「愛はいつまでも絶えることがない」
「愛はいつまでも絶えることがない」― コリント前 13:8
1 愛は何にたとえられますか。その美しさを増し加えるには,何が必要ですか。
愛はダイヤモンドのような輝く多面体にたとえられます。どの方角から見てもそれは輝いています。「青春ははかなく,美は花のようだ。しかし愛は世界をも得る宝石である」,と言われてきました。愛にはダイヤモンドのように多くの面があります。そのいずれの面も好ましく,心を暖めます。しかし愛は,みがかれていない宝石のようなものです。他の人をひきつけ,祝福し,あたためる力がそこにひそんでいます。その輝きはどのように増し加えられますか。クリスチャンである私たちはこのダイヤモンドの輝きをどのように増し加えることができますか。まず愛という宝石に神のことばの光を照らさなければなりません。
2 (イ)どんな事にもかかわらず,エホバは愛を示されましたか。(ロ)神とキリストは,あがないに関してどのように愛を示されましたか。
2 エホバは愛を示すことにすぐれています。何千年のあいだ人類は曲がったことを続けているにも拘わらず,創造主はこの愛という特質を変わることなく表わしてこられました。それは神の恵みに他なりません。エホバは「悪い者の上にも良い者の上にも,太陽をのぼらせ,正しい者にも正しくない者にも,雨を降らして下さるからである」。「いと高き者は,恩を知らぬ者にも悪人にも,なさけ深いからである」。イエスは山上の垂訓の中でこのように述べています。(マタイ 5:45。ルカ 6:35)エホバとキリストはあがないに関して大きな愛を示されました。「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである」。(ヨハネ 3:16)イエスは追随者に次のことを語りました,「人がその友のために自分の命を捨てること,これよりも大きな愛はない」。(ヨハネ 15:13)イエス・キリストは,羊のような人々のためにそのことをしたのです。「わたしはよい羊飼である……わたしは羊のために命を捨てる」。(ヨハネ 10:11,15)エホバとみ子は,比類のない愛の手本を示されました。
3 エホバの恵みを得るため,どんな性質をだれに対して表わさねばなりませんか。
3 エホバの恵みを得るには,神とみ子とにならって愛を示さなければなりません。(ヨハネ第一 3:21-23)従って真のクリスチャンは,キリストの述べた二つの大きな戒めを守ります。「『あなたは思いをつくし,魂をつくし,心をつくしてあなたの神エホバを愛さねばならない』。これは最も大きな,第一の戒めである。第二も同じくこれである。『あなたは自分のようにあなたの隣人を愛さねばならない』」。(マタイ 22:37-39,新世)神のみ霊に導かれ,その実を生み出すクリスチャンは,このような愛を示します。み霊の結ぶ実は愛です。―ガラテヤ 5:22。
4 パウロによれば,愛とは何ですか。
4 愛とは何かを描写することは困難です。愛を定義するのは容易ではありません。しかしパウロは霊感の下に書いています,「愛は寛客であり,愛は情深い。また,ねたむことをしない。愛は高ぶらない,誇らない,不作法をしない,自分の利益を求めない,いらだたない,恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして,すべてを忍び,すべてを信じ,すべてを望み,すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない」。(コリント前 13:4-8)すぐわかるように愛は人を遠ざけることなく,人をひきつけます。エホバの証者の新世社会が世界的な規模で一致を保っているのもそのためです。愛という宝石のいろいろな面を検討してみましょう。
「愛は寛容であり,愛は情深い」
5 (イ)エホバの寛容は多くの人にとって何を意味しましたか。エホバは何時までも悪を容赦しますか。(ロ)私たちはどんな面で寛容を示すことができますか。
