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神の真理を分け与えるよろこびものみの塔 1965 | 10月15日
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御国会館に出席しています。その人の母親は最近次のように話し私たちを喜ばせてくれました。『私はあなたがたが息子にして下さった事をいつまでも感謝します。それまでは朝起きて食事もろくにせず,生きる目標がなくなったからつまらないとよく言っていました。しかしあなたがたと聖書を勉強するようになってからは食事をするようになり,何よりも将来の希望を持つようになったのです』。『受けるよりは与える方が,さいわいである』という使徒行伝 20章35節のイエス・キリストの言葉はたしかに真実です。
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読者からの質問ものみの塔 1965 | 10月15日
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読者からの質問
● 祈りによってエホバに近づく時,エホバのどんな姿を想像できますか。あるいは何を考えるべきですか。
ダニエル,エゼキエル,使徒ヨハネに与えられた幻から,エホバのすばらしい栄光はある程度象徴的に理解できます。(ダニエル 7:9,10。エゼキエル 1:26-28。黙示 4:1-3)しかしホレブ山のふもとでエホバがイスラエル人に話された時彼らがどんな姿も見なかった事を記憶すべきです。その理由は,イスラエル人が神の象徴,「どんな形の刻んだ像,男または女の像,地の上におるもろもろの獣の像」をも作ることを望まれなかったからです。―申命 4:15-19。
クリスチャンが祈る時,聖書のまぼろしが心をかすめることがあっても,エホバの形を想像できるものは何もありません。「神は霊である」ことを心に留めねばなりません。(ヨハネ 4:24)祈る時に神の形を想像するより,神の壮大さ,神のすばらしい特質を考えるべきです。聖書を学んだ結果,私たちは,エホバがむかしご自分の民を,力強く導かれ,また将来にそなえて公正で愛のあるとりきめを作られたことを理解しています。それで信仰があるなら,祈りによってエホバに近づく時,私たちは形を必要としません。「わたしたちは,見えるものによらないで,信仰によって歩いているのである」。(コリント後 5:7)エホバを愛とあわれみのある天の父として考えて下さい。神は私たちがイエス・キリストの名によって正しい方法で,正しいことのために御心に一致した祈りをする時に聞いて下さる方です。―ヨハネ 14:6,14。ヨハネ第一 5:15。
● エホバがエジプトの初子を殺してから,パロはついにエジプトを去ってもよいとイスラエル人に告げ,こう言いました。「行きなさい。また,わたしを祝福しなさい」。(出エジプト 12:32)パロのこの言葉は何を意味していますか。
その意味はパロの言葉通りです。すなわち,彼は祝福を望んだのです。イスラエル人に彼らの家畜の群れをつれ去る許可を与えたのち,パロはイスラエル人とその指導者モーゼが自分を今でものろい,自分の病気を願いながら去ることを望まなかったのです。パロはこのうえなく悩まされてきました。やっとのことでパロはイスラエルの神が彼に要求したことを許しました。イスラエル人は神への犠牲として家畜の群れを連れて行くことを望んでいたので,パロは家畜の群れを解放する際に,イスラエル人が次のことを心に留めて彼らの神エホバに犠牲を捧げるように望みました。というのは,パロとエジプト人にのぞんだ恐ろしい災いの結果から彼らがいやされるように,パロと彼の民のために神に懇願することでした。モーゼ,アロン,イスラエル人がパロの願いを聞き入れエホバに祈ったかどうかは別問題です。実際にパロの心は悪い方に変化したのですから,モーゼとイスラエル人に祝福を語ってもらうにはふさわしくない者となりました。このことは明らかにイスラエル人が紅海で進退に窮しているという報告を受けとった時,パロは軍隊を集め,イスラエル人を滅ぼすか,どれいに戻らせるために追跡させました。パロは祝福を受けるに値しませんでした。―出エジプト 14:5-9。
● 歴代志下 4章4節に記録されているように,エルサレムの宮の庭にあった鋳造の海の土台として12の銅の牛が造られたことは,偶像の作成を禁ずる第二の戒めを犯しませんでしたか。
明らかに多くの人は第二の戒めを読み違えています。その戒めは,崇拝の対照として像を作ることを禁じているのであって,像や表象物すべての作成を禁じていないからです。その戒めの全文は次の通りです。「汝おのれのために何の偶像をもきざむべからず又上は天にある者下は地にある者ならびに地の下の水の中にある者の何のかたちをも作るべからずこれをおがむべからずこれにつかふべからず我エホバ汝の神は嫉む神なればなり…」。この戒めを読み違えている人々にマホメット教徒がいます。彼らはこの戒めを犯さないように,彼らの芸術に幾何学的な図案のみを用います。―出エジプト 20:4,5。
エホバが像の製作をすべて禁じられなかったこと
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