人は神なしで生きられるか
人間の生存にとって神は不可欠か。人は神なしで生きられるか。
今から約200年前のこと,ナポレオンがフランスの有名な天文学者ラプラスに,天体に関する新しい著作の中でなぜ神のことに触れなかったのかと尋ねたところ,ラプラスは答えました。「その仮説はわたしには不用です」。神を不用とする考え方は当時,一部の人の基本的な考えでしたが,今日ではもはや基本的な考え方ではありません。
しかし人間が神なしで生きられるという考え方は今日,多くの人にとって珍しいことではありません。神の存在を信ずるとは言いますが,たいていの人は自分が神を必要としているということをほとんど示していません。時を定めて祈ることも,神の御心を学ぶこともなく,まして神のことば聖書のりっぱな原則に一致した生活をしようとは努めません。聖書の教えを理想的であるとはほめても,生活にあてはめません。
中には,自分の持っているものはすべて自力で獲得したのであって,神の助けを何一つ受けていないと誇る人さえいます。それは正しい結論ですか。人間は何一つ神に負うところがなく,また神に依存する必要がありませんか。実際に神なしで生きられますか。
命のみなもと
では,まず第一に,命はだれから受けましたか。もちろん個人的には両親からですが,人間の生命をつくり出した,つまり創造したのはだれですか。そのみなもとに負うところがあるのは明らかです。しかし生命は偶然に生じたのであり,理知を持つ創造者などは存在しないのではありませんか。
最近,有名なパリのソルボンヌ大学の科学哲学の教授で著名な仏人哲学者クロード・トレスモンタンはこの問題を論じ,ある会見で,「最小の生命体でさえその出現を説明するために」純粋の偶然を「論拠として真剣に考える科学者は現在ほとんどいない」と述べました。
同教授はさらに,諸要素の偶然の結合ということが生命の起源の説明としてはもはや用いられていないという理由を次のように説明しました。「我々は今や,生きた細胞の成分である大きな分子が驚くべき複雑な構造を有することを知っている」。そして,「原始の混沌とした状態から偶然の作用によってこれらの大きな分子の中で最も単純なものの出現する可能性が計算されてきたが,その結論として,ただ一箇の分子が偶然につくり出されるのに必要な時間および物質の総量は,我々の銀河系宇宙のこれまでに知られている年齢とは全く不均り合いであることがわかった」。
それでトレスモンタン教授は,「物質がそれ自体で,複雑な生命体をつくり出すには,偉大な理知と無比の才能とが付与されねばならない」と述べました。それで確率の法則に全然合わない偶然のせいにしようとするのは,一箇の大文字を無作為に取り出して,それを神の同意語として使うようなものです。
ゆえに生命のみなもととは,理知のない単なる偶然ではなく全能の神です! 敬虔な人は聖書詩篇の筆者と同様,「知れエホバこそ神にますなれ,われらを造り給へるものはエホバにましませば我らはそのものなり」,「いのちの泉はなんぢにあり」と認めます。(詩 100:3; 36:9,文語)人間は命を与えられているゆえに確かに神に多くを負っており,この偉大な贈り物に対して心から神に感謝すべきです。
命を維持し,必要物を備える神
しかし人間は生きている以上,神を必要としますか。人間はどのみち神に依存しています。幼子は親なしでは生きられず,衣食その他を備えてくれる人を必要とします。同様に人間は天の父あるいは命の与え主なる神に依存していますか。
多くの人はそう考えません。「神がわたしにいったい何をしてくれたのだろう」と問う人もいます。家族に衣食を備えるために,あるいは長時間働いて畑に種子をまき,炎熱の下,汗を流して刈り入れを行ない多大の労苦を払っていることはたしかです。しかしその種子から,家族に体力を与え,子供を成長させ得る栄養豊富な食物を作り出すのはだれですか。わずかの水と土を得た種子がこれほどの奇跡的な食物をどうして作り出せるのですか。それは人手のなせるわざですか。
