奉仕のわざのため,一つに集められる
「それは,時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって,神は天にあるもの地にあるものを,ことごとく,キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである……それは……わたしたちが,神の栄光をほめたゝえる者となるためである」― エペソ 1:9-12.
1 現代の人間はどんな面で自己矛盾に陥っていますか。
現代の人間は困難な事態に陥り,自己矛盾に逢着しています。過去半世紀におけるエネルギーの開発は目ざましく,神の創造した自然界に存在するエネルギーがこれほど利用されることは,想像されたに過ぎないか,あるいは夢想だにされませんでした。通信,交通,技術一般,医学などの分野における進歩は目ざましく,無限の可能性をひめています。他方,同じ科学の進歩は,野心に燃えた無分別な人間の手によって破滅のもたらされる可能性をも生み出しました。かつてないすばらしい時代の到来と共に,地球と人類の破滅の危険も生じたのです。科学の進歩には目ざましいものがあります。しかし預言された通り,人々は「世界に起ろうとする事を思い,恐怖と不安で気絶する」ばかりであり,だれでも「苦難の時代」のきたことを認めないわけにはゆきません。人間は自己矛盾に陥っています。―ルカ 21:26。テモテ後 3:1-5。
2,3 日の老いたる者に注意するとき,どんな著しい対照に気づきますか。
2 しかし人間から創造主すなわち日の老いたる者に目を移すと,大きな対照に気づきます。ダニエルの預言の7章9節から14節を読むと,創造主が裁きの座につき,その前に千々万々の者のはべる様子が描かれています。
3 同じ預言の中には,互に優位を得ようと争う地上の国々が,凶暴な獣として描かれています。しかしその争いの結果は,日の老いたる者,すなわち至上の神のみ手に委ねられています。裁きが下されて,「人の子のような者」に光栄が与えられます。「彼に主権と光栄と国とを賜い,諸民,諸族,諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって,なくなることがなく,その国は滅びることがない」。預言は更に次のことを述べています。「ついに日の老いたる者がきて,いと高き者の聖徒のために審判をおこなった。そしてその時がきて,この聖徒たちは国を受けた。……国と主権と全天下の国々の権威とは,いと高き者の聖徒たる民に与えられる。彼らの国は永遠の国であって,諸国の者はみな彼らに仕え,かつ従う」― ダニエル 7:13,14,22,27。
4,5 黙示緑の中で(イ)くらいに座するもの,(ロ)巻物を開いて見るのにふさわしい者,(ハ)キリストと共に治める聖徒はそれぞれだれであることが示されていますか。
4 これらの人物がだれであるかは,明瞭です。聖書の巻末の本は同じ主題をとりあげて更に説明しています。黙示録 4章には,天のくらいとそれに座る者が描かれています。その描写は崇高ではあっても,恐怖の念を抱かせるものではありません。天のくらいに座る者の名は2回出ています。聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,全能者なるエホバ神……私たちの神なるエホバよ,あなたこそは,栄光とほまれと力とをうけるにふさわしいかたです。あなたは万物を造られたからです。み旨によって万物は存在し,また造られました」― 黙示 4:8,11,新世。
5 第5章で明らかにされているように,天のくらいに近づくことができ,巻物を開いて「それを見るのにふさわしい者」は,「ユダ族のしし,ダビデの若枝であるかた」,すなわちキリスト・イエスです。また小羊の血によってあがなわれ,キリスト・イエスと共に御国となり,神の祭司となり,王となって地を治める人々のことも述べられています。これらはクリスチャン会衆を構成する人々であって,「第一の復活にあずかる」と共に「神とキリストとの祭司となり,キリストと共に千年の間,支配する」のです。―黙示 5:5,9,10; 20:6。
6 至上者であるエホバはどんな性質をお持ちになっていますか。
