すべての人に対して寛容でありなさい
「すべての人に対して寛容でありなさい」― テサロニケ第1 5:14。
1 忍耐はだれの間に見られますか。なぜですか。
地球上の生物の中でも,忍耐という神の性質を持っているのは人間だけのようです。それはおもに,忍耐が神のみたまの実であるためです。(ガラテヤ 5:22)ゆえにそれは神のみたまの働きを受けている人々の間におもに見られる特質です。この実を持つことは,忍耐を示す人自身と周囲の人々にとって大きな祝福となります。忍耐のない,利己的な今の世に住む人々は,互いに忍耐を示さなければなりません。
2 (イ)世の中にこの資質が欠けていることは,どんな事実から明らかですか。(ロ)どんな事のゆえに,忍耐は望ましい性質ですか。
2 忍耐とは不当な仕打ちを忍ぶことであり,いらだったり,しかえしをしたり,ぐちをこぼしたりせずに忍ぶことです。また忍耐の背後には人類の救いという無私の目的があります。それを思えば,この神の性質が人間に欠けていること,それが大いに必要なことが痛感されます。すべての人が罪の中に生まれ,また神から離れて腐敗した世に生まれたことを考えると,その必要はさらに明白です。(詩 51:5。ヨハネ第一 5:19)この世の中で毎日生きて行くうえにも,ある程度の忍耐,小さなとがや不正を忍ぶことが必要です。自分の至らないことを知る人は,他の人から忍耐を示されるとき,いつも感謝します。また他の人の思いやり,同情,あわれみを求めます。あわれみや理解を示されることがなければ,人は失意落胆に陥ります。自分は価値のない者であるという考えに打ちひしがれた人は,決して少なくありません。それで忍耐を示されるならば,心の重荷がおりて生気がよみがえります。忍耐はその人々にとって祝福であり,忍耐によって世の中は明るく,住みやすいところになります。それは愛のすぐれた道です。「愛は寛容であり」― コリント第一 12:31; 13:4。
3 忍耐について,ほかにどんな事柄を心に留めるべきですか。
3 神のしもべは不正な仕打ちを受けてもそれを忍び,しかも正しい態度すなわち不平を言わないで忍ぶことを命ぜられています。その忍耐は神とキリストにならうものでなければなりません。エホバは敵対者に対しても恨みや悪意を抱きません。価値があるのはこのような忍耐です。イエスは次のように言われました。「それだから,あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」― マタイ 5:48。
4 苦しみを受けても耐え忍ぶようにクリスチャンを助けるものは何ですか。聖書はそのことをどのように裏づけていますか。
4 エホバの忍耐というすばらしい手本に加えて,クリスチャンには苦しみを忍ぶ力となり,励みとなるものがあります。忍耐するのは容易なことではありません。それでこのような力と励ましが必要です。イエス・キリストは,有名な山上の垂訓の中でそれが何であるかを簡単に示されました。「義のために迫害されてきた人たちは,さいわいである,天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり,また迫害し,あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には,あなたがたは,さいわいである。喜び,よろこべ,天においてあなたがたの受ける報いは大きい」。(マタイ 5:10-12)イエスは,悪い仕打ちを忍ぶことの報いを述べています。耐えなければならない苦しみも天国の富また永遠の生命とくらべるならば,義のために苦しめられることは苦になりません。神の約束に信仰を抱きさえすれば,大いに喜ぶことができるのです。主イエス・キリストの兄弟であった弟子ヤコブは次のように書きました。「兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては,〔エホバ〕の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。忍び抜いた人たちはさいわいである,わたしたちは思う。あなたがたは,ヨブの忍耐のことを聞いている。また,〔エホバ〕が彼になさったことの結末を見て,〔エホバ〕がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが,わかるはずである。試錬を耐え忍ぶ人は,さいわいである。それを忍びとおしたなら,神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」。(ヤコブ 5:10,11; 1:12,〔新世訳〕)正しい事をしたために試錬にあう時,神の約束を信じなさい。そうすれば,苦しみを受けても喜ぶことができます。
