「見えぬものは永遠に至るなり」
ヴァチカン市は旅行者の目を魅惑す。聖ペテロ広場・教会の廊堂・ヴァチカン庭園・博物館・貴重な芸術の傑作・息をとめる程の宝石類・これらは皆人々が目を見張つて見る時に,想像を掻り立てる。又因襲の富がこの物質的な華麗と匹敵する。この因襲の富は,スイス護衛隊・法王の儀式・そして参詣するカソリック信者が多くの彫像偶像に捧げる宗教的献身に見られる。しかしながらなにか非常にそわそわした落ち着かない気分が漂つているのを目の鋭い観察者は見逃さないであろう。カソリックのイタリヤはクリスチャンが模範とすべき信仰の熱心な国ではない。ヴァチカンから数町離るれば外界の形観さえも急に変り,潜在する脅迫・汚穢・不道徳・そして共産主義の満ちているローマ市の街路へと変化するのである。
この共産主義一つだけでもカソリックの教職者達を恐怖に陥し入れた。共産主義の為に法王の演説は益々もつて政治的色彩を帯びるようになつた。共産主義は激しい戦いを惹き起してゐるのでたとえイタリヤの教会党,すなわちクリスチャン民主党の手段に頼つても益々威嚇し増大するこの赤い潮に教会は殆んど抵抗出来ない状態である。イタリヤの悲惨な農民階級と共産主義の多くの政治約束は汎くこの恐怖を養成する。しかし外的のものよりも精神的な貧窮こそ恐愕すべき真の基とならねばならぬ。使徒パウロは言つている『それ神の国は飲食にあらず,義と平和と聖霊によれる歓喜とに在るなり。』― ロマ書 14章17節
ヨーロッパを越えて,伝統的な新教の中心地である,英国に於いても宗教的状態は(イタリヤの状態より)良いなどとは殆んど言えぬ位である。1952年5月17日の英国のエブリーボオデイス・ウイクリー週刊誌に,『英国の教会は死んでいるのか?』と題する記事が記載された。記者は,強い反教会主義の波と困窮せる僧侶達を証明し『すべての面に於いて,英国の教会は死につつある』と述べてゐる。そして,静かな新教の大伽藍,すなわちヨークミンスター寺院の或る場面を写した大きな写真の下に,次のように書かれてゐる。『かくの如き壮麗を受け継いだ人々にとつて信仰が無意味になつたとは果してあり得ることだろうか?』
新教・旧教いずれにも共通なもの,すなわち物質的壮麗の只中に,精神的貧窮があるということは,1世紀のクリスチャンの行つたことと著しい対照をなすものである。模範とすべきイエスキリストの指導に従い,使徒及び弟子達は,イエスの死・復活・昇天の後も・天国の到来と・その義の統治を伝導し・予期し続けたのである。このことは真のクリスチャンを政治と,世界の宗派に中立の立場をとらせたので,クリスチャン達は嘲笑・侮蔑・身体の障害を蒙つたのである。しかしこのすべてに就いてポウロは次のように言つている。『この故に我らは落胆せず,我らか外なる人は壊れども,内なる人は日々に新なり。それ我らが受くる暫くの軽き患難は極めて,大なる永遠の重き光栄を得しむるなり。我らの顧みる所は見ゆる者にあらで見えぬ者なればなり。見ゆる者は暫時にして,見えぬ者は永遠に至るなり。』― コリント後書 4章16-18節
パウロと又当時のクリスチャン達は栄華に盛えていた当時のローマ帝国を目撃した。しかしクリスチャン達はローマ帝国は永続しないことを知つてゐた。又ローマ帝国は油注がれた王,イエスキリストの統治するエホバ神の神権政府には到底敵うものではないことを知つてゐた。クリスチャン達は実際の目でもつて神権政府を見ることが出来なかつた。その時には神権政府は未来のものであり,それが来る時には霊的なものであつて,人の目には見えぬものである。(ルカ伝 17章20,21節ヨハネ伝 14章19節)しかしクリスチャン達は神権政府に信仰を持つていたというのはクリスチャン達の精神的な心は研究によつて開かれ,そしてクリスチャン達は『真理の言を正しく教え』ていたからである。―テモテ後書 2章15節
しかしながら,御国が下からのものであり,又は見えるものであるならば,人々はただ物質的な物だけを築き上げ,それを肉の力で保護しようとする。最近の書物(革命時代)の中で,ヨークの英国大司教は共産主義の発展を慨嘆し,脅威を予防するには貧窮をなくすべきであると叫んでいる。エブリボオデイス・ウイクリー週刊誌の論説の記者C・E・Mジョードは目覚くも大司教の述べることの弱点を見ている。ジョードは大司教の提唱を批判して次の如く言つている。『これらの事を効果的にする為に,教会は先ず最初に自分の家・教会を整頓せねばならぬ。教会は信仰の再新をなし遂げ,そしてもつと強くクリスチャンの一致という問題を追究せねばならぬ。信じたいと切望している無神論者にとつて教会の不一致という,あらはな状態ほど遅巡させる影響を与えるものはない。』更に平和の時に共産主義や他の悪に対抗して一致が結集出来なければ,戦時には猶更に一致は得られない。戦時には国家という境界は信徒を分裂させ,そして信徒は富・財産を護ろうと互いに戦い合うのである。記者ジョードは次のように言う。『これらのことは平和の君という名前でなされる。しかしその平和の君は,暴力を否定し,従う者に互いに愛せよと命じたのである。』
更に宗教を『異教徒』に押し付けるというキリスト教国の飽くことを知らぬ努力に関して,ジョードは次のように言う。『キリスト教国が異教徒を改宗させるということについて聖書すなわちキリストの教えにはどんな権威があるのか?』 そのような権威は無いのである。イエスは追随者に『もろもろの国人に証しをなさんため』イエスの御国を宣べ伝える命令を残したのである。イエスは強制的な改宗など何も言わなかつた。僧服を身につけ,称号を持つ牧師達,飾り立てた建物,蓄積された莫大な富,耳をそばだてる『聖なる年』や目を奪うばかりの生物崇拝の儀式,こういうもののある仰々しい宗教的組成を作れなどとはイエスは何も言わなかつた。イエスはただ『我らの日用の糧を今日も与え給え』と言つたのみである。食物・飲物・衣服について,イエスは次の如く言つた。『汝らの天の父はすべてこれらの物の汝らに必要なるを知り給うなり。まず神の国と神の義とを求めよ,然らばすべてこれらの物は汝らに加えらるべし。』― マタイ伝 6章11,32,33節; 24章14節
これは今日実際的であろうか? 非常に実際的であり充分に報いのあるものである。そのことは今日真のクリスチャン達が証明しているのである。公共の場所でも又家庭に於いてもキリストの御国の良い音信を伝道するというクリスチャンの義しい仕事は,ただに羊級の人達に真理をもたらす許りでなく,神の聖霊の指導に従う伝道者達に心の平和と,よろこびを与えるのである。もしあなたが帝国もしくは大きな宗教的教職制度を作りたいならば,これは実際的ではない。あなたが高い地位を持ち,人々が強制されてあなたを助けそのあやふやな組成を支持したとしても実際的ではない,これらの物は皆実際的ではないというのはこれらはハルマゲドンに生き存らないであろう。それらは防護することが出来ず,破滅に落ちるであろう。しかし我らの知る如く,『見えぬものは永遠にいたるなり。』