6 神のことば聖書のこれらの句は,エホバの絶対の主権と,侵すことのできない至上者としての地位を,読む者に銘記させます。エホバに関する限り,すべてのものは調和し,確固としています。人間のすることと違って,神に矛盾はありません。人間のかかえているあらゆる問題と紛争の解決策はエホバのみ手にあり,主権と国とが小羊キリスト・イエスに委ねられていることはそれを物語っています。キリストは御国を受けるのにふさわしいことを証明しました。罪を持つ人類の中から限られた数を選んでこの支配と国に与らせることは,エホバの恵みの豊かさを証拠だてるものです。
7 エホバの恵みは,エペソ書のはじめのほうでどのように強調されていますか。
7 「エペソにいる,聖徒」に手紙を書き送った使徒パウロの胸にあったのは,明らかにこの事でした。「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから,恵みと平安とが,あなたがたにあるように」と,パウロは祈り,次のように述べています。「神は……わたしたちに神の子たる身分を授けるようにと定めて下さったのである。これは,その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを,わたしたちがほめたたえるためである。わたしたちは,御子にあって,神の豊かな恵みのゆえに,その血によるあがない,すなわち,罪過のゆるしを受けたのである」― エペソ 1:1-7。
8,9 (イ)人生に対してどんな考え方をするべきですか。(ロ)神のみ心とお目的に関して,パウロは何を明らかにしていますか。
8 これを念頭において,使徒は前述したのと同じ崇高な主題すなわち主権者である神のみ心とお目的およびそれとの関連においてすべての被造物が占める立場を論じています。この問題に無関係でいられる人はありません。「自分で望んで生まれてきたのではない」と言って,人生の責任を回避するかのような態度をとる人がいます。しかしそれは考え違いです。私たちが存在しているのは偶然ではありません。至上者であるエホバは万物を創造しました。はじめ完全に造られ,驚異とも言える生殖の力を授けられた人間も,その例外ではありません。創造主を敬い,感謝の心を抱いて,み旨のゆえに私たちは存在するようになったと言わなければりません。―黙示 4:11。
9 この気持ちを抱いて,パウロのことばに耳を傾けようではありませんか。パウロは,私たちに対する神の恵みがどのように示されたかを,次の言葉で述べています。「御旨の奥義を,自らあらかじめ定められた計画に従って,わたしたちに示して下さったのである。それは,時の満ちるに及んで実現されるご計画(経綸<文語>)にほかならない。それによって,神は天にあるもの地にあるものを,ことごとく,キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである」― エペソ 1:9,10。
10,11 (イ)奥義また(ロ)経綸という言葉には,どんな意味また重要さがありますか。
10 使徒の用いている言葉をみても,エホバの至上のみ心とお目的の重要さが伺われます。それは長いあいだ奥義でした。奥義という表現は多くのことを示唆しています。奥義を委ねられているということは満足感を与えます。子供とくに女の子は何かを内緒にしておくことを好みます。そして自分の秘密を知らせるときには,だれもまわりにいない事を確かめて親友の耳にささやくことでしょう。子供の秘密は他愛のないものかも知れませんが,エホバの奥義はそのお目的を秘めた神聖なものであり,エホバご自身にとっても私たちにとっても重要なものです。多くの人にならってそれを無視したり,それにつまずくことは,すべてを失う結果になります。
11 「経綸」ということばに注目して下さい。この言葉は国家をおさめととのえることに関連して用いられますから,非常に大切な事柄を指しています。「ものみの塔」の読者の中には,大きな大会に出席して,大会を運営する各部門を見学したかたが大ぜいあると思います。しかし「管理」としるされた部屋からは早く立ち去ろうとするでしょう。このような責任ある部門とかかわりを持つことを望まないからです。