5 「愛は寛容であり,愛は情深い」と,パウロは書いています。寛容ならば,他の人に弱さや欠点があっても我慢します。エホバの寛容は多くの人の救いを意味しました。(ロマ 2:4。ペテロ後 3:9,15)しかし神は悪を何時までも容赦するわけではありません。パウロは偶像崇拝者のアテネ人に告げました,「神は,このような無知の時代を,これまでは見過ごしにされていたが,今はどこにおる人でも,みな悔い改めなければならないことを命じておられる。神は,義をもってこの世界をさばくためその日を定め,お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている」。(使行 17:29-31)私たちも神にならって,他の人がおそらくは老齢などのため肉体的にも精神的にも弱っているならば,それを思いやらなければなりません。愛は同情や思いやりとなって表われます。それは悪行を容認するとか,私たち自身が聖書の原則に反する行いをするという事ではありません。しかしどんな方法で行なってもさしつかえない事柄があります。それは聖書の原則とは無関係な事柄です。その場合,自分の方法だけが正しいと主張する必要はありません。それは愛のない行い,争いのもとであり,幸福を奪ってしまいます。(コリント前 9:22)イエスはペテロにむかって「七たびを七十倍する」まで許すことを命じ,忍耐また許す心の必要なことを強調しました。(マタイ 18:21,22)そこで次のように自問すべきです,「私は本当に忍耐強いか。同情心を持っているか。他の人の身になって考えるか。人を許すか」。寛容であり,従ってこれらの問いにハイと答えられる人の愛は,この面において輝いています。
6 (イ)人道主義的な親切の例をあげなさい。(ロ)親切を示すことは,どのようにクリスチャンの生活の一部となっていますか。
6 親切についてはどうですか。愛は情深く親切です。災害に見舞われた人に対して人道主義に根ざした親切の手がさしのべられるのは,めずらしい事ではありません。マルタの島人は,難船したパウロや他の人々に「並々ならぬ親切」を示しました。(使行 28:2)しかしそれはパウロがエホバ神の奉仕者であったからではありません。それは博愛的な心から出た並々ならぬ親切でした。今日でも同様なことが見られます。災害に見舞われた人々には救援の手がさしのべられます。たとえば1953年2月,オランダにおいて堤防の決壊による災害が起きたときの事について,次のように報ぜられています。「時に人々は気前がよすぎるらしい。オランダの洪水被災者のために送られた毛布は,オランダ人全部の必要を1年間みたすに足りるものであった」。真のクリスチャンは,霊的な兄弟姉妹が災害に会うとき,愛の気持ちに動かされて衣類その他の物資を送ります。しかし物質の一面においてのみならず,とくに霊的な面においてクリスチャンは親切を示すことを生涯の仕事としています。霊的な面で人を助ける愛と親切のわざすなわち宣教に,時間と金銭と精力をついやしているからです。ゆえに献身したクリスチャンは博愛また人道主義的な親切を時おり示すことに満足しているわけではありません。親切を示すことは一生の仕事です。―テモテ前 4:16。
7 親切の必要を示す例をあげなさい。
7 会衆の集まる御国会館にいるものと考えてごらんなさい。見回すと,にこやかな顔が目に映ることでしょう。しかしそうでない表情も時おり目につくかも知れません。分裂した家庭で味わう苦しみをおして出席した,けなげな姉妹がいるかも知れません。家に戻ると,不快なことが待ち受けていることでしょう。霊的に建ておこすこの平和な集まりに出席するのに,彼女は少なからぬ妨げにあい,夫の反対のため,家を出る前に涙を流したかも知れません。その事情を知るならば,この神の羊に対して,愛と思いやりを示すのは当然です。あなたの心は同情心でいっぱいになることでしょう。彼女を無視したり,不親切なことを言うのはもってのほかと考えるでしょう。クリスチャンの集まりを怠ることのないようにやっと出席したものの,この姉妹は夫の要求のために早く帰るかも知れません。彼女を見下げてはなりません。この姉妹が最善をつくしていることはエホバに是認されているからです。神は「心を見」ます。そのことを忘れてはなりません。(サムエル前 16:7)この場合に批判がましいことを言うのは全く不親切です。必要なのは気落ちさせることではなく。親切を示し援助することです。励ますように語りかけるならば,彼女の心は暖められ,愛のある組織の一部であることを幸福に感ずるでしょう。親切を示すのは愛という宝石のもう一つの面をみがくことです。
