新世社会内で円熟を目ざして努める
「恥じるところのない錬達した働き人になって,神に自分をささげるように努めはげみなさい」。―テモテ後 2:15,新口。
1,2 (イ)クリスチャンは何を望むべきですか。それを得るために何をしなければなりませんか。(ロ)この事には何が関係してきますか。各人は結果として何を得ますか。
目ざして努めるとは,最終の目標を達成するために努力することです。クリスチャン奉仕者にとって,目ざすものはエホバからよみせられる事です。これにまさるものはありません。神の是認をかち得るために「努めはげみなさい」と,神のことばは教えています。もちろん人はクリスチャンの生活をしながら常にいっそうの円熟を目ざして歩まねばなりません。人生の他のものとは対照的な円熟の価値を,パウロは次のように言い表わしています,「わたしは……わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに,いっさいのものを損と思っている」。今日においても人生の歩みをすすめながら知恵と円熟を得ることの価値を,このように評価しなければなりません。―ピリピ 3:8,新口。
2 これは簡単なことではありません。時間をかけ,頭を使い,かなりの勉強をすることが必要です。実を言えば勉強以上のことが必要です。円熟したクリスチャン奉仕者は「全き人」に成長することを望み,生命を与える貴重な教えを他の人々に授け得るよう十分に理解することを望んでいるからです。知識の豊かな人は,それだけ信仰も深く,確信と喜びも大きいものです。そして責任も重くなります。
3 学習課程からどんな種類の知識を除くべきですか
3 勉強は働きです。からだの運動と労働によって筋肉が発達するのと同じく,頭を使うことによって知的な能力は発達します。学校教育の型にならって定期的に勉強するのがいちばん効果的です。時間をかけなければならないのは当然です。この学習課程において,学習内容も等しく重要です。「この世の知恵は,神の前では愚かなもの……である」と述べたさとしを心に留めて下さい。クリスチャンはエホバへの奉仕に力をつくすべきであると述べてから,パウロは俗悪なこの世の知識を避けるようにとさとしました,「俗悪なむだ話を避けなさい。それによって人々は,ますます不信心に落ちてい(く)…であろう」。学ぶべき知識の中から俗悪なものを除く理由はここにあります。クリスチャンのおもな関心は永遠の生命の源と,このような生命を得るための要求を知ることにあるからです。こうして「真理の言葉を正しく」教えることが可能となります。―コリント前 3:19。テモテ後 2:16,15,新口。
4 (イ)研究によってどんな種類の知識を得ますか。(ロ)勉強だけで十分ですか。
4 教えを受けて知識と知恵を学んでゆく過程は,医科の学生が大学に通って医学を学ぶのと似ています。学生は初歩から高等に進むように組まれた教課の内容を徹底的に勉強します。ここまでは本と講義から知識を得る,おもに理論的な勉強ですが,実際に医療に携わる前に実習をしなければなりません。医学をおさめただけで医師の資格を得るのではありません。実地の経験がどうしても必要です。エホバの奉仕者についても同じ事が言えます。神のことばは,「御言を行う人になりなさい……ただ聞くだけの者となってはいけない」と教えているからです。―ヤコブ 1:22,新口。
5 勉強だけではなぜ奉仕者になれませんか。
5 熱心に勉強して正しい知識を学ぶことも大切ですが,そのほかに良い訓練も必要です。医学部を卒業したばかりのインターンが手術をしないのとそれは同様です。インターンは熟練した医師と共にかなりの期間働いて,学んだ知識を応用することを学びます。奉仕者もそれと同じで,円熟した奉仕者にともなわれて訓練を受けます。このようにして進歩し,神のことばを効果的に行なう奉仕者となるのです。こうして1世紀のクリスチャンがしたと同じように家から家に伝道することに間もなく上達し,更に宣教の次の分野すなわち興味を抱いた人々を重ねて訪問することに進み,最後には家庭聖書研究を司会するようになります。
6 (イ)自分自身の円熟への進歩をどのようにはかることができますか。(ロ)円熟した奉仕者は何をつづけますか。