エホバの偉大な経綸
12,13 エペソ書 1章10節に示されているように,神の経綸に関して何を学ぶべきですか。
12 長いあいだ奥義とされていたこのエホバの経綸とは何ですか。私たちはその答を告げられています。「時の満ちるに及んで……天にあるもの地にあるものを,ことごとくキリストにあって一つに帰せしめようとされた」のは,神のみ心でした。(エペソ 1:10)このことから幾つかの大切な点を学びとることができます。
13 (1)集めることは一つの経綸の下に行なわれる一つのわざです。どんな誠実な意図に出たものでも,人間が宗教組織を作ってそれを神に受け入れられるものとすることはできません。(2)集められてキリストと共に一致するには,神から油そそがれた者であるキリストに従うと共に,こうして集められたすべての者と一致し,協調する精神を持たなければなりません。(3)後に述べるように,集められた人々は神から宣教を委ねられています。(4)エホバが「一つに帰せしめようとされた」ことは,かつて一つの状態が存在したこと,失われた一致の状態が回復することを示しています。(5)これには時間の要素が関連しています。この偉大なわざは「時の満ちるに及んで」行なわれます。そこでまず時の満ちるとき,ついで経綸の全く施行される時を知らなければなりません。a
14 「時の満ちる」のは何時ですか。どんな出来事からわかりますか。
14 時の満ちるに及んでとは,イエスがその大預言の中で言われた「異邦人の時期が満ちる」ときです。(ルカ 21:24)エホバのお目的の進展と人間の歴史の上から見て,この重大な時は1914年におとずれました。聖書の預言の成就となった世界の出来事は,そのことを証明しています。ダニエル書 7章に描かれているように,凶暴な獣に似た国々の反対にもかかわらず,天のキリスト・イエスに支配権が与えられたのはその時でした。詩篇の預言は次のように述べています。「王たちはエホバとその受膏者にさからひていふ……天に座するもの笑ひたまはん主かれらを嘲りたまふべし……我わが王をわがきよきシオンの山にたてたりと」。この経綸が始まったのは,エホバから油そそがれた王キリスト・イエスが即位した時です。これはパレスチナのシオンあるいはエルサレムで起きたことではありません。それは聖書のいう「シオンの山,生ける神の都,天にあるエルサレム」における出来事です。―詩 2:2-6,文語。ヘブル 12:22。
15,16 (イ)キリストに一致させるために集めることは,何時またどのように始まりましたか。(ロ)神の経綸の全き開始をしるしづけるものは何ですか。
15 エペソ人への手紙の中で,パウロはキリストに帰することがすでに始まったかのように書いていると,論じ得るかも知れません。その目的にむかっての準備という点から言えば,それは真実です。それはクリスチャン会衆の最初の成員に神の霊がそそがれた西暦33年の五旬節に始まりました。(使行 2:1-4)しかし宣教に励んでいた時にも,死の時にもその人々は十分の報いを得ませんでした。パウロはそのことをテモテにこう書き送っています,「今や,義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には,公平な審判者である主が,それを授けて下さるであろう」。(テモテ後 4:8)エホバの偉大な経綸は,異邦人の時が1914年に終ってのちに完全に始まるのです。
16 「かの日」のおとずれた現在,何が見られますか。ヨハネが象徴の幻を見て書いた言葉通り,私たちは信仰をもって次のように言えます,「なお,わたしが見ていると,見よ,小羊がシオンの山に立っていた。また,十四万四千の人々が小羊と共におり,その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」。神の経綸を司る者イエス・キリストが王の位につくと共に,「新しい天」はサタン悪魔と悪鬼を地に追い落とし,この統一のわざを始めたのは1914年以後,とくに1919年以後です。エホバの証者の現代歴史はそのことを示しています。(黙示 14:1; 12:1-13)こうして経綸のわざはいや増して,至上者の意志を全く成就します。そのことは昔から次のことばに述べられていました。「それは,イエスの御名によって,天上のもの,地上のもの,地下のものなど,あらゆるものがひざをかがめ,また,あらゆる舌が,『イエス・キリストは主である』と告白して,栄光を父なる神に帰するためである」― ピリピ 2:10,11。