8 宣教において,どのように親切を示しますか。
8 宣教において真理を人々に忍耐強く説明するのも,親切の表われです。人々は最初ある事柄を理解したり,聖書の原則を生活や考え方に応用するのに困難を覚えるかも知れません。それでもなおよく教えるために,親切が必要です。家庭においても宣教においても会衆の集会においても,親切を示すことは絶対に必要です。それは愛の肝要な一面です。それで私たちは次のようにすすめられています,「互に情深く,あわれみ深い者となり,神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように,あなたがたも互にゆるし合いなさい」。―エペソ 4:32。
愛はねたまず誇らない
9 (イ)だれかが会衆内の責任の地位を与えられたとき,どんな態度をとるべきですか。(ロ)「愛はねたむことをしない」ゆえに,私たちはねたみをどう見るべきですか。
9 「愛はねたむことをしない」。ゆえに愛の心を持つ人は,ねたむことをしません。他の人がクリスチャン会衆内で責任の地位を委ねられたからといって,そのために私たちは愛を消してしまうことをしません。ねたみの気持ちから,その人に対する積極的な支持をさしひかえることをしません。むしろ霊的な兄弟がそのすぐれた資質と才能を用いて神の地的な組織の発展に貢献できることを,エホバに感謝するのが本当です。兄弟の成功に喜んでしかるべきです。ねたみは罪であることを,知らなければなりません。ガラテヤ書 5章26節のさとしを心に留めましょう。「互にいどみ合い,互にねたみ合って,虚栄に生きてはならない」。
10 自分ではなくてエホバを誇るのはなぜですか。
10 自分が責任の地位にあるならば,どうですか。その地位を得たことを誇るべきですか。「愛は誇らない」と述べられています。私たちが持っているものは,すべて与えられたものです。(コリント前 13:4; 4:7)監督の務めをゆだねられた羊飼であっても,そのような地位に任命されたがゆえに自分は羊でないとは言えません。すべての人は羊として,自分を誇るのではなく,だれを誇るべきですか。コリント前書 1章31節は,「誇る者はエホバにあって誇りなさい」と述べています。すべての羊が偉大な羊飼に誇るのは当然です。エホバにあって誇るのは当然です。パウロやアポロのように植えて,水をそそいだとしても,「成長させて下さるのは,神」であり,「植える者も水そそぐ者も,ともに取るに足りない。大事なのは,成長させて下さる神のみ」です。(コリント前 3:6-9)それに明日どうなるかはわかりません。今日誇って自分の力に頼るならば,それが致命的な結果にならないとも限りません。使徒の警告に注目して下さい。「だから,立っていると思う者は,倒れないように気をつけるがよい」。(コリント前 10:12)「もしある人が,事実そうでないのに,自分が何か偉い者であるように思っているとすれば,その人は自分を欺いている」ことを,忘れてはなりません。(ガラテヤ 6:3。ロマ 11:18)それで自分を誇りにせず,エホバを誇るならば,私たちは高慢にならず,愛の行いをしていることになります。それは愛の別の面をみがくことです。
11 (イ)どのように「肉の思い」を表わす人がありますか。(ロ)他の人に対してどんな態度をとるべきですか。
