7章
千年間仕える審判者たちに期待できる事がら
1 ヨハネが見た数々の王座に座した者たちには何が与えられましたか。
ほとんど信じがたい驚嘆すべき事がらが間もなくもたらされる千年の期間に関して自分が先見したことを述べた,霊感を受けた使徒ヨハネはこう記しました。「またわたしは,数々の座を見た。それに座している者たちがおり,裁きをする力が彼らに与えられた」― 啓示 20:4。
2 ここで持ち出されている「裁き」のことを考えると,さもなければ明るい光景から,明るさが奪われがちなのはなぜですか。
2 それは裁きを行なう権限を与えられた者たちの占める「座」でした! それは希望に満ちた,慰めを与える光景ですか。それとも,さもなければ,きたるべき千年期の中の千年期に関する明るい描写に陰うつな影を投げかけるものですか。使徒ヨハネ自身はそうした光景をどう考えましたか。わたしたちは今日それをどう見るべきでしょうか。今日,わたしたちはキリスト教世界で行なわれている司法制度に対してさえ,ひどく失望しているのではありませんか。司法官の資格を持ち,「神々」のようでありながら,自らの職責に対して不誠実になる人びとに関する預言である詩篇 82篇5節のことばは,今日,かつてないほど適中しています。『かれらは知ることなく悟ることなくして暗き中をゆきめぐりぬ 地のもろもろの基はうごきたり』。ローマ・カトリックのエルサレム聖書はこの聖句をこう訳しています。「彼らは無知で,無分別で,盲目的に振る舞い,地的な社会の基そのものをむしばんでいる」。
3,4 (イ)しかし,そのすぐ前にヨハネが見た事がらから考えれば,それらの座に関する情景はどんな気持ちをいだかせるものですか。(ロ)不当な裁きを受けてきた人類が,それら「数々の座」に救済を期待するのは,なぜ適切なことですか。
3 今日,人類は確かに,気持ちを和らげるものを欲しています! そして幸いにも,使徒ヨハネがそれら裁きの「座」に関して見たのは,暗たんたる不安の念を引き起こすものではなくて,わたしたちの気持ちを大いに和らげるものでした。ここで,ヨハネが預言的な幻の中で,天の王の王と,「地の王たち」とその「軍勢」および世界的な政治機構との間の戦いを予見したことを思い起こしてみましょう。それらの王たちとその地上の支持者たちは敗北を喫し,滅ぼされました。その結果,王座つまり政治支配者が裁きを行なう権威の座は空席となりました。その後直ちに,使徒ヨハネは,神の使いが地の近辺に下ってきて,悪魔サタンとその悪霊たちを鎖で縛り,彼らを底知れぬ所に投げ込んで,そこに神の封印を施し,そのもとに彼らを千年間幽閉するのを見ました。―啓示 19:11から20:3まで。
4 悪魔の支配する事物の体制のそうした滅びは確かに,人間を裁く裁判官の地位の変化を求めるものとなりました。人類に対する天的な監督権が,「忠実かつ真実と称えられ……義をもって裁きまた戦(って)」勝利を収めた,王の王の手にすでに渡されたのですから,特にそうです。(啓示 19:11-16)次いで,物事の当然の成り行きからすれば,新たな裁きの座が生じます。神の権威によって天に確立されるそれら新たな裁きの座を占める者と予想できるのは,より優れた一団の審判者にほかなりません。その後,不当な支配や,不当な裁きを受けてきた人類は司法上の不正からの救済を期待できるでしょう。
5,6 裏切られる前に,イエスが11人の忠実な使徒たちに述べたことばによれば,それら「数々の座」を占める審判者とはだれですか。
5 人類の上に立つその新たな一群の審判者とはだれのことですか。そうした審判者になる見込みのある人たちを代表した一群の者たちに対するイエス・キリストの言葉は,だれがその天的な審判者の一群に属しているかを示しています。
6 裏切られて捕えられ,エルサレムの最高法廷で不当な審理を受けた夜,イエスは忠実を保っていた使徒たちにこう言われました。「あなたがたはわたしの試練の間わたしに堅くつき従ってきた者たちです。それでわたしは,ちょうどわたしの父がわたしと契約を結ばれたように,あなたがたと王国のための契約を結び,あなたがたがわたしの王国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし,また座に着いてイスラエルの十二部族を裁くようにします」。(ルカ 22:28-30)それら忠実な使徒たちは,イエス・キリストによって天の王国のための契約に入れられて裁きの座につく14万4,000人のうちの主要な人たちでした。(マタイ 19:27,28)もちろん,それら14万4,000人の仲間の審判者の上に立つのは,主宰審判者イエス・キリストです。
