エホバとわたしたちとの関係を認識する
『天におられるあなたがたの父の子であることを示しなさい』― マタイ 5:45。
1 わたしたちはなぜ良い友を大切にしますか。またなぜエホバを最良の友と考えなければなりませんか。
信頼できる友は非常に貴重な財産の一つとして数えられるべきです。そのような人は,まさかの時の心強い慰めであり,分かち合えるしあわせがあるときの楽しい喜びです。もし誠実な友が幾人かいるなら,わたしたちは本当に富んだ者と言えます。しかしあなたはどんな人を自分の最良の友,と考えますか。それはおそらく,自分との共通点が最も多い,そして自分の必要に大いに寄与する関係を自分との間に持っている人でしょう。わたしたちはみな,自分が愛している人のことを考えることができますが,そうした人々の中に,エホバに匹敵するほどの友を見いだすことはできません。エホバはわたしたちの必要を全く完全に満たすことができる方です。『疲れたるものには力をあたえ 勢力なきものには強きをまし加え』,わたしたちを支えるのに必要なものをすべて与えてくださいます。(イザヤ 40:29-31)エホバとの関係の価値を認識する人は,エホバに対し親しい友として離れることのない愛を抱きます。
2,3 (イ)どうすればわたしたちはエホバを個人的に知ることができますか。(ロ)エホバとの交友にはどんな責任が伴いますか。
2 エホバとの関係を人間的な見地から見て,それを非現実的なものと考える人もなかにはあるでしょう。そのように遠く隔ったところにいる者の友にどうしてなれるのか。彼の特質を個人的に評価するどんな機会があるのか,と言うでしょう。エホバが実際におられるところでエホバと交わる見込みを持つのは,わたしたちのうちのごく少数の人にすぎませんが,これは,人格的な存在であられるエホバがどんな方であるかをわたしたちが知ることは決してできない,という意味ではありません。エホバはそのみ子を通して,ご自分の個性を正確に知ることができるようにしてくださいました。「わたしを見た者は,父をも見たのです」とイエスは言われました。(ヨハネ 14:9)イエスの弟子たちは,イエスのみ父のうちにあるのと同じ特質をイエスのうちに見ることができました。イエスが人々の間におられかつ働かれたことは,わたしたちがイエスのみ父を個人的に知る前例のない機会となりました。「あなたがたが見ているものを見る目は幸いです。……多くの預言者と王たちは,あなたがたが見ているものを見ようと欲しながらそれを見……なかったのです」とイエスは言われました。(ルカ 10:23,24)個人的にことばを交わすほどエホバに親しく接したモーセでさえ,イエスを見,イエスのことばを聞くことができた人たちほどには恵まれていませんでした。
3 イエスは,わたしたちがエホバとはどんな方であるかを知ることができるようにしてくださいました。み父の善意を得るためにみ父に近づく方法を,わたしたちに示してくださいました。イエスがみ父に関して直接に知っておられる事柄は,わたしたちが汲み上げる情報の源泉となりました。「彼のうちには,知恵と知識とのすべての宝が注意深く秘められているのです」と使徒パウロは言いました。(コロサイ 2:3)イエスの教えと個性の研究は,信頼できる友としての,イエスのみ父を理解し認識する助けになります。親しくなればなるほど,わたしたちの喜びは大きくなります。同様に,責任も大きくなります。み父のみ前における責務は増します。エホバを友と認めたのち故意にエホバに背を向ける者は,「神の子を踏みつけ……過分のご親切の霊をないがしろにした者」と考えられます。(ヘブライ 10:28,29)このような知識はわたしたちに不快な感じを与えるものではなく,むしろエホバとの交友を求めるべき一層の理由をわたしたちに示してくれます。
イエスはご自分とエホバとの関係を十分に認識しておられた
4 イエスにはみ父を知るどんな機会がありましたか。またどんな任務を与えられましたか。
4 イエスはご自分とみ父との関係を非常に大切にしていることを,あらゆる面で示されました。イエスの言われたことや行なわれたことはすべて,イエスがみ父を非常によく知っておられて,あらゆる面でみ父に似た者となるよう望んでおられたことを示していました。イエスは人間になる以前,極めて長い期間存在しておられ,その間ずっとみ父のところにおられたので,み父を実際に見,慈父と献身的な息子との間の親密な関係を経験することができました。イエスに割り当てられた仕事は,創造に関するみ父の目的を遂行することでした。その結果,「すべてのものは彼を通して存在するようになり」ました。(ヨハネ 1:3)その仕事の完成には,数えきれないほど多種多様の務めが関係しており,その規模については,わたしたちはわずかに理解するほかはありません。イエスは,存在する最も強力な力,すなわち聖霊を用いることを任されました。イエスはみ父のご意志に忠実に従ってそれを用い,み父が意図されたことをすべて成し遂げられました。
