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怒りのぶどうを踏みつぶすものみの塔 1966 | 10月1日
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に聞く人々が不安や恐れを感ずる必要はありません。その時を生き延びるのは,なんとすばらしい事ではありませんか。それはエホバの保護によってのみ可能です。ヨエルの預言は,酒ぶねの中で諸国民が踏まれることを述べたのにつづいて次のことをしるしています。「エホバ シオンよりよびとどろかしエルサレムより声をはなち天地を震ひうごかしたまふ然れどエホバはその民の避所イスラエルの子孫の城となりたまはん かくて汝ら我はエホバ汝等の神にして我聖山シオンに住むことをしるべし」。(ヨエル 3:16,17,文語)彼らは死ぬことなく,神の新しい事物の秩序に生き残ります。
18 (イ)エホバに仕える人は何を待ち望むことができますか。(ロ)酒ぶねがまもなく踏まれることをエホバの証人が宣べ伝えることは,なぜそれほど緊急ですか。
18 ガンの手術は困難で危険を伴い,患者にとっては苦しい試練の時となります。しかしガンが完全に切除されたならば,手術に首尾よく耐えた患者は歓喜することでしょう。同様に「地のぶどう」が切り倒されて踏みつけられる時は,かつてなかった患難の時です。しかし「地のぶどう」がなくなって神のさばきが地に満ちる時,地に住む者は歓喜します。そのとき御国のまことのぶどうの木が結ぶ豊かな実は,地に住む人々に義を行なうことを得させ,生命と平和をもたらすでしょう。正しい心を持つ人々が事態の重大さに目ざめ,酒ぶねで踏まれることなく保護されるために必要な道をいまとるよう願って,エホバの証人はいま努力を傾けています。彼らが伝えなければならない緊急な警告の音信は,必ずしもすぐには受け入れられません。それでも彼らは宣べ伝えます。それは生命を救うわざだからです。危険な状態を明らかにし,同時に永遠の幸福に通ずる唯一ののがれの道をさし示すために,彼らがなすべき事柄は,黙示録の中につづいて示されています。活気に富んだ黙示録 15章,16章に関する論議は,おって本誌にとりあげられます。
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「アバ,父よ」ものみの塔 1966 | 10月1日
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「アバ,父よ」
● 福音書記者のマルコは,イエスが死ぬしばらく前に,ゲッセマネにおいてエホバ神にささげた祈りの中で,「アバ」ということばを使ったことをしるしています。イエスはこう祈られました。「アバ,父よ,あなたには,できないことはありません。どうか,この杯をわたしから取りのけてください。しかし,わたしの思いではなく,みこころのままになさってください」。(マルコ 14:36)これは自分の愛する父に対する熱心な訴えです。同時に,どのような事態になっても忠実をつくすとの決意をも表わしています。「アバ」はアラミヤ語であり,ヘブル語の「アブ」と同じく「父親」という意味ですが,「アブ」の意味をさらに強くした形です。「アバ」は子供が自分の父親を呼ぶ時の一種の愛称でしたが,英語の「パパ」に含まれるような親しみの情と,「父親」という語にある一種の威厳をかねそなえたことばでした。すなわち,形式ばらない,しかし敬意をこめた呼びかけでした。それゆえ,これは単に父親と言う以上に親しみをこめた呼びかたであり,子供が早く覚えることばの一つでした。使徒パウロの手紙,つまりローマ人への手紙 8章15節とガラテヤ人への手紙 4章6節にこの語がさらに2回出てきます。いずれの場合でも,霊によって生み出されて神の子となるクリスチャンに関連して用いられており,その人々と天の父との親密な間柄を表わすのに使われています。その人々は「神の奴隷」ですが,同時に愛の父の家にある神の子たちであり,主イエス・キリストを仲だちとする神の聖霊により,この立場をはっきり認めています。―ローマ 6:22; 8:15。ガラテヤ 4:6。
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