それは神のわざです! 昔,クリスチャン使徒パウロは成長という問題をこう論じました。「わたしは植え,アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは,神である。だから,植える者も水をそそぐ者も,ともに取るに足りない。大事なのは,成長させて下さる神のみである」。(コリント第一 3:6,7)パウロはここで霊的な成長について論じていますが,同じ原則は実際の種子の成長にも等しくあてはまります。種子が発芽し,人間の必要とする多くのものを産出する奇跡的な成育過程を司るのはほかならぬ神です。
フランス人天文学者ラプラスは,天体の運行の秩序および複雑な運動の法則を幾つか発見したことを誇り,神の御手が働いているのではないと考えました。しかし,地上の生物が理想的な間隔で陽光に浴せるちょうど良い速度(赤道で時速約1600キロ)で地軸を中心に地球を回転させたのはだれですか。また,地球が太陽のまわりの軌道を時速10万キロ余で運行するようにだれが定めましたか。それは,地球上の生物が成長し繁栄するのに理想的な間隔を太陽との間に保つ軌道上に地球を運行させるちょうど良い速度なのです。
宇宙に見られる偉大な法則と秩序は,偶然に理想的な諸環境が出現する可能性を否定しています。エホバ神こそ全天体およびその機構の創造者であり設計者です。聖書はこう述べています。「主はもろもろの星の数を定め,すべてそれに名を与えられる」。(詩 147:4。イザヤ 40:25,26)宇宙の法則と秩序が惑星や恒星の運行を司っていることは,今も神が存在し,それらの法則を維持し,施行していられることの証拠です。確かに人間は神なしで生きられず,実際のところ地上のいかなる生命も保たれないのです。
幼子が親に依存しなければ生きられないと同様,人間はすべてエホバ神に依存しています。神は「雨をふらせ,実りの季節を与え,食物と喜びとで,あなたがたの心を満た」していられると人々に語った使徒パウロのことばは真実です。(使行 14:15-17)ゆえに人間はこれらのことに関して神をほめ,心からの感謝をささげるべきです。「神は,すべての人々に命と息と万物とを与え,われわれは神のうちに生き,動き,存在している」と聖書に述べられているとおりです。―使行 17:25,28。
認めると認めざるとを問わず,人は命および生きるための多くの必要物を神に負っています。しかし天の父は肉体を養う食物のみを備えて,心の糧を備えないのですか。人間はエホバ神の霊的な備えなしに生きられますか。
神なしで生きる
地上人口の相当数を占める人々は,自分は神の存在を信じていると述べますが,その多くはあえて神の霊的な備えを無視して生活しています。堕落させようとする罪の影響力から人間を救い,正義の新秩序における完全な健康と生命の祝福を与えるための神のご準備を学ぶことはほとんどありません。
このような状態は,クリスチャンになる以前のかつてのエペソ人のそれに似ています。使徒パウロは彼らにこう書きました。「その当時は,キリストを知らず,イスラエルの国籍がなく,約束されたいろいろの契約に縁がなく,この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが,あなたがたは,このように以前は遠く離れていたが,今ではキリスト・イエスにあって,キリストの血によって近いものとなったのである」― エペソ 2:12,13。
神の目的にかかわる知識を得るまでこれらのエペソ人は「神もない者」であり,神の霊的な備えを知らずに生活し,永続する幸福を伴う命の真の希望を持っていませんでした。その見込みは,短い生涯を終えて死ぬことだったのです。聖書の音信に答え応じた時はじめて神との近い関係にはいり,永遠の命の確かな望みを得ました。この希望は,神の備えられたイエス・キリストを受け入れたため可能になりました。彼らはキリストの犠牲により,受け継いだ罪に帰因するさばきを免れ,神に近づくことができたのです。―エペソ 1:7。ローマ 5:12。
人間は神の霊的な備えなしに一時的には生きられます。食物さえあれば人はしばらく生活できます。しかし,やがて罪の影響力に捕えられて死ぬことは必定です。偉大な進歩を遂げた医学をもってしても死は避けられません。ゆえに,人間は神を必要としています。神と神のご準備を知らずにいつまでも生きることはできません。イエス・キリストはご自分の弟子たちとともにいられた時,この事実を強調して言われました。「永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」― ヨハネ 17:3。
