神の土地を管理する国家
地の所有権に対する正しい見方は何ですか。
エホバ神は天と地の創造者であられ地と地上のすべての物を所有されます。地上に生息する被造物は相互の関係において所有権,ないしは所有の権利を保有し,これは尊重されねばなりません。しかし,いずれの場合でも真実の所有者は神であり,神の前にあってはいかなる被造物も自己の所有権を主張し得ぬ事を忘れてはなりません。―詩 24:1。
一国家が自国の国土上に長く存続できるか否かを定めるものはなんですか。
たとえ国家といえどもこの事実を認め,国土の利用は国民の益をはかって行なわねばなりません。国家が真の神に対する崇拝を奨励し,その定めに従うか,あるいは,国土を汚し,それを荒廃させるか否かによって,その国家が自国の国土上に存続し得るか否かが決定されます。無神論に追従する国家,あるいは,古代都市バビロンに由来し,創造者と地の所有者にそしりとなる偽りの宗教教義に影響された国家が,地上に長く存続する事はありません。諸国家は,ただ神の許しによって,地上に場所を占めていますが,真実に神を代表するものとして土地を委ねられているものは一つもありません。
土地と法典とを神から与えられた国について調べる事は今日の私たちにどのように有益ですか。
しかしながら,神に委ねられて土地を与えられた国家がかつて存在しました。それは所有権を与えられたのではなく,その管理を委ねられたのであって,その存続のためには神の前に正しく責任を果たさねばなりませんでした。これはそれまでに神の定めた法制を持った唯一の国家でした。新国家が次々に形成され,政府の交代が相次ぐ今日,この国家とその結末を調べることは,地上のいずれの土地に住む者をも助け,安全と自由と幸福をもって地上で生活することを望む者に,その取るべき道を明らかにするでしょう。
どんなことの帰結として,エホバがイスラエル民族のために律法を作る事は正当となりましたか。十戒のはじめのいましめの内容はなんですか。それがとくにイスラエル人を対象として与えられたものであることは,その文面にどう表われていますか。
神はこの民,すなわちイスラエル民族を,エジプトにおける奴隷の苦役から救い出し,ご自身のうい子とされました。同時に神はこの民の王でもありました。神は一つの国家を組織するため,モーセを指導者としてこの民をホレブ山に導きました。神はみ使いを用いて他に類例を見ぬ十戒を布告されました。次にかかげる十戒の初めの2条は,非ユダヤ人ではなく,救い出されたイスラエルの民にのみ適用できました。「我はなんぢの神エホバ なんぢをエジプトの地その奴隷たる家より導き出せし者なり なんぢ我面の前に我のほか何物をも神とすべからず。
第2のいましめはイスラエル人に何を求めましたか。
「なんぢ自己のために何の偶像をも彫むべからず 又上は天にある者 下は地にある者ならびに地の下の水の中にある者の何のかたちをも作るべからず 之を拝むべからずこれにつかふべからず 我エホバなんぢの神は嫉む(専心の献身を求める=新世)神なれば……」― 出エジプト 20:2-6,文語。
第5のいましめの語法は,それがイスラエル人にあてはまることをどう示していますか。とくにどんな事のしるしとして安息日に関するいましめが与えられましたか。
他のいかなるの国民にも約束されず,ただアブラハムとその子孫に約束された土地について,その第5条は次のごとく述べました。「なんぢの父母を敬へ 是はなんぢの神エホバのなんぢにたまふ所の地になんぢの生命の長からんためなり」。(出エジプト 20:12,文語)そして,他の国民とイスラエルとを区別するしるしとして,毎週,ないしは7日に一度ずつ安息すること,すなわち,人と家畜が一切の仕事を休むことが命ぜられました。―出エジプト 20:8-11; 31:13。
神の指示通りに取り扱われるべき土地
土地のためにどんな安息を守ることを神はイスラエル人に教えられましたか。
安息に関する律法はこれ一つではありません。神はイスラエル人に与えた土地そのもののためにもいくつかの安息を守るべき事を定められました。神はこう命ぜられました,「我がなんぢらに与ふる地になんぢら至らん時は……六年のあひだなんぢその田野にたねをまき……第七年には地に安息をなさしむべし 是エホバにむかひてする安息なり……
50年目ごとに何があることになっていましたか。