5,6 (イ)使徒パウロはコロサイ人に対し,苦しみを受けることについてなんと述べましたか。(ロ)苦しみを受けることが特権であり,賜物であると言えるのはなぜですか。
5 使徒パウロも,試錬にあってなお喜ぶことについて,コロサイ人への手紙に次のように書きました。「何事も喜んで耐えかつ忍び……聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせて下さった父なる神に,感謝することである」。(コロサイ 1:10-12)クリスチャンの忍耐には喜びが伴っていなければなりません。クリスチャンとして苦しみを受けることを特権と考え,忍耐が是認を,是認が生命の冠をもたらすことを理解すれば,そうでなければなりません。
6 苦しみを受けることが特権なのですか。そうです。キリストのために苦しみを受けることは賜物でさえあります。ピリピ人にあてられた使徒パウロの手紙の中で,この点が述べられていることに注目してください。「あなたがたはキリストのために,ただ彼を信じることだけではなく,彼のために苦しむこと〔特権〕をも賜わっている」。(ピリピ 1:29,〔新世訳〕)。信仰のある人ならば,キリストへの信仰が貴重な特権であることを否定しません。しかしパウロはそれをさらに一歩すすめ,キリストのために苦しむことがまさに特権であり,賜物であると述べています。与えられたものは賜物です。また程度に差こそあれ,「いったい,キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は,みな,迫害を受ける」のです。(テモテ第二 3:12)このことを理解すれば,すべての人に対して寛容でなければならないわけを知るでしょう。
7 パウロはどんな苦難を経験しましたか。パウロは忍耐することを,なぜ他の人々にすすめることができましたか。
7 使徒パウロは忍耐また忍耐することについて書いただけでなく,自分自身大きな苦難に耐えました。コリント人への第二の手紙(11:23-29)の中で,パウロはキリストのために自分が耐え忍んだ事柄を述べています。彼は何回も投獄され,打たれて死にそうになりました。むちで39回打たれたことが5度,石で打たれたこともあり,3度破船にあっています。また飢え,眠れない夜,危険を経験しました。しかもパウロは,すべての人に対して寛容であれと,クリスチャンの兄弟たちにすすめているのです。クリスチャンの忠実にかかわる問題を知り,また耐え忍んだ者が神から受ける,栄光ある生命の報いを確信したゆえに,パウロはそうすることができました。また何事もエホバの許しがなければ,クリスチャンの身にふりかかることがないという確信も,パウロを強めました。もし神がそれを許したのであれば,パウロは神のしもべとして,たとえどんな犠牲を払おうとも喜んで奉仕したのです。―コリント第二 6:3-10。テモテ第二 4:6-8。
忍耐の手本
8 迫害する者に対して,ヨセフが忍耐を示すことができたのはなぜですか。
8 忍耐することが神のみこころであるというこの事実は,神の忠実なしもべたちによって驚くほど何回も強調されています。一例としてヤコブの子ヨセフのことを考えてごらんなさい。ヨセフは兄弟たちの手でエジプトに売られましたが,それでも兄弟たちを恨みませんでした。また偽りの告訴を受けて投獄された時にも,その心はまっすぐでした。何年ものちに兄弟たちと再会して自分の身を明かした時,ヨセフはなんと語りましたか。「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも,悔むこともいりません。神は命を救うために,あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです」。(創世 45:4,5)ヨセフは,起きたすべての事の背後に,神のみ手の働きを認めました。それで悪い仕打ちをした者に対しても,寛容を示すことができたのです。