5 (イ)イエスは地上におられた間でさえ権威をどのように引き続き行使されましたか。(ロ)イエスはどんな二つの目的に従ってご自分の権威を行使されましたか。
5 このみ子は,強大な権力を持つことがどういうことであるかをよく知っておられます。イエスは「他のすべての者の上」にあり,み父は「すべてのものをその手にお与えになった」のです。(ヨハネ 3:31,35。マタイ 28:18)地上におられた間もイエスはその権威をある程度引き続き行使されました。イエスの逮捕に対して使徒ペテロが暴力をもって応じたとき,イエスはペテロを戒めて,「あなたは,わたしが父に訴えて,この瞬間に十二軍団以上のみ使いを備えていただくことができないとでも考えるのですか」と,お尋ねになりました。(マタイ 26:53)使徒たちを扱う際にも,イエスは権威をもって話されました。彼らがイエスを「主」と呼んだとき,イエスはそれを承認し,「そう言うのは正しいことです。わたしはそのような者だからです」と言われました。(ヨハネ 13:13)イエスのことばや態度は,だれが指揮しているかに関して一点の疑問も残しませんでした。しかしイエスはいつも親切な方法でご自分の権威を行使され,二つの目的を達成されました。第一はみ父を高めてその目的を示すこと,第二は従う者たちに益を得させることでした。イエスの問題の扱い方は,他の人々の前でみ父のみ名を高めて,み父に好意ある注意を向けさせることを意図したものでした。イエスは,み父の驚くべき特質と愛に満ちた備えとを知らせることに真剣に努力されました。ご自分がエホバ神に対し従属的な立場にあることをためらわずに繰り返し宣言され,『エホバ神の喜ばれることを行なう』決意を常に明示されました。―ヨハネ 8:29。
6 イエスは他の者たちに対する関心をどのように示されましたか。
6 イエスは他の人々の福祉に関心を払われ,彼らがみ父の是認を受けるに値する者となるよう彼らを助けることを切に望まれました。自分の権威を利用して彼らを搾取し私腹を肥やすというようなことは決してなさいませんでした。イエスが物質の持ち物をわずかしか持っておられなかったことは,彼らを犠牲にして自分が富むことなど少しも望まれなかった証拠です。イエスは周囲の者たちに勝手気ままに命令を下すようなこともなさいませんでした。思いやりと柔和は,イエスの態度を特徴づけるものでした。イエスのところへ来る人々はみな平等に迎えられ,金持ちは歓迎されるとか貧しい人はさげすまれるといったことは少しもありませんでした。
7 イエスはみ父の権威についてどのように感じておられましたか。そのことはイエスの弟子たちにどのように影響しましたか。
7 イエスはみ父のうちにすべての善と義と公正を見られました。従順は単なる義務ではありませんでした。イエスはみ父が自分を支配する主人であることを望まれたのです。イエスがそれらの特質をご自身の性格に完全に表わしておられたので,イエスの弟子たちも同じ願いを抱きました。彼らもまた,イエスのうちにあるものを見て,イエスを自分たちの主人とすることを望みました。ペテロはすべての信者を代表して,イエスが「神の聖なるかた」であり,「永遠の命のことば」を持つかたであることを認めました。(ヨハネ 6:67-69)イエスの訴えは常に愛に基づいていたので,彼らは本能的にイエスに引きつけられました。(ヨハネ 15:12)その愛が生み出した愛慕の情を彼らは命を犠牲にしても保ちました。その結果,離すことのできない結合が生まれ,み父に対する忠順という点で彼らを結び合わせました。―ヨハネ 17:20,21。
8 イエスは,み父に対する全き信頼をどのように示されましたか。