「なんぢ安息の年を七つかぞふべし……すなわち四十九年なり かくしてその第五十年をきよめ国中のすべての人民に自由をふれしめすべし この年はなんぢらにはヨベルの年なり なんぢらおのおのその産業に帰り おのおのその家にかへるべし」。―レビ 25:1-13,文語。
どんな目的のために,神は土地の安息に関するしめを与えられましたか。土地をいつ耕作し,休ませるかを定める権利を持つのはだれですか。
イスラエル人に与えられたこの土地は聖なる信託であり,イスラエル人は,こうした安息年をそなえた事に示される神の知恵を認めつつ,この信任に答えねばなりませんでした。この予定に従い,期間を定めて土地を休ませる事は,「約束の地」の土壤のために良い事でした。またこれは,8年目の収穫時まで必要な食物がなくならぬよう6年目の実のりを豊かにするとのエホバの約束に対するイスラエル人の信仰をためすものともなりました。またエホバは,48年目の収穫を祝して,49年目の安息年,50年目のヨベルの年,さらに51年目の収穫時に至るまで十分な食物をそなえられるはずでした。言わば自分の土地の借地人とも言える人間に,いつ耕作し,いつ休むべきかを告げるのは神の権利に属する事でした。―レビ 25:20-22。
土地の売却に関する神の律法によりどんな事が明示されましたか。ヨベルの年はイスラエル人にとりどんな機会となりましたか。
イスラエル人がこの土地をただ管理しているにすぎないという人は,一家の資産たる土地の売却に関する神の律法中に明示されました。「地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者,また旅びとである」。(レビ 25:23)50年目,ヨベルの年には,負債のために自分の土地を失ったイスラエル人のすべてに元の土地が返却され,負債ないしは窮状のために自分の自由と独立を失った人のすべてが解放されることになっていました。神に従順を示し,その信託に敬意を表わし,共なるイスラエル人に兄弟愛を発揮すべきすぐれた機会ではありませんか。安息年,またヨベルの年は,イスラエル人が約束の地にはいる時から数え始められるはずでした。―レビ 25:1,2。
イスラエル人が神から与えられた土地に安全に住めるかどうかは何にかかっていましたか。もしイスラエル人が土地の安息に関する律法を守らないなら,神はこれをどのように実施されるはずでしたか。
これらの律法に従うならイスラエル人は安寧を得,イスラエル人がこの聖なる信託を裏切るなら,エホバがイスラエル人に対する保護を取り除き,外敵がその土地を奪って,イスラエル人を諸国に散らすであろうとエホバは明確に告げられました。イスラエル人が安息年を守らないなら,そのむくいとして,神がイスラエル人の土地を荒廃に眠らせることも告げられました。―レビ 25:18,19; 26:27-39。
イスラエル人がエホバから離れてもエホバはどのように,また,なぜ彼らにあわれみを示されるはずでしたか。
それでも,神がイスラエル人を完全に見捨てられるわけではありません。イスラエル人が謙遜に悔い改めるなら,神が先祖たちとの契約を顧みられ,イスラエル人をその土地に復帰させる事を告げて,神はあわれみとアブラハムに対する愛とを示されました。―レビ 26:40-45。
エホバとの律法契約に従うなら,イスラエル人にはどんな祝福が臨むはずでしたか。
エホバはイスラエル人と律法契約を結ぶに先立ち,契約の仲保者たるモーセを通し,次のごとく語られました。「もしあなたがたが,まことにわたしの声に聞き従いわたしの契約を守るならば,あなたがたはすべての民にまさって,わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり,また聖なる民となるであろう……」。―出エジプト 19:5,6。
神のそなえた助け
契約を守るなら,イスラエル人はだれに似るはずでしたか。エホバの崇拝の家が初めて作られたのはいつですか。至聖所には何がいれられましたか。この事に対するエホバの是認はどのように示されましたか。
