公のしもべの組織を汚れなく,清く保つ
「凡ての事において神の役者のごとく己をあらはす,即ち患難にも,……廉潔と知識とによりて表はす」。―コリント後 6:4,6,文語。
1 地上の組織に与えられている公の奉仕のうち,最大のものはなんですか。
公の奉仕という点において,公のしもべのこの組織は,他のどんな組織にもまさって大きな務めを委ねられています。19世紀前,この組織のかしらであるしもべ,主イエス・キリストは,世界的なわざを命じました。「わたしは,天においても地においても,いっさいの権威を授けられた。それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によって,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」。(マタイ 28:18-20)19世紀前のこの命令は今もなお遂行されなければなりません。しかしイエスの命じた奉仕のわざは,今日それ以上のものとなり,栄光ある何物かがそれにつけ加えられています。現存する事物の制度の「終りの時」をしるしつづける証拠を預言したとき,イエスはこの奉仕の務めを述べました。「そしてこの御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」― マタイ 24:14。
2 御国の証者のこの組織は,今日どのように見分けられますか。公のしもべである証者の立場は,今後どのようにいっそう強力なものとなりますか。
2 このような御国の証者の組織が今日,存在しています。それはキリスト教国あるいはバビロン的な宗教の世界帝国と全く関係ありません。それはエホバの証者の新しい世の社会です。このクリスチャンの社会は,天の御国を第一にし,またこの世の政治と縁を切っている唯一の宗教団体です。ゆえにそれは,イエスが「御国」すなわち神の国の「福音」と呼んだ音信を自由に伝道できるのです。このわざに専念することによって,この組織は全人類に対し,比類のない公の奉仕を行なっています。この公の奉仕を忠実にはたすとき,彼らは将来,更に強力に全人類を益する公のしもべとされるでしょう。
3 どんな見地から,この協会は公のしもべの組織であり,最大の奉仕を行なっていますか。
3 敬虔な男女が何千年のあいだ到来を祈り求めてきた神の国の福音を伝道する務めを,エホバの証者の新世社会がいま果たしていることは,毎年エホバの証者の年鑑にのせられる数字と事実が物語っています。この務めを遂行ることによって,ものみの塔協会は今日,最大の公の奉仕を行なっています。この見地から,協会は,たとえ全部の人が演壇から話をしないにしても,公のしもべの組織です。
4 公の職にある人々の行いに疑いの目を向けている人々は,新世社会内の個人に関してどんな質問をしますか。
4 しかしこの世の政治的な公職にある人々の行いに失望してきた人は,エホバの証者の新世社会に対しても疑いの目を向けるかも知れません。そして次のように言うことでしょう。「なるほどエホバの証者の新世社会は世界的な規模で公の奉仕を行なっている。だがエホバの証者各人の私的な生活はどうか。家庭,職場また会衆の内外において,どんな生活をしているだろうか。人目にふれない私生活における道徳はどうか」。
5 バプテスマを受けた新世社会内の人々が,これらの質問にどう答えるものと期待できますか。なぜそうですか。
5 これは当然の質問です。新世社会のエホバの証者の私生活は,これらの質問にどう答えていますか。私たちは満足すべき答えができなければなりません。なぜですか。新しい世の社会内の,バプテスマを受けた各人は,宇宙の最高至上者である神に属する者だからです。水のバプテスマは,人がイエス・キリストを通してエホバ神に全く献身したことの象徴であるゆえに,そう言えます。バプテスマを受けたエホバの証者の新世社会は,無条件に神のものです。それゆえに,エホバ神は公のしもべのこの組織が汚れなく,清いものであることを要求されます。この組織が神の要求にかなわなければ,神は御国の福音を全世界に伝道する務めをこの組織に委ねません。神の証者は神の代表者であるゆえに,神は当然に彼らの道徳的な清さ,純潔と正しい行いに関心を持たれます。神は,清くない汚れた組織を用いることを拒絶します。それでこのような責任の重い務めを委ねられた組織が清く,廉潔であることに,神は非常な関心を持たれます。―詩 50:16-23。
他の人のつまずきになる事を避ける
6 献身して神から奉仕のわざを委ねられた人々には,どんな振舞が必要ですか。それゆえ,何をすることがすすめられていますか。