6 円熟を目ざして励みながら,新しい奉仕者はその宣教活動によいつりあいを保たねばなりません。しかしこの事ができても,それで終りではありません。他の人を援助できるほどに円熟した人は,他の人々を円熟させるために喜んで助力するからです。そこで自分が援助し,また訓練している新しい人に関して自分の教える能力を吟味し,また正しい手本を示すと共に新しい人の円熟をはかって適切な助言を与えるように心を用いなければなりません。他の人を助け,陶工の手にある粘土のように新しい奉仕者が形づくられていくのを見守るとき,喜びと満足を得ます。真に円熟した奉仕者また教える者となった人は,野外の宣教,研究において新しい人をすすんで助け,聖書の質問に答え,その他あらゆる事において徳を高めることに努めます。援助する者とされる者との間に芽ばえて成長する愛の絆を見ることほど,心を喜ばせることはありません。このような兄弟同志のよしみは永続するものです。
男子の円熟
7 (イ)聖書は円熟について何を述べていますか。(ロ)「全き人」はどのように行いに気をつけますか。
7 円熟をつちかったクリスチャンの兄弟すなわち奉仕者を尊敬すべきであると,聖書は述べています。「よい指導をしている長老〔円熟した人〕,特に宣教と教とのために労している長老は,二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である」。たしかに今日でも全く成長した人は,御国のこの福音を語り,また伝道することをつづけ,同じことをしたいと望む人々を助けなければなりません。自分と自分の宣教にたえず気を配ることは,大きな益となるからです。円熟した人がこのようにふさわしい行いをするとき,真理の言葉を正しく扱っていることになります。―テモテ前 5:17,新口; 4:16。テモテ後 2:15。
8 クリスチャン奉仕者の義務は何ですか。
8 クリスチャン奉仕者の中には,妻あるいは家族のメンバーである他の婦人の霊的な福祉を顧みる責任を持つ人がいます。キリスト・イエスがご自分のからだの成員を顧みたのと同じく,男子は自分と一体の婦人,家族の中の子供,また会衆内のクリスチャン男女を守るべきです。
婦人の円熟
9 クリスチャンの婦人は家庭の中で何を認めますか。
9 クリスチャンの婦人すなわち姉妹は女のかしらを認めなければなりません。婦人の立場を十分に理解して行動するとき,円熟は身に着くのです。既婚の婦人はその夫を愛するように教えられています。それはほめるべき事です。
10 フイベはどんな配慮を受けましたか。なぜですか。
10 初期クリスチャン会衆内の婦人はいたわりを受け,またほめられてもいます。使徒パウロが思いやったフイベはその一人です。「ケンクレヤにある教会の執事,わたしたちの姉妹フイべを,あなたがたに紹介する。どうか,聖徒たるにふさわしく,主にあって彼女を迎え,そして彼女があなたがたにしてもらいたいことがあれば,何事でも,助けてあげてほしい。彼女は多くの人の援助者であり,またわたし自身の援助者でもあった」。(ロマ 16:1,2,新口)この言葉から見て,フイベは会衆内の円熟した奉仕者であり,周囲の人々またエホバへの奉仕に労する人々を思いやっていました。
11 (イ)円熟した姉妹は,どんなほめるべき性質を持っていますか。(ロ)パウロはどんな行いをいましめましたか。
11 処女であったピリポの4人の娘も,エホバのことばを十分に認識して正しく振舞いました。4人は預言すなわち奉仕をしたと聖書にしるされているからです。(使行 21:9)パウロはテモテに送った最初の手紙の中で,円熟した婦人のほめるべき行いを次のように述べています,「ひとりの夫の妻……また子女をよく養育し,旅人をもてなし,聖徒の足を洗い,困っている人を助け,種々の善行に努めるなど,そのよいわざでひろく認められている者でなければならない」。このような良い原則を守り,正しい生活を送った老令の婦人あるいはやもめは,扶助を受けるにふさわしい者です。ほめることのできない行い,従ってしてはならないと使徒パウロがいましめているのは,「なまけていて,家々を遊び歩くことをおぼえ,なまけるばかりか,むだごとをしゃべって,いたずらに動きまわり,口にしてはならないことを言う」ことです。―テモテ前 5:9-13,新口。
12 円熟した婦人は更にどんな性質を持っていますか。
12 エホバの恵みを得る行いをした婦人は,家族のかしらを喜ばせることにも努めてきました。すなわち夫につかえ,家族やまわりの人々に良いことをしてきました。何にもましてクリスチャンの妻は,夫が全幅の信頼を寄せるに足りる者です。妻は夫の信頼にこたえて善を行ない,家族のために食事をととのえ,家事をはたし,クリスチャンの家庭にふさわしく家の中をきちんとしておきます。このように気だてのよいクリスチャンの婦人をほめる言葉は,箴言 31章26節にあります。「彼女は口を開いて知恵を語る,その舌にはいつくしみの教がある」。(新口)この言葉からわかるように,彼女には知恵があり,彼女は会衆内における婦人の立場についてエホバのことばの教える事柄を知っています。このように円熟は家事をはたすこと以外にも及びます。彼女は『エホバをおそれ,エホバにほめられる』女です。エホバを恐れる婦人は,エホバの制度内の円熟した婦人に対する要求を心得ており,道を踏みはずすことをしません。このような婦人は周囲の人々からもよく思われ,そのクリスチャンの人格また忠実な宣教は人々を感心させるでしょう。