もしこの契約を守るなら,イスラエル人は,サレムにおいてエホバの王であり,かつ祭司であったメルキゼデクに似るはずでした。しかし当座の間は,エホバ自身がこの民の唯一にして真実の王でした。イスラエル人が契約を守るのを助けるため,エホバは崇拝の家のひな型をモーセに示しました。それが実際に造営されたのは紀元前1512年ニサンの一日であり,その場所はシナイ山,すなわちホレブ山のふもとでした。崇拝の家の中心的な器物は,金でおおった「あかしの箱」であり,その中には十戒を刻印した石の板が入れてありました。この箱がおかれたのは家すなわち幕屋の至聖所の中でした。エホバは雲をもって天幕をおおい,ご自身の栄光を幕屋に満たして,造り上げられた幕屋を是認されたことを示されました。―出エジプト 40:1-35。
その時イスラエルで祭司のつとめに任ぜられたのはだれですか。アロンはどんな面で,油を注がれた者,ないしはメシヤとなりましたか。祭司の仕事の初めの日の最高潮はなんですか。
次いでモーセは,神の指示に従い,自分の兄弟アロンを立てて大祭司とし,7日にわたる儀式を行なって,祭司の仕事を始めさせました。こうしてアロンは油を注がれた者すなわち,メシヤ,ギリシャ語七十人訳聖書の呼ぶクリストス,エホバにより油を注がれた者となりました。しかしこれはただ祭司職についてです。アロンの息子たちは次位の祭司となり,レビ人のうち資格をそなえた男子のすべては,祭司職に奉仕する者となりました。神は,8日目,すなわち,祭司の仕事の初めの日に,新たに始められた祭司職を承認したことを示されました。神は集うすべての人々にご自身の栄光をあらわし,火が出て祭壇上の燔祭を焼きました。―レビ 8:1-30; 9:1-24。
なぜアロンの祭司職はメルキゼデクのものと異なりますか。しかし,神はなにを予告されましたか。
これはメルキゼデクの祭司職とは異なります。メルキゼデクは王と祭司とを兼ねていました。当時のイスラエルにおいては,神が見えぬ王として支配し,王権と祭司職とは明確に分離していました。しかし,モーセを通し,イスラエル人が信仰を失い,人間の王を求める時が来る事を予告されました。―申命 17:14-18。
王権と祭司職との分離の重大性は,ウジヤ王の時代にどう示されましたか。
王権と祭司職との分離は,イスラエル人が人間の王を得たのちにも続き,これは大切な事と見なされました。数世紀も後のことですが,エルサレムのウジヤ王は野心的にも,自らの王権に祭司の務めをも加えることを試みて癩病に撃たれ,そのゆえに彼は宮からしめ出され,その子ヨタムが王の位につきました。―歴代下 26:16-23。
より偉大なるもののひな型
アロンの祭司職の日々の務めにはどんなものがありましたか。
幕屋内の金の香壇で朝晩香をささげる事をも含めて,香をたく務めはすべてアロンの祭司にかぎられていました。またアロンの祭司は,燔祭,すなわち,「常供の燔祭」として,幕屋の庭の祭壇上で,日毎に雄羊をささげました。―出エジプト 30:7,8。ルカ 1:8-11。出エジプト 29:38-42。
大麦の束一つが幕屋でささげられることになっていたのはどの日ですか。西暦33年のその日にはどんな意義がありましたか。
ニサンの14日には過越の祭りがありました。その翌日15日は週の何日目にあたろうとも安息の日となりました。次の日,すなわち,ニサン16日に,大祭司は幕屋で大麦の束を振ることになっていました。(レビ 23:5-11)そののちはじめてイスラエル人には新しい大麦を食べる事が許されました。それゆえ,イエス・キリストのよみがえされたのが,西暦33年ニサン16日であったのも偶然ではありません。―コリント前 15:20。
小麦の初穂がささげられたのはいつですか。その祭はどんな名で呼ばれるようになりましたか。それは西暦33年にどんな意義を持つようになりましたか。
次いで,ニサン16日から安息日七つを数えて50日目には,小麦の初穂がささげられました。(レビ 23:15-21)使徒行伝 2章1節の使用例のごとく,50日目という意味のギリシャ語はペンテコステであり,この祭はペンコストと呼ばれるようになりました。初めのクリスチャン,すなわち,キリストに従った初めの者たちに聖霊が注がれたのは,西暦33年のペンテコストであり,これはユダヤ暦の週のはじめの日,今の暦にして日曜日でした。―使行 2:1-36。
永続の益をもたらす偉大な王なる祭司
アロンの祭司職が始まる前に,エホバへ犠牲をささげるのはだれの仕事でしたか。