9 ダビデ王は侮辱にどう応じましたか。なぜですか。
9 ダビデ王はある時,悪口雑言を吐くシメイという人からあなどりを受けました。ゲラのこのむすこはダビデにむかって石を投げ,「血を流す人よ,よこしまな人よ,立ち去れ,立ち去れ」と叫びました。ダビデの家来アビシャイはシメイを殺させようとしましたが,ダビデは「彼をゆるして詛はしめよエホバ彼に命じたまへるなり」と述べています。(サムエル下 16:5-13,文語)ダビデは,神のみこころと考えて,はずかしめを忍びました。権力の地位にある人で,ダビデのしたようにふるまう人は少ないことでしょう。ダビデの願いは自分ではなくエホバを喜ばせることでした。それがダビデの忍耐を助けたのです。
10 イエスはポンテオ・ピラトにむかってどんな事実を強調されましたか。その事実は,イエスが忍耐するうえにどのように助けとなりましたか。
10 イエス・キリストがあなどられ,むち打たれ,狂気の群衆がイエスの死を叫び求めていた時,総督ポンテオ・ピラトは好奇心をもって「あなたは,もともと,どこからきたのか」と尋ねました。しかしイエスが何の答えもされないので,次のように言いました。「何も答えないのか。わたしには,あなたを許す権威があり,また〔杭〕につける権威があることを,知らないのか」。苦しみを受けたことのある神のしもべは,ピラトのことばに対するイエスの答えをよく知っています。「あなたは,上から賜わるのでなければ,わたしに対してなんの権威もない」。(ヨハネ 19:1-11,〔新世訳〕)イエスは,事態をごらんになった時,それが神のみこころであることを認められました。もしそれが苦しみを受けることであれば,イエスは苦しみを受けることをいといません。―詩 40:8。ヘブル 10:5-10。
11 イエスの追随者にはどんな精神が見られますか。例をあげなさい。
11 今日に至るまで,この同じ精神がキリストの追随者に見られます。ペテロをはじめ,キリストの他の使徒たちがキリストの名によって語ったためにむち打たれた時,彼らは「御名のために恥を加えられるに足る者とされたこと」を喜びました。(使行 5:41)多くむち打たれたのち投獄されたパウロとシラスは,神を賛美する歌を歌っています。(使行 16:22-25)獅子の中に投げ込まれ,杭につけられて焼かれながらも神を賛美したクリスチャンのことが歴史に多くしるされています。現代のクリスチャンであるエホバの証人も,ギロチン,ガス室,銃殺刑,強制収容所,刑務所,岩塩坑などを恐れませんでした。彼らは神に忠実を保つことを心に刻みつけていたのです。彼らは苦しみを受ける理由を知っていました。また忠実を保つ人に対して,どんな栄光が約束されているかも知っていたのです。それで苦しみを受けても喜ぶことができました。―ヨハネ 15:18-21。
忍耐の実をつちかう
12 生活の中でどのように忍耐をつちかうことができますか。神のみたまを受けるのに必要な,四つの根本的な事柄をあげなさい。
12 どうすれば,神のみこころに対してこの同じ認識を持つことができますか。どのようにして生活の中で忍耐をつちかうことができますか。忍耐は神のみたまの実です。ゆえにこの資質を持つには神のみたまを持たなければなりません。それを得るためにしなければならないのは,おもに次の四つのことです。(1)みたまに満たされた神のことば聖書を学ぶことが必要です。(テモテ第二 3:16,17。ヘブル 4:12)聖書の原則を生活において実行するとき,神のみたまは,新しい生活のしかたとなって表われ,人は創造者エホバとの関係,また自分がかかわりを持つ,神への忠実の問題を理解するようになります。(ヨブ記 1,2章)(2)つぎには,神のみこころを行なうことに関心を持つ人々と交わらなければなりません。このような交わりは忠実を励まします。それは「ただ聞くだけの者」ではなく「御言を行う人」になることを助けるでしょう。(ヤコブ 1:22)(3)神のみたまを受け,それを保つために,祈りもまた肝要です。ゆえにエホバに祈ること,また「常に祈」ることを学ばなければなりません。(ローマ 12:12。テサロニケ第一 5:17)エホバの民は,「義人の祈は,大いに力があり,効果のあるものである」ことを知っています。(ヤコブ 5:16)(4)以上のすべてに加え,聖書から学んだ良い事柄を毎日実行しなければなりません。すべての人に対して寛容を示すことも必要です。(ピリピ 4:9)この教えを実行するならば,エホバのみたまと,そのもたらす祝福を受ける者になることでしょう。
