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聖書時代に於ける神権大会ものみの塔 1953 | 9月15日
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が実際には一番最初のクリスチャンの大会です。
クリスチャン会衆の開始を示したこの大会に於いて聖霊が注がれるという超自然的現象は,律法契約の開始時に,シナイ山に於いて開催された大会とよく対照できることでしよう。『彼らはみな聖霊に満たされ,み霊が言わせるままにもろもろの外国語で話し出した。』このようにして当時エルサレムに居た各国から来ているユダヤ人で信心深い人々に,彼らは伝道し,五旬節について語ることが出来ました。
120人のクリスチャンの大会はその最初の日に25倍の増加 ― 即ち一時に3000人へと飛躍したのでした。(使行 1:15; 2:1-41)それは真に喜びに満ちた機会に違いありません! 真に聖書時代に於ける神権大会はヱホバに讚美を齎し,人々には知識と教訓とを与えそして非常に歓喜させました。この事は近代に於ける神権大会にも全く同じです。
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新しい世の生活に一致は実在するものみの塔 1953 | 9月15日
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新しい世の生活に一致は実在する
1,2 神権制度に於いて家族生活が重要な役割を果すという事は,如何にして分りますか?
家族の生活は,クリスチャン会衆の神権的制度に於いて,重要な役割を果して居ります。それはヱホバ神が家族制度を神権的に命令したからです。即ち,最初にアダムに,後にイスラエル民族に命じ給うた通りであります。一方に於いて,イスラエル民族に関しては,彼らが生れながらにユダヤ人であり,他方今日のクリスチャンは撰択と交際によつてヱホバの証者であるという事は本当でありますが,それでも家族制度というものはその会衆制度全体に及んで居ります。我々が古い世の社会を離れ,アダムの受けた呪のもとに死なんとする家族を離れる時,若し生命を受ける者であるならば,我々は新しい世の社会と交り,神の家族の一員とならなければなりません。即ちアダムの代りにイエスキリストを父として受け容れ,神の家族に入るのであります。そして若し神によつて受けいれられたならば,その人は神自身の霊の子として認められ義とされるか,或いは,地上に於いて永遠の生命を受ける事が出来,キリストの千年期統治の終りに正しい地位を与えられるのであります。
2 会衆内で監督者としての責任ある立場におかれる者が結婚した者であるならば,その人は自分の家族を治めるその仕方に従つて撰ばれるのであります。(テモテ前 3:4,5)そしてパウロは,その様な責任ある立場につく者の正しい態度について説明した時,彼はそれを家族の交りにたとえて居ります ―『老人を叱らないで,父として諭しなさい。若い人たちを兄弟として,老いた婦人を母として,また若い娘たちを全く純潔な姉妹として諭しなさい。』(テモテ前 5:1,2,口語)ですから神権的な制度は,実際に於いて,一つの家族であり,神は,その家族の福祉と活動に与かる人々がその家族の責任にも参与し,その家族の最大の利益の為に働くことを要求し給います。
虚偽の家族的誇りは罠
3 或人々は,家の祖先に関してどんな態度をとりますか? そして,それは何故賢明でありませんか?
