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「クリスマス精神」はどれほどキリスト教のものですか目ざめよ! 1980 | 12月8日
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です。クリスマスが主として伝統や神話や偽りに基づいているのであれば,信仰を強めるものとなるとどうして言えるでしょうか。
ドイツで出されたある教区文書は,キリストと初期クリスチャンについて述べた中で,「人々にとって,イエスの誕生日よりその教えの方がはるかに重要だった」としています。さらに,「初期のクリスチャンたちは誕生日を祝うといったことを知らなかった」とも書かれています。
イエスの教えを信じることやイエスの贖いの犠牲の価値に信仰を働かせることをなおざりにするなら,キリストの誕生を信じることにどれほどの益があるでしょうか。キリストの誕生を信じるのにそれほど信仰はいりませんが,その贖いの犠牲の価値および設立された神の王国でキリストが王となっておられることを信じるには強い信仰が必要とされます。「クリスマス精神」が本当にキリスト教のものであるなら,クリスマスの時に教会の出席者が増えるだけで,一年を通じてキリストに見倣った真の信仰の業を行ないたいという気持ちを教会員に持たせることができないのはなぜでしょうか。
要するに,「クリスマス精神」が本当にキリスト教のものであるなら,神の霊の実がその特色となっているはずです。実際にそうでしょうか。ガラテア 5章22,23節によれば,「霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制です」。わたしたちがクリスマスの精神として目にしているのはこうした特質でしょうか。それとも,これまでに見てきたように,クリスマスの時季に実際に多く目にするのは,聖書のその同じ章の19-21節に述べられている,次のような堕落した肉の業の方だと言えるでしょうか。「さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,不品行,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事がらです。……そのような事がらをならわしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません」。
誠実な気持ちから非常に慎み深くクリスマスを祝っていると思われる人々の観点からではなく,世界中で行なわれる一般的な祝いという観点に立って総合的に見た時,何が分かるでしょうか。あからさまに「肉の業」が行なわれ,「霊の実」の欠如している場合があまりにも多いことがはっきりしています。
神の霊の実を表わし,肉の業を避けることに関心のある人々が「クリスマス精神」のとりこにならないようにする理由が,これで一層はっきりしたのではないでしょうか。これらの事柄を祈りのうちに考慮し,クリスマスをどのように過ごすかに関して,キリスト教の創始者であるキリストに喜ばれるような決定を下すのに役立たせてくださるよう願ってやみません。
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「かぎ」目ざめよ! 1980 | 12月8日
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「かぎ」
何年か前のこと,ニューヨーク・サンデー・ニューズ誌は,長年のテレビタレント,アート・リンクレターとのインタビュー記事を掲載しました。その中でリンクレターは,LSDの影響で自殺を遂げたと言われる娘,ダイアンの悲劇的な死について語りました。麻薬流行の様相はここ何年かの間に変化しましたが,そのインタビューの際に強調された一つの原則は今でも価値があります。それは子供たちの交わりを監督して,子供を保護することが関係しています。「私が最大の間違いを犯したのはこの点だと思います。つまり,ダイアンの友人の中にはかなり異様な風さいの者たちがいるのを知っていたのに,特にハリウッドでは異様な風さいの若者が少なくないのだと自分に言い聞かせたことです」。この経験から学んだリンクレターはこう言明しました。「親に告げなければならない厳然たる事実は,子供の身に何が起きるかのかぎは子供の交際している人物,つまり友人にあるということです。最近,人々がろうばいしながら私の所に来て,『うちの子が麻薬を使っているらしいのです』と言う時,最初にその点を話します。『友達を見てください。どんな種類の人ですか。どこに行きますか。どんなことを話しますか。こうした点をご存じですか』と言います。それは他の何ものよりも強力で力があるからです」。
親が,子供の交わりを監督することの重要性を悲劇的な仕方で知らなければならないとするなら,それは実に残念なことです。しかし,聖書の読者は初めからそのかぎを知っていました。聖書には,「悪い交わりは有益な習慣をそこなう」と書かれているからです。―コリント第一 15:33。
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