神のみたまと言葉 ― 生命を得させるための神の備え
「人を生かすものは霊であって,肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり,また命である」― ヨハネ 6:63。
1 大気と食物が何によって汚染されているために,地球上に住むことはますます困難になっていますか
致命的なガスのにおいで目をさましたならば,新鮮な空気を求めてしゃにむに外へ出ようとすることでしょう。遂には死を招く有害物が食物に含まれていることを知るなら,栄養のある健全な食物に切りかえるに違いありません。人々が直接的な危険を除くことに気を配っても,空気や飲食物の汚染のために地上の生活はますます困難なものになっています。放射性降下物,有害な煙,化学薬品のために,大気,食物,水が汚染されています。食物は生産と加工の過程において栄養分が失われたり,有害な添加物が加えられたりすることがあります。下水や廃液が水源の川や湖に流れ込んで病気や死の原因となります。このような危険に加えて,世界の多くの土地では食糧や新鮮な水が不足しています。
2 (イ)汚染された大気よりも致命的なのはどんな“空気”ですか。それはどこから発生していますか。(ロ)「世の霊」に導びかれる者と神の霊に導かれる者の行きつく結果を対照しなさい。
2 しかし今日の人々は,汚染の度を加えている大気よりも致命的で捕え難い“空気”を吸い込んでいるのです。また人類の大多数は彼らを墓へ追いやる“食物”や“飲み物”をとり入れています。そのことをご存じでしたか。霊的に言ってこの“空気”すなわち今日たいていの人が吸い込んでいる世の精神は「この世の霊」です。それは汚れたものとしてエホバにさばかれました。(コリント第一 2:12。黙示 16:17-21)社会全体に行きわたっている心の傾向というものがあり,人々はそれに動かされて考え,語り,行動し,一定の態度や見解をとり,かなり一様な型にはまった行動をします。それは神のみたまの感化や神のことば聖書の教えと相反するものです。「全世界は悪しき者の配下にある」ことを思えば,それも不思議ではありません。悪しき者サタン悪魔は「この世の神」また「空中の権をもつ君,すなわち,不従順の子らの中に今も働いている霊」です。(ヨハネ第一 5:19。コリント第二 4:4。エペソ 2:2)肉の利己的な欲望を満たそうとする,悪魔が作り出すこの精神の致命的な影響に目ざめなければ,私たちは滅びます。私たちは神の聖霊に導かれることを求め,生命に至る清い,正義の道を歩むように動かされることを求めなければなりません。「なぜなら,肉に従う者は肉のことを思い,霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが,霊の思いは,いのちと平安とである」― ローマ 8:5,6。
3 人類の大多数は何を心の糧にしていますか。それはどんな結果となっていますか。
3 大衆のために供給されている霊的な,心の食物は,その吸い込んでいる“空気”より良質のものですか。死ぬばかりに病んでいる世界のうめきはその問いに対する暗い答えとなっています。暴力,貪欲,不道徳,神に対する冒瀆が世に増し加わっていることは恐るべき結果です。人々は清い食物すなわち霊的な健康をもたらし,永遠の生命の道を説く神のことばをしりぞけ,哲学,理論,倫理,さまざまの計画,信条に心を寄せ,古い制度に属する宗教宗派の分裂的な影響をさえ受けています。汚染された食物や水が病気をひきおこし,死を早めるように,この種の糧で心を養っている人類の大多数は病んでおり,たとえ生きていても神の目からは死んだ者です。(エペソ 2:1。テモテ第一 5:6)「それは,わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて,自分で水ためを掘った。それは,こわれた水ためで,水を入れておくことのできないものだ」。「彼らは〔エホバ〕を捨て,イスラエルの聖者をあなどり,これをうとんじ遠ざかった。あなたがたは,どうして重ね重ねそむいて,なおも打たれようとするのか。その頭はことごとく病み,その心は全く弱りはてている。足のうらから頭まで,完全なところがなく」― エレミヤ 2:13。イザヤ 1:4-6,〔文語〕。
4 人間の心はこの世の知恵とは対照的などんな食物を必要としていますか。
4 生命に至る正しい決定を下すには,世の知恵ではなく真理に基づいた堅い食物で心を養わなければなりません。イエスは悪魔に誘惑された時,何に重点をおくべきかを示されました。「『人はパンだけで生きるものではなく,〔エホバ〕の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。(マタイ 4:4,〔新世訳〕)人の心が正しい考え方をするには神の知恵が必要です。真理の基がなければなりません。神への祈りの中でイエスはこう言われました,「あなたの御言は真理であります」。(ヨハネ 17:17)真理の本,聖書を注意深く学ぶ時,永遠の生命に至る唯一の道すなわちイエス・キリストの犠牲による道を認識できます。「イエスは彼らに言われた,『わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく,わたしを信じる者は決してかわくことがない』」― ヨハネ 6:35。ヤコブ 3:13-18。