3 人間の家族制というものは,神が決めたものであるから,その家族関係は犯すべからざる神聖なものであり,肉親のつながりに対しては絶対的忠誠が必要であり,家族の平和と調和を破壊するものは何物であろうと許すべきでなく,その調和と平和を脅かす物が何であろうと,又どんな出所から来ようとあらゆる手段をつくしてそれを追放しなければならないと結論する人も居りましよう。この様に考えて居る人々は,その結果として極度に『家族』意識が強くなり,如何なる代価を支払おうとも,やつきとなつて家名を守るのです。そして,時には,そうする為に正しい原則を犯すことすら敢て行うのであります。その様な人は,自分達と同等の地位でない者と交際することを嫌い,自ら階級差別,すなわち閥族社会なるものをつくりあげるのです。然しながら,その様な行動を行わせる理論というものは,全きにして変らざる至高者の原理に基いて居るのでありません。パウロはテモテにこう書き贈りました。『あなたに勧めたことは,昔話やとりとめもない系図などに気をとられたりしないように,命じてもらいたいことであつた。このようなことどもは信仰による神の働きを助けるよりは,むしろ議論を誘い出すものだからである。』(テモテ前 1:3,4,口語)生命を与える信仰の音信よりも,家の祖先を重んずる人々は,よろしくこの点を考えるべきであります。すべての家系は,若し充分にさかのぼるならば,悉くアダムに達するのであります。アダムとの関係を考えた時に,真実の或は想像上の『優越』を誰が持ち得ましよう。受け嗣いで本当に価値ある唯一つの物は,永遠の生命でありますが,アダムはその永遠の生命を与えることが出来なかつたのです。それ故に,アダムの子孫であるならば,世間に於いて如何に著明であろうとも,自ら優位な地位を主張することは全く出来ないし,又著明な者と関係があるからといつて,永久的な優越性を示すことも全く出来ないのであります。
4 学者とパリサイ人は,どんな主張をしましたか? 然し,それは実際上彼らにとつてどんな意味をもつのですか?
4 その様な家族の誇りに関する著明な実例は,恐らくイエス時代の学者やパリサイ人のうちにみられましよう。そして,若しも彼らがその様な誇を持つて居たとするならば,その人々は,アブラハムを通じての自分の民族と神との関係の為に誇りを持つて居たのだと考えられましよう。しかしながら,その関係自体は少しも誇りの原因にならないし,父ユダヤ人はアブラハムの子孫であるというその家族関係の為に救の保証を受けたわけでないという事は,既に前の節(12)で説明した所であります。(ヨハネ 8:31-36)若しアダムの子となること,或はアダムの子孫の子となることを望み,その肉親的つながりを誇りたいと思う者が居るならば,その様な人は,よろしく次の事を認識すべきであります。即ち,その様な人は極度な貧困と死の遺産を撰んで永遠の生命の永久的遺産を放棄して居るのです。そしてそのことは全然疑いの無いことであるということです。
5 信仰持つ子供の,不信仰な両親に対する責任は何ですか?
5 他方,クリスチャンは,極端に反対の方向へ走つてはなりません。そして肉親的両親を少しも敬う必要がないなどと主張してはなりません。この点に関し,パウロはエペソの人々に書きおくつた時,少しの疑問の余地をものこしませんでした ―『子供たちよ,主にあつて両親に従いなさい。これは正しいことである。あなた方の父と母とを尊びなさい。』これは次の約束を伴う第一の誡律である。「こうすればあなた方は地上に於いて幸福になつて長生きをするであろう。」』(エペソ 6:1-3,口語)しかしながら,この点につき次の事を見のがしてはなりません。即ち,パウロが主にある両親に従いなさいと言つて居ることに注意しなければなりません。では,この事は,信仰持つ子供は不信仰な両親に何ら義務を負わないという意味なのでしようか? いいえそうではありません。普通の生活に於いて,子供達は親に依存して居る限り当然両親に従わねばならず,たとえ親に依存して居ないにしても,両親を正しく敬わなければなりません。しかし,神の真の礼拝や,神への聖い奉仕に関して論争が生じた時には,確かに次の聖書的規則を適用すべきです。『人に従うよりは神に従うべきである。』(使行 5:29,口語)しかし,それは家庭内に不和を生ぜしめ,恐らく分裂にさえ導くでしよう,とあなた方は言うかもしれません。多分そうなるかもしれません。然し,イエスは次の如く明らかに教えて居ります『私よりも父や母を愛する者は,私には適しない。』(マタイ 10:37,口語)事実イエスは,次の如く一層鋭く申して居ります『私は来たのは,人をその父に,娘をその母に,嫁をその姑に逆わせるためである。』― マタイ 10:35,口語。
6 神は何故家庭内の分裂を認めますか?