6 献身して神のみ名を負い,神から奉仕の務めを委ねられた公のしもべは,それにふさわしく歩まねばなりません。伝道し教える者でありながら,行いが悪いならば,神の是認を得ることは不可能です。神を欺き,神の目をくらますことのできる人はいません。人が公に伝道し教えているのとは反対の生活をしているかどうかは,神と王イエス・キリストがご存知であり,天使たちが知っています。神は無感覚でありません。ご自身のみ名,その愛される組織,神の真理と神の御国の福音が非難されるならば,神はそれをすぐに感じます。そこで献身した公のしもべの私的な生活に,神は関心を持たれます。この厳しゅくな事実を知るとき,すべて公のしもべはふさわしく歩むことに心するでしょう。
7,8 (イ)使徒パウロは,なぜこの事実を深く認識していましたか。(ロ)救いの音信をひろめるため,パウロは何に耐え,また責任として何をはたしましたか。
7 クリスチャン使徒パウロは,この事実を深く認識していました。最高至上なる神の公のしもべの中でも,おも立った者の一人に数えられるパウロが,その事に深く心を用いたのは良いことでした。パウロには,自分が伝道し教えたキリスト教の音信を,その私的な生活によっても,他の人にすすめるべきことを知っていました。またその教えた事柄の清さも,音信を他の人々にすすめる働きをすべきであって,つまづきや妨げになってはなりません。それは清い組織を生まなければなりません。救いの音信が妨げなしにひろまるように生活し,伝道し,教えるため,パウロはあらゆる事を喜んで忍びました。それで自分とテモテがキリストに代わる大使であることを語ってのち,パウロは次のように述べました。
8 「我等この職のそしられぬ為に何事にも人をつまづかせず。反って凡ての事において神の役者のごとく己をあらはす,即ち患難にも,窮乏にも,苦難にも,打たるるにも,獄に入るにも,騒ぎにも,労働にも,眠らぬにも,断食にも,大なる忍耐を用い,また廉潔と知識と寛容と仁慈と聖霊といつはりなき愛と,真の言と神の能力……とによりて表す」― コリント後 6:3-7; 5:20,文語。
9,10 (イ)パウロの同労者テモテは,会衆内の地位に任命された他の人々に関して,どのように自分を清く保ちますか。(ロ)この点におけるテモテの清さから,ほかのだれが益を受けますか。
9 パウロの言葉の中に廉潔があげられていることに注目して下さい。パウロの言葉の中には,パウロ自身と宣教の同労者テモテが含まれています。パウロは,若いテモテが彼自身また他の人との交渉において清くなければならないことを強く説いています。神の導きの下にパウロは,新らしく組織された諸会衆に監督と補佐のしもべを任命する権威をテモテに与えました。テモテが無雑作に人を任命し,あるいは自分の利己的な偏見に影響されるならば,公のしもべにふさわしくない罪を犯す人を職につける結果になるかも知れません。テモテはその人の罪またそれが会衆やキリストの教えに影を投げかけたことに対して,責任の一半を負うことになるでしょう。
10 行いの善良な,信頼できる有能な人を職につけることに公平に努め,意を用いることによって,テモテは会衆内の職にある人の罪に対して責任を問われることなく,自分の潔白を保つことができます。「軽々しく人に手をおいてはならない。また,ほかの人の罪に加わってはいけない。自分をきよく守りなさい」と,パウロは述べました。(テモテ前 5:22)悪くなるおそれのある人をはじめから任命しなければ,テモテは自分に非難を招くのを避けるだけでなく,会衆を清く保つことができます。罪を犯す人の悪い手本が会衆に示されることはありません。
11,12 (イ)他の人々に教訓を伝えるしもべとして,テモテはなぜ正しい手本を示す必要がありましたか。(ロ)これに関して,パウロはテモテに何を書き送りましたか。
11 テモテは,しもべの地位にある人が悪い手本を示す原因を作らないように注意する必要がありました。それにとどまらず,自分自身公のしもべとして,他の人がならうにふさわしい正しい手本を示すことも必要でした。地上にある神の組織の統治体の教訓を伝えて,なすべき事を兄弟たちに告げるのがすべてではありません。組織の教訓に従って他の人々を指図するのにふさわしいことを,テモテ自身示すことが必要でした。自分自身が模範的な生活をして,その与える命令や指図に重味を加えなければなりません。クリスチャンとして精神的にも霊的にも円熟さを示すことによって,テモテはたとえ年が若くても,他の人から軽んぜられないでしょう。テモテに宛てたパウロの次のことばは,それを述べています。
12 「これらの事を命じ,また教えなさい。あなたは,年が若いために人に軽んぜられてはならない。むしろ,言葉にも,行状にも,愛にも,信仰にも,純潔にも,信者の模範になりなさい。わたしがそちらに行く時まで,聖書を朗読することと,勧めをすることと,教えることとに心を用いなさい」― テモテ前 4:11-13。