5 神のことばの堅い食物は何をする助けとなりますか。
5 メシヤであるイエスに関して深い事柄を理解するのがおそかったヘブル人のクリスチャンに対し,パウロは次のように書きました。「このことについては言いたいことがたくさんあるが,あなたがたの耳が鈍くなっているので,それを説き明かすことはむずかしい。しかし,堅い食物は,善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである」。(ヘブル 5:11,14)パウロは次のようにも警告しています。「あなたがたは,むなしいだましごとの哲学で,人のとりこにされないように,気をつけなさい。それはキリストに従わず,世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基づくものにすぎない」― コロサイ 2:8。詩 119:104,105。
6 神は人間が生きることを望まれるゆえに,何を備えられましたか。
6 神が建てる新しい事物の制度の下に生きることを望むならば「この世の霊」を吸い込むのをやめ,これからは神の聖霊を生活の導きとし力としなければなりません。そのことは全く明白です。世の無価値な知識で心を養うのと人間の考えで汚された水を飲むのをやめて,神のことばの真理と知識を学び,霊的な食物と飲み物で心を養わねばなりません。これは実際には生死にかかわる選択です。生命を得させる神の備えは受け入れるべきものであり,そうしない人は生命を得ません。生命を得たいと心から願っていれば,神は私たちを助けてくださいます。一人でも滅びることは神のみこころではないからです。神が二つのもの,すなわちみたまとことばを備えられたことは,それを保証しています。―ペテロ第二 3:9。エゼキエル 33:11。ヨハネ 7:37-39。
7 (イ)神のことばの理解は奇跡的に授けられますか。(ロ)預言者と聖書の筆者に対する神の霊の働きをどのように見ますか。
7 さて問題は,生命を得させる神の備えから最大の益を得るにはどうするかということです。エホバが奇跡的に私たちの心を開いて理解をそそぎ込んで下さることはありません。神の働きがそのようになされたことは一度もないのです。私たちはかくされた宝をさがすように知識と理解を求めなければなりません。(箴言 2:1-9)正しい心を持ち,神に仕えることをほんとうに望むならば,神は理解を授けてくださるでしょう。しかし無理にではありません。崇拝は全く自発的な心からのものであるべきです。聖書の筆者や他の人々で霊感を与えられた人も,神のみこころを学び知るために知性を用い,みずからの決定によって神に仕えたのです。霊感によって授けられた事柄をじゅうぶんに理解できなかったこともめずらしくはありません。(ダニエル 12:8,9。ペテロ第一 1:10-12)悪霊はその手中に陥った人の心を支配してその人にとりつきますが,神はそのように人をとらえません。使徒時代には人が聖霊を受けると,それは見えるかたちで表わされました。しかし今日そのようなことはありません。使徒また使徒と密接に交わっていた人々が死ぬと,神の聖霊の助けによって行なわれた力あるわざや奇跡はやみました。―コリント第一 13:8-13。ペテロ第二 1:19-21。
8 (イ)聖霊の働きによる力あるわざはもはや見られませんが,どんな働きは今日に至るまでつづけられていますか。(ロ)「神から賜わった恵み」を悟るうえに,神の霊はどのように助けとなりますか。
8 しかしそれは聖霊がもはや私たちのために働かないという意味ですか。そうではありません。「霊の賜物は種々あるが,御霊は同じである」とパウロは述べています。(コリント第一 12:4-6)イエスは次のように言われました。「人を生かすものは霊であって,肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり,また命である」。「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主,すなわち,父のみもとから来る真理の御霊が下る時,それはわたしについてあかしをするであろう。あなたがたも,初めからわたしと一緒にいたのであるから,あかしをするのである」。(ヨハネ 6:63; 15:26,27)西暦33年の五旬節の時以来,エホバの聖霊はずっと「助け主」となり,「思い起こさせ」「教え」,あかしをしてきました。(ヨハネ 16:7-16; 14:25,26。