8 み父に対するイエスの確信と信頼は完全なものでした。み父に失望させられることは決してないと,イエスは心の底から信じておられました。み父のわざの善,公正,価値,またそれが最後には成功することについて,イエスの思いの中には何の疑いもありませんでした。イエスは,「わたしの望むとおりにではなく,あなたの望まれるとおりに」行ないますと,自ら進んで熱意ある申し出を行なわれて,神のことば通りに行動する意志のあることを,ためらわずに示されました。(マタイ 26:39)これは,だれよりもみ父をよく知っている人が達した結論でした。イエスが,み父のうちに見た特質の言い表わしがたい美しさに畏敬の念を感じておられたことは明らかです。
キリストはエホバを友として示された
9 イエスはご自分の父のわたしたちに対する愛の深さをわたしたちが理解するよう,どのように助けてくださいましたか。
9 わたしたちがイエスのように神を知ることができるなら,どんなにしあわせでしょう。わたしたちがそのように神を知るのを助けることこそ,イエスの心からの願いでした。わたしたちはイエスのみ父の友情を得る崇高な喜びを最後に経験するようになります。イエスのみ父の驚くべき特質は,イエスの行ないを通して示されたので,すべての人が見ることができました。その特質の中でも最もすぐれているのは,み父の無限の愛です。ヨハネ 3章16節は,「神は世を深く愛してご自分の独り子を」贖いとして「与え」られた,と述べています。イエスがこれと同じ愛に動かされて,「友のために自分の魂をなげうつ」べく自発的に前に進み出られるのを見るとき,わたしたちはその愛の深さを理解し始めます。(ヨハネ 15:13)イエスが行なわれたことのためにイエスに対して永遠の恩義を感じます。そしてその取り決め全体は,イエスのみ父がご自分の愛すべき子を犠牲にされたことによって可能になった,ということを理解するとき,わたしたちの心は感謝にあふれ,エホバに引き付けられます。
10 謙虚さを示す点でイエスはどのようにみ父に倣われましたか。
10 イエスのもとに来た人々は,イエスが近づきやすい人で,すぐに話を聞いてくださり,いつも自分たちに誠実な関心を持っていてくださることを知りました。(ヨハネ 4:6,30-34)多くの人は,権威を持つ人々に普通見られない真の謙虚さをイエスのうちに発見して驚きました。わたしたちは次のことを知るときに,なんと心温まるものを感じるのでしょう。それはわたしたちが父なるエホバ神に同じ確信をもって,つまりエホバはわたしたちを親切に迎えてくださり,わたしたちの必要に対して誠実な関心を示してくださるという確信をもって近づくことができる,ということです。み父にさえ,驚くべき謙虚さが見られ,それが抗しがたい力をもってわたしたちをみ父に引きつけるのです。―詩 18:35。
11 人々は何に心を引かれてイエスの弟子になりましたか。これは,彼らとイエスのみ父との関係にどんな影響を及ぼしましたか。
11 イエスは,男らしい身体的特質を持つ完全な人間でしたが,イエスの魅力はそれに基づいたものではありませんでした。義や高潔な特質を愛さなかった者たちは,預言されていたとおり,イエスについて目にしたことから何の感銘も受けませんでした。(イザヤ 53:1,2)イエスの弟子になった人々は,善良さや義を高く評価する,そしてそうした特質がイエスのうちにはっきりと見られることをうれしく思った人々でした。わたしたちも自分でこうした賞賛すべき特質をイエスのうちに見るとき,イエスのみ父に対する尊敬の念を一層深くします。というのはわたしたちもみ父を個人的に賛美するようになるからです。そしてわたしたちは神の道すべてに示されている義を愛するようになりました。
キリストはわたしたちとエホバとの関係を示された
12 (イ)エホバの友になれるという考えに対してわたしたちはどのように反応する傾向がありますか。(ロ)どんなことを知れば,わたしたちがエホバに近づくことを励まされますか。
12 エホバの親しい友になれると言われると,わたしたちは最初の反応として,自分にはそれだけの価値がない,と感じます。それでもエホバは,わたしのところに来なさいと,わたしたちを暖かくさし招いてくださいます。それは父親が子どもをさし招くのに似ています。エホバはまさしくわたしたちの父親です。ですからわたしたちは,エホバに属する人間家族の中に自分の場所を持っています。わたしたちはイエスを通してエホバに近づきますが,そのために自分の肉体の性質を根本から変える必要はありません。わたしたちはもともとエホバの『像とさま』に創造され,エホバの属性をある程度所有しているからです。(創世 1:26)こうしたきずながすでに存在しているので,わたしたちは有意義な方法でエホバの親族になることができます。