17 いま私たちはとくに何に注意を払うべきですか。
17 ゆえに大いなる日を迎えた私たちは,神権組織をはっきりと見る必要を示す教訓に心を留めると同時に,神権組織の導きの下に私たちが一つに集められた目的すなわち宣教のわざを認識しなければなりません。また服従と協力の精神も大いに必要です。この同じ主題についてパウロの述べる事柄を更に検討すると,これらの教訓はますます明らかとなります。
正しい目的に正しい精神
18 地上にはじめ存在した一致の状態は,どのように,またなぜ無くなりましたか。
18 正しい精神の必要を十分に認識するため,昔のことを振り返って,はじめ保たれていた一致の状態がどうして失われたかを見るのは益のあることです。禁断の木の実について蛇から話しかけられたことは,エバにとって従順の試みであると同時に,けんそんをためす試みとなりました。欺かれて蛇のことばを信じたエバは,その木の実をあらためて見直しました。すると,それは今まで与えられていなかった独立と自由を与えてくれる大そう好ましいものに見えました。エバが夫に相談することもせずに,自分の考えで行動したのを見ても,エバが木の実をそのように見たことは明らかです。エバは次のように言ったかも知れません。「私だって自分で考えることができる。夫はまだこの木の実を食べていない。ひとつ私が夫に食べさせよう」。エバはたしかにそのことをしました。―創世 3:1-6。テモテ前 2:14。
19 世の精神は今どのように明らかですか。それは人をどこに導きますか。
19 エデンの園のエバがこのように言ったかどうかはわからないにしても,同じ理くつを述べる人は今でもいます。それは人々や国家の精神です。最小の国に至るまで主権と独立を求めています。「どんな生き方をしようと,それは私の自由だ」と,人は言います。エホバの証者の伝える音信に耳を傾けようとしない人が多い理由も,実はここにあるのです。人は何でも思うままの事ができなくなるのを恐れます。支配者も国民もエバに似て,蛙のような「汚れた霊」のことばに耳を傾けます。それは偽りを語る悪鬼の霊感を受けています。このような宣伝のことばは,誇り高い彼らの独立心をかき立て,全能の神の大いなる日の戦いのために集められる結果となります。―黙示 16:13,14。
20 私たちは今日どんな二つのものの選択を迫られていますか。
20 この時代の人間がとるべき道に迷っているのも不思議ではありません。このような独立の精神が過去においてどんなに根強いものであったにしても,いまはそれを捨て去ることが必要です。神はいますべてのものを「キリストにあって一つに帰せしめようとされ」ています。その第一歩として神は,死の眠りについた忠実なクリスチャンを復活させて,天のイエス・キリストと共に一緒にならせました。(エペソ 1:10。テサロニケ前 4:13-18)服従と忠実な献身の精神を示してこの正義の経綸の下に集められることを拒絶するならば,私たちは望んでも望まなくてもサタンに導かれ,全能の神と戦うために反対勢力と共にハルマゲドンに集められてしまうでしょう。「わたしの味方でない者は,わたしに反対するものであ(る)」と,イエスは言われました。―マタイ 12:30。
21 イエスのたとえ話からわかるように,(イ)どんな人々だけがイエスのもとに集められますか。(ロ)イエスは何に基づいて裁きますか。
21 イエスのたとえ話にあるように,羊のような人々だけがイエスのもとに集められます。そして最初に集められたのは,「小さい群れ」すなわち「新しい天」を構成するクリスチャン会衆でした。しかし1931年以来,「新しい地」の祝福を待ち望む「他の羊」も集められています。「他の羊」は別々に扱われてはいません。すべての者は経綸を司る「ひとりの羊飼」の下に「一つの群れ」となります。イエスが王となって治める今日,成就しつつある別のたとえ話から見るとき,「他の羊」とはイエスの追随者の「最も小さい者」を支持し,これに対する協力を惜しまない人々です。イエスから山羊と裁かれる人々は,あくまで独立を主張し,羊のように協力することを拒みます。―マタイ 25:31-46。ルカ 12:32。ヨハネ 10:16。