13 新世社会はどのようにしてその教義を清め,それを清く保つことができましたか。
13 今日エホバの証者の新世社会は,公のしもべの組織を清く保つため,この言葉に従っています。教えすなわち教義を清く保つことは必要であり,それは霊感による神のことばと一致した教義を教えることによってのみ可能となります。「エホバの言はきよきことばなり,地にまうけたる炉にてねり七たびきよめたる白銀のごとし」と,ダビデは書きました。(詩 12:6,文語)真理は清く,ダビデの子イエス・キリストは,文字に書かれた神のごとばについて,次のことを神に祈りました。「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」。(ヨハネ 17:17)神の清いことばを忠実に求めることによって,新世社会はその教えを清め,それを真実なものに保つことができました。
14,15 (イ)エホバの証者のとった道とくらべて,ローマカソリシズムの首長は,おそまきながら聖書に帰ることに関して何を述べましたか。(ロ)聖書に帰ることをすすめたこの呼びかけは,どのように矛盾していますか。
14 86年前の1879年7月に「ものみの塔」誌を発刊して以来,献身したエホバの民はそのことに努めてきました。それでローマカトリックの法王パウロ6世が中東の巡礼から戻って述べた次の言葉は,おそまきの感を与えます。昨年「1月8日ローマ発」の項で,ニューヨーク・タイムズは,次のように報じていました。
真のクリスチャンたらんとする者は,聖書に帰るべきことを強調して,法王は次のように述べた。我々は思考力,霊的な熱意,復興された道義,宗教的,人間的な弁別力を用いて,福音に帰らなければならない。
15 しかし聖書に帰ることをローマカトリック教徒に呼びかけた法王の言葉も,次のことを言うに及んで矛盾を生じています。
聖書の研究は,教会の経外伝説の否定にむかうものではない。それはクリスチャンの信仰を原型に戻すための努力であり,我らの主の思想に全く同化するための努力であって,今日まで伝えられた教会の権威ある教えを擁護するものである。―1964年1月9日付ニューヨーク・タイムズ。
16 これとは正反対に,新世社会は何に努めていますか。
16 これとは反対に,エホバの証者の新世社会は,伝統的に伝えられてきた宗教上の教えを排して,文字に書かれた神のことばにつき従います。人間の伝統や教えを非としたイエスのことばを,私たちは忘れません。―マタイ 15:1-14。
17,18 コリント後書 11章2-6節において,使徒パウロはどんな種類の清さについて述べていますか。
17 使徒パウロは,彼の設立したギリシャ,コリントの会衆に送った手紙の中で,教義の清さ,また偽わりの使徒の教えを排してクリスチャン会衆を清く保つことについて,率直に語っています。
18 「わたしは神の熱情をもって,あなたがたを熱愛している。あなたがたを,きよいおとめとして,ただひとりの男子キリストにささげるために,婚約させたのである。ただ恐れるのは,エバがへびの悪巧みで誘惑されたように,あなたがたの思いが汚されて,キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。というのは,もしある人がきて,わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え,あるいは,あなたがたが受けたことのない違った霊を受け,あるいは,受けいれたことのない違った福音を聞く場合に,あなたがたはよくもそれを忍んでいる。事実,わたしは,あの大使徒たちにいささかも劣ってはいないと思う。たとい弁舌はつたなくても,知識はそうでない。わたしは,事ごとに,いろいろの場合に,あなたがたに対してそれを明らかにした」― コリント後 11:2-6。
19 (イ)エデンのへびは,何に関してエバを腐敗させようとしましたか。(ロ)同様にパウロの時代のコリントの人は,どのように会衆を腐敗させようとしていましたか。
19 エデンにおいてアダムの妻エバを欺き,腐敗させるために誘惑したとき,へびが問題にしたのは教義すなわち宗教上の信条でした。道徳また性に関する事柄が問題となったのではありません。へびはエバを欺き,創造主エホバ神が夫アダムにうそを語ったと思い込ませました。パウロがコリントに居ない間に,いわゆる「大使徒たち」は同じく狡猾な手口でコリントのクリスチャン会衆を腐敗させようとしたのです。彼らはパウロが宣べ伝えたのとは異なるキリストを宣べ伝え,み霊の賜物と共にパウロが与えたのとは異なる精神を会衆に入り込ませようとし,パウロが伝道したのとは異なる「福音」を伝道して,そのことをしました。これらのいわゆる「大使徒たち」は,コリント会衆を異なる霊的な夫である異なるキリストに嫁がせようとしていました。それは霊的な不品行となります。どうしてそう言えるのですか。