神の必要を認めなさい
しかし,悪がはびこり,人間が苦しんでいるにもかかわらず,神が介入しているとも思えないために多くの人は神の存在を疑い,また,たとえ存在していようとも神なしで生きられると考えています。聖書の一筆者が述べたとおり,一部の人々はそのために悪をほしいままにしています。「悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために,人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている」― 伝道 8:11。
神が直ちに立ち上がって悪を根絶しないからといって,神は存在せず,また人は神なしで生きられるとは言えません。それは飛躍した結論で利己的な人間がそう信じようと望むにすぎません。霊感を受けた聖書の詩篇の筆者は述べています。「悪しき者は誇り顔をして,神を求めない。その思いに,すべて『神はない』という」。(詩 10:4)謙虚に証拠を調べようとしない人は決して真理に到達できず,心を堅く閉じたまま忘恩の道を突き進み,自らその益にあずかるべく努力する人々すべてに備えられたエホバ神の大きな祝福を遂には得そこないます。
ゆえに感謝の心をいだき,与えられたすばらしい生命に対して神に感謝してください。食物,空気,美しい自然,快い音その他数多くの祝福に対する感謝を神にささげてください。今すぐ始めましょう! 今度,食卓につく時に,備えられた食物に対して心からの感謝のことばをエホバ神にささげてはいかがですか。エホバ神が成長させその食物を備えられたのです。
しかし人間には神の備えられた物質的な食物以上のものが必要です。心と思いを養う神の霊的な食物がなければ人生は実にはかない空虚なものです。(マタイ 4:4)それで時間を決めて定期的な聖書研究を行い,この霊的な備えに対する認識を表わしてください。それをあとまわしにしないでください! 神とその御目的に関する貴重な知識を得たいと願う人をエホバの証人は喜んでご援助いたします。その知識なしに人間は生きられません。それが永遠の命を意味すると言われたイエスのことばを忘れないでください。
キリストの犠牲の持つ贖いの力が,偉大な創造者に感謝を示す人すべてに適用される時は,なんとすばらしいことでしょう! 死んだ愛する人さえ墓から戻ってきます。その時,少数どころか何百万もの人が,かつてイエス・キリストがよみがえらせた12歳の娘の両親の味わった喜びを経験することでしょう。聖書にはこう記録されています。「彼らはたちまち非常な驚きに打たれた」。(マルコ 5:42)「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き……出てくる時が来るであろう」というイエスの確実な約束が実現する時の地上の喜びを想像してください!(ヨハネ 5:28,29)この事はいかなる人間にも行なえず,ただ,命の源,エホバ神の力によってのみ成就します。神はイエス・キリストを用いて復活のわざを行なわせられます。ゆえに,人間が神を必要とし,神なしで生きてゆけないことはあまりにも明白です。
罪と死の処罰から人類を解放させる神の備えを,昔のエペソのクリスチャンと同様に今受け入れる人には,永遠にわたって神とともに生きる見込みがあります。その人は神のことば聖書に次のように描かれている輝かしい情景の中のひとりになれるでしょう。
「見よ,神の幕屋が人とともにあり,神が人とともに住み,人は神の民となり,神自ら人とともにいまして,人の目から涙を全くぬぐいとってくださる。もはや,死もなく,悲しみも,叫びも,痛みもない。先のものが,すでに過ぎ去ったからである」。
このことは,権威ある約束として受け入れられますか。確かに受け入れることができます。聖書はその保証のことばを述べています。「すると,御座にいますかたが言われた,『見よ,わたしはすべてのものを新たにする』。また言われた,『書きしるせ。これらの言葉は,信ずべきであり,まことである』」― 黙示 21:3-5。