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命と血の神聖さを認識するものみの塔 1978 | 9月15日
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またそれはわたしたちのとこしえの運命にさえ影響を及ぼし得ます。どうしてですか。その答えを知る助けとして,二つの現代訳の聖書から引用したエフェソス 1章7節を比較し,とくに下線のある部分に注意してください。
「わたしたちはこのかたにより,彼[キリスト]の血を通してなされた贖いによる釈放,そうです,わたしたちの罪過のゆるしを,その過分のご親切の富によって得ているのです」― 新世界訳。
「キリストの死によってわたしたちは自由にされた,すなわちわたしたちの罪は許されたのです。神の恵みはなんと大きいのでしょう」― 現代英語新約聖書。a
8 どちらの訳からもわたしたちは神がわたしたちに,わたしたちの命に関心をお持ちであることを学ぶことができます。その目的のために神は,人類を有罪判決から解放して人々から罪を除くことのできる贖いの犠牲として,ご自分の独り子イエスをお遣わしになりました。(テモテ第一 2:5,6。ヨハネ 3:16,17)イエスご自身も,「わたしは[あなたがた]が命を得,しかも満ちあふれるほど豊かに得るために来ました」と言われました。(ヨハネ 10:10)しかしある聖書の翻訳は,これはキリストの血による,とせずに,キリストの死による,としていますが,そのようにするとなんらかの相違をきたすでしょうか。その相違はわたしたちの生活 ― わたしたちの考え,行動,将来とどんなかかわりを持つ可能性がありますか。その点を見てみましょう。
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命と血の神聖さを認識するものみの塔 1978 | 9月15日
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16,17 一部の聖書翻訳者たちは,血のことを述べている節をどのように変えましたか。(ローマ 5:9。コロサイ 1:20)
16 では犠牲,贖罪,血,そしてイエスの贖いに関するこれらの点を背景にして,もう一度エフェソス 1章7節に注意を向けてみましょう。この節のほとんどの英語訳は,「わたしたちは」キリストの「血を通してなされた贖いによる釈放を得ている」となっています。ところが幾つかの現代訳はこれを「キリストの死」に代えています。このことは大きな相違をきたすでしょうか。
17 原語のギリシャ語では,エフェソス 1章7節に「血」を意味する「ハイマ」という語が使われています。ではなぜ幾つかの翻訳はこの語をここや他の箇所で「死」と訳しているのでしょうか。それらの翻訳者たちは,「血」のことを述べているある聖句の中では,死もしくはある人間を殺害した責任を暗示するものと解釈しました。(ルカ 11:50,51。使徒 5:28。啓示 6:10)一例をあげると,ピラトはイエスの処刑を叫び求めるユダヤ人たちの前で手を洗って見せ,それから「わたしはこの人の血について潔白である」と宣言しました。ユダヤ人は,「彼の血はわたしたちとわたしたちの子どもとにふりかかってもよい」と答えました。(マタイ 27:24,25。啓示 7:14と比較してください)しかし幾つかの翻訳はこれらの節を,「わたしはこの人の死に対して責任がない」,そして「彼の死に対する罰はわたしたちとわたしたちの子供の上にふりかかればよい」と変えて訳出しています。(現代英語新約聖書)イエスの犠牲が関係している節の中で「死」が「血」に取って代わると,どんな影響があるでしょうか。神がわたしたちに伝えようとされた何かが伝わらないことにでもなるのでしょうか。
18 キリストの死はどうして重要ですか。(コリント第一 11:26。ヘブライ 2:14)
18 聖書がイエスの死を強調していることは否定できません。パウロはこう書いています。「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです」。また「キリストが聖書にしたがってわたしたちの罪のために死んでくださった,ということです」とも書いています。(ローマ 5:8。コリント第一 15:3)イエスが死なれ,ご自身の完全な人間の命を進んでお与えになったことは,アダムが失ったためにわたしたちが持てなくなったものを返済すなわち清算しました。アダムがそれを失ったことからわたしたちは罪深い状態になりました。
19,20 キリストの血への言及には,イエスの死だけを論ずる以上のどんな事柄が含まれていますか。(ヘブライ 4:14-16)
19 しかし,「キリストの血」に対する聖書の言及は,キリストの死だけを語るのでは理解できないであろう重要な事柄をわたしたちに伝えるはずです。(エフェソス 2:13)キリストはただ死んでそのままの状態にとどまったのではありません。またとどまることはできませんでした。b エホバがもうけられた贖罪の日の型の成就として,そのときイエスは天に入り,神のみ前に出なければなりませんでした。ちょうど贖罪の日に大祭司が犠牲の血を携えて至聖所に入ったと同じように,キリストはそこでご自身の命の血の価値もしくは功績を差し出すことができました。パウロはこの相似をはっきりと述べています。「キリストは,実体の写しである,手で作った聖なる所にではなく,天そのものに入られたのであり,今やわたしたちのために神ご自身の前に出てくださるのです」― ヘブライ 9:24,11,12; 13:11。
20 そのうえにイエス・キリストは天で生きておられ,ご自身の贖いに信仰を働かす者すべてのためにとりなしをし,彼らが救いに向かうよう助けることができます。したがってパウロは次のように書きました。「わたしたちが敵であった時にみ子を通して和解したのであれば,まして和解した今,み子の命によって救われるはずだからです」― ローマ 5:10。
21,22 「キリストの血」という表現には,わたしたちの命がどのように関係していますか。
21 ですから,「歴史の中の宗教と現在における宗教」という著書は,十分の理由があって,次のように述べているのです。ほとんどの場合,「死をもってキリストの血に代えることはできない。キリストの血には死以上の意味がある。それはイエスの死と,復活し高められたことにおけるイエスの命および勝利との間の密接な関連を強調するものである」。同書はさらにこうつけ加えています。「キリストの血」という表現は
「旧約聖書のユダヤ人が有した,血の贖罪力の概念を採用している。この概念は,犠牲に対する見方,また義人の死は贖う力を持つという考えの基礎をなす。……この語は一方では,われわれが高い代価によって買われたこと,その贖い代を払った者のこと,そしてそれが何であったかをわれわれに思い起こさせる。他方では,彼の血を介して結ばれた契約に対する信仰により,罪と死から永遠に解放されている,ということを思い起こさせる。キリストの血は彼の死および復活の影響を包含する」。c
22 ですから,イエスの血について述べている聖書の多くの章句はわたしたちにとってなんと意義深く,なんと喜ばしい意味に満ちているのでしょう。イエスの血によってわたしたちの罪は許されるのです。(啓示 1:5。ヘブライ 10:29)むなしい行状から救い出されることは可能なのです。(ペテロ第一 1:18,19)わたしたちは,神が是認し導いておられる人々の会衆の中にいることができるのです。(使徒 20:28)そしてその血で買い取った人々を結合させる王国の支配下で完全になり,永遠の命を得る希望があるのです。―啓示 5:9,10; 12:10,11。コロサイ 1:20。
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