20 これら「大使徒」の悪い影響は,どのように会衆を霊的な不品行に導いていましたか。
20 使徒パウロは,すでに彼らを神の天のみ子イエス・キリストに婚約させていました。そこでいま彼らを別のキリストに婚約させるならば,彼らは霊的な意味で純潔を失います。約束の夫イエス・キリストのために保たねばならない霊的な清さ,処女の清さは失われてしまうでしょう。使徒パウロは,彼の設立したこのクリスチャン会衆を「きよいおとめ」として「キリストにささげる」ことを望みました。それなのにこれらの「大使徒たち」は,イエス・キリストとの婚約を破って,にせキリストと婚約するように会衆を仕向けたのです。彼らは,すでに婚約した会衆を誘惑して,霊的な不品行,霊的な姦淫を犯させようとしました。これは姦淫です。なぜならばモーセを通して与えられたエホバの律法によれば,処女は婚約した時から,将来夫となる人の妻と見なされました。
21 パウロはコリント会衆に対して,どんな熱愛を抱いていましたか。彼はだれの真実の友でしたか。
21 ゆえに使徒パウロは,これらのいわゆる「大使徒たち」をエデンのへびにたとえたのです。パウロはクリスチャン会衆を彼らから守ることに努めました。コリント会衆に対してパウロの抱いた熱愛は,利己的また不敬虔な情欲ではなく,はじめからの花むこイエス・キリストに献身して,競合するものを許さない敬虔な熱愛でした。パウロはたしかに「花婿の友人」であり,天において花嫁となる「きよいおとめ」に語りかけながら,花婿の「声を聞いて大いに喜ぶ」時のくることを待ち望んでいました。―ヨハネ 3:29。
性に関して清さ(純潔)を保つ
22 (イ)他のどんな面における,会衆の清さに,パウロは関心を払っていましたか。(ロ)これに関連した,コリント会衆内のどんな出来事について,パウロは書いていますか。
22 西方の異邦人諸国にある「諸教会の心配ごと」にも心を用いた総監督として,使徒パウロは神の公のしもべの組織の身体上の清さ,すなわち性に関する純潔にも深い関心を払っていました。会衆が神の組織の一部である以上,その成員の不品行を許すことはできません。成員が性的な不品行をするならば,会衆はその罪に与らず,連帯責任のないことを立証しなければなりません。西暦1世紀のコリント会衆において,パウロの裁いた事件に注目して下さい。パウロの次の言葉にあるように,それはきわめて悪い行いでした。「現に聞くところによると,あなたがたの間に不品行な者があり,しかもその不品行は,異邦人の間にもないほどのもので,ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。それだのに,なお,あなたがたは高ぶっている。むしろ,そんな行いをしている者が,あなたがたの中から除かれねばならないことを思って,悲しむべきではないか」。
23 これに関して,パウロはどんな責任を負うことを望みませんでしたか。そこで事態に対処して何をしましたか。
23 この会衆を設立した者であり,また使徒として監督の権を持つパウロは,公のしもべから成る神の組織内の不品行の連帯責任を負って自分が汚れるのを防ぐため,この行いを黙認することなく次のように論告しています。「しかし,わたし自身としては,からだは離れていても,霊では一緒にいて,その場にいる者のように,そんな行いをした者を,すでにさばいてしまっている。すなわち,主イエスの名によって,あなたがたもわたしの霊も共に,わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって,彼の肉が滅ぼされても,その霊が主のさばきの日に救われるように,彼をサタンに引き渡してしまったのである。……あなたがたのさばくべき者は,内の人たちではないか。外の人たちは,神がさばくのである。その悪人を,あなたがたの中から除いてしまいなさい」― コリント前 5:1-5,12,13。
24,25 (イ)コリント会衆に関し,いまパウロにとって何が問題でしたか。(ロ)会衆はこの問題に関して潔白なことをどのように示しましたか。
24 いまパウロにとって問題なのは,かの「大使徒」のいるクリスチャン会衆が,近親相姦という驚くべき悪行に対して連帯責任を負うことのないように,潔白を証明するかどうかです。正しい処置をせずにこの不品行を少しの間でも容赦したことを,会衆は悲しんでいますか。この悪人を会衆から除くことを命じた使徒のことばを直ちに行なって,会衆はその潔白を表わしますか。後にパウロの宣教の同労者テトスがコリントから戻って会衆のとった処置を報告したとき,パウロは安心しました。これを公に是認するものとして,パウロは会衆に次のように書き送っています。