22 神のことばのどんなすすめに,いま応ずるべきですか。
22 エホバとその油そそいだ王に敵対する人々は間もなく打ち砕かれ,エホバは「地のはてまでも戦いをやめさせ」るでしょう。この時において私たちは聖書の同じ句の中に,「静まって,わたしこそ神であることを知れ」と述べられたことばに従うことが賢明です。「おそれをもてエホバにつかへ……子〔キリスト・イエス〕にくちつけせよ,おそらくはかれ怒をはな(たん)……すべて彼に依頼むものは福なり」― 詩 2:9-12; 46:9,10,文語。
23,24 キリストと一致するために集められた人々に対する神の目的は何ですか。その人々はこれについて自分で決めることができますか。
23 キリストの経綸の下に従順に集められた私たちに対する,神のお目的は何ですか。私たちが集められたのは,自分自身の祝福と救いのためだけですか。この事について私たちは自分で決定できますか。それは理に合わないことです。ある人はこの間違いをして落伍しました。これは私たちの決めることではなく,預め選ばれた14万4000人についてパウロが述べているように「御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に」行なわれることです。では神の目的は何ですか。その答に注目して下さい。それは「わたしたちが,神の栄光をほめたたえる者となるため」であり,私たちは神の目的に正しくかなうために,何をすべきかをも告げられています。「早くからキリストに望みをおいているわたしたち」と述べたパウロは,「〔エペソの〕あなたがたもまた」キリストに望みをおいたことを述べています。
24 この事はどうして可能でしたか。パウロが説明しているように,それは「真理の言葉,すなわちあなたがたの救の福音を聞」いた結果でした。これは集められた者に対する至上者のみ心を明らかにしています。私たちは良いたよりを自分だけのものにしておいてはならず,同じ希望と喜びに与ることのできるように,それを他の人にも知らせなければなりません。そうすることによって,私たちはエホバの栄光をほめたたえる者となり,一つの経綸の下にはたされる神の目的にかなう者となります。―エペソ 1:11-13。
25 自分と自分のすることに対して,クリスチャンはどんな見方をするべきですか。
25 パウロは神の至上なことを擁護し,神から独立しようとすることをいましめる論議を,別の角度から述べています。クリスチャンになったからと言って自分にほまれを帰したり,誇ったりすることはできません。クリスチャンである「わたしたちは神の作品」です。「救われたのは……信仰による」と言っても,安心して怠けていたり,あるいは救いを全うする道を自分で考え出すことはできません。パウロのことばのように,私たちがキリスト・イエスに帰するために集められたのは,「良い行ないをして日を過ごすようにと,あらかじめ備えて下さった」神の定めによるのです。―エペソ 2:8-10。
26,27 (イ)正しい目的に対する正しい精神は,どのように表わされますか。(ロ)イエスは問題点をどのように明らかにしていますか。
26 この副見出しの下に論じた聖句によって,学ぶべき教訓と問題はきわめて明らかにされています。私たちは正しい目的のために正しい精神を持たなければなりません。それは無私の精神,全身全霊を打ち込む,エホバへの献身の精神です。この精神があれば,神の備えられた正しいわざに繁栄することは間違いありません。私たち自身がキリストに一致して集められると同時に,福音を他の人々に伝えてキリストの下に人々を集めることに参加しなければなりません。