すべての人に対して寛容を示す
13,14 クリスチャンは何をするようにさとされていますか。どんな手本にならうべきですか。これはどのように役だちますか。
13 クリスチャンは,「すべての人に対して寛容であり」,「寛容を身に着け」,「召されたその召しにふさわしく歩き,できる限り謙虚で,かつ柔和であり,寛容を示し,愛をもって互に忍びあい,平和のきずなで結ばれて,聖霊による一致を守り続けるように努め」るべきことを教えられています。(テサロニケ第一 5:14。コロサイ 3:12-14。エペソ 4:1-3。コリント第一 13:4)このことをする最善の方法はなんですか。
14 イエス・キリストはわたしたちの手本です。イエスは罪人を救うため,世に来られました。それでわたしたちがイエスの手本にならうのは良いことです。イエスの忍耐は,タルソのサウロの場合によく示されています。サウロはみずからも認めているように,神をけがした者,クリスチャンを迫害した者,不遜な者,ステパノの殺害を是認した者です。それでもキリストは彼に手をさしのべ,彼をクリスチャンの特別な代表者である使徒にしました。これが使徒パウロです。パウロはテモテに次のように述べています。「わたしがあわれみをこうむったのは,キリスト・イエスが,まずわたしに対して限りない寛容を示し,そして,わたしが今後,彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」。(テモテ第一 1:12-16)互い同志どれだけの寛容を示すべきかに迷うことがあるならば,キリストの示されたこの寛容にならおうではありませんか。―マタイ 6:14,15; 18:21,22。詩 103:13,14。
15,16 (イ)家庭においても忍耐が必要なのはなぜですか。(ロ)夫と妻はどのように忍耐を働かせますか。(ハ)忍耐の益を示すどんな例がありますか。
15 わたしたちは,忍耐という資質が常に要求される苦難の時代に住んでいます。(テモテ第二 3:1-5)たとえば家庭においても,忍耐と寛容を示すことがなければ,家族は喜びを失うでしょう。その家は栄えません。忍耐は熱やまさつをへらす油のようなものです。それは一致や幸福を目ざすものです。使徒ペテロはこの点で良い助言を与えています。ペテロは妻に対し,夫に服従することをすすめました。「そうすれば,たとい御言に従わない夫であっても,あなたがたのうやうやしく清い行ないを見て,その妻の無言の行ないによって,救に入れられるようになるであろう。あなたがたは……かくれた内なる人,柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾りを,身につけるべきである。これこそ,神のみまえに,きわめて尊いものである」。ついで夫に対しては次のように述べています。「夫たる者よ。あなたがたも同じように,女は自分よりも弱い器であることを認めて,知識に従って妻と共に住み,いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として,尊びなさい。それは,あなたがたの祈が妨げられないためである」。(ペテロ第一 3:1-7)使徒はそれぞれの配偶者に対し,生活の霊的な面を第一にすべきこと,自分だけでなく配偶者も救いを得ることを目ざして互いに弱さを忍ぶようにと,さとしています。
16 忍耐は安易なのがれ道ではありません。それはみをもって辛抱づよく待つことです。それは祈りであり,祈りの聞かれることを願って努めることです。不信者の夫のひどい仕打ちを10年,12年,16年あるいはもっと長い間耐えて,ついに夫を生命の道に導いた妻がいます。ある人は次のように書いてきました。「12年ものあいだ,わたしは自分の妻にはげしく敵対してきました……妻が真理を学んだためです」。そして妻を打ち,やけ酒を飲み,ありとあらゆるひどい仕打ちをしました。「こうして12年のあいだ,わたしは真理と妻と子供を相手に戦いました。最近わたしはひとりすわって12年間の生活をふり返ってみました。いろいろ考えているうちに,わたしは心の砕かれる思いをし,自分が妻に対してどんなにひどいことをしたかを悟りました。妻はけんそんにわたしの仕打ちを忍んでくれたのです……わたしがひどい仕打ちをすればするほど,妻は愛とあわれみを示してくれました。わたしは今になってそのことを悟ったのです……2週間前にわたしはバプテスマを受け,唯一のまことの神,わたしが狂気のふるまいをしていた間,妻と子供をそんなにもすばらしく導かれた神への献身を表わしました」。12年間の忍耐は大きく報われました。この例に励まされ,家族の中の不信者に忍耐を示してください。
