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職業と良心ものみの塔 1965 | 2月15日
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なかには,信仰をもたぬ人に依頼されて輸血を施した人もいます。しかし彼らは,献身したエホバの証者に対しては輸血をしません。申命記 14章21節に示されているとおり,信仰のない人に頼まれて輸血するかどうかはクリスチャンである医師自身の良心にまかされています。信仰をもたぬ人に血をまぜたソーセージを売るかどうかを決めねばならないクリスチャンの肉屋や食品店の店主も同じ立場にあります。b
自分で決定する
自分の職業のことでクリスチャンがどのような決定を下すべきかを示すこれらのいくつかの例は,こうした種類の職業につこうと思うときの助けとなるでしょう。クリスチャンは自分のするあらゆる事柄において神の律法を常に考慮に入れねばなりません。そして何をするにもエホバのためにしなければなりません。(コリント前 10:31)もしクリスチャンのすることが神のおきておよび「カイザルの」正しい法律に反しないならば,彼はそれを行なう権利を有するのであって,だれも彼を批判すべきではありません。どうしていいかわからない場合,クリスチャンはエホバ神に祈るべきです。(ペテロ前 5:6,7)また聖書を読み,自分の直面している問題を扱ったクリスャンの出版物(「ものみの塔」出版物索引には,「就職」という項目のもとに参考になる事柄がたくさん示されています)を調べるべきです。また会衆の監督に話すこともできます。しかしこれらのことをしたのちは,状態となりゆきをよく知る本人が,問題をよく分析して決定せねばなりません。もしそれが良心の問題なら,他人がその人のために決定を下すことはできません。
ある問題に直面したとき,もしこういう方法で決定を下したなら良心の苛責を感じるだろうということは前もってわかるはずです。そのような場合は良心のいたみの原因となることを避けます。クリスチャンはどんな仕事をするにしても,エホバを喜ばせることを願います。ですからその仕事は,エホバのみまえに明らかな良心をもって行なえるものでなければなりません。「何をするにも,人にではなく,エホバに仕えるように心をこめて働きなさい」。―コロサイ 3:23。テモテ前 1:18,19。ペテロ前 3:16。
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良心を守るものみの塔 1965 | 2月15日
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良心を守る
◆ 「正しい者の誠実はその人を導き」。(箴言 11:3)次の経験も示す通り、聖書の勉強を始めて間もない人が、この言葉の意味を理解しているのを見るのは心温まります。一組の夫婦は、エホバの証者と数ヵ月の間聖書を勉強し、血の使用に関するクリスチャンの立場を学びました。二人がいとこの家に招かれた時、血の抜かれていないにわとりの料理が出されました。二人はそのにわとりの血が注ぎ出されていないのに気付き、肉を取らずに皿をまわしました。いとこたちは、聖書の原則に好意的でなく、血は注ぎ出してあると言いました。いとこの一人が言いました。「かまわないから食べなさい。私がかわって罪をせおってあげますから」。これに対し、真理を求める人の一人が言いました。「自分の罪だけではまだ足りないのですか」。ついにいとこたちは、そのにわとりから血を抜いてないことを認めました。夫婦は、神の律法を犯すことをうながされても、人を喜ばすことより、神を喜ばすことを求めて、それに従いませんでした。
昨年の2月、この夫婦には子供が生まれました。土地のカトリックの習慣では、生まれた子供にバプテスマをほどこすことになっていますが、夫婦はこれにならいませんでした。このことがいとこたちの批判を一層高めることになりましたが、父親は、必要ならバプテスマの問題をカトリック牧師と話し合う事を申し出ました。4人のカトリック牧師にこの事が伝えられましたが、だれも応じませんでした。
― 1965年エホバの証者の年鑑チュニジア共和国の項から
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