若い人の円熟
13,14 (イ)親の訓練という点でどんな良い手本がありますか。(ロ)クリスチャンの子供はどんな態度で教えを受けるべきですか。
13 テモテは子供の時,母ユニケと祖母ロイスから良い教えを授けられました。しかし幼い時であってさえ,すすんで学び,教えを受け入れることが必要でした。今日の若い人にとっても,これは良いことです。パウロはこの点でテモテをほめ,次のように書いています,「また幼い時から,聖書に親しみ,それが,キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を,あなたに与え得る書物であることを知っている」。(テモテ後 3:15,新口)子供でも大人でも同じ謙遜さ,教えを聞く気持が必要です。教えを受けるにはだれでも子供のようにすなおな心が必要であると,イエスは語りました。すなわち教えを受け入れる気持を持たねばなりません。子供が親のさとしや教えを受け入れ,親の訓練によって正しく育てられ,子供がすすんで親に従うのは,はた目にも好ましいものです。若い日に創造主を覚えよというさとしは,子供でも心に留めることができます。(伝道之書12:1)この点においても主イエス・キリストはその幼い時から正しい心ねを表わし,手本を残しました。イエスはみ父のわざを行なうことを心にかけ,「わたしが自分の父の家にいるはずのことを,ご存じなかったのですか」と言われました。
14 子供に神のことばの真理を教え,奉仕者となるように訓練するのは親の責任ですが,親の言葉に聞き,その訓練を受け入れて円熟に進むように努力するのは子供の務です。子供は親にさからってはなりません。―エペソ 6:1-4。コロサイ 3:20,21。
すべての人が御霊の実を培かう
15 クリスチャンの奉仕者はどんな資質をつちかうべきですか。
15 円熟を身につけ,霊的に成長するためにきわめて大切なのは,御霊の実を結ぶことです。従って御霊の実をつちかうことは,日頃の行動つまり生活の一部になっていなければなりません。御霊の実とはどんな資質のことを言うのですか。それは信仰,徳,節制,忍耐,敬虔,兄弟愛,愛です。「これらのものがあなたがたに備わって,いよいよ豊かになるならば,わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について,あなたがたは,怠る者,実を結ばない者となることはないであろう」。(ペテロ後 1:5-8,新口)これは円熟への進歩を一言に言いつくしたものであり,年令と性にかかわりなくクリスチャンが生活の中に生み出してゆくべきものです。これは心また気持のよそおいであって,使徒パウロは次のように述べています。「あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身に着けなさい。互に忍びあい,もし互に責むべきことがあれば,ゆるし合いなさい……これらいっさいのものの上に,愛を加えなさい。愛は,すべてを完全に結ぶ帯である」。(コロサイ 3:12-14,新口)これは衣服を着るように簡単なことではありません。真のクリスチャンの円熟はつちかうものです。キリスト・イエスはここに述べられたような性質をことごとく備え,完全な手本を残されました。
16 クリスチャンは良い気質を持つだけで十分ですか。ほかに何が必要ですか。
16 この世の考え方に従えば,りっぱな生活をしてきた人,イエスの許に来た金持の若者のような人があるかも知れません。その若い金持は律法をことごとく守った人で,他の人々からは尊敬され,主イエス・キリストの愛をさえ受けていました。「イエスは彼に目をとめいつくしんで言われた,『あなたに足りないことが一つある。帰って,持っているものをみな売り払って,貧しい人々に施しなさい。そうすれば,天に宝を持つようになろう。そして,わたしに従ってきなさい』すると,彼はこの言葉を聞いて,顔を曇らせ,悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである」。(マルコ 10:21-23,新口)この若者には何が欠けていましたか。すべてを完全に結ぶ絆すなわち愛です。良い教えを聞いて信じているだけでは,律法を守っていたこの若者と同じです。それだけでエホバの恵みを得ることはできません。それ以上のことが必要です。この金持の若者の場合に欠けていたのは愛でした。この若者はイエス・キリストの追随者になる必要を悟りませんでした。