17 (イ)なぜ,またどのように子供に対して忍耐を示すべきですか。(ロ)子供はどのように忍耐を示すことができますか。(ハ)親も子供もどんな教えに従いますか。
17 家庭において,子供に対しても,忍耐という資質を働かさなければなりません。おとなでも,いつもりっぱな行ないをするとは限りません。ですから子供にそれを期待するのは無理です。子供のふるまいを見ると,人間は罪を受けついだ者であることをしばしば感じさせられます。ゆえに人間の弱さを持つわたしたちが他の人から忍耐を期待するのと同様,子供に対しても同じ忍耐を示さなければなりません。一方,子供は強い正義感を持ち,おとなに対して円熟さを期待していますが,両親もまた不完全であることを認めなければなりません。したがって子供も親に対して忍耐を示すことが必要になります。親と子供の両方が,エペソ人への手紙 6章1節から4節にしるされた聖書の教えを守る時,それは最もよくはたされるでしょう。「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。『あなたの父と母とを敬え』。これが第一の戒めであって,次の約束がそれについている,『そうすれば,あなたは幸福になり,地上でながく生きながらえるであろう』。父たる者よ。子供をおこらせないで,〔エホバ〕の薫陶と訓戒とによって,彼らを育てなさい」。〔新世訳〕親と子供の両方が忍耐を示す時,この戒めを行なうことが可能となります。そして皆は祝福され,神は栄光を受けます。
18 クリスチャンは親類縁者に対して,なぜ忍耐を示すべきですか。
18 家族に関連して親類のことも思いおこされます。ここでも忍耐を示さなければなりません。クリスチャンにふさわしい親切を示される時に,人は心をやわらげます。それは世の人に良い印象を与えます。不信者の親類はわたしたちのキリスト教が口さきだけのものでなく,生き方であって,それが気持ちのよいものであることに気づくでしょう。こうしていつの日か,クリスチャンとなり,エホバの証人となるかもしれません。わたしたちはそれを目ざして忍耐すべきです。
会衆内で忍耐を示す
19 監督は会衆内の人々に対し,どんな面で忍耐を示しますか。
19 忍耐を働かせるべき別の場所はクリスチャン会衆内です。監督は,新らしい人も,長年,会衆と交わっている人も,すべての人に対して忍耐を示さなければなりません。監督は助言を与えても,威圧したり,忍耐をなくしたりしません。いつもおくれて来る人に対しても,その習慣が改められることを期待し,その人々の弱さに忍耐を示します。監督は不活発な人が活発になることを願いつつ,その人の荷を負います。また補佐たちがその務めをじゅうぶんに果たしていなくても,それを忍ぶでしょう。おそい人がいても,集会への参加が弱くても,親の無関心のために子供の行儀が悪くても,監督は忍耐しなければなりません。監督は,自分に委ねられているすべての人が,いつかクリスチャンの宣教をじゅうぶんに認識し,みずからの生き方として専心それに励むようになることを願って忍耐します。―コロサイ 3:23。
20 補佐のしもべたちは,どんな場合に忍耐することが必要ですか。
20 補佐のしもべたちも,会衆内において忍耐を示さなければなりません。時に監督が少し無理なことを求めているように思われる時,またクリスチャンの兄弟たちが特権を正しく受け入れない時,忍耐が必要です。たとえば,宣教学校のしもべは割り当てのある人が来ない時,会計のしもべは寄付がなかなか集まらない時,文書のしもべは文書を注文した人がそれを取りに来ない時,奉仕中心地の司会者は奉仕に出る人が少ない時,あるいはひとりもない時,研究の予習が行なわれていない時,御国会館の掃除をする人手が少ない時,それぞれ忍耐を示さなければなりません。しもべはすべての人に対して寛容であることが必要です。
21 なぜ,またどのように,宣教者とベテルの奉仕者は忍耐しなければなりませんか。
