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排斥 ― それに対する見方ものみの塔 1981 | 11月15日
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10,11 罪を犯して追放された人に対してクリスチャンが異なった行動を取るべきなのはなぜですか。
10 次の節でパウロは,この状況と,クリスチャン「兄弟」だったにもかかわらず悪行ゆえに会衆から追放された人に対するクリスチャンの振る舞い方と対照させています。「しかし今わたしは,兄弟と呼ばれる者で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交わるのをやめ,そのような人とはともに食事をすることさえしないように,と書いているのです」― コリント第一 5:11。
11 追放された人は,神を知らず,敬虔な生き方を追い求めてもいない世の普通の人ではありません。その人は真理と義の道を知っていたのにその道を離れ,悔い改めないで追放されるところまで罪を追い求めたのです。ですからその人は異なった仕方で扱われるべきです。b ペテロはこうした元クリスチャンが,普通の“一般人”とどう違うかについて注解しています。同使徒はこう述べました。「主また救い主なるイエス・キリストについての正確な知識によって世の汚れから逃れたのち,再びその同じ事がらに巻き込まれて打ち負かされるなら,そうした者たちにとって,最終的な状態は最初より悪くなっているのです。……真実のことわざの述べる次のことが彼らの身に生じました。『犬は自分の吐いたものに戻り,豚は洗われてもまたどろの中で転げ回る』」― ペテロ第二 2:20-22。コリント第一 6:11。
12 (イ)「排斥」という語はなぜ適切であると言えますか。(ロ)初期の時代,クリスチャンであると公言する人々が罪を犯した人をどう扱ったかに関し,歴史は何を示していますか。
12 そうです,聖書はクリスチャンが,会衆から追放された人と交際したり交わりを持ったりしないように命じています。エホバの証人はこうした悔い改めない悪行者を追放し,その後その人を遠ざけることを適切にも「排斥」(英語の字義通りの意味は,交友を中止する)と呼んでいます。彼らが,霊的なレベルであれ親ぼくのレベルであれ,追放された人との交友を一切拒むのは,神の規準に対する忠節と,コリント第一 5章11,13節にある命令に対する従順を反映することです。この点,当時のユダヤ人が「諸国民の者」を見ていたその見方でそうした人を見るように,とのイエスの助言と一致します。使徒たちの死後しばらくは,クリスチャンであると公言する人々は聖書的な手順に従っていたようです。c
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排斥 ― それに対する見方ものみの塔 1981 | 11月15日
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18 パウロは,「交わるのをやめ,そのような人とはともに食事をすることさえしないように」と書きました。(コリント第一 5:11)食事はくつろぎと親ぼくの時です。ですから聖書のこの部分は,追放された人を加えてピクニックに行ったり,パーティーを開いたり,野球をしたり,海岸や劇場に出掛けたり,共に座って食事をしたりするような,親ぼくのための交友をも非としているのです。
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排斥 ― それに対する見方ものみの塔 1981 | 11月15日
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b 聖書のこの教えと調和してアダム・クラークはこの相違を強調し,こう述べています。「聖俗の別を問わずどんな事においても,[罪を犯して追放された人]とは親交を持ってはならない。世の事に関しては,その人の道徳的特性のいかんにかかわらず,神を知らず,キリスト教徒であると公言しない人と取り引きしてよいが,クリスチャンであると公言しながら,行動において破廉恥な人はそこまで認めてはならない。その人には,あなたがたがあらゆる罪を憎んでいるというこの特別なしるしを身に付けさせよ」。
c 教会史家ジョセフ・ビンガムは,西暦の最初の数世紀間のことについて次のように書いています。「教会の規律は,人々を教会という社会および教会との交わりから追放することによって,バプテスマの益と特権をすべて剥奪する権力にあった。……そしてだれもが彼らを遠ざけ,彼らを避け,日常会話を交わさなかったが,それは一つには彼らを非とする教会の譴責と手続きを確立するため,一つには彼らを恥じ入らせるため,一つにはその悪影響を受ける危険から自らを守るためであった」。「……破門された人を自分の家に迎え入れたり,食卓を共にしたりすることはだれにも許されていなかった。彼らが生きている間,彼らと親しく話すことはできなかった。また死んでも彼らのために葬式を営むことはできなかった。……これらの指示は,悪名のある違犯者の肩を持つことをクリスチャンに禁じた使徒たちのあの規定の型に基づいて設けられたものである」―「キリスト教会古代史」,880,891ページ。
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