6 或人は神が家族制度をつくつたのであるから,以上の様な方法でそれが壊されるのを許し給うのも当然でしよう,と論ずるかもしれません。我々は再びいいえと答えます。アダムの為に,今やすべての家族が神御自身の一大家族より追放されて居るという事を憶えて下さい。しかし,家族のすべてが,追放されたままで居たいて願つて居る ― と結論するのは合理的でありません。又,或者が神の家族に入ることを望んだからとて,それによつて他のすべての者までが入れると考えるのも不合理であります。そこで,分離が生ずるわけです。然し,神は見さかいなく,家族を分裂さすのでないという事を銘記すべきであります。そうでなく,それは家庭内の或人が必要な要求にそわず,ヱホバに一致した人々と共にならないからなのです。(ルカ 17:34,35)神は人を偏り見ず,階級差別を認めず,閥族社会をつくりませんでした。しかし,神御自身の家族にとり入れられ,そこに平和を見出す人々の為に御準備をなさいました。『ほんとに私は悟りました。神は偏頗な方ではなく,神を畏み正義を行う者は民族の如何を問わず受け入れ給う方であることを。』『そして家,兄弟,姉妹,父,母,子供ら,または田畑を私の名のために捨てた者は,誰であつても捨てたものの百倍を受け,そして永遠の生命をつぐであろう。』(使行 10:34,35。マタイ 19:29,口語)では,我々はこの点より,どんな結論を得るでしよう? 我々は次の事を認めます ― 即ち,神は始より家族関係を備え,家族制をつくり,御自分の家族制度すら持ち給うて居りますが,それにも拘らず神は家族或は国民を閥族とすることを許し給わず,又人間が自分で自ら高位についたという理由だけで階級差別の存在に神が同意するということもあり得ないのです。これらすべては,神との関係を充分に認識する重要性を強調して居ります。即ち,神との関係は,如何なる人間的つながりをも凌ぐものであり,救に至る唯一つの道であるという事を強調して居るのです。
牧師は,階級差別を行う。
7 会衆内の地位に関して,イエスは弟子達にどんな訓戒を与えましたか?
7 では,キリスト教国牧師のとつて居る立場はどうでしよう? 彼らが会衆内で有して居る目立つ地位は,神の正義の原則を犯して居るばかりでなく,会衆の創立者キリストイエス自身が明白に禁じて居るところであります。御国に於ける地位について,弟子達の間に論争が生じた時,『イエスは弟子たちをよんで言われた「諸国民の支配者達が人々を治め,偉い人たちが彼らの上に権力を振うことは,あなた方が知つて居る通りである。しかし,あなた方の間にあつてはそうあつてはならない。あなた方の間にあつて偉くなりたい者は皆に仕える者となり,あなた方の間にあつて頭でありたい者は,あなた方の僕となるべきである。このように人の子の来たのは仕えられるためではなく,仕えるためである」』それから,イエスは最後の公開の講話をしました。イエスはその中で学者やパリサイ人に対して辛辣な非難をあびせ,そこに居合せた弟子達とすべての聴衆に厳しい訓戒を与えました ―『あなた方は自分を先生と呼ばせてはならない,何故ならば,あなた方の先生はただ一人であり,あなた方は皆兄弟であるからだ。あなた方は指導者と呼ばれてはならない。あなた方の指導者は一人,キリストである。あなた方のうちの偉大な者は人に仕える者である。自分を高くする者は卑くされ,自分を卑くする者は高くされるであろう。』(マタイ 20:25-28。マタイ 23:8,10-12,口語)当時自分を高くして居たものはユダヤ教に於けるそれらの指導者達でした。そして,彼らは非常に高くなつて居たので,モーセの律法を成就して彼らのもとに神の子が来た時,彼らは神の子を見ることも認めることも出来なかつたのです。彼らは自分自らの律法をつくつたのであります。
8 キリスト教国の牧師達はどんな例にならいましたか? それに対して神はどんな態度をおとりになりますか?