アロンはポンティフェクス・マクシマス(最も偉大な橋梁建設者の意,古代ローマ最高僧団の長)ではありませんでした。最高僧団を有した古代ローマの町が建設されたのはこれより750年後の事だからです。アロンはイスラエルにおけるエホバ神のコーヘン(祭司)の長でした。この時まで,エホバに犠牲をささげる特権は,アブラハム,イサク,ヤコブなど,イスラエルの族長のものでした。
後から来るメルキゼデクに似た祭司が,レビ人によるアロンの祭司職より偉大であることはどう示されましたか。
祭司の優越性は,バビロニア王とその同盟の軍を破って帰るアブラハムを,メルキゼデクが祝福した事に示されました。アブラハムはイスラエル人の先祖ですから,彼がメルキゼデクの祝福を受けた時,その曾孫レビはなおアブラハムの腰の中にありました。こうして,レビ,アロン,その子孫たちも祝福に分け与ったのです。それゆえ,祝福する者は祝福される者にまさるという原則に従い,アロンの祭司職はメルキゼデクのものに劣りました。また,同じように,メルキゼデクのさまに従って後に来るべき祭司は,レビ人によるアロンの祭司職にまさるはずでした。この祭司が神の「女」の裔になるはずでした。―ヘブル 7:4-17。
犠牲と後継者について言えば,メルキゼデクに似た祭司はどのようにすぐれているはずでしたか。
大祭司アロンは123のよわいをもってホル山で没し,その子エレアザルがあとをつぎました。(民数 20:22-29)人間の生まれもつ不完全さと罪と死のゆえに,イスラエルの祭司職はアロンの家系内で父から子へと順次受けつがれてゆきました。これは,エホバが偉大な王なる祭司,すなわちメルギゼデクのさまに等しいコーヘンを立て,「祭司の国」が始められる時まで必要でした。(出エジプト 19:6)罪のない事,またその完全性のゆえに,この祭司は永遠の命の力を持ち,後継者を必要としませんでした。彼は,アロンをはるかにしのぐ祭司となり,忠実な人々に永遠の命を与えるための犠牲をささげ得るはずでした。
神への愛によって保たれた信頼
死ぬ前のモーセは,どのようにイスラエル人に約束の地にはいるそなえをさせましたか。
アロンの兄弟モーセは,西方にヨルダン川を見下し,「乳と蜜の流れる地」全域を見渡すピスガ山で死にました。荒野における40年の旅行が終わる2カ月前,モーセは告別の話をし,エホバを神として崇拝し,奉仕を続けるよう励ましました。この時,霊感に導かれたモーセは,イスラエルと神の契約のうち最大のいましめを語りました。
どんな動機でエホバに奉仕すべきかについて,モーセはイスラエル人にどのように示しましたか。
「イスラエルよ聴け 我らの神(エロヒム)エホバはただひとりのエホバなり なんぢ心を尽し精神を尽し力を尽してなんぢの神エホバを愛すべし……なんぢの神(エロヒム)エホバを畏れてこれに事へ……なんぢら他の神々すなはちなんぢの周囲なる民の神々に従ふべからず……恐くはなんぢの神エホバなんぢにむかひて怒を発しなんぢを地の面より滅し去たまはん」。―申命 6:4-15,文語。
真の崇拝に関するこの原則がクリスチャンにもあてはまる事を,イエスはどのように示されましたか。
キリスト教の指導者,イエス・キリストは,「すべてのいましめのうち何か第一なる」との質問に答えて,これと同じ原則がクリスチャンにもあてはまる事を示されました。
「第一はこれである,『イスラエルよ,聞け。私たちの神(テオス)エホバはひとりのエホバである。あなたは思いをつくし,魂をつくし,心をつくし,力をつくしてあなたの神(テオス)エホバを愛さなければならない』。第二はこれである,『あなたは自分と同じく隣人を愛さなければならない』。これより大きな戒めは他にない」。―マルコ 12:28-31,新世。
エホバ神ではなく,イエス・キリスト
イエスの述べたはじめの大きないましめによるとエホバはどんな神ですか。
イエス・キリストがモーセの言葉を注釈して,「イスラエルよ聴け,我らの神々(テオイ)エホバは三つなり」などと語っていない事に注意して下さい。またイエスは,エホバは三つあり,イエス自身がその三つのエホバのうちの一つであるとも言っていません。イエスはただ,「我らの神(テオス)エホバは唯一のエホバなり」と言われました。エホバはテオスの全体であり,エロヒムの全体であり,神のすべてを占めています。エホバがバビロンの三つ組にあるように他の二つの神々と崇拝を分け合う事はありません。
