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ヘテ人とはだれかものみの塔 1971 | 9月15日
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さらに,ボガズキョイで発見された楔形文字の刻文そのものは一つとして,その言語を「ヒッタイト」とは述べていないということも注目に値する。ヒッタイトに関する見解はある学者たちが下した結論にすぎないのである。そして,「ヒッタイト」語の象形文字の刻文に関して,I・J・エ・ゲルブはこう述べている。「ヒッタイト語の象形文字の始まりは依然としてかなり不明瞭である。しかしすべてのしるしは,そのエーゲ文明の存在した地域を発祥地としてさし示している」。(「文字の研究」1952年,83ページ)エーゲ海は,小アジアとギリシアの間に位置している。このことはその発祥地を聖書のヘテ人の領域から引き離すように思われる。
前述のことからして,聖書のヘテ人を,首都としてハットウシャシュを有していた「ヒッタイト帝国」と同一視するだけの根拠は不十分であることがわかる。「ヒッタイト」と「ハットウシャシュ」の名前が類似していることも,この二つを同一視し得る強力な根拠とはほとんどなり得ない。
しかしながら,聖書以外の資料がある点で問題を明らかにする根拠を提出しないからといって,気にかける必要はない。考古学上の発見物はしばしば種々の解釈がつきまとう以上,それは,聖書に対する信仰の確かな土台ではない。聖書そのものの中に,それが真理の本であることの十分の証拠がある。聖書を読めば聖書の数多くの預言とその成就はもとより,日常生活に対する助言に認められる知恵とその実際性,また記述に見られる正直さと調和に気づかざるを得ない。
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さわやかにするものを彼女はどこに見いだしているかものみの塔 1971 | 9月15日
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さわやかにするものを彼女はどこに見いだしているか
アメリカのコモンウィール誌の最近号に,一女性から“編集者へ”として,寄せられた次のような手紙が掲載された。「増加する健全な教会の一例としてエホバの証人についてはどうでしょうか。その会員の80%はかつてカトリック教徒だったと言われています。
「証人たちの成功のひけつの多くは,その地味な出版物,「ものみの塔」と「目ざめよ!」誌を読めばわかります。前者は聖書を研究し論ずる雑誌で,後者は一般的な話題を扱っています。
「多少古めかしい割り付けで安い紙を使用したそれらの雑誌を読むと,わたしはさわやかな気分になり鼓舞され,もう一度そでをまくって生活(わたしの場合,7人のむすことふたりの娘を育てています)に取り組む気概を感じさせられるのはなぜでしょうか。
「あるカトリック系の出版物を読むと,疲労を感じ,ゆううつになり,宗教のことがいささかうんざりするのはなぜでしょうか。何人かの執筆者が浅薄な考えを包んだ,もつれたくもの巣のような学問的なことばの文章を苦労して読んだあとでは,家のまわりのなにか有用な仕事にその精力を使ったほうがよかったと感じさせられるだけです。
「その答えはマタイ伝 18章にあると思います。そこには,『もし汝ら翻へりて幼児の如くならずば,天国に入るを得じ』と書かれています。
「証人たちの雑誌の無名の筆者たちは簡潔明りょうな記事を書いています。その目的は福音の良いことばを分け合い,彼らの知恵の源を尋ねるよう読者を励ますことです。その雑誌は人を鼓舞し,教え,慰め,また人のことを気にしません。
「わたし自身はエホバの証人ではありませんが,カトリックの人々がキリストにある仲間の信者を直視して,それら信者のうちに少しでも美徳を認めはじめるようになったということはたいせつな事柄です」。
それはイエスご自身が次のようにいわれたとおりです。「あなたがた,苦労し,かつ重荷を負わされているものはみな,わたしのもとに来なさい。…あなたがたは自分の魂を元気づけるものを見いだすでしょう。わたしのくびきは思いやりがあり,わたしの荷は軽いからです」― マタイ 11:28-30,新。
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読者からの質問ものみの塔 1971 | 9月15日
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読者からの質問
● エペソ書 4章6節(新)によれば,神は「すべての上に,すべてを通して,すべてのうちに」おられる,とありますが,どんな意味でそう言えるのですか。―アメリカの一読者より