8 キリスト教国の牧師達は,それらユダヤの指導者達にならつて,会衆を如何に設立し彼らの『兄弟達』の上にどんな権威を振うかについて,自らの規則をつくりました。彼らのうちにあり最も偉大なものは僕となる者であるというイエスの正しい教えを無視して,彼らはユダヤの指導者にならい,自分達の地位を固め,社会に於いて極度に優れた地位を占めて居るのであります。箴言の智慧はその様な事を非難して居ます。『狗のかえり来りてその吐きたる物を食うが如く,愚なる者は重ねてその痴なる事を行う,汝おのれの目に自らを智慧ある者とするを見るか,彼よりもかえつて愚なる人に望あり,惰者はおのれの目に自らを,善く答うる七人の者よりも智慧ありとなす。』(箴言 26:11,12,16)キリスト教国の指導者がつくり,多くの欺かれた追従者達が恕し支持して居る階級差別は,ヱホバ神にとつて,かの学者やパリサイ人の階級差別と全く同様に厭わしいものでありましよう。そしてパリサイ人や学者の受けたと同じひどい審判をもたらすことは確実であります。
9 初代会衆はどんな足路<コース>に従いましたか? その証拠にどんなものがありますか?
9 これと直接対照になるものは,イエスキリストがエルサレムに於けるクリスチャン,ヱホバの証者の最初の会をもつてはじめた初代会衆であります。その時そそがれたばかりの神の活動的御力によつて,キリストの御言葉と御命令がそれらクリスチャン達の心に甦えつたことは確かであります。それはこうです ―『私はあなた方に新しい誡律を与える,互に愛し合いなさい,私があなた方を愛したように,あなた方も互に愛し合いなさい。あなた方が互に愛し合うならば,これによつて,あなた方が私の弟子であることを,すべての人は知るであろう。』(ヨハネ 13:34,35,口語)この原則が初代会衆のうちに存在し,強調されて居たという事は,12の柱の1に数えられた人の訓戒によつても示されて居ます。その人はその命令が与えられた時イエスの許に居たものであり,こう言いました ―『あなた方の託されて居る神の羊群を牧しなさい。強いられるのではなく,自ら進んでそうしなさい。恥ずべき利益のためでなく,喜んでそうしなさい。委せられた者の支配者になるのではなく,羊群への手本となりなさい。』(ペテロ前 5:2,3,口語)当時閥族制度のはびこつて居たユダヤ民族の傲慢と尊大さから離れて居た誠実なユダヤ人にとつて,それは何たる違いを示して居ましよう! その新しい関係のうちには,いささかの階級差別もなく,彼ら相互の間には不公平も偏愛も全くなかつたのであります。正義と公平の原則は,キリストの真の体であるその初代会衆のうちに確固と植えつけられたのであります。何故なら,その時,罪深く死の運命をもつ肉体にでなく,アブラハムの永しえの裔キリストイエスに新しい植えつけがなされたからであります。
イエスの友情偏意にあらず
10 イエスは偏愛なき事と公平を如何に表明しましたか?
10 だがイエスは,弟子達の或者に対して特別な考慮を払われたではありませんか? そして,イエスは,宣教と癒しの業をただユダヤ人にだけ行い,或者の家ではより多くの時間を費したのですから,それによつて偏愛を表明したではありませんか? 或人はイエスの使徒であるヨハネがイエスの偏愛を受けた弟子であると信じて居ます。イエスがヨハネに対てどんな愛情を持つたにしても,イエスは彼に御国に於ける優位な地位を与えたわけでありません。これは,前に述べました弟子達の争論のうちに示されて居ります。その時に,イエスは,自分はその様な優位な地位を与えることが出来ないと言い,偏愛を示すことを拒絶したのであります。(マタイ 20:20-23)そして,彼は特にイスラエルの家にだけ遣わされたのですが(マタイ 15:24)それを口実として諸国民内の誠実な人々を差別する様なことはしませんでした。何故なら彼は伝道の3年目にフォエニキャへ簡単な旅をし,癒を行つたからであります。―マルコ 7:24,30。マタイ 8:5-13。
11 イエスは,唯一つの家を一つの町の本部とすることに関し,どんな立場をとりましたか?