7 アテネのアレオパゴス法廷で述べたパウロのことばによれば,人の住む地は神の定められた時にどのように裁かれますか。
7 ここで思い出されるのは,西暦51年ごろアテネのアレオパゴス法廷に出頭させられた使徒パウロの語った言葉です。「他の人たち以上に神々への恐れの念を厚くいだいて」いるように見えた同法廷の裁判官に自分の立場を説明したパウロは,最後にこう言いました。「たしかに,神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます。なぜなら,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」。(使徒 17:22-31)それで,人の住む地は「義をもって」裁かれますし,神が裁きを行なうさいに用いられる主要な者は,復活させられたそのみ子イエス・キリストです。
8,9 (イ)この任命された審判者はどのようにして,人間の裁判官が行なえなかったような仕方で人類を裁くことができるのでしょうか。(ロ)ヨハネ 5章27-30節に記されているイエスの言葉によれば,イエスはどのようにして,すべての人が必ず裁きを受けられるように取り計らわれますか。
8 仲間の宣教者テモテに最後の手紙を書き送った使徒パウロは,裁きを行なうべく任命された方を名指してこう言いました。「神のみまえ,また生きている者と死んだ者とを裁くように定められているキリスト・イエスのみまえにあって,またその顕現と王国とによって厳粛に命じます」。(テモテ第二 4:1)神により任命されたこの審判者は,地上の人間の裁判官がかつて行なわなかった,あるいは行なえなかったような仕方で司法官として行動します。彼は単に生きた人間だけでなく,それ以外の者をも,つまり死んだ人間をも裁きます。人間によって任命された,単なる人間の裁判官は死者を呼び戻して裁くことはできません。しかし,神により任命されたその審判者は,そうすることができます。そして,それら死人はそうした裁きを受けるには死者の中から連れ戻されねばならないにしても,一千年の期間のその裁きにあずかります。「生きている者」はもとより,それら死者には,キリストの犠牲の死によってそうした裁きにあずかる権利があるのです。イエスの次の言葉に注目してください。
9 「父が死人をよみがえらせて生かされるのと同じように,子もまた自分の欲する者を生かす(の)です。父はだれひとり裁かず,裁くことをすべて子にゆだねておられるのです。それは,すべての者が,父を尊ぶと同じように子をも尊ぶためです。子を尊ばない者は,それを遣わされた父を尊んでいません。そして,裁きを行なう権威を彼にお与えになりました。彼が,人の子であるからです。このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことをならわしにした者は裁きの復活へと出て来るのです。わたしは,自分からは何一つ行なえません。自分が[父から]聞くとおりに裁くのです。そして,わたしが行なう裁きは義にかなっています。わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わしたかたのご意志を追い求めるからです」― ヨハネ 5:21-23,27-30。
10 (イ)そのような裁きを行なうために,その審判者は死人を何から解放しますか。(ロ)どんな行為がそうした解放をもたらしますか。それで,復活の目的に関してどんな疑問が生じますか。
10 考えてみてください! 地上では人の子として知られていたこの審判者は,記念の墓のそれらすべての死人を解放することによって,一千年にわたる審判者としてのご自分の務めを飾るのです。一千年にわたる裁きの日は,記念の墓にいる者すべての復活の日となります。人の子はそれらの人びとのために完全な人間の犠牲として死なれたのです。それは,「第一の復活」つまり天的復活にあずかる14万4,000人の共同の審判者以外の買い戻された人類のすべてを意味しています。(啓示 20:4-6)さて,葬られた死者を解放するこの愛ある行為,つまりこの地的復活は,復活させられる人たちを害する目的で行なわれるものと考えるべきでしょうか。愛ある行為は,その行為の対象となる人に害をもたらすためになされるものでしょうか。わたしたちが言いたいのは次の点です。つまり,この復活は義とみなされる人たちだけでなく,比較的にいって「不義」者と呼ばれる人びとのためにも行なわれるのです。「義者と不義者との復活がある」のです。(使徒 24:15)義者については心配がいりませんが,不義者についてはどうですか。
