「あなたのみことばは真理です」
あなたはみずから望んでいる幸福を得ていますか
人をみじめな気持ちにさせるどんなものがありますか。ごく普通なものとしては,ある目標に到達できない無力さがあります。それはしばしば挫折感を伴い,欲求不満をもたらします。おそらくあなたもこのことを経験なさったでしょう。ほんとうに幸福であるためには,生活に目的を持たねばならないことに読者はおそらく同意なさるでしょう。
しかしながら,ばく然とした目的は成功をもたらすものではありませんし,また,でたらめな,あるいは不注意な仕方で事を運ぶのでは,やはりうまくゆくものではありません。“見通し”,すなわち確かな源からの導きが必要です。わたしたちの周囲には,人間的な知恵に従った結果が,つまり無秩序,自暴自棄的行動,手に負えない暴力行為などがいたるところに見られます。実際,神の導きこそ唯一の解決策なのです。聖書の箴言 29章18節を読んで,それがこの実情をどれほど的確に述べているかを考えてください。
聖書はそれが神のことばであることを示して,次のように述べています。『エホバの訓諭はなおくして心をよろこばしめ エホバの誡命はきよくして眼をあきらかならしむ』。(詩 19:8)しかしながら中には宗教的偽善のために,聖書に対して偏見をいだいている人もいます。しかし,偽善者は聖書に従ってはいません。聖書の原則に従う人は,聖書の原則は実際的なものであることに気づくでしょう。というのは,実際に適用すると,聖書の原則は効果を発揮するからです。
聖書の規準を無視することから生ずる不幸
たいへん不幸な世の中ですから,不幸な家庭生活を送っている知人がいるのをご存じかもしれません。あなたは,利己主義や誤解や怠慢がその原因であることに気づいておられるに違いありません。そのような家庭の子どもは,たいへん必要な愛や導きを与えられていないので,訓練を施されておらず,失意やいらだちを感じています。
今日の社会には,家族という集合体を軽視する傾向があります。しかし,あなた自身の経験からもわかるように,家族の一致が見られ,親が子どもの真の友となり,また歩むべき正しい道を子どもに教える家庭のほうがずっと幸福ではありませんか。社会の基本的な単位としてのこうした健全な家族の取り決めを設けたのはだれですか。人間の創造者である神です。また,集合体としての家族の絆を強く保たねばならないという律法は実際のところ,どこにありますか。それは聖書の中にあります。―創世 10:31,32。申命 6:6,7。エペソ 3:14,15。
親からほったらかしにされたために,いらだちを感じた子どもの多くは麻薬や暴力に走っています。しかし,親が結婚や子どもに対する親の愛に関する聖書の原則に従ってさえいたなら,そうした不幸はおそらく避けられたことでしょう。もし親が次のような聖書の助言を知っていて,それを真剣に受け入れていたなら,子どもたちがそうした道に走ってしまうなどということは考えられるでしょうか。『父たる者よ,なんじらの子どもを怒らすな,ただ〔エホバ〕の薫陶と訓戒とをもて育てよ』。―エペソ 6:4〔新〕。
さらに聖書は,『人の命は所有の豊かなるにはよらぬなり』と述べています。(ルカ 12:15)今日,夫婦が共稼ぎをしたり,夫が仕事を二つかかえたりしているために,家庭生活がなおざりにされているのに気づきます。それらの人は生活を大いに便利にする物品を購入するために,また多くの場合,自分たちが持っていたよりも多くの物を子どもたちに与えるために,家族の交わりや霊的福祉を犠牲にする道を選ぶのです。
しかし,物質上の益を図ることにそのように努力を集中したところで,幸福をもたらすことができるでしょうか。いいえ,それは霊的破たんを招きかねません。大学教育を受けていてさえ,ほとんどの場合子どもたちは,自分たちの生活は浅薄で無意味なものと感じており,全然満たされていません。聖書の助言はそのような家族にどれほど益をもたらしえたことでしょう。
成功を収める生き方
聖書の述べる事柄をほんとうにそのとおり受けいれるなら,聖書が生活上のあらゆる道に関して唯一の実際的で理にかなった方法を示していることがわかります。というのは,聖書はわたしたちのすべてが人間としてどのように生活し,ふるまうべきかを告げているからです。聖書の筆者のひとりは次のように述べています。『人よ彼さきに善き事の何なるを汝に告げたり エホバの汝に求めたもう事はただ正義を行ない憐れみを愛し謙遜りて汝の神とともに歩む事ならずや』。これ以上に理にかなったことがあるでしょうか。人はみな,このことを行なうべきではありませんか。また,もしそうしていたなら,地球はもっと幸福な住みかになっていたのではないでしょうか。―ミカ 6:8。
『あなたは,自分がほんとうに正しい規準に従って生活しているかどうかを知っていますか』と尋ねられたなら,あなたは本気ではいと答えられますか。もし答えられないなら,聖書を調べれば,その純粋で有益な規準となるものを見いだして喜びが得られるでしょう。そうすれば,自分の生活の仕方を吟味し,自分が神の定めた規準にもっともっと従えるようになり,真の満足と幸福を味わうことができるでしょう。それには時間や努力がいりますが,日ごとに生活がいっそう幸福になっていくことに気づくでしょう。
こうして聖書を調べてみると,自分がこれまで誠実に従ってきた習慣,宗教上の伝統,あるいは専門の助言者などに頼れるものではないことがわかります。さもなければ,今日の状態はどうしてこれほど悪化しているのですか。また聖書はどうして『この世にならうな,神の〔意志〕の善にして悦ぶべく,かつ全きことをわきまえ知らんために〔思い〕をかえて新たにせよ』と述べているのですか。―ロマ 12:2〔新〕。
神ご自身のみ子は,『人の生くるはパンのみによるにあらず,〔エホバ〕の口より出ずるすべてのことばによる』ということを知っていましたし,またそう言われました。(マタイ 4:4)エホバの証人は,聖書の規準にかなった生活をするその度合に応じて,生活の真の目的である幸福,欲求不満からの解放,人間の尊厳の回復,また物事を達成して得られる満足感を見いだしてきました。彼らは自分たちの生活が,神が男と女を創造するさいにいだいておられた目的にいっそうかなっているということを感じています。
エホバの証人はこのような良いたよりを自分たちだけのものにしておくことはできません。彼らは自分たちが見いだしたものによって幸福を味わっているとともに,他の人びともやはり幸福を追い求めていることを知っています。神は不公平なかたではありません。神はその真理のみことば聖書を誠実に調べる人びとすべてに同じ幸福を見いだすすべを差し伸べておられます。―使行 10:34,35。
『われなんぢの法をいつくしむこといかばかりぞや われ終日これを深くおもふ なんぢの誡命はつねに我とともにありて 我をわが仇にまさりて慧からしむ 我はなんぢの証詞をふかくおもふが故に わがすべての師にまさりて智慧おほし 我はなんぢの訓諭をまもるがゆえに 老たる者にまさりて事をわきまふるなり われ聖言をまもらんために わが足をとどめてもろもろのあしき途にゆかしめず なんぢ我ををしへたまひしによりて 我なんぢの審判をはなれざりき みことばの滋味はわがあぎにあまきこといかばかりぞや 密のわが口に甘きにまされり 我なんぢの訓諭によりて智慧をえたり このゆえに虚偽のすべての途をにくむ…なんぢの法をあいするものには大なる平安あり』― 詩 119:97-104,165。