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一生の目的を追い求めるものみの塔 1961 | 9月15日
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た。家族の数は700名以上になりました。
ベテルにいるということ自体,非常に多くの面で報いが多いものです。私の任命された仕事はどれも,特別にかわっているというものはありません。しかし,献身したクリスチャンの間で47年間生活し,わざにあずかって来たということは,たしかに心を湧かすことでした。ベテルは「神の家」です。それについて私の心には何のうたがいもありません。今,私は87歳です。もっと若い人たちが,ここの仕事を続けています。しかし,宇宙の至上者に奉仕するという喜びにみちたわざにおいて,若い人たちと一致しており,神の新しい世の永遠にわたる幸福を共に待ち望むことができるので,エホバに感謝しています。
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第7日は休息の安息日ものみの塔 1961 | 9月15日
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神の安息の日は,それにかたどられた24時間の安息日にくらべて遙かに偉大なものであるゆえに,神がその安息の日を祝福されたからといって,その事からすべての人類が第七日を安息日とすべきであると論ずるのは間違いです
誰のために?
モーセ以前の族長たちが安息日を守ったことは聖書に全くしるされていません。彼らが7日から成る週を用いたという事実を指摘して,ある人々は彼らが安息日を守ったと論ずるかも知れません。しかし族長たちが第7の日を他の6日とは異なる日と考えていたことを示すものが何もないゆえに,それを正しい論と言うことはできません。この点について「通俗および批評的聖書百科辞典」は次のことを述べています。「時を週に分けて数えたということは,安息日とは関係がない。時を週に分けることは最も古くから一般的に行なわれていた。それは明らかに考え出されたものである」。
大洪水の後,神がノアに与えられた特定の命令は,生命,肉を食べること,血を避けることなど詳細にわたるものでした。しかし安息日を守ることについては何も言われていません。モーセ以前の2500年間,安息日に関しては何も述べられていないことから当然に引き出し得る結論は,神がその時代には安息日を守ることを要求されていなかったという事です。それは族長たちに要求されませんでした。
安息日の律法は,イスラエル民族だけに与えられ,その国民と天の支配者との間のしるしとなるものでした。その国民は天の支配者と契約関係にはいっていたのです。神御自身の言葉がその事を述べています,「六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で……ある。……これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである」。(出エジプト 31:15,17)モーセの時代以前に,イスラエル人の如く聖なる目的のために聖別され,分けられた国民はひとつもありません。神は,他の国民には要求されないことを彼らに要求されました。「この契約はヱホバわれらの先祖等とは結ばずして我ら今日ここにいきながらへをる者と結たびまへり」(申命 5:3)安息はエホバに対する彼らの関係を表わす特別なしるしであり,エホバがエジプトの束縄から彼らを解放されたことを思い起こさせるものでした。「あなたの神,主が強い手と,伸ばした腕とをもって,そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ,あなたの神,主は安息日を守ることを命じられるのである。」― 申命 5:15。
イスラエル民族にとって週の第7日は神から命ぜられた安息であり,不定の期間守るべきものでした。毎週ラッパの音によって7日目の近づいたことが知らされるとき,それは喜びの時でした。安息日は肉体と精神をさわやかにしたからです。聖書の朗読から人々は健全な教えと励ましを得,その日の聖会と祈りは人々を霊的に高めました。エジプトから奇跡的に救われたこと,神の選民として彼らが待つ神との特異な関係を常に思い起こさせただけでなく,安息日は神の偉大な安息の日にも注意を向けさせました。その日の終りに,人類に対する神の御目的は全く成就されるのです。使徒パウロが指摘した如く,安息日は来たるべき良い事の影でした。それはキリストの千年統治を指し示していました。その時,従順な人類は安息にみちた新しい世で神の約束による永遠の生命の祝福を受けるでしょう。―コロサイ 2:16,17。
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