11 イエスは最初の3年の伝道期間の始んどすべてをガリラヤ近辺ですごし,本部をカペナウムのペテロの家におきました。(マタイ 8:14。マルコ 1:29。ルカ 4:38)彼が余りに長くカペナウムに滞在したので,彼が育つた土地ナザレでなく,カペナウムが彼『自身』の町と呼ばれるに至つたのであります。(マタイ 9:1; 4:13)これは彼自身の便宜のためばかりでなく,彼の音信に興味を持つ多くの群衆の為でもあつたという事は,マルコの次の言葉によつて証明されて居ります ―『それから数日たつて,イエスは再びカペナウムに来られたが,家に居られることが知れわたつた。すると,もはや門に入る隙間もない程,多くの人々が押しかけて来た。』(マルコ 2:1,2,口語)イエスは彼の公開講演運動の予備宣伝をさせる為に70人の弟子達を遣した時にも,同じ方法をとる様に勧告しました。即ち彼はこう申しました ―『どの家に入つても先ず,この家に平安がある様に,と言いなさい。もしそこに平安の子がいるならば,あなた方の祈る平安はその人の上にあるであろう。もしそうでないならば,その平安はあなた方の上に帰つて来るであろう。同じ家に泊り,家人の供えてくれた物を飲食しなさい。働く者がその報酬を受けるのは当然である。家から家へと移つてはならない。』(ルカ 10:5-7,口語)この事実こそ誤解を避けるものであり,偏愛でないという証拠であります。
12 徒党をつくることなく,親密な交際が出来るのはどの様にしてですか?
12 今日に於けるヱホバの証者の会衆内に於いては,キリストにある兄弟としてや,同僚証者としての交際の外に,多くの密接な関係が存在して居ります。それらのものは,徒党として或はこの研究に於いて要略された原則に違反するものとして非難すべきものでしようか? 心に会衆の調和を持つ人々は,審判に関する他の事柄の如くに,それを非難することを避けることでしよう。彼らは何年もの間円熟したクリスチャンとして一緒に居た人々の間には古い友情が存することを認めます。円熟したクリスチャン達は一緒に多くの神権的な経験を有していることは言うまでもありません。更にそのクリスチャン達の隣人や,一緒に雇われて居る人達は,御国会館や,奉仕で交際する外に自然,日常の事柄に於いても交わるようになつて居ます。その会衆の書籍研究会に出席する人々の間に於いてすら,程度の多少こそあれ同じ状態が存在しましよう。しかも,それが特に彼らが一緒に御国会館へ行き来したり,奉仕の時に規則的な群となつたりする為なのです。その様な交際は兄弟達を一緒に結び,その様な密接な関係は彼らが互により良く理解し合うことを助けますから,互に一層良く愛し合う助け手となるのであります。(伝道 4:9,10)従つて,彼らの心のうちには,会衆内の他の人々に対しても勿論誠実な愛がありますが,それら親密な仲間に対しては特に親しく感ずるのです。その事は当然ではありませんか?
現代の会衆に閥族はない
13 僕達は,見知らぬ人を仲間外れにしない様に,特にどんな注意を払いますか?
13 では,今日神に献身して居る人々の間に分裂が生ずるとしたらどうでしよう? 不適当なもの,或は不公平のあらわれと考えられそうな状態や習慣にどんなものがあるでしようか? そして,それを如何に処理すべきでしようか? 会衆内の僕が,偽りの牧羊者の様な立場をとることは確かに誤つて居ります。彼らが,仕事の都合上,必然的に会衆内の或者と特に親しくなるかも知れませんが,それでも彼らは自分達より弱い者に対する責任を見失うことなど決してありませんし,又弱い人々と特に野外奉仕で交わつてその援助者となる機会をも決して見失いません。そして僕であつても又他の者であつても,本当に円熟した者は,たとえ自分達の円熟の故にすつかり計画で一杯の時でも,新しく集会に出席する人々に出来る限りの注意を払つて制度の拡張に深い関心を表明します。多くの場合,それは集会でただ違つた人々と一緒に席をとつて援助したり,或は各集会の終りに割当てられた義務を行う前,互に挨拶をかわし短い話し合いをすることによつて成果を得るのです。この様にして,制度の活動に率先する人々が友好的な関心を表明することは,新しい人々にとつて非常に良い助けとなります。同時に,それは見知らぬ人の権利に関する,モーセの律法の原則を愛のうちに表現して居ることになります。―レビ 19:33,34。
14 階級差別や,分裂に関するどんな問題が起り得るでしよう? それらを如何に処理出来ますか?