11 「愛は高ぶらない」と使徒は述べています。多くの面を持つ愛のこの一面を無視することはできません。野心的で自分を重要視し過ぎる人,他人の生活に干渉して指図がましくする人があるかも知れません。その人は自分が隣人よりも偉いと思っているのです。それは愛に欠けることではありませんか。その人の思いは「肉の思い」です。(コロサイ 2:18)もちろんこれは監督あるいはそうすべき人が,他の人を霊的に援助する機会を見逃すという意味ではありません。しかしある事柄は私的なものであり,干渉すべき性質のものではありません。(ガラテヤ 6:5)コロサイ書 3章12節は適切な助言を与えています。「だから,あなたがたは,神に選ばれた者,聖なる,愛されている者であるから,あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身に着けなさい」。自分の霊的な装おいに気を配りましょう。愛の心で行ない,「へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい」― ピリピ 2:3。
愛は不作法をせず,自分の利益を求めない
12 愛は「不作法をしない」ゆえに,私たちはどんな振舞をすべきですか。
12 愛という宝石のこの面をみがきながら,「愛は不作法をしない」ということに留意すべきです。つまり家庭や会衆において,また宣教に携わるとき,礼儀正しくしなければなりません。私たちはクリスチャンにふさわしくない不作法な行いを避けます。また不品行な行いをせず,他の人を汚す利己的なことをしません。(コリント前 10:8。ペテロ後 2:9,10)しかし正しい行いをするには正しい考え方がまず必要です。そこで卑しい思いを避けなければなりません。エペソ人は次のように告げられていました,「また,不品行といろいろな汚れや貪欲などを,聖徒にふさわしく,あなたがたの間では,口にすることさえしてはならない。また,卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは,よろしくない事である。それよりは,むしろ感謝をささげなさい」。(エペソ 5:3,4。コロサイ 3:5-8)クリスチャンは衆人還視の中におかれています。私たちは天使にも人にも見せものとなっているのです。(コリント前 4:9)愛の行いをすることを忘れるならば,また無分別に振舞って,私たちが第一に愛すべきエホバに非難をもたらすならば,私たちはいま進行中の劇において悪役を演じていることになります。そのようなことがあってはなりません。
13,14 (イ)愛は「自分の利益を求めない」ということは,監督にとって何を意味しますか。(ロ)監督はどんな手本を忘れてはなりませんか。(ハ)クリスチャンは愛をもってどのように他の人の益をはかりますか。
13 愛は自分の利益を求めません。たとえば監督の場合に,これは骨身を惜しまずにその務めをはたすことを意味します。監督は常に近づきやすい人でなければなりません。忙しさのあまり,他の人を援助できないという事があってはなりません。会衆の人が自分で解決できない問題をかかえているならば,円熟した監督の助けを気軽に得るのは当然ではありませんか。監督は愛の心と思いやりを持つべきではありませんか。イエスのことを考えてごらんなさい。イエスは実に多忙でした。しかし人々はイエスに語りかけることができました。イエスは人々に伝道し,教えました。イエスはいやしをしました。イエスは人々をあわれみ,愛を示しました。愛の心を持つ円熟した監督は,イエスの完全な手本を忘れてはなりません。―マタイ 4:23。マルコ 1:21,22; 2:13。ルカ 7:13。ヨハネ 13:34; 15:9,12。
14 愛があるならば,私たちは自分の権利をやたらに主張せず,それが聖書の原則に反するものでない限り,人々の習慣に対して寛容な態度をとります。コリントのクリスチャンは,偶像にささげられたのちに市場で売られている動物の肉を食べるべきかどうかに迷いました。偶像によって表わされている悪鬼の神々を崇拝し,悪鬼の神々にささげた犠牲に与るしるしとしてそれを食べるのでなければ,そのような肉を食べることはさしつかえないのです。しかしその行いが他の人のつまずきになるとすれば,食べるなと,パウロはさとしています。「すべてのことは許されている。しかし,すべてのことが益になるわけではない……だれでも,自分の益を求めないで,ほかの人の益を求めるべきである」。(コリント前 10:23-33)今日でも同様です。分別のあるクリスチャン,たとえばアルコール飲料を飲むことが悪とされている土地では,それを飲まないでしょう。聖書から見るとき,節度を守って酒をたしなむことが全く正しくても,他の人をつまずかせないためにそれを避けるのです。他の人の福祉を心にかけ,人の徳を高めることに心を用いて下さい。愛という宝石のこの面をみがいて下さい。自分の利益を求めるのではなく,他の人の益と福祉を求めましょう。愛があれば,そのことをできます。愛はいつまでも絶えることがないからです。―ピリピ 2:4。
