしてしまいます。その建物の工事をしていた人は,愚かな者と考えられます。しかし,この世の活動に全時間をささげて奉仕を行なわない人は,この種類の人です。この人は社会内で建設的なことをしている,なにか良いものを建てていると信ずるかも知れません。しかし彼は何を建てているのですか。もし古い世の基礎の上に建てているなら,彼はすぐにこわされてしまう建物の工事をしていることになります。それに注がれる時間は浪費したことになり,愚かな建て主はその生命を失うでしょう。世俗の活動を追い求めると,そういうことになります。時間と力は浪費されて,永続するものは何ひとつ得られません。しかし,クリスチャンは平衡を保ち,自分の職は宣教であると記憶しなければなりません。パウロは,コロサイ書 4章5,6節(新口)で次のように助言しています,「今の時を生かして用い,そとの人に対して賢く行動しない。いつも,塩で味つけられた,やさしい言葉を使いなさい。そうすれば,ひとりびとりに対してどう答えるべきか,わかるであろう」。この世との交わりを多く持てば持つほど,この世とのかかわりを持つようになり,また外部の影響のために道徳的に汚れてしまうでしょう。彼は知恵を使って多くの時間を生かして用い,自分を改善して建ておこす話をするようにします。また,キリストの指示の下にいま行なわれている活発で建設的なプログラムに参加すべきです。
17 クリスチャンの一致の故に全世界で何が達成されていますか。誰が,一致を保つことを指導すべきですか。
17 一致の中に力があります。エホバの証者はエホバの御心を行なうことに努力を一致させることにより,エホバの設立された御国の良いたよりを全世界に伝道することに参加しています。その御国は,大いなる建設者なるひとりの神によって支配されています。彼はキリスト・イエスを王の地位につけて,御国に参加する者たちの活動を愛の中に指示させています。パウロはエペソ書 4章の中で,仲間のクリスチャンたちに,その召にふさわしく歩き,耐え忍び,愛を保ちつづけ,そして一致をもたらす平和のきずなの中に御霊の一致を保つようにと仲間のクリスチャンたちに命じています。彼は,僕たち各人には,宣教者,牧者,および教える者としての多くの責任が課せられているという事実に人々の注意をひいています。そのような者は,奉仕者を訓練するため,およびキリストの体を建ておこすために任命されたのです。今日,新しい世の社会内の監督たちが,建設の計画で大きな責任を持っていることは疑いありません。彼らは訓練を与える者,および教える者であって,野外で良い指導の手本を示し,今日の新しい世の社会を構成する若い者,年老いた者,男と女のすべての人に興味を持ちつづけねばなりません。そのように霊的に与えることは,幸福にみちびきます。(使行 20:35)ある国々ではクリスチャンの建てるわざに反対がなされています。しかし,それはつづけて行なわれるべきです。このことについてはネヘミヤの模範が監督に与えられています。(ネヘミヤ 4:8,9,21。テトス 2:1-15)会衆内の者は,監督が他の者を建ておこす仕方を教えるものと当然に期待しています。そして,今日エホバの制度の援助により,監督はその奉仕をする備えを十分身につけています。彼らが献身的にその奉仕をされますように。―ヘブル 13:7。
18 (イ)なぜ新世社会内の全部の者は,力と一致を保つことに,協力しなければなりませんか。(ロ)このことに関連して,私たちはエホバから私たちに与えられた真理を愛の心をもってどのように使用することができますか。
18 今日,新しい世の社会内のものはみな,霊的に建ておこすわざの責任をとるようにしましょう。今日の霊的な建物は永遠につづく建物です。(エペソ 2:21,22)各人はキリストの体に建てられる霊的な石になぞらえられています。そして,彼らをむすびつけるきずなは互いに対する愛と同情です。野の中にひとつか二つの石を投げるだけでは建物ではありません。建物とは,石をかたく接合させた組織体のことです。今日エホバを崇拝する人々は,新しい世の建物というひとつの制度です。このサタンの支配の末の日にあって,エホバは彼らを一致の中に集められました。そして,各人は霊的に強い建物を保つために自分の分を果たし,その建物をつくりあげる他の者と密接に一致しなければなりません。それぞれの石を霊的に強めることは,他の者に益となります。なぜなら,それはすべての建物をつよく保つからです。それでハルマゲドンの大きなあらしのときに,悪しき者であるサタンとその軍勢が攻め寄せても,その建物はたおれないでしょう。キリストのからだのものをも含む新しい世の社会の一致と力は,愛の心で真理を用いることにより安全に守られます。エホバは,たがいに建ておこすためにその真理を私たちに与えられたのです。「愛にあって真理を語り,あらゆる点において成長し,かしらなるキリストに達するのである。また,キリストを基として,全身はすべての節々の助けにより,しっかりと組み合わされ結び合わされ,それぞれの部分は分に応じて働き,からだを成長させ,愛のうちに育てられていくのである」。―エペソ 4:15,16,新口。