円熟を目ざして努めた結果
17 どんな道を追い求めるべきですか。何時も何に注意しなければなりませんか。どんな報いがありますか。
17 円熟するために努力し,常にこの事柄に心を用いるとき,私たちの目的,また励んでゆくわざは何ですか。全能の神に献身して真にその僕となった人は,言下に「宗教」ですと力強く答えるでしょう。この道はひたすらに追求してゆかねばならない道です。たとえ一時的にしろ左あるいは右にそれることはできません。目標を真直ぐ見つめて進んでゆかねばなりません。怠けたり,あるいは神への献身をいいかげんに考えることはできません。そのようなことはとうてい考えられないと,人は言うかも知れません。「私はぜったいに大丈夫だ」,と考える人もいます。本当のクリスチャンの資質を身につけるために長い時間をかけ,エホバ神のことばを何時も考えてきた人が円熟を失うことはあり得ないという考え方です。このように考えるよりも,使徒パウロと同じ考え方をするべきではありませんか。パウロは述べました,「わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている……目標を目ざして走り……上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」。『ひとたび救われたならば,救いは確実である』といった保証はないことを十分に理解しましょう。クリスチャンの生活を送って目ざすものを得るまで,ひたむきに前進しなければなりません。そのとき,神の油そそがれた残れる者すなわち小さな群れの人々は死ののち,天にある神の国において不滅性を得,「他の羊」はハルマゲドン後の地における生命を得ます。―ピリピ 3:13,14,新口。
18 アカンの例からどんな教訓を学びますか。
18 全く成長した人になることを目ざし,確信をもって進むとき,イスラエル民族の残した教訓に心を留めましょう。イスラエルはエホバと契約関係にある国民でした。この国民は神へ忠実と崇拝の道から時おり離れて,偶像崇拝と貪欲すなわち物質の欲にとらわれました。このように道を踏みはずした一人の人はアカンです。物質の欲にかられて貪欲の道に走ったアカンは,自分のものでない物を手に入れようとし,実際にそれをとりました。アカンは禁じられた物を盗んだのです。それは300シケルの銀と重さ50シケルの金の延べ棒でした。金銀に目のくらんだアカンは,それをひそかに天幕の中にかくしました。わずかの間それを手に入れただけで,アカンは何と大きなものを失ったのでしょう。その悪行は忠実なヨシュアの手であばかれ,アカンとその一族は石で打たれただけでなく,火で焼かれました。―ヨシュア 7:16-26。
19 エホバの制度内に地位を占めているだけで是認されますか。
19 かつて大きな知恵に恵まれ,エホバの宮を建てるというまれな特権を得たイスラエルの一人の王を,心に留めて下さい。このソロモンはエホバから数多くのすばらしい祝福を得ながら,利己的になり,エホバの真の崇拝から離れて異邦人の妻の神々に仕えることさえしました。このような行いは死に至るのみです。ソロモンはエホバから不利な裁きを受けました。ソロモンに将来の生命はありません。(列王上 11章)これは律法契約の下にいた人々だけのことでなく,初期クリスチャン会衆の時代にも同じことが起きました。
20 どんな誘惑から身を守らねばなりませんか。例をあげなさい。
20 初期クリスチャン会衆の時代,明らかに円熟したクリスチャンと思われた人々の中にも,他の事柄に心を奪われて脱落した人がいました。ヒメナオとピレトは真理から離れ,また真理にそむいて,復活はすでにすんでしまったと言い,ある人々の信仰をくつがえしていました。反逆の道をとった二人は会衆から排斥されました。(テモテ後 2:17-19)物質主義も巧妙に人の心をとらえます。パウロの同労者の一人もそのわなに陥りました。「デマスはこの世を愛し,わたしを捨てて……行った」。(テモテ後 4:10,新口)この世のものをいったん捨てながら,デマスは世から常に離れて全能の神に忠実な奉仕をささげることを喜ばなかったのです。
21 (イ)使徒の一人はどうなりましたか。(ロ)ペテロはこのような行いについて何を述べていますか。