エホバの家族の中こそ本当に,わたしたちがいるべき唯一まことの自然の場所です。その外にいるならどんなところにいようと,生存に必要な本質的要素から切り離された,疎外された状態にあることになります。わたしたちと神との家族関係にひびを生じさせたのはアダムでした。彼が意識的に罪を犯した結果,わたしたちは離反した罪人として有罪の宣告を受けました。しかしエホバは憐れみ深くも,失ったものを再び取り戻す道をわたしたちのために設けてくださいました。イエスは,わたしたちに何が欠けているかを示し,また神の家族の一員として再び受け入れられるに値する者となるにはどんな変化が必要かを,正確に示してくださいました。
13 どんな障害物が,わたしたちと神との関係を妨害しますか。それはどのように克服されますか。
13 もちろん,わたしたちはどんなに一生懸命に努力しようと,受け継いだ罪という障害物を自分の力で克服することはできません。それが存続するかぎり,わたしたちの人格は神に喜ばれない罪深い傾向を反映するでしょう。パウロは,「自分の願わない悪い事がら,それが自分の常に行なうところとなっているのです」と告白しました。彼は適用された贖いの益について考えることを喜びました。その贖いの益はついには,わたしたちが新しい人格を発達させるのを妨げている障害物をすべて取り除きます。(ローマ 7:19,24,25)贖いの益に余すところなくあずかる資格を持つ人々は,この新しい人格を,神に喜ばれる方法で表わすようになります。
14 エホバと良い関係にある人々には,どんな特権が差し伸べられていますか。
14 神との良い関係を取り戻すことは,エホバに奉仕する失っていた特権を取り戻すことを意味します。神はご自分が現在行なっておられるわざ,すなわち王国の音信を広めるわざにあずかる特権をわたしたちに差し伸べてくださいます。卑しい奴隷としてではなく,神と「ともに働く者」としてそれにあずかるようわたしたちを招いてくださるのです。(コリント第一 3:9)わたしたちは「彼とともに働」く栄誉を与えられるのです。(コリント第二 6:1)今日では200万人以上の「ともに働く者」たちが,命を救うこのわざに神とともにあずかる特権を享受しています。
15 わたしたちは一生懸命に努力しますが,しかし成果に関しては何を認めなければなりませんか。
15 わたしたちも精力的に努力しますが,神はわたしたちよりもはるかに大きな働きをされます。わたしたちに割り当てられていることは,ただ周囲の人々に良いたよりを伝え,反応を示す人々に教えるために自分にできることをするだけのことです。(マタイ 24:14; 28:19,20)思いと能力を存分に働かせる機会を提供してくれるこのような健全な,価値のある活動を,神が思いやりをもって与えてくださったことに対してわたしたちは感謝することができます。わたしたちは最善を尽します。しかし,その成果を自分の手柄とするのはせん越であることを知っています。答え応じた幾十万という人々の心を開き,彼らを無知に閉じ込めていた障害物を除去したのはエホバです。彼らの心の中にエホバの律法が見られるようになるとすれば,それはエホバがご自分の新しい契約に従って律法をそこに置かれるからです。(ヘブライ 10:16)彼らの生活に生ずる非常な変化は,教える者としてのわたしたちの巧みさによるのではなく,神の強力な聖霊の働きによります。
16 新しい弟子が生まれるとき,その誉れをどの程度エホバに帰すべきですか。
16 新しい信者がしっかりとした立場を取るのを見るとき,わたしたちは神の霊の働きの見える証拠を目撃しているのです。聖書の真理を受け入れるよう人の心が開かれるとき,例外なくそれは実際に神の奇跡なのです。人が霊的盲目をいやされて悪魔のわなから救い出されるたびに,わたしたちは驚かずにはいられません。人々が最後に献身し,イエスの弟子となるべくバプテスマを受けるとき,すべての誉れはみ父に帰せられなければなりません。イエスご自身もその事実を認めて,「父が引き寄せてくださらないかぎり,だれもわたしのもとに来ることはできません」と断言されました。(ヨハネ 6:44)神の友として受け入れられるだけでなく,神の傍らで働く者として責任を任される人は,なんと大きな特権を得ることになるのでしょう。そのことを認識するときに,わたしたちの感謝は深まります。
キリストは,神と人とに対するわたしたちの責任を明らかにされた