14 又,社会に於いて,社会的に著明な立場にある或人々に対しても私達は『偏愛的な行動』はとりません。その様な者が真理に入るのにした努力も,他の人々が真理に入る為にした努力も全く同じであり,制度内の著明でない他の人々もヱホバの御前には同等でありますから,円熟した兄弟たちは,愛をもつてよくその人達をしたしく世話しなければなりません。それ故,階級差別の存在は全く許されません。(ヤコブ 2:1-9)又,若し会衆の一致が保たれねばならないのなら,どんな『分裂』も生じてはなりません。(コリント前 1:10-13)会衆の事柄に関する論争の為に,群は会衆の主体へのつながりよりか,或特別な考えに一層近い関係を持つようになりましよう。これは宗派主義であり,神権制度に入り込む事は全く出来ません。又,会衆に於いて,或年齢の者が,長い交際のうちに年齢的に大差ある人々の考え方にいささか不満を感じ,その様な者を仲間はずれにし始める事が時たまありましよう。この様なことも亦,野外奉仕体験を共に持ち,一緒に奉仕する機会をつかもうと努力するすることによつて避け得るのであります。ヤコブはこの問題を要略して次の様に申しました。『嫉妬と利己心とのあるところには,混乱とあらゆる悪習とがあるからである。しかし上からの智慧は,第一に純真であり,次に平和であり,公平であり,寛容であり,温順であり,憫みと良い実とに満ち,偏らず,不誠実でない。』― ヤコブ 3:16,17。
15 雇主と雇人との間にどんな関係が存し,どんな態度があるべきですか?
15 さて,雇人と雇主との正しい関係,特に両者が真理に於ける兄弟である場合の正しい関係について問題が起ります。その雇人は,仕事について居る時,真理に於ける自分の兄弟が他の雇人たちには与えない様な特別な権利や免除を自分にだけ認めてくれるべきであると期待したり,要求したりすべきでしようか? 或は又,雇主は,会衆の集会に於いても雇主と雇人という関係を守るべきだと考えるべきでしようか? 聖書的な答によれば,どちらも正しくありません。『軛の下にある奴隷たちは,神の名とその教えとが瀆されないようにする為に,その主人を十分尊敬すべき者と考えるようにしよう。信仰のある主人を有つている人々は,兄弟であるからといつて,礼を失わないようにし,いつそうよく仕えるようにしよう,というのは,彼らのよい働きを受ける主人たちは,信者であり,愛されている者であるから。』(テモテ前 6:1,2,口語)このパウロの助言は,彼が他の時に語つた言葉と矛盾しません ―『ユダヤ人もなければギリシャ人もなく,奴隷もなければ自由人もない。男性もなければ女性もない。実にあなた方すべてはキリスト・イエスにあつて一つである。』(ガラテヤ 3:28,口語)むしろ,彼はここでお互の正しい関係を示して居るのであります。
16 諸国の法律が強制する階級差別に対して,クリスチャンはどんな態度をとりますか?