21 反逆者のなかでおそらく最も代表的なのは,銀30枚でキリスト・イエスを裏切った不忠実な使徒です。(マタイ 26:15)イスカリオテのユダやそれに似た者の考え方には,円熟あるいは円熟に対する認識が全く見られません。世の汚れから逃れてのち世に逆戻りするこのような反逆の行いは,忌むべきものです。このような行いをするよりは,真理を知らなかったほうがましであると,言わねばなりません。そのことを銘記すべきです。ペテロはこう述べています,「義の道を心得ていながら,自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは,むしろ義の道を知らなかった方がよい。ことわざに,『犬は自分の吐いた物に帰り,豚は洗われてもまた,どろの中にころがって行く』とあるが,彼らの身に起ったことは,そのとおりである」。(ペテロ後 2:21,22,新口)道を踏みはずした人々は,非道の者の惑わしに誘われて自分の確信を失うことのないように,正確な知識を導きにして身を守ることを怠ったのです。―ペテロ後 3:17。
22 脱落は,初期クリスチャンだけにあったことですか。
22 真理から離れることは初期クリスチャン会衆の時代に限られていません。円熟するために着実な努力をしている人々は,そのことを知っています。現代においても,「悪い僕」の脱落が見られました。そのほかにも利己主義と反逆のため,あるいは迫害をいとうため,さらには姦淫,偶像崇拝など,この世の神サタンの巧妙な策略に陥って古い世に戻った人々が少なからずいます。―マタイ 24:48-51,新口。
23 (イ)健康を保つには良い食物がいるのと同じで,心を養うには何が必要ですか。(ロ)協会はどんなすすめの言葉を掲げていますか。
23 毎日の食物によってからだを養うのと同じく,心を養うには神のことばを毎日欠かさずに学ぶことが必要です。読むだけでなく,勉強が必要です。勉強するには,知識を得る目的で頭をよく使うことが必要になります。霊的な悟りを得るには,神のことばを学ぶことに努力を傾けなければなりません。ヨシュア記 1章8節にしるされている通り,律法を昼も夜も読み,しかも漫然とではなく一定の目的をもって読むことは,ひとつの要求でした。それは読む者が神のことばを導きにして正しく歩み,賢明な行いをするためでした。たしかに聖書を毎日,熱心に学ぶことは非常に大切です。ものみの塔聖書冊子協会の印刷工場(一部は8階,一部は9階。ブルックリンにあり,聖書および協会の聖書の手引の大部分を印刷している)の壁には,そばを通る人々に見える大きな文字で「神のことば聖書を毎日読みなさい」と書かれています。これは世界中の人々に対するすすめです。クリスチャンが聖書を毎日読むべきことは言うまでもありません。
24 (イ)「聖書を持っている」人々をも援助するために,協会はほかに何を作って用いますか。(ロ)真理を求めている人に会ったとき,ピリポはどのように円熟を示しましたか。
24 聖書の理解を助けるため,新世社会は長年のあいだ本,冊子,「ものみの塔」誌などの聖書の手引を印刷してきました。「私は聖書を持っている。それを読めばいい」と言う人が大ぜいあります。しかし世界には10億冊を超える聖書があるというのに,世の中の有様は何と歎かわしいのでしょう。この事からわかる通り,自分で聖書を読む以上のことがどうしても必要です。初期クリスチャン会衆時代の出来事がここで思い起されます。真理を求めていた一人の人はイザヤの巻物を読んでいました。それを聞いた神の奉仕者が近寄って,読んでいることがわかりますかと尋ねたところ,その人はこう答えました,「だれかが,手びきをしてくれなければ,どうしてわかりましょう」。ピリポはこの機会をとらえてイザヤの預言を説明し,理解を与えられたこの人はバプテスマを受けました。興味を抱いたこの人に納得のゆくように預言を説明したところに,ピリポの円熟がよく示されています。勉強したり,しらべたりする余裕がなくても,ピリポはすでに持っていた知識を巧みに用いました。これは円熟のしるしです。―使行 8:30-39,新口。
25 別の円熟した奉仕者は,新しい信者をどのように助けましたか。
25 後にパウロとなったタルソのサウロにとっても,円熟した宣教のわざを行なうようになる前,エホバの奉仕者に会って教を授けられることが必要でした。パウロはダマスコに連れてこられ,そこでアナニヤの助けを得て根本的な事柄を学びました。アナニヤは円熟した人であってこの機会を生かし,パウロに教えを授けました。―使行 9:17-19。
会衆と共に円熟に進む
26 円熟を保たせるため,エホバは何を備えて下さいましたか。