25 「そこで,たとい,あの手紙であなたがたを悲しませたとしても,わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが,あなたがたを悲しませたのを見て悔いたとしても,今は喜んでいる。それは,あなたがたが悲しんだからではなく,悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは,神のみこころに添うたことであって,わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。神のみこころに添うた悲しみは,悔いのない救を得させる悔改めに導き,この世の悲しみは死をきたらせる。見よ,神のみこころに添うたその悲しみが,どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また,弁明,義憤,恐れ,愛慕,熱意,それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については,すべての点において潔白であることを証明したのである」― コリント後 7:8-11。
26,27 (イ)どんな事が行なわれてのちに初めて,会衆は近親相姦を犯したこの人を安心して復帰させることができますか。(ロ)しかし会衆は何に警戒することを怠ってはなりませんか。この事を示すために,パウロは何と書き送りましたか。
26 たしかに会衆が成員の性の不品行を容認しないことを示して,会衆の立場を明らかにし,「あの問題については,すべての点において潔白であることを証明した」のちでなければ,パウロはあの悪人を会衆に復帰させるようにと,安心してすすめることができません。会衆がパウロの最初の手紙を受け取ってのち,第二の手紙を受け取るまでの期間に,この人が近親相姦の罪を真実に悔い改めただけでなく,会衆全体が正しい立場をとり,正しい処置を講じました。(コリント後 2:6-11)しかし悔い改めを証明したこの人を許して会衆に復帰させるかどうかは別問題として,コリントのクリスチャンは,会衆内に性の不品行がないように警告を怠ってはなりません。彼らは性の氾濫した異教の町に住み,会衆のメンバーの多くは,性に心を奪われた世界に,以前,日を送っていたからです。そこでパウロは,その2番目の手紙の終わり近くに(コリント後 12:20,21),次のように書いています。
27 「わたしは,こんな心配をしている。わたしが行ってみると,もしかしたら,あなたがたがわたしの願っているような者ではなく,わたしも,あなたがたの願っているような者でないことになりはすまいか。もしかしたら,争い,ねたみ,怒り,党派心,そしり,ざんげん,高慢,騒乱などがありはすまいか。わたしが再びそちらに行った場合,わたしの神が,あなたがたの前でわたしに恥をかかせ,その上,多くの人が前に罪を犯していながら,その汚れと不品行と好色とを悔い改めていないので,わたしを悲しませることになりはすまいか」。
28,29 (イ)とくに多くの人をその中に迎え入れている点から見て,今日の新世社会はどのように同じ状態におかれていますか。(ロ)コリント前書 6章9-11節のパウロの言葉は,なぜ今日の新世社会にあてはまりますか。
28 エホバの証者の新世社会も,同じ状態の中におかれています。それは性に心を奪われた現代のソドムの中におかれています。この新世社会のすべての人がエホバのクリスチャン証者の家に生まれて育てられたわけではありません。その大部分は大いなるバビロンすなわち偽りの宗教の世界帝国と,その不品行の相手となった情夫すなわち政治勢力の中から出てきました。そして性道徳の乱れたこの世から毎年何万人の人々が新世社会の中に来るにつれて,増加する人々の不道徳への性向のために,不道徳を誘う圧力がこの社会にますます加えられます。従ってコリントのクリスチャンにパウロが書き送った次の言葉は,今日の新世社会によくあてはまります。
29 「それとも,正しくない者が神の国をつぐことはないのを,知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,男娼となる者,男色をする者,盗む者,貪欲な者,酒に酔う者,そしる者,略奪する者は,いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には,以前はそんな人もいた。しかし,あなたがたは,主イエス・キリストの名によって,またわたしたちの神の霊によって,洗われ……たのである」― コリント前 6:9-11。
30 (イ)時の経過と共に,新世社会を清く保つことは,なぜもっと困難になりますか。(ロ)洗われたすべての人に対して,使徒パウロは何を警告しましたか。