マルコ 13:11)ヨハネが聖書の正典の最後の本を霊感によって書いてのち,みたまは神のことばの理解を次第に得させ,またあかしのため福音を全世界にひろめるために神の真のしもべを助けるという面において,おもにその役割をはたしてきました。すでに書かれたものを理解する以外には,啓示が加えられる必要はありませんでした。パウロはそのことを次のように述べています。「そして,それを神は,御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ,神の深みまでもきわめるのだからである。ところが,わたしたちが受けたのは,この世の霊ではなく,神からの霊である。それによって,神から賜わった恵みを悟るためである。この賜物について語るにも,わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで,御霊の教える言葉を用い,霊によって霊のことを解釈するのである」― コリント第一 2:10,12,13。
9 どうすれば「健全な言葉」を心におさめることができますか。
9 それでこの過程には考え方の変化が必要です。この世の霊を吸い込むことをやめて,新しい霊すなわち神のみたまと言に一致した力を自分のうちに持つように努めなければなりません。神のみたまは常に神のことばと一致して働いてきました。二つのものが相反することはありません。神のことばにしるされている,したがって学ぶことのできる事柄ならば,それと異なる,あるいは新しい指示が神から与えられることはなく,むしろ神のことばにしるされている事柄を理解するための助けが与えられます。聖書の霊的なことばを心におさめて霊的な事柄の理解を得なければなりません。関連した事柄を結びつけて霊的な理解を得ることが必要です。パウロはテモテにこう書き送りました,「あなたは,キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって,わたしから聞いた健全な言葉を模範にしなさい。そして,あなたにゆだねられている尊いものを,わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい」― テモテ第二 1:13,14。エペソ 3:14-19。
10 神の霊は神のことばを通してどのように働きますか。
10 聖書の頁それ自体は皮表紙がつけられていても紙の表紙がつけられていても,文字を印刷した紙にすぎません。しかし霊感されたこれらのことばを正しい心で学びはじめる時,大きな力がわき出て神のみたまは悟りを持つ読者に吸収されて行きます。これは聖霊の著しい働きの一つであって,その働きは聖霊によって神のことばの中に入れられた力によるのです。それが人のうちに働きはじめる時,成果が生み出されます。「というのは,神の言は生きていて,力があり,もろ刃のつるぎよりも鋭くて,精神と霊魂と,関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして,心と志とを見分けることができる」。(ヘブル 4:12)神のことばにはそのように刺しつらぬく力があります。それは行動の動機を支配します。また生ける者すなわち魂としての私たちの外見と,心,態度,精神の面における真の私たちを区別します。生活の中でそれが働くならば,悪い考え,清くない動機,利己的な欲望と戦う力を得ます。それは正義を行なう力と動機を人の中に造り出します。―エレミヤ 17:9,10。
新しい霊を求めて働く
11 神は人間が心を働かせることをどのように目的とされましたか。
11 人間を創造されたエホバ神は,理知というすばらしい能力を人間に授けられました。それはなんと恵みにみちた賜物であったのでしょう。アダムとエバの心はあらかじめ定められた思考と結果を一定の刺戟の下で生み出す印刷回路ではありませんでした。また彼らはすべての動作を天から制御されるロボットだったのではありません。生活の中で正しい決定をするために必要な知識は,エホバ神から進歩的に授けられることになっていました。善悪は経験的な(すなわち試行錯誤の)方法によって学ぶことになっていたのではありません。感覚によって知覚された事柄は知識の型に組み込まれます。これはすぐに使うことも,あるいは後日の用に備えて記憶することも可能です。時とともに人間は創造者から学んだぼう大な事柄を記憶の中に貯え,その知恵を用いて人間に対する神の目的を遂行できます。―箴言 3:1-7。
12 (イ)エホバは行動の動機となるどんなものを,人間の心の中に創造されましたか。(ロ)人間は精神的能力の可能性の面で,どのように動物にまさっていますか。