26 今日エホバの奉仕者の会衆は全世界に2万2000以上もあります。会衆は全能の神の備えられたものであり,すでに円熟の域に達した人々に円熟を保たせるほか,円熟を目ざして励んでいる人々を育てます。何事についても言えることですが,益を得ることは会衆のみならず,各人にも依存しています。
27,28 (イ)会衆の集会に出席することの重要さについて,どんなさとしがクリスチャンに与えられていますか。(ロ)新世社会はどんな集会を設けていますか。その目的は何ですか。
27 初期クリスチャンの時代,あの五旬節の日から信者たちに次の言葉が告げられました。「悔い改めなさい。そして……バプテスマを受けなさい」。そしてペテロは多くの言葉で教え,「一同はひたすら,使徒たちの教を守り,信徒の交わりをなし,共にパンをさき,祈をしていた」とあります。集まることの大切さがすぐに強調されました。ヘブル書を書いたパウロは次のさとしを加えました,「愛と善行とを励むように互に努め,ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか」。五旬節から25年余り過ぎた当時,ある人々は集まりを怠り,定期的に集まることによって維持される円熟を失っていたに違いありません。(使行 2:38,40,42。ヘブル 10:24,25,新口)このさとしが与えられてから1900年後の20世紀に住むクリスチャンについてはどうですか。集まることを怠っていますか。集まり合って霊的に生きつづけて行くというクリスチャンに対する要求を,なおざりにしていますか。
28 この点で新世社会は十分のものを備えています。そこで問題はこうです。私たちは全部の集会に出席していますか。毎週次の集会が開かれます。まず「ものみの塔」研究は,神のことばを信ずる人々のために協会の準備する最大の助けです。それから奉仕者が宣教のための実際的な訓練を受ける奉仕会,また話し方,聖書の話を準備して教える方法が教えられる神権宣教学校,協会の出版したおもな聖書の手引のひとつを学ぶ書籍研究があります。日曜日の公開集会は,時宜にかなう問題をとりあげての講演会です。
29 (イ)献身は必要なことのすべてですか。(ロ)会衆とその集会は,クリスチャンにとってどんな価値がありますか。
29 残念なことですが,献身してバプテスマを受けたならば,あとは何もしなくてもよいと考えた人がいます。定期的に集会に出席する必要はないと考えていますか。それはクリスチャンにとって会衆が命の綱であるという事を十分に認めていないしるしではありませんか。このような未熟な態度をとるかわりに,どうすれば全部の集会に出席できるかを自問すべきです。たしかに会衆は,各人が円熟に進むためにエホバの設けられたご準備です。各1時間毎週五つの集会に出席することが,まずもって如何に大切かを考えてごらんなさい。集会によってクリスチャン奉仕者は全能の神との関係を常に心に覚え,預言の最新の成就を知り,定期的に参加すべき宣教に目ざめていることができます。たしかに集会に出席する度に円熟への歩みをすすめることになり,兄弟の霊的な成長を助けることにもなります。
祈り
30 (イ)どんな個人的な特権は円熟を助けますか。(ロ)それは円熟に進むことをどのように助けますか。
30 神に語る機会は毎日あります。私たちは祈りによって常に神と交わることができます。偉大な永遠の王エホバに祈りによって近づくとき,祈りのことばは正しい尊崇の気持をこめたものでなければなりません。「常に祈りなさい」とパウロは述べました。神とのこの交わりにおいて,私たちは自分のことだけでなく,他の人々のことも考えます。「わたしの祈りのたびごとにあなたがたを覚えて……いる」と言ったパウロの言葉は,その事を示しています。パウロは次のことを願っていました,「どうか,わたしたちの主イエス・キリストの神,栄光の父が,知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ,あなたがたの心の目を明らかにして下さるように,そして,あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか(を)……あなたがたが知るに至るように,と祈っている」。ここでも正確な知識を得ることと知恵の霊とが結びつけられています。それで神がみことばを通して私たちに語るとき,その言葉に聞き,細心の注意を払うことは,きわめて緊急なことです。エホバの許しまたすすめによって私たちがエホバに祈れることを,感謝すべきではありませんか。祈りもまた円熟にむかって進むための道です。そのことに間違いはありません。―ロマ 12:12。エペソ1:16-18。