27 「わたしと共に集めない者は,散らすものである」と,イエスは言われました。それで問題は明らかです。キリストの経綸に服し,その下に留まることを拒絶するならば,私たちが間違った目的と間違った精神を持っていることは明らかです。キリストの経綸とは別に集めることをするならば,そのわざと動機がどんなに良いものに見えても,それはキリストの経綸に反対するものとなります。ベルゼブルによって悪鬼を追い出すとの非難に答えて,イエスはさきの言葉の中で次のように言われました,おおよそ,「内部で分れ争う国は自滅し……もしサタンがサタンを追い出すならば,それは内わで分れ争うことになる。それでは,その国はどうして立ち行けよう」。現代の人間が一致をもたらそうと努力しながらも自己矛盾に陥っているわけを,これは説明しています。人間の動機は利己心によるものが多く,これは純粋の,永続する一致を決してもたらしません。盲目にされたり,あるいは道を踏みはずして間違った支配を支持しないようにしましょう。―マタイ 12:24-30。
集められて形をととのえる
28 クリスチャン会衆はどのように形をととのえられますか。
28 この同じ主題を追って,使徒はキリストの経綸の下に行なわれるいっそうの進展を明らかにしています。それはきわめて興味深いもので,この経綸の崇高さを示しています。パウロが説明しているように,集められた人々は単なる烏合の衆ではありません。その人々は建物のように,はっきりした一つの形を成します。まず「キリスト・イエスご自身が隅のかしら石」であり,使徒や預言者を土台にして「建物全体が組み合わされ,主〔エホバ〕にある聖なる宮に成長し……霊なる神のすまいとなる」のです。(エペソ 2:20-22)なんと高遠な思想ではありませんか。御国会館や大会の会場でエホバの証者の集まりに出るとき,私たちはともすればその外見だけを見て人間的な見方をしますが,本当はエホバと同じ見方,認識をエホバの証者に対して持たなければなりません。神の宮を同じようにたとえている他の聖句も同じ事柄を強調し,霊的な見方を持つことの必要と,神の宮に属する者が「不信者と,つり合わないくびきを共にする」ことを避ける責任を持つことを述べています。―コリント前 3:16,17。コリント後 6:14–7:1。
29 「他の羊」の大ぜいの群衆は,聖所で何をしていますか。
29 14万4000人のクリスチャン会衆は,イエス・キリストと共に,「生ける石」の霊的な宮を作りあげます。(ペテロ前 2:4,5。ヨハネ 2:19-22)そのことはわかるが,私の希望は「小さい群れ」の抱く天のものではなく地のものだから,それは私に関係ないことだと思う向きがあるかも知れません。「ものみの塔」の読者の多くはそのように考えるかも知れません。しかし間違わないで下さい。エホバを愛して献身し,水のバプテスマによって献身を公にしたならば,あなたの立場はこれと決して無関係ではありません。ヨハネの見た幻は霊的イスラエルすなわち聖所となる人々の集められてのち,「他の羊」の大ぜいの群衆が「昼も夜もその聖所で神に仕えている」ことを示しています。これは比類のない一致を示しています。―黙示 7:15。
30 集めるわざの規模は,今日どのように拡大されましたか。それは何の必要を強調していますか。
30 「神は,すべての人が救われて,真理を悟るに至ることを望んでおられる」と述べた聖句は,そのことを裏づけています。(テモテ前 2:4)今日あらゆる種類の人が福音に答え応じ,福音の教えるところに従って生活しており,「ひとりの羊飼」の下にある「ひとつの群れ」に集められています。聖書から見て明らかなように,これらの人々はその行いにより,また現在の組織制度が全く終る前に成し遂げられるべき宣教のわざに参加することによって,神の栄光をほめたゝえなければなりません。使徒時代以後,14万4000人から成るキリストの共同相続者のクリスチャン会衆を集めることに主力がそそがれていましたが,「時の満ちるに及んで」集めるわざは1931年以来その規模を拡大しました。また時が短かくなるにつれて,その緊急さも増し加えられました。私たちには可能な限り多くの助けと励みが必要です。それで神の組織の内外にわたって,宣教のわざを詳細に検討するのは良いことに違いありません。
[脚注]
a 1960年2月1日号「ものみの塔」48,49頁,15-23節をごらん下さい。
[592ページの図版]
蛙に似た「汚れた霊」によって集められた支配者は神に敵対する
[593ページの図版]
キリストの経綸の下に奉仕する