愛の他の側面
15 円熟したクリスチャンは,恨みを抱くことと怒りに対してどんな見方をしますか。なぜですか。
15 「愛はいらだたない,恨みをいだかない」。怒りは人間関係をそこなうだけでなく,心臓に圧迫を加え,からだにも悪い影響を及ぼします。「穏やかな心は身の命である」と,ソロモンは書きました。(箴言 14:30)ゆえに次のさとしを心に留めて下さい。「怒りをやめ,憤りを捨てよ。心を悩ますな,これはただ悪を行うに至るのみだ」。(詩 37:8)怒りは堕落した肉の行いです。(ガラテヤ 5:19,20)何時までも怒りを抱いていることは,自分自身に害となります。しかもそれはクリスチャンにふさわしいことではありません。(マタイ 5:22。レビ 19:17,18)かつてパウロとバルナバは意見を異にしたため,不和の状態となりました。しかしそれはいやされて,二人は恨みを抱きませんでした。(使行 15:36-41)悪意を抱いたり,仕返しをしようなどという未熟な考えに支配されてはなりません。怒ったり,恨みを抱いてはなりません。この面においても愛という宝石をみがくことが必要です。―ロマ 12:17。
16 愛は何を喜びませんか。何を喜びますか。この点において,心を悪に傾けた人とクリスチャンとをくらべなさい。
16 愛は「不義を喜ばないで真理を喜ぶ」と,使徒は更に述べています。(コリント前 13:6)クリスチャンはたとえ反対者がそれを経験したとしても,不義を喜びません。(箴言 29:27)しかしサタンと悪鬼また心が悪に傾いた人間は不義を喜び,目的のために手段を選びません。地を荒廃させ,多くの人を苦しめたこの時代の世界大戦も,一つにはこの考えのもたらしたものと言えます。町は破壊され,家は灰燼に帰し,ささやかな幸福は奪われて悲しみと苦しみが臨み,死んだ人は数知れません。このすべてをもたらしたのは,不義を喜び,正義を憎む者たちです。しかしクリスチャンはいかなる不義をも喜ばず,エホバと真理の勝利を喜びます。ゆえにその前途は輝かしいものと言えるでしょう。憎しみのかわりに愛をまくクリスチャンは神の愛を刈りとり,現在のみならず神の約束する新しい秩序において幸福を得ます。―ペテロ後 3:11-13。ガラテヤ 6:7-10。
17 愛はどの面においても「すべてを忍び」ますか。
17 たしかに愛は「すべてを忍び」ます。ゆえにクリスチャンは,不和がきざした時にも喜んで許します。そしてキリストの次のことばを心に留めています。「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら,行って,彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら,あなたの兄弟を得たことになる」。(マタイ 18:15-17)不和を解決するこの第一歩は,愛の行いです。うわさ話をせずに当事者同志が話し合うからです。必要ならば,もう一歩すすんで第二,第三の手続きをふむこともできます。いずれにしても大抵の問題はこのように愛によって解決されます。考えてみれば,それは結局のところ小さな個人的な不和に過ぎません。それはすぐに忘れ,また許すことのできるものです。真のクリスチャンはどんな場合にも愛を忘れません。それで「平和に過ごし」,穏和に問題の解決を図ります。―コリント後 13:11。
18 (イ)愛の心を持つ人は,真理をどう見ますか。(ロ)クリスチャンは,「忠実な思慮深い僕」の備える霊的食物をどう見るべきですか。