17 (イ)わたしたちとの関係の中で,エホバはわたしたちに何を期待されますか。(ロ)この点でイエスはどんな完全な模範を残されましたか。
17 イエスは,模範と教えとによって,わたしたちがイエスのみ父との関係において占める立場と,その恵まれた立場においてわたしたちが担う責任とを理解するようわたしたちを助けてくださいます。イエスのみ父は,ご自分を信頼することをわたしたちに期待されます。イエスは自分自身の判断に頼ることは決してなさいませんでした。すべてのことにおいてみ父の導きと助けを求められ,み父に絶えず祈られました。(ルカ 6:12)従順であることも非常に大切です。しかも正しい種類の従順を示すことが必要です。神は,理性を働かせない奴隷の卑屈な盲従も,ただ罰を恐れるがゆえのおずおずとした服従も望まれません。イエスは,「正しい」人としてのみならず,「善良な」人としても模範を残されました。イエスは,神の律法が禁じているというだけの理由で悪行を避けられたのではありません。イエスご自身が悪行を許されなかったのでそうされたのです。み父と同じようにイエスは「義を愛し,不法を憎」まれました。(ヘブライ 1:9)イエスが何か悪い考えを心に抱くということは考えられないことでした。―マタイ 16:22,23。
18 完全になるとき,人間はどの程度成文法を必要としますか。
18 イエスの完全な模範の背後にある動機を調べるときわたしたちの考えは高められ,わたしたちがついに完全性を得るときにイエスのみ父がわたしたちを扱われる際の高い水準を理解できるようになります。人々がイエスのように,善良という敬虔な属性を示すときには,広範囲にわたる律法は不必要になるでしょう。パウロはそのことを証明してこう言いました。「律法は,義にかなった人のためにではなく,不法な者や無規律な者……のために公布されているのです」。(テモテ第一 1:9-11)神の霊の実について詳述したのち彼は,「このようなものを非とする律法はありません」とつけ加えています。(ガラテア 5:22,23)人々が内部から来る義にかなった性向に動かされて行動するとき,彼らは決して成文法によって拘束されても妨げられてもいません。完全になったならわたしたちは正しいことを行なうでしょう。なぜなら完全な人間なので正しいことを愛するからです。わたしたちは,「腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子どもの栄光ある自由を持つようになる」のです。(ローマ 8:21)万巻の法典も廃物となってしまうでしょう。人間が必要とする導きはすべて,『正義を行ない憐れみを愛し謙遜りて汝の神とともに歩むこと』という簡単な命令に要約されてしまうでしょう。(ミカ 6:8)ソロモンはこれをさらに少ないことばにまとめ,『神を畏れその誡命を守れこれはすべての人の本分たり』と述べています。―伝道 12:13。
19 イエスに見倣うなら,わたしたちは悪行をどのように見ますか。
19 わたしたちはイエスの完全な規範に可能なかぎり近づくように努力すべきです。もしイエスのような精神的態度を持っているなら,わたしたちは神の律法に対して消極的な考え方を持たず,かろうじて違反しない程度に律法を守るというようなことはしません。わたしたちは義を愛し不法を憎むので,クリスチャン会衆がわたしたちを罰することができない事柄であれば何をしてもよい,というふうには考えません。また,律法を破らずにどれほど悪行に近づけるか試してみるとか,長老たちが,やめなさい,と命令することができないからといって,どうかと思われるような事柄をしつこく行なうといったこともしません。わたしたちはエホバを愛しますから,『悪を憎み』,それからできるかぎり遠くに離れています。―詩 97:10。
20,21 (イ)認識はわたしたちが何を行なう動機になりますか。(ロ)なぜこれはエホバとの良い関係を持つのに必要ですか。
20 エホバと親しい関係を持つことは,人間が経験する最もすばらしいことです。それがわたしたちのうちに生み出す善良さや他の人々に対する愛といった賞賛すべき美質は,極めて貴重なものです。この認識があるのでわたしたちは他の人々にも,わたしたちと一緒に神とのこの家族関係に入るように勧めずにはいられないのです。わたしたちは,「来なさい……命の水を価なくして受けなさい」と,熱心に人々をさし招きます。(啓示 22:17)わたしたちの性格が,イエスの教えた純粋の愛によって形造られるとわたしたちは,他の人のことは考えずに自分のことばかり考えるという不完全な傾向から脱却します。神の過分のご親切の益を分け合おうとしないのはその目的を逸することであると,その愛は教えてくれます。(コリント第二 6:1)この敬虔な特質の真価を知れば知るほど,他の人々の福祉に関するわたしたちの関心は大きくなります。