監督の職,円熟するとき与えられる賜物
31 円熟した奉仕者には,報いとしてどんな奉仕の特権が加えられますか。
31 人が知識を得て献身し,エホバの制度と密接に交わり,円熟にむかって進歩しつづけるとき,いっそう大きな特権を得ます。もちろん何事をするにも,人に見られるためではなくエホバに対してするように真心をこめてしなければなりません。(コロサイ 3:23)会衆内における監督の地位は円熟に励むことをすすめるために与えられるものではありません。それは,円熟した人そして神の力ある御手の下に自分を低くし,謙遜な心ですすんで仕える人に与えられる報いです。(ペテロ前 5:2,5,6)「全き人」になることを目ざして励みつづけるクリスチャンの奉仕者は,個人の家に集まる小人数のクリスチャンを教える奉仕者として任命されるかも知れません。これは戸別伝道,家庭聖書研究の司会,何回も訪問を重ねて人々に御国の音信を教えるわざに新しい奉仕者を援助し,訓練するすばらしい機会です。やがて会衆内の補佐の僕に任命されるかも知れません。そして遂に監督すなわち会衆を代表する奉仕者になることもあるでしょう。監督となるとき,常にエホバに頼り,羊のような人々の会衆はエホバの会衆であることを認識して,監督の職にともなうすべての責任をはたします。
32,33 (イ)円熟した奉仕者にはどんな特別な機会が開かれるかも知れませんか。(ロ)これらの奉仕に選ばれる資格を得るのに,何が役立ちますか。
32 このほかにも全時間宣教に携わる機会,「必要の大きな処」に行き,多くの場合に困難な事情の下で神の他の羊を助けて奉仕する機会があります。あるいは幾つもの会衆を巡回する監督また地域の監督として奉仕することになるかも知れません。これらの宣教奉仕の特権のほか,外国に行って伝道する宣教者,あるいはベテルのメンバーとなる機会もあります。ベテルは世界各国にあって伝道のわざを監督する事務所です。
33 これは円熟をつちかい,円熟を身につける進歩の道行きと言えるかも知れません。それは安易な道,努力のいらない道ではなく,また奇跡的に達成されるものでもありません。それは常に心を用い,学び,考え,行ない,伝道し,御霊の実を表わし,他の人に愛を示すことの結果です。それは無私の気持で常に与えることを意味します。円熟するにつれて,人は他の人の荷を負うようにもなります。それはクリスチャンの責任であり,愛の表われです。―ガラテヤ 6:2。
34 パウロはどのように円熟を示しましたか。
34 たしかにクリスチャンの円熟にはすばらしい祝福がともないます。私がキリストにならう者であるように私にならいなさいと他の人々にすすめるまでに進歩したパウロは,この事を示しました。たしかに,パウロは信仰において全く成長した人でした。パウロはその生涯の終りに近づいたとき,確信をもって次のように述べました,「わたしは,すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき,走るべき行程を走りつくし,信仰を守りとおした。今や,義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には,公平な審判者である主が,それを授けて下さるであろう。わたしばかりでなく,主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」。―テモテ後 4:6-8,新口。コリント前 11:1。
35 新世社会内で円熟を目ざして励むことを,どのように見るべきですか。
35 円熟はすべてのクリスチャンの目標でなければなりません。円熟は宣教における最高の満足と喜びをもたらします。最大の喜びは他の人々との親しい関係またエホバとの親密な関係を認識することから生まれるからです。円熟するとき,私たちはエホバの祝福を常に意識するようになります。それでエホバの新世社会内で「全き人」に成長しようと努めてゆくとき,その進歩を何物にも妨げられてはなりません。円熟を得る私たちの目的が,エホバをほめ,行いと手本によって偉大な主権者のみをほめることでありますように。そうするとき他の人々は従うべき良い手本を見ることになります。ピリピ人に宛てたパウロの言葉はそのことをよく言い表わしています,「だから,わたしたちの中で全き人たちは,そのように考えるべきである。しかし,あなたがたが違った考えを持っているなら,神はそのことも示して下さるであろう。ただ,わたしたちは,達し得たところに従って進むべきである」。―ピリピ 3:15,16,新口。