18 愛は真理をしりぞけません。「事実は小説よりも奇なり」と言われますが,愛は事実を受け入れます。愛は「すべてを信じ」るからです。しかし愛は軽卒に信ずることをしません。愛を持つ人は,正しくないもの,真実でないものを受け入れません。愛の心を持つとき,神のことばにしるされた真理を感謝して受け入れることができます。また「忠実な思慮深い僕」の備える霊的な食物を受け入れることができるでしょう。(マタイ 24:45-47)それで私たちは疑うことをしません。この点で疑いを抱いている人は,動揺してやまない海の波のようです。風に吹かれて荒れる海をごらんになったことがありますか。その動きには定まりがありません。疑う人はそのようです。それで私たちの益のためにヤコブは次のことを書いています。「あなたがたのうち,知恵に不足している者があれば,その人は……神に,願い求めるがよい。そうすれば,与えられるであろう。ただ,疑わないで,信仰をもって願い求めなさい。疑う人は,風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている」。「事実その人はエホバから何をもいただけると思ってはならない」― ヤコブ 1:5-8,一部は新世)。
19 愛は「すべてを望み」ますが,そのすべてとは何ですか。
19 クリスチャンは神のことばにしるされたすべての事に望みを置かなければなりません。テサロニケ人は次のさとしを与えられました,「しかし,わたしたちは昼の者なのだから,信仰と愛との胸当を身につけ,救の望みのかぶとをかぶって,慎んでいよう」。(テサロニケ前 5:8)十分な装備をせずに戦いに出る兵士は,生き残らないでしょう。もし愛をなくしてしまうならば,私たちはどんな霊的な兵士となりますか。「信仰と愛との胸当」もなく大切なかぶとである「救の望み」も着けていません。愛は,神のことば聖書に基づいている「すべてを望み」ます。―ヨハネ 17:17。
20 愛があれば,何に耐えることができますか。
20 宝石のような愛のもう一つの面は,「すべてを耐える」という事です。神への愛は迫害に耐えることを可能にします。使徒たちはキリストの名のゆえに鞭うたれ,はずかしめられても,「毎日,宮や家で,イエスがキリストであることを,引きつづき教えたり宣べ伝えたり」しました。(使行 5:40-42)迫害されて受ける苦しみも,神から与えられる力によって耐えることができます。(ピリピ 4:13)しかし神のことばあるいは組織を通して,こらしめを受ける場合はどうですか。次の賢明なさとしを心に留めて下さい。「我子よ汝エホバのこらしめをかろんずる勿れ,そのいましめを受くるを厭ふこと勿れ,それエホバはその愛する者をいましめ給ふ,あたかも父のその愛する子をいましむるが如し」。(箴言 3:11,12,文語)愛を失ってはなりません。こらしめを受け入れなさい。そのために神の組織から離れたり,エホバとその組織に対する愛を失ってはなりません。―詩 141:5。
21 (イ)愛を示すため,クリスチャンは何に頼らねばなりませんか。(ロ)愛を大切にするのはなぜですか。
21 だれでも知っているように,何時も愛を忘れずに行動するのは難しいことです。ゆえに努力することと,エホバのみ霊に頼ることが必要です。そうすれば愛を示すことができます。愛はみ霊の実だからです。(ガラテヤ 5:22,23)人をひきつける愛という性質を表わす決意がいります。また「友はいずれの時にも愛する,兄弟はなやみの時のために生まれる」ことを,忘れてはなりません。(箴言 17:17)霊感の下に愛のことを多く書きしるしたパウロは,次のように結んでいます。「このように,いつまでも存続するものは,信仰と希望と愛と,この三つである。このうちで最も大いなるものは,愛である」。(コリント前 13:13)愛はクリスチャン会衆にみちわたっている特質です。愛を示す真のクリスチャンと共に,愛はハルマゲドンを通過します。(黙示 16:14,16)ゆえに愛をしっかりとらえなさい。それを失ったり奪われてはなりません。それを大切にはぐくんで下さい。それはあなたにとり,クリスチャンの兄弟にとり,またあなたと接する人々にとって,常に祝福となるでしょう。今,そして何時までも愛を表わしなさい。「愛はいつまでも絶えることがない」ことを,心に留めて下さい。―コリント前 13:8。