30 新世社会が大きくなるにつれて,以前は「そんな人」であったエホバの証者もふえます。しかし今日バプテスマを受けて新世社会の中にいるすべての人は,主イエスの名により,またわたしたちの神のみ霊によってまず洗われなければ,新世社会の中にはいれなかったことでしょう。それで一度洗われた者が再び世の汚れに染まり,「洗われても,またどろの中にころがって行く」豚のようになってはなりません。使徒ペテロはその第二の手紙の中で私たちすべてにその事を警告しています。(2:22)
31,32 (イ)以前このような人でなかったにしても,新世社会の成員は何に気をつける必要がありますか。(ロ)たとえばペテロは,会衆内の清さについてテモテに何を書き送ることが必要でしたか。
31 新世社会の中に来る前にこのような者であった人は少数ですが,それでもすべての人は,このような汚れた行いの誘惑に陥らないように警戒しなければなりません。たとえばパウロと共にコリント会衆への第二の手紙を書いた宣教者テモテのことを考えてごらんなさい。テモテはギリシャ人を父,ユダヤ人を母として生まれ,母親のユニケと祖母ロイスから敬虔の道に育てられました。(テモテ後 1:5)しかしテモテがパウロと共に15年間働いてのち,パウロは会衆内の道徳的清さについて,テモテに次の言葉を書き送るのを良い事と見ました。
32 「老人をとがめてはいけない。むしろ父親に対するように,話してあげなさい。若い男には兄弟に対するように,年をとった女には母親に対するように,若い女には,真に純潔な思いをもって,姉妹に対するように,勧告しなさい。やもめについては,真にたよりのないやもめたちを,よくしてあげなさい」― テモテ前 5:1-3。
33 (イ)婦人に対する振舞についてテモテに告げられたパウロの言葉は,とくにだれに向けられていますか。(ロ)従って婦人に対する不道徳な行いは,何と同じく忌むべきものですか。
33 テモテはもはや十台の若者ではありませんでしたが,老若を問わず会衆内の婦人と接するとき,道徳的な清さに注意することが必要でした。テモテへのこの手紙は会衆一般に宛てたものではなく,一地域の諸会衆全体の監督に対する手紙です。そのことに留意して下さい。ゆえに「若い女には,真に純潔な思いをもって」接することを教えたこのことばは,今日の新世社会内において地域のしもべ,巡回のしもべ,会衆のしもべとして奉仕するクリスチャンの男子に特に力強く迫ってきます。これらのしもべが異性に対してこのように清く振舞うならば,献身してバプテスマを受けた新世社会内の他の男子に対して,正しい導きとなる手本を示すことになります。このようなしもべが,新世社会内の若い女に対しては,自分の肉親の女きょうだいに対するように振舞うならば,肉親のきょうだいを犯さないのと同じく,新世社会の婦人を道徳的に害することをしないでしょう。会衆内の若い婦人と姦淫するのは,自分の肉親のきょうだいとの近親相姦と同じく忌むべきことです。
34,35 (イ)パウロは,ほかのだれに道徳の教えを授けることが必要でしたか。それは何のためですか。(ロ)それで,年老いた女は若い女のために何をするべきですか。
34 他方クリスチャン会衆内の婦人に対しても,道徳に関する教えを教える必要がありました。宣教の同労者テトスに宛てて,パウロは次のように書きました。「年老いた女たちにも,同じように,たち居ふるまいをうやうやしくし,人をそしったり大酒の奴隷になったりせず,良いことを教える者となるように,勧めなさい。そうすれば,彼女たちは,若い女たちに,夫を愛し,子供を愛し,慎み深く,純潔で……あるように教えることになり,したがって,神の言がそしりを受けないようになるであろう」― テトス 2:3-5。
35 他の婦人の夫ではなく自分の夫を愛し,異性のすべてに対して純潔であることを若い女に教えるため,年老いた女は何をすべきですか。年老いた婦人自らが純潔の手本を示さねばなりません。新世社会内の一人の婦人の純潔は,別の人がクリスチャンの生活を始めるのを助けます。
36 使徒ペテロは,この事実をクリスチャンの妻にどのように強調していますか。それは神のことばにどう影響しますか。
36 年老いた使徒ペテロはこの事実を強調し,クリスチャンの妻に次のことを書き送りました。「妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば,たとい御言に従わない夫であっても,あなたがたのうやうやしく清い行いを見て,その妻の無言の行いによって,救に入れられるようになるであろう」。(ペテロ前 3:1,2)会衆の外,また家庭の外の世界が汚れていればいるだけ,忠実な妻の清さはひき立ち,それだけ深い印象を与えます。それは神のことばにほまれとなります。