21 外国の任命地にいる宣教者,また聖書や聖書の手引きが印刷されているベテルの家の奉仕者も忍耐しなければなりません。ある宣教者の区域では,設立された神の国の福音に答え応ずる人がなかなかいません。それで忍耐が必要です。全く新しい生活になれるにも,新しい言語を学ぶにも,自分自身に対して忍耐づよくしなければなりません。ベテルの家においては,大ぜいの人が比較的狭いところに生活しているため,容易でないこともあります。他の人の欠点をがまんし,見すごすことが必要です。計画にしたがって毎日の仕事をはたしてゆくため,生活を調節することと規律が必要です。しかし奉仕者は愛とその実である忍耐を身に着けます。―コロサイ 3:12-14。
22 他のどんな時に,しもべと会衆の成員は忍耐することが必要ですか。どのようにこの荷を負うべきですか。
22 奉仕者が道を踏みはずすならば,会衆に必ず重荷がかかります。非行やその他のあやまちを犯して試験期間を課せられた人は,しもべ全体に大きな負担をかけます。それらの荷は愛の心で負わなければならないものです。(ローマ 15:1-6)排斥された人は,会衆の成員だけでなく,多くの場合,家族をも悲しませます。しかしキリストの精神をもってこのような不面目に耐えなければなりません。
外部の人に対する忍耐
23 (イ)クリスチャンがクリスチャン会衆の外の人に対して忍耐を示すことは,なぜ必要ですか。どのようにそのことをすべきですか。(ロ)クリスチャンの親と子供はどのように忍耐を示してきましたか。(ハ)エホバの証人は,野外の宣教においてどのように忍耐を示してきましたか。それは注目されずに終わりましたか。(ニ)クリスチャンは苦しみを受けることに対して,どんな見方をしますか。なぜですか。
23 今日キリストのために忍ばなければならない大きな荷があります。悪いことばを口にし,うそをつき,欺き,盗み,悪行をほしいままにしている人々の間で働かねばならない事情にあるクリスチャンも少なくありません。それでもクリスチャンはそれらの悪に染まることなく,忍耐することが必要です。(ヨハネ 17:15-19。コリント第一 5:9–6:11)人種のゆえに受ける軽べつ,宗教上の憎しみ,国家的な偏見にも,クリスチャンは耐えなければなりません。エホバの奉仕者は,国家権力による迫害に長い間耐えてきました。ソ連,スペイン,ポルトガルその他の国の独裁者から憎しみを受け,それに耐えてきたのです。偶像崇拝を禁ずる神の律法を無視した熱狂的な愛国主義者のために,クリスチャンの親と子供たちは長い間にわたり苦しみを受けています。クリスチャンは,家から家の宣教においてはねつけられ,侮辱や無礼にも久しく耐えてきました。再訪問と家庭聖書研究の活動において,彼らはほとんど神にも似た忍耐を示してきました。しかも彼らは喜びを持っています。その忍耐が人の目にとまらないはずはありません。最近,ローマカトリックの一出版物はエホバの証人の長所として,「信仰のゆえに受けるそしりに喜んで耐える」ということをあげていました。クリスチャンは人と天使の前に見せものとなっています。熱心な運動選手と同じく,彼らは傍観することに満足せず,みずからの力量を発揮する機会を与えられた時に喜びを感じます。勝つために刻苦精励しない選手がいるでしょうか。どんな労苦を伴うにしても,競技に参加できることは特権です。永遠の生命という賞を目ざすクリスチャンも,同様に感じています。彼らの兄弟たちは声援を送り,耐え忍んだ者を幸いな者とします。「キリストの名のためにそしられるなら,あなたがたはさいわいである。その時には,栄光の霊,神の霊が,あなたがたに宿るからである」と,使徒ペテロは書きました。(ペテロ第一 4:14,16; 2:20)エホバの霊を宿す彼らは,喜びをいだいて忍耐します。
24 クリスチャンの忍耐はどんな面で特異なものですか。その報いはなんですか。
24 ゆえにクリスチャンの忍耐は特異なものです。それは平和と一致を促進します。それは悔い改めへの道を大きく開きます。それは従順をつちかい,信仰を強固なものにします。それはエホバに栄光を帰し,エホバの組織を前進させ,エホバの民を幸福にします。忍耐によってクリスチャンは自分と他の人が賞を得ることを確実にします。それは苦しみを受けても得る価値のある唯一の賞すなわち永遠の生命という賞です。すべての人に対して忍耐を示し,寛容であることをこれ以上に励ますものはありません。