11 (イ)「不義者」を復活させる目的に関してはどんな疑問が生じますか。(ロ)イエスに好意を示して死んだ悪行者の例は,この問題とどのような関係を持っていますか。
11 「不義者」はいかめしい過酷な審判者に面と向かって,自分たちの過去の不義の行ないすべてを再び詳しく聞かされ,そのようにして,完全な滅びの宣告を受ける理由を聞かされる,ただそれだけのために過分の親切を示されて復活させられるのでしょうか。もしそれが彼らの場合の目的だとすれば,それら「不義者」にとって復活にはどんな実際的価値があるのでしょうか。それは,カルバリでイエス・キリストの傍らの刑柱に掛けられながら,イエスに向かって,「イエスよ,あなたがご自分の王国にはいられる時,わたしのことを思い出してください」と語った,あの一方の「悪行者」のような不義者を復活させる目的ですか。彼はイエスに向かってそうした好意的な言葉を述べたからといって,悪行者から聖人に変わったわけではありません。イエスはその悪行者に慰めを与える返事をしましたが,だからといって,復活させられたイエスがご自分の人間としての犠牲の価値を捧げるために天のみ父のみ前に昇った時よりも42日も前に,すでにその悪行者が信仰によって義と認められ,あるいは義とされたわけではありません。(ルカ 23:39-43)その男の人は罪に定められた悪行者として依然死んだままであり,よみがえらされることになっている「不義者」のひとりとして数えられねばなりません。
キリスト教時代以前の審判者たち
12 「不義者」はもとより,「義者」は,復活によって記念の墓から解放される以上のことを必要としています。なぜですか。
12 「義者」と呼ばれる人たちはもとより,「不義者」と呼ばれる人たちにとって,死人の復活は何を意味していますか。そのすべては,不従順なアダムとエバから罪とその刑罰である死を受け継いだゆえに死にました。ですから,彼らはみな,自らは何ら義にかなったものを持たずに死にました。(ローマ 5:12; 3:23)それで,彼らが個人的な性格の点では変わらずに,復活によって戻って来るとき,「義者」でさえ,人間としては完全ではありません。つまり,不完全さや罪深い状態から解放されてはいません。このことは,預言者エリヤやエリシャ,また主イエス・キリストやその使徒たちが復活させ,地上で生きかえらせた人たちにも当てはまります。(ヘブライ 11:35)このことからすれば,「不義者」と全く同様,「義者」も,死人の中から復活させられて記念の墓から解放される以上の事を必要としていることがわかります。「義者」もまた罪深い状態と人間としての不完全さから解放される必要があります。したがって,天の審判者イエス・キリストは,彼らがほんとうに潔白で,完全で,罰すべき罪深いところのない者であると直ちに宣言し,また彼らは地上で永遠の命を受けるにふさわしい者であるとの判決を,その復活当日に下せるわけではありません。
13 (イ)神はなぜ,人類の審判者となるイエス・キリストのために千年の期間を指定されたのですか。(ロ)神の千年期の審判者に期待すべき事がらに関して,「士師記」は何を示していますか。
13 もし審判者の責務が,復活させられた「義者」と「不義者」が審判者の前に現われる日に判決を下すことだけに限られているとすれば,人類のための審判者として仕える者になぜ千年の期間が指定されているのでしょうか。それほどの長い期間は,なすべき仕事のためにこそ指定されるものであって,単に評決や宣告を発表するためだけに指定されるものではありません。聖書の中では,神がキリスト教時代以前のご自分の選民のための審判者として起こした人びとは,単に個人間の争いを解決したり,裁判判決を下してそれを執行したりする以上のことを行ないました。神の立てられたそれら「士師」は,神の選民の救出者でした。聖書中には,特に「士師記」と呼ばれる書がありますが,それはたいへん感動的な記録の書です。そこには,『天下を裁く者』であられる神が虐げられたご自分の民を救い出すために起こした人びとの果敢な偉業が記されています。では,神が苦しめられているご自分の民のための裁きを執行させるべく審判者を起こされた時に始まった裁きの日を歓呼して迎えてください!
