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極寒地帯で「良いたより」を宣べ伝えるものみの塔 1974 | 6月1日
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の証人に対する敵意をむき出しにしていました。しかし,イエスご自身も「村から村へ」良いたよりを宣べ伝えたことが説明されると,その人は,「とこしえの命に導く真理」という本を受け取りました。(ルカ 8:1; 13:22)彼はその本を一晩で読んでしまいました。そして証人に,土地のカトリック司祭と会合を持つことを提案しました。その会合は次のような結果に終わりました。
「その司祭は非常に礼儀正しい人でした。わたしは,この青年が関心を持っている三位一体を初めとした問題に話題を向けていきました。司祭はたくさんの質問をしましたが,聖書に書かれていることにはいつでも同意しました。がまんしきれなくなった青年は,自己弁明するようにと司祭に強く勧めました。すると司祭はこう答えました。『自己弁明だって。あなたと同じように,わたしも真理を求めているのです』。
「翌朝のミサのさいにこの司祭は,聖書を学びたいと思う人はエホバの証人と話すように勧めました。驚いたことに,それからわずか数か月後には,青年は聖書の真理を心から受け入れ,近所の人の家を戸別に訪問して,それを伝えるほどになっていました。前述の司祭がどうなったかは知りません。わたしたちが話し合った直後に,彼は別の教区に移されたからです」。
もう一つの経験は,カナダの南部にある自分の家を出て,インディアンの間に真の兄弟愛と幸せを見いだそうとして北方にやって来たある男の人に関するものです。エホバの証人と会った時,その人は初め反対しました。しかし後に,「ものみの塔」誌の中の「良いたよりはどのように人類を一致させるか」という記事を読んで深い感銘を受け,家庭聖書研究を望むようになりました。そして数か月後に,この人はバプテスマを受けました。それからしばらくして,この以前の反対者は「良いたより」の全時間奉仕者となりました。聖書の真理を学ぶことについて,彼はどう感じていたでしょうか。彼自身,次のように語りました。「わたしが探し求めていたすべてのもの,つまり一致,平和,人種的偏見のない真のクリスチャン愛,不正のない世界がもたらされるという希望などを,わたしはエホバのみことばと地上の組織の中に見いだしました」。
イエスが予告したように,良いたよりは人の住む全地で,そうです,人口のまばらな極寒地帯においてさえ宣べ伝えられています。
「したがって,神の選ばれた者,また聖にして愛される者として,優しい同情心,親切,へりくだった思い,柔和,そして辛抱強さを身に着けなさい。だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなくゆるし合いなさい。エホバが惜しみなくゆるしてくださったように,あなたがたもそのようにしなさい。しかし,これらすべてに加えて,愛を身に着けなさい。それは結合の完全なきずななのです」― コロサイ 3:12-14。
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読者からの質問ものみの塔 1974 | 6月1日
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読者からの質問
● 聖書に言われているポルネイア(はなはだしい性の不道徳)には手淫も含まれますか。そして手淫は聖書が許す離婚の有効な根拠となりますか。―エクアドルの一読者より
聖書には,手淫もしくは自涜のことについては何も述べられていません。また,ギリシャ語のポルネイアにこの行為の含まれることが暗示されている箇所もありません。
手淫は明らかに清くない習慣です。そのことは次の事実からわかります。モーセの律法によると,無意識に精液を漏らした場合でも,その人は夕方まで汚れました。(レビ 15:16。申命 23:10,11)ですから,手淫による意識的な射精はそれ以上に汚れた行ないだったにちがいありません。しかし,ギリシャ語のポルネイアということばで呼ばれた,はなはだしい性の不道徳ほど重大な罪ではありませんでした。たとえば,モーセの律法のもとでは,姦淫,同性愛,獣姦(ポルネイアの変形)などは死罪でした。したがって生き残った配偶者に再婚の道を開きました。(レビ 20:10,13,15,16)しかしこれが手淫の場合にも適用されたことを示す証拠をあげることはできません。
とはいえ,聖書は汚れた習慣をきびしく戒めています。霊感を受けた使徒パウロは仲間の信者に,「神はわたしたちを,汚れを容認してではなく,聖化に関連して召してくださったのです」と書き送りました。(テサロニケ第一 4:7)ですからクリスチャンは,手淫を含め,汚れた習慣をすべて避けるよう,いっしょうけんめいに努力すべきです。a
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