イエスは,ダビデの詩句を引用して,自分がエホバでないことをどのように示されましたか。
それゆえ,モーセの言葉を引用して,「力を尽してなんぢの神エホバを愛すべし」と語ったイエスは自分のことを指していませんでした。すなわちイエスは,自分がエホバであり,自分が力を尽して愛されるべき者だと述べたのではありません。イエスは自分の父であり,神であるものについて語っていたのです。この論議のすぐあとで,イエスは自分がエホバでない事を明示されました。マルコ伝 12章35-37節の記述は次の通りです。「イエスは言い始められた……『学者たちがキリストをダビデの子というのはなぜか。ダビデ自身が聖霊によって語っている。「エホバは私の主に言われた,『私があなたの敵をあなたの足の下におくまで,私の右に坐っていなさい』」。ダビデ自身が主と呼んでいる。ではその子であるというのは,どうしたわけだ』」。(新世)こうしてイエスは,自分がダビデの子孫であっても,ダビデの上にも「主」となるべき者であったので,エホバが話しかけられるダビデの「主」とは自分のことであると示されました。
バビロンの三位一体的な考え方とは対象的に,エホバは被造物にどんな献身を求められますか。
したがって『聖書に無理な解釈をほどこ』させて自分の滅亡を招かせる,バビロン的な偽りの宣教教義の犠牲とならぬよう注意しなければなりません。エホバは唯一の神であり,ただ一つの神格者であって,三つの神ではありません。そのゆえにこそ神は,従順な被造物が,心と精神と思いと力とを尽して,唯一の神格者,すなわち,エホバという名を持つ唯一の方に専心の献身をささげる事を求められるのです。―詩 83:18。イザヤ 42:8。
イスラエル人に対する神の愛を示す事跡をいくつかあげなさい。
イスラエル人に対する愛のゆえに神が行なわれた数々の事柄を考えてごらんなさい。神は強勢を誇り,世界強国の初めとなったエジプトを降してイスラエルを解放し,これを組織して一つの国家とされました。荒野をさまよった40年の間にも,神はイスラエルの民を導き,守り,食物と水とを与えました。イスラエル人の衣服がすり切れることさえありませんでした。神は祭司,および崇拝の家をそなえられました。それはイスラエル人が神との神聖な契約に従って歩むのを助けるためでした。さらにエホバは,モーセの忠実なしもべであり,軍の指揮官であった,ヌンの子ヨシュアを立てて,ヨルダン河を渡たり,イスラエル人を乳と蜜の流れる地に導き入れる者とならせました。
エホバに対する従順と愛を保つなら,イスラエル人にはどんな前途がありましたか。また,神の信任に背くならその結果はなんですか。今日エホバは,エホバに専心の献身をささげる民をお持ちですか。
もしイスラエル人がこの約束の地において,エホバに対する愛と崇拝を保ち,そのいましめを守るなら,彼らには喜びと安寧と平和の生活が保証され,その地における神の借地人として,委ねられた聖なる信託を守ってゆくはずでした。他方,もし彼らが,エホバに対する真の崇拝から離れ,神の信任に背くなら,それが道徳の堕落と衰微を招き,ひいては,神の恵みによって専有を許された土地にも荒廃がもたらされるはずでした。ではイスラエルはどのようにこたえ応ずるでしょうか。メルキゼデクのさまに似た,偉大な王なる祭司の到来以前に,イスラエル人に対するエホバの預言はいかに実現しましたか。今日神は,神に対する専心の献身をささげ,エホバに対する愛と崇拝を第一とする民をお持ちです。エホバがその民を組織されたのですか。エホバがその民に委ねられる地はどこですか。彼らはその地にとどまりますか。また,いかにしたら,私たちもその喜びの地の一部に与ることができますか。これらの事柄は次号の「ものみの塔」誌上で論議されます。
神に委ねられた土地にいよいよはいろうとするイスラエル人に向かいモーセは次のように語った,「なんぢの神エホバなんぢをしてよき地に到らしめたまふ。是は谷にも山にも水の流あり泉ありたまり水ある地,小麦,大麦,葡萄,いちじくおよびざくろある地,油,かんらん,および蜜のある地,なんぢの食ふ食物に欠るところなく,なんぢに何も乏きところあらざる地なり。その地の石はすなわち鉄その山よりは銅を掘とるべし」。―申命 8:7-9,文語。