文脈を調べてみると,ここで使徒パウロはクリスチャン会衆あてにこの書簡を書いており,それらクリスチャンの間に神がもたらされた一致について述べているということがよくわかります。パウロは会衆のそれら成員が神およびキリストと自分たちの真の関係を認識し,正しく評価することを望んでいました。したがって,ここで一般の人類世界に言及していたのではありません。
パウロは,同じ水のバプテスマをもってバプテスマを施され,同じ霊にあずかり,かつ自分たちの「ひとりの主」イエス・キリストにあずかっている「一つのからだ」について述べているのです。―エペソ 4:4,5,新。マタイ 28:19,20。コリント前 12:13。
さらにこの使徒は,それらクリスチャンが,ただ「ひとりの神」を奉じており,(クリスチャンになる以前,一部の人たちがしていたように)さまざまな仕方で他の神々にそれぞれ別個に仕えているのではないと語っています。―ガラテヤ 4:8。エペソ 2:1-3。
エホバは油そそがれた者たちで成るクリスチャン会衆の『ひとりの父』であられます。なぜなら,エホバはご自分の聖霊により彼らを子たちとしてもうけられたからです。彼らは今や霊的な「神の子どもたち」であり,共同相続者として,自分たちの年長の「兄弟」である主イエス・キリストと天でともになるという希望をいだいています。彼らの父としての神が『彼らすべての上に』おられることは明らかです。(エペソ 4:6,新)その子どもたちとして彼らは神の意志と導きに全く服しています。―ロマ 8:16。ヘブル 2:11。ヨハネ第一 3:1,2。
この一致したクリスチャン家族の父であられるエホバは「すべてを通して」,つまり会衆を構成する者すべてを通して存在しておられます。その意味は神がご自分の栄光のために会衆を組織されたということです。(エペソ 3:21)会衆を創造し導くに当たり,エホバは天使たちの前にさえご自分の驚くべき知恵を表明されました。エペソ人にあてた同じ手紙の中でパウロは,「万物を造り給ひし神のうちに世々隠れたる奥義の経綸の如何なるものかをあらはす」自分の使命に言及して,こう述べました。「いま〔会衆を通して〕神の豊なる知恵を天の処にある政治と権威とに知らしめん為なり」。会衆はまた,「真理の柱,真理の基」,つまりこの世に見られる偽りの教えに対するとりでとなっており,さらにメシヤによる王国の良いたよりを宣明するために用いられてきました。確かに神は会衆を通して多くを成し遂げてこられました。―エペソ 3:9,10,〔新〕。テモテ前 3:15。
エホバはクリスチャン会衆の「すべてのうちに」おられます。なぜなら,エホバの霊は会衆の成員すべてのうちに働いて,そのさまざまの働きを営むからです。「からだ」の一部としての各成員はその霊によって動機づけを与えられ動かされて,からだ全体の益を図り,かつそれを築き上げます。「御霊の顕現をおのおのに賜ひたるは,益を得させんためなり」とあるからです。(コリント前 12:6,7)さらに,クリスチャン会衆は「活ける神の〔神殿〕」であり,そのうちに神は住んでおられるのです。それはエペソ人が次のように思い起こさせられたとおりです。「汝等もキリストに在りて共に建てられ,御霊によりて神の御住となるなり」― コリント後 6:16,〔新〕。エペソ 2:21,22。
黙示録 21章では,天の偉大な神殿であり王宮である新しいエルサレムと呼ばれる都市が幻のうちに見え,エホバ神とイエス・キリストがその中に住んでおられるさまが述べられています。14万4,000人の「活ける石」でできているこの天の神殿は,そのいかなる部分も永遠の王および彼の不滅のみ子と全く一致しています。そして,それら14万4,000人の者たちがメシヤによる神の王国で王また祭司なる義の管理者として仕えるとき,神は常に『彼らすべての上に,彼らすべてを通して,またそのすべてのうちに』おられるでしょう。―エペソ 1:10。ペテロ前 2:5,新。テモテ前 1:17; 6:16。黙示 20:6。
● 「すべてのものはあなたがたに属している」とコリント人に書き送った使徒パウロは何を意味していたのですか。―英国の読者より
要約すれば,神が造った,もしくは取り計らわれたものはすべてクリスチャンが自由に用いうるもの,彼らの益に資するものであるということをパウロは意味していました。
問題のことばはコリント前書 3章の終わりの3節の中に2回出てきます。こうしるされています。「それで,だれも人を自慢してはならない。というのは,すべてのものはあなたがたに属しているからであり,あるいはパウロ,あるいはアポロ,あるいはケパ,あるいは世,あるいは命,あるいは死,あるいは今ここにあるもの,あるいはきたるべきものを問わず,すべてのものはあなたがたに属しており,次に,あなたがたはキリストに属しており,次いでキリストは神に属しておられるのです」― コリント前 3:21-23,新。
同様に,コリント後書 4章15節(新)で使徒パウロは,「すべてのものはあなたがたのためであ
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