16 神の御前に於いて,又神と神の油をそそいだ子らとの交際に於いて,すべてはキリストの体のうちに平等な関係を持つて居ります。然し,現在の悪い組織制度に於いては,未だに或種の階級差別と分派があり,国の法律によつてそれは屢屢強制されるのです。その様な法的標準に従うことは,クリスチャンが神の法律をまげるという意味ではなく,寧ろパウロの次の訓戒に従つて居るのであります。『僕たちよ,キリストに仕えると同じように真心をこめ,畏れおののきつつ,この世の主人に仕えなさい。諂い者のするように目の前だけを務めることをせず,キリストの僕として心から神の御意を行いなさい。そして人に仕えるようにではなく,ヱホバに仕えるように,喜んで仕えなさい。誰でも善いことをすればその人が奴隷であつても,自由人であつても,ヱホバから報いられるであろうことを知りなさい。主人たちよ,僕らに対して同じ取扱をし,脅すことをやめなさい。そして彼らとあなた方とのほんとの主は天にいますことと,主の前にはわけへだてがないことを知りなさい。』― エペソ 6:5-9,新世。
17 ヱホバの証者は,どんな論争題目をしりぞけ,絶えず何をかかげますか?
17 それ故,世の政府がどんな差別を強要しようと,又如何に行動の制限を強要しようと,ヱホバの証者はその様なことを敢て論争の問題といたしません。それは,彼らの仕事は社会的な誤りを正義化することでないという事を承知して居るからであります。然し,彼らはその救をヱホバに待ち望む間,間もなく来るべき新しい世の神の自由の御旗を絶えず高くかかげます。そして,既に形成されて居るその社会の中核には,世界のすべての誠実な人々の為に模範が示されて居ると主張します。『兄弟たちよ,私はあなた方に勧める,あなた方の与えられた教えに反して,争いを起したり躓かせたりする人たちに用心しなさい。そして彼らから遠ざかりなさい。何故ならば,こういう人々は,私たちの主キリストに仕えて居るのではなく,自分の腹に仕えて居るのであり,甘言と諂いとによつて,純真な人々の心を迷わすからである。どうか,平和ならしむる神が悪魔<サタン>をあなた方の足下に打ちひしいで下さるように。』(ロマ 6:17,18,20,口語)その時が来てはじめて,現在神の家族内に実在して居る一致と公平と正義が,全地上に及ぶのであります。
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若い奉仕者,テモテものみの塔 1953 | 9月15日
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若い奉仕者,テモテ
『子をその道に従いて教えよ。然らば老いたる時も之を離れじ』(シンゲン 22:6)この聖句が真にその通りであることを証明する多くの良い例の中に,テモテが数えられます。テモテは,使徒時代に住んでいた非常に若い奉仕者でした。信仰に於いては,パウロの子のように述べられていたテモテは,パウロの共労者として,神の奉仕者として,又初代キリスト会衆の首脳部からの,旅する代表者,代理者として奉仕していました。―ロマ 16:21。テサロニケ前 3:2。テモテ前 1:2。
テモテの父親は不信心のギリシャ人でした。それでテモテはこの父親から良い聖書的訓練を受けませんでした。テモテは母であるユニケと,祖母のロイスから学びました。彼ら二人ともヱホバ神に真の信仰を持つて居りました。このような訓練のためにテモテはその幼少の頃から聖なる書き物をよく熟知して居ました。この聖なる書き物こそ人々を賢明にさせイエス・キリストに結ぶ信仰を通じての救いを得させるものです。―使行 16:1。テモテ後 1:5; 3:15。
使途パウロは,彼の第1回の伝道旅行中,小アジアのルステラに於いてテモテの母と祖母に会い,パウロの伝道の結果彼らはクリスチャンとなりました。以前にはテモテの母や祖母は,モーセの律法の録るされているヘブル語聖書に就いての自分達の理解をテモテに教えていましたが,今度は,既に来られた約束の救世主に就いてテモテに教えたに違いありません。それに,これら二人の婦人は,クリスチャン会衆中で婦人に対して許されている活動範囲を乗り越えるというような誤ちを犯すことなく,彼らの特権を熱心に尽しましたから,主は彼らの努力を豊かに祝福なさいました。
西暦49年頃ルステラに於いてパウロとテモテが初めて会つた時の記録は次のようです。『するとどうだろう,そこにテモテという弟子が居り,彼の母は信者でユダヤ人であつたが,父はギリシャ人であつた。彼はルステラとイコニオムとの兄弟達から保証された人物であつた。パウロはテモテをいつしよに連れて行き
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