21 そのような関心を持たずに天の父との関係を維持することはできません。父に受け入れられる立場は常に,わたしたちが他の人々を扱う際に進んで父の愛に倣うかどうかにかかっています。父が示された親切はすべて,わたしたちに対するイエスの行為の中で繰り返し表現され,人類に対するイエスのみ父の深い愛が強調されました。仲間の人間に対して利己的にも無関心な態度を示す人はみな,神に対して完全な愛を抱くことはできません。神との正しい関係の基礎として不可欠なものは,他の人に対する思いやりです。
22 (イ)どうすれば兄弟たちに対して純粋の愛を示すことができますか。(ロ)どうすればその愛を会衆外の人々に示すことができますか。
22 そのことを理解しているので,わたしたちは他の人々に誠実な関心を抱いています。わたしたちの周囲にいるクリスチャン会衆内の人々に対しては特別の関心を抱いています。『ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行ない』たいと願っています。(ガラテア 6:10)霊的にせよ物質的にせよ,わたしたちの兄弟が困っていることが分かれば,あらゆる面から援助の手を差し伸べます。しかしわたしたちの愛は,霊的な兄弟という狭い範囲に限られているわけでは決してありません。すべての人々,現在神から遠く離れている人々にさえ及ぶほどその愛は広げられています。わたしたちはその人たちに同情心を抱いています。その同情心に動かされてわたしたちは,自分が彼らからしてほしいと望むように,彼らの最善の福祉のために働きます。(マタイ 7:12)イエスの教えた事柄を学ぶことは,彼らにとって命の道を学ぶことになります。わたしたちの王国の音信の伝道は,彼らがエホバと正しい関係を得るのを助け,彼らの福祉に対する最高の気づかいを示すものです。(マタイ 28:18-20)それはわたしたちが彼らに対して善を行ないうる最もすぐれた方法の一つです。わたしたちは喜びをもってあらゆる機会を捕えてそれに参加し,しるしだけの努力で満足しません。そして宣べ伝える機会を増やすことを目標にして,自分の時間と持ち合わせている資力の用い方を絶えず検討します。開拓奉仕や,必要の大きい場所で奉仕することその他を,わたしたちは,わたしたちの愛の純粋の質を本当に示すことのできるすぐれた特権と考えています。
23 エホバとの良い関係を保つために努力するとき,どんな益がありますか。
23 このわざは関係者すべての益になります。エホバは,わたしたちが進んで従い,エホバのみ名の立証に努力することを喜ばれます。イエスはわたしたちを,千年統治下の未来の臣民として持つことを喜ばれます。わたしたちの霊的兄弟たちは,暖かい一致のきずなの中でわたしたちと親しくなります。羊のような人々は,わたしたちが愛情を抱いて彼らのために行なったことに対し,いつまでも消えない恩義を感じます。実際にわたしたちの心は,わたしたちとエホバとの関係から生ずるすばらしい祝福を見て歓喜します! 神の『友になる』ことを許され,また「永遠の住みか」で生きる将来を保証されるとは,なんとうれしいことでしょう!―ルカ 16:9。
24 わたしたちはなぜエホバとの関係を高く評価すべきですか。
24 エホバは確かに,わたしたちが知る最良の友,最も信頼できる友であることを証明してこられました。親しい友としてエホバを知ることは,わたしたちの生涯で最も心を豊かにする経験です。エホバは「幸福な神」ですから,わたしたちをも幸福にする,という約束をすでに成就しはじめておられます。(テモテ第一 1:11)この友情のきずなをしっかりと固めることに成功すれば,わたしたちの喜びは終わりのないものとなるでしょう。わたしたちは,わたしたちの関係の中に見いだした安全と心の平安と希望を高く評価し,わたしたちの最良の友エホバに,深い,心からの感謝をささげます。
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イエスは,他の人々もエホバとの関係に入るよう援助された。すべての人を平等に迎え,富んだ人を好むとか,貧しい人をさげすむといったことを決してされなかった