12 心の働きは非常に複雑ですが,行動を促す精神的な力が人の誕生の時からそなわっていることは確かです。この精神的な性向あるいは動機は聖書の中で人の霊(ヘブル語ルーアハ,ギリシャ語プニューマ)と呼ばれています。(箴言 25:28。コリント第一 2:11)それは人の欲求,必要,望みその他からだの内外にある刺激から生じ,培われることによって強さを増して行きます。動物にも霊があります。しかしそれは本能に従って行動するための力となっており,動物のすることは何百年もの間その親たちがしていた事柄から少しも進歩していません。人間の場合,この精神的な性向は,深く考えたうえでの行動を多方面にわたって遂行する可能性を宿しており,その結果,人間には選択の能力があります。それで人間は倫理的に自由な行為者です。しかし人間の持つ自由には限度があり,限界があります。人間自身の益のためにそうでなければなりません。選択の自由にまかせて行動すれば害となる事柄もたくさんあるからです。身体面でも精神面でも人間のために何が良いかをご存じの創造者は,きゅうくつでない合理的な限界を設けられました。―ヨハネ第一 5:3。ペテロ第一 2:16。
13 その人の「霊」との関連における意志の働きを述べなさい。
13 人を動かすこの力と密接に結びついているのは,意識的また故意に行動する能力すなわち意志です。それは確定した,確固とした意図また目的の表われです。知識をとりいれ,関連性を考慮して理解を得る方法は,意志と関係があります。行動の背後には動因となる精神的な力があり,それを制御する意志の働きによってどんな行動をするかが決まるのです。それは意志の力と呼ばれています。神によって決められ,また悪い事を行なった時の結果とくらべても明白な正しい事を行なう理由を考える時,意志を強くすることができます。そうする時,動機となる力は私たちを正しい道に導くでしょう。「これは知恵が,あなたの心にはいり,知識があなたの魂に楽しみとなるからである。慎みはあなたを守り,悟りはあなたを保って,悪の道からあなたを救い,偽りをいう者から救う」― 箴言 2:10-12。ダニエル 11:3。コリント第一 7:37。
14 (イ)罪のゆえに,人間の心には生来どんな傾向がありますか。(ロ)どうすれば,新しい霊を得て心を活気づけることができますか。
14 人類の最初の親はエホバのお目的をはたすために正しい知識をとり入れ,意志を強めることを怠りました。そして悪い欲望を培ったために自己決定への道を進むように動かされたのです。(ヤコブ 1:14,15。コリント第二 11:3)彼らは罪を犯し,私たちは同じ傾向を受け継いでいます。「人が心に思い図ることは,幼い時から悪い」。(創世 8:21)「見よ,わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」と,ダビデは告白しています。甚しく罪を犯したダビデは悔いて祈りました,「神よ,わたしのために清い心をつくり,わたしのうちに新しい,正しい霊を与えてください。わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください」。(詩 51:5,10,11)この新しい霊を持つには,神のことばを熱心に学び,その教えを心にとめなければなりません。また神の聖霊の導きに答え応ずることが必要です。自分の判断に頼るならば,たとえ誠実な意図があってもまちがった道にひき込まれることがあります。ゆえに使徒は次のようにさとしています,「あなたがたは,以前の生活に属する,情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て…真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」― エペソ 4:22-24。
15 良い心と正しい霊を持つには何が必要ですか。
15 正しい霊を求めて祈り,学び,努力し,それを持とうと決意すれば,忠実な神はその人を助け,正しい霊を与えてくださるでしょう。イエスは,人が自分の霊を強めるために神の霊を祈り求める必要を強調されました。「誘惑に陥らないように,目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが,肉体が弱いのである」。(マタイ 26:41)悪の道や安易な道をとろうとする肉体の欲望に抵抗するには,私たちの霊を強め,正しい道をとる力をそれに与えねばなりません。そうすれば誘惑に負けることなく,「悪魔に機会を与え」ることもないでしょう。(エペソ 4:27)神の御心を行なう熱意と,活発で積極的な心があれば,弱さや不完全さにもかかわらず肉体を従わせることができます。―コリント第一 9:26,27。ローマ 6:12-14。
16 (イ)あらたにされた私たちの心に絶えず反対するのはなんですか。(ロ)肉の欲に打ち勝つには何が必要ですか。
