-
復活の行なわれるその「終わりの日」に今生きるものみの塔 1979 | 10月1日
-
-
の日」の終わりに地上での歩みを終えるとき,その最後の復活の日に生きている大群衆が彼らに別れを告げるのは,どんなに心温まることでしょう。(ヨハネ 6:53,54)この別れはやさしいものではないでしょう。しかし,去っていく人々と,パラダイスの地上に残る人々との間で,心からの愛情の交換があることでしょう。「大群衆」はもはや彼らを見ることはないでしょう。
16 だれとの個人的な交わりは失っても,「大群衆」はパラダイスの地に入ってくるどんな新入者たちを歓迎する喜びをもちますか。
16 栄光を受けた残りの者との,形に表われる交わりは失われますが,「大群衆」はパラダイスの地上の新しい住民の無数の群衆によって慰められるでしょう。その人々はどんな人たちで,どこから来るのでしょうか。その人々もやはり人類の中の請け戻された人々で,「最後の敵」であるアダムに起因する死の地から復活してきます。(コリント第一 15:26)復活したヨブ,そうです,アブラハム,イサク,ヤコブ,バプテストのヨハネ,それにベツレヘムの幼子たち,彼らの敵ヘロデ大王により死地に追いやられた幼子たちにさえ会えるのですから,そのときの「大群衆」の喜びはどんなに大きいことでしょう! また知っている友達や,りっぱな羊飼いの「ほかの羊」で「大患難」の後まで生き残らずその羊飼いの千年統治に直接入ることのなかった人々などに会う喜びも,大きいことでしょう!(啓示 20:4,6。ヨハネ 10:16)「大患難」の後まで生き残る油そそがれた残りの者の成員は,新秩序で生きつづけて,地に属する死者が彼らの「終わりの日」に復活しはじめるのを目撃するのでしょうか。(ヨハネ 11:24)そのことについては聖書は明確に示していません。
17 (イ)地に属する死者の収穫に関して言うならば,そのときに復活する人々はキリストと比較して何になりますか。(ロ)「大群衆」は墓から復活する必要はありませんが,どんな点で,復活した人々と同じようですか。キリストの千年統治の終わりはどんな祝福された状態になりますか。
17 それら復活した人間は,後の実として収穫されます。復活されたイエスはその『初穂なるキリスト』となられたのです。(コリント第一 15:20,22,23)生き残る「大群衆」は墓から復活する必要はないとはいえ,復活した人々と同じく,イエス・キリストのなだめの犠牲からさらに益を受けることを必要とします。受け継いだ死の影響はすべて拭い去られねばなりません。大患難生存者の「大群衆」を含め,請け戻された従順な人間すべてのために,「最後の敵として,死が無に帰せしめ」られるキリストの千年統治の終わりは,本当に祝福されたものとなるでしょう。その時エホバ神は,きわめて当然のことながら,「だれに対してもすべてのものとなるでしょう」。―コリント第一 15:26,28。啓示 1:18; 20:11-14。
-
-
読者からの質問ものみの塔 1979 | 10月1日
-
-
読者からの質問
● サムエル後書 8章13節の記述は,ダビデが塩の谷でエドム人を撃ち破ったと述べていますが,歴代志略上 18章12節はそれをアビシャイの手柄としています。さらに詩篇 60篇の表題によれば,敵を敗北させたのはヨアブだとされています。なぜこのような違いがあるのですか。
これら三つの記述は,明らかに,エドム人の敗北を違った観点から描いています。サムエル後書で勝利がダビデに帰されているのは,ダビデが王であり,イスラエル人の軍隊の司令長官であり,戦闘命令を下す権限を持つ人物であったからです。ヨアブは将官の頭であったため,詩篇 60篇の表題の中で,征服をもたらした者とされています。アビシャイはヨアブの下で部隊の長を務めており,その戦闘で重要な役割を担っていたものと思われます。これが,歴代志略の記述の中でアビシャイに勝利が帰されている理由です。ですからそこには何の矛盾もありません。今日でさえ,ある特定の行為を,それを命じた人物に結びつけたり,それを首尾よく成し遂げる面で重要な役割を担った人物に結び付けたりすることは,ごく普通に行なわれています。
-