14 士師であったエホデやバラクについて読んで知っていることを簡単に述べなさい。
14 単身で赴き,異常に肥えたモアブ人の王エグロンをその会議室内で殺し,次いで逃れてイスラエル人を組織し,やがてモアブ人の圧制者たちに対する勝利を得させることにより,士師として勤め始めたエホデのことを,わたしたちは読んで知っています。車輪に鉄の鎌を取りつけた戦車900両を備えて自分の軍隊を恐るべきものにしたカナンの王ヤビンの強力な軍勢を打ち破ることによって,イスラエル国民の士師として自分が選ばれたことを証明したバラクのことも,わたしたちは読んで知っています。
15 同様に,ギデオンやエフタについてはどんなことを読んで知っていますか。
15 次いで,神に対する信仰を持つ,わずか300人の男子を率いて,おびただしいいなごのようにイスラエルの地に殺到したミデアン人や東方の民を敗走させた,謙虚な人,ギデオンがいます。真夜中のこと,寝静まった敵の陣営をほとんど包囲したギデオンとその300人の兵は,手にしたつぼを一斉に地面に投げつけて砕き,たいまつを高々と掲げ,ラッパを吹き鳴らし,「エホバの剣 ギデオンの剣」と叫びました。敵の陣営は突如混乱し,恐慌状態に陥り,人びとは逃走し,また互いに殺し合いました。そして,ギデオンとその300人の兵は,生き残った者たちを追跡しました。その後,多くの年月が経ち,約束の地がまたもや危機に見舞われたとき,エホバは家を追い出されたエフタを起こして,横柄なアンモン人に立ち向かわせました。神のために尽くそうとするエフタの熱心は非常に熱烈なものだったので,もし勝利が与えられたなら,わが家に戻った時,何であれ最初に自分を迎え出たものを犠牲として神にささげる旨,自ら誓いを立てました。勝利を得て意気揚々と帰って来た彼を最初に出迎えたのはその独り子,つまり彼の娘でしたが,エフタはその娘を神への奉仕にささげて,神への献身のほどを示しました。
16,17 (イ)サムソンはイスラエルの士師としてどのように仕えましたか。(ロ)霊感を受けた筆者は士師についてヘブライ 11章32-34節で何と述べていますか。
16 それにしても,二親に対して誕生が予告され,また肉体的にいって,かつて地上に現われた最も強い人間となったサムソンの話を聞いたことのない人がいるでしょうか。彼は終始独りで自分の民を圧制的なペリシテ人から救い出しましたが,ペリシテ人に捕えられて盲目にされた彼は最期の日に,ペリシテのガザにあるダゴンの神殿を三千人余の祝い客の上に倒壊させ,そのようにして彼はそれまでの生涯中に殺した以上の多くのペリシテ人を,自ら死を遂げたその日に殺しました。
17 霊感を受けたクリスチャンの筆者は,神に対する信仰を抱いて勝利を得た人たちの中にそれら士師を含めて,ヘブライ 11章32-34節でこう述べています。「そして,このうえ何を言いましょうか。さらにギデオン,バラク,サムソン,エフタ,ダビデ,またサムエルやほかの預言者たちについて語ってゆくなら,時間が足りなくなるでしょう。彼らは信仰により,王国を闘いで打ち破り,義を成し遂げ,約束を得,ししの口をふさぎ,火の勢いをくい止め,剣の刃を逃れ,弱かったのに強力な者とされ,戦いにおいて勇敢な者となり,異国の軍勢を敗走させました」。
18,19 (イ)約束の地に定住した後,イスラエル民族に臨んだ苦悩に関しては,だれにその責任がありましたか。(ロ)なぜ彼らのために次々に士師を起こさねばなりませんでしたか。
18 もちろん,それら士師の時代にイスラエル民族が敵の手によって