16 それで神は私たちの場合に奇跡を行なわず,からだから不完全さや罪への傾向を取り除くことをされません。不完全さや罪は依然としてあり,たとえ敬虔の道を歩むことに熱心に努めても,私たちは日々それを意識します。「そこで,善をしようと欲しているわたしに,悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち,わたしは,内なる人としては神の律法を喜んでいるが,わたしの肢体には別の律法があって,わたしの心の法則に対して戦いをいどみ,そして,肢体に存在する罪の法則の中に,わたしをとりこにしているのを見る…わたし自身は,心では神の律法に仕えているが,肉では罪の律法に仕えているのである」。(ローマ 7:21-25)自分の力で肉体の欲望に打ち勝つことは不可能でしょう。それで神は,私たちが要求をはたすためになし得ることを越えて,必要な助けを授けられます。「その測り知れない力は神のものであって,わたしたちから出たものでないことが,あらわれるためである」。(コリント第二 4:7)神がみたまを授けてくださるのは奇跡的に問題をなくすためではなく,私たちがどう対処すべきかを理解し,忍耐し,きたえられ,忠実を証明するためです。「神がわたしたちに下さったのは,臆する霊ではなく,力と愛と慎みとの霊なのである」― テモテ第二 1:7。ルカ 11:13。
17 さまざまの試錬にあう時,何を見失ってはなりませんか。(ロ)十分に試みられることがあるのはなぜですか。
17 私たちは自分のあう試練がいつでもヨブの場合のように宇宙主権の大論争とかかわりのある特別なものであると思うべきではありません。しかしそれとは反対に試練の下で忠実を守ることがエホバの御名の立証に貢献していないと思うのはまちがいです。神が必要な保護を与え,信仰と希望と愛が培われ,忠実の守られる風土を備えられなかったとすれば,悪魔と悪霊は神のしもべを容赦なく滅ぼす行動に出たことでしょう。悪魔は神のしもべの忠実と正しさを一再ならず問題にしており,私たちが誘惑され,悪く言われ,おびやかされ,妨害される事態をひきおこしてきました。ある問題はきわめてはっきりしており,試練の下で人が忠誠と忠実を守るかどうかの決定がきわどいものに見える場合もあることでしょう。もしエホバが無差別に奇跡的な救いを施されるならば,エホバをそしる根拠を悪魔に与えることになります。すなわち論争にけりをつけることを避けたというそしりです。「エホバは肝心なところで彼を助けた。エホバがちょうどそのときに彼を救わなかったならば,私がそのとき仕掛けた試練の下で彼は不忠実になったに相違ない」と,悪魔は言うでしょう。こうして論争は決定的な解決をみずに終わることになります。―箴言 27:11。黙示 7:1-4,9-17。
18 助けを得るという面でエホバから何を期待できますか。
18 他方,試みがふつうの程度を越え,論争に関してはそれによって何も証明されない場合,あわれみ深いエホバが事態に介入し,地上の聖徒に仕える天使を用いて,あるいは他の方法で救いを施されても,それには当然の理由があります。この特別な助けに気づかなくても,その人は救われたように感じるでしょう。試みがその目的をはたしたならば,エホバはそれを終わらせて,のがれるべき道を備えられます。あるいは事態を極限にまで至らせる場合もあり,時には死に至るまでの忠実が論争解決の唯一の道となります。「だから,立っていると思う者は,倒れないように気をつけるがよい。あなたがたの会った試練で,世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか,試練と同時に,それに耐えられるように,のがれる道も備えて下さるのである」― コリント第一 10:12,13。コリント第二 4:7-12。
19 エホバは「霊をはかられる」ゆえに,私たちは注意深く何をすべきですか。
19 パウロのことばは大きな慰めとなります。「わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても,内なる人は日ごとに新しくされていく」。(コリント第二 4:16)常に新しくし,守らなければならないのは「内なる人」です。忍耐する時,私たちはエホバが「〔霊〕をはかられる」ことを心にとめます。(箴言 16:2,〔新世訳〕)私たちがこの世の霊と知恵に動かされているか,それとも神のことばに従い,神の霊に導びかれているかは,エホバに見守られています。「神の聖霊を悲しませてはいけない……〔エホバ〕の御旨がなんであるか悟りなさい…御霊に満たされ」― エペソ 4:30; 5:17,18,〔新世訳〕。ガラテヤ 5:16-26。
20 エホバはなんのためにみたまと言を与えられましたか。次の記事では何がとりあげられますか。
20 神が人類のために建てる事物の新しい秩序にはいるには,生命を得させるためのエホバの備えをすべて用いなければなりません。神のみたまと言がなくてならぬものであることは,この記事の中で検討しました。欠くことのできない第3の備えがあります。それも生命を求める人々のためにエホバが設けられた愛の備えです。次の記事でそのことをとりあげましょう。