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『互に愛し合いなさい』ものみの塔 1958 | 8月15日
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『互に愛し合いなさい』
愛は言うにやすく,行うに難いものです。しかし,神は,クリスチャンが愛を行うことを期待されています。
ヨハネ第一の書 3章23節(新口)は次のように述べています。『その戒めというのは,神の子イエス・キリストの御名を信じ,わたしたちに命じられたように,互に愛し合うべきことである。』この戒めは,愛を働かせること,行いと言葉によつて実際に愛を表わすことを教えているのです。
クリスチャンが愛を示すことの必要を口にして,『わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい。』というイエスの戒めを引用しても,愛を行わないなら,それは空しいことです。クリスチャンは常に愛を自覚して,自分の行いや,行おうとする事柄を吟味し,互に愛し合うことを教えたイエスの原則を破つていないかどうかを試みなければなりません。―ヨハネ 15:12,新口。
つまり,人はクリスチャン兄弟の立場に自分を置いて,自分自身の行いが人の眼にどう映るかを見なければならないのです。愛を働かせるには,他の人の利益や福祉に対して細心の心づかいを持たねばなりません。
この聖書の戒めは,自分に近い人々だけに愛を示すことを教えているのではなく,ヱホバに献身したすべての僕に愛を示すことを意味しています。
今年の夏,ニューヨークで開かれるヱホバの証者の大きな大会は,それに出席するクリスチャン各人を試みるものになるでしよう。それは愛の試験です。兄弟たちの中での振舞い,兄弟たちの利益を尊重するかどうかによつてその人は口先で愛を唱えても実際に行わない人であるか,それとも言葉と行いで愛を実践する人であるかどうかが分ります。
大きな群集が集まるときに,通路がこみ合うかも知れません。そのとき,人々をかき分けて前に進むことは愛を示す行いですか。通路のまん中で立ち止つたり,話をして他人の通行を妨げるのは愛のある行いですか。大群集の集まるこのような大会では,出席者各人が思いやりを示し,我慢強くすることが必要です。持ち物一時預り所や文書係,宿泊係あるいはどの係の処でも,用事がある時に前の人を押し分ける人は少しも愛を示していません。どんなに大勢が列に並んでいても,愛を行うクリスチャンは,前に並んだ兄弟の権利を尊重して辛抱強く自分の番を待つでしょう。自分が兄弟よりもまさつており,番を待つ必要がないかのように振舞つてはなりません。使徒パウロの次の助言を心に留めなさい。『何事も党派心や虚栄からするのではなく,へりくだつた心をもつて互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの,自分のことばかりでなく,他人のことも考えなさい。』(ピリピ 2:3,4,新口)この事をするときに,あなたは互に愛を示しているのです。
大会に,出席する人が愛を行つているかどうかは,プログラムの間にも見られます。講演者が壇上から聖書の教訓や助言を与えているとき,通路や会場を歩き回るべきですか。それは互に話をする時ですか。それは講演者に敬意を示し,また聞いている人に思いやりを示すことですか。
プログラムが終りに近づいている時にはどうですか。最後の講演者が話し終らないうち,あるいは晩の最後の祈りの前に,立ち上つて去ることは,愛を示す行いですか。病気,年齢,急の用事のためにどうしても立ち去る必要がある時は別として,兄弟を邪魔することは愛を示す行いではなく,立ち去ることは講演者を侮辱することであつて愛を示すことではありません。
愛という特質は,人がくつろいでいる時,気分のよいとき,また小人数の人の間にいる時だけ行うものではありません。愛は何時でも,どんな場合にも示すべきものです。献身したクリスチャンにとつて,愛を行うには意識して努力することが必要であり,大きな大会の時には特にそうしなければなりません。親切で,思いやり深く,しんぼう強くするには,特別な努力が必要です。
大会は,『互に愛し合いなさい』というイエスの戒めを守つているかどうかを試みる特別な試験となるでしょう。ニューヨーク大会に出席することを計画しているすべての人は,この事を心に留めましょう。
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時間がないものみの塔 1958 | 8月15日
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時間がない
『先日,私は広く旅行した一人の人と話しをしていました。』とロナルド・K・ロスは書いています。『彼がニユーヨークに着いたとき,彼の鞄の中に聖書があるのを見た税関の役人はこう言いました,「兄弟,アメリカで聖書を読む時間はないでしよう。我々は皆ドルをもうけるのに忙しいですから。全能のドルは我々の神です。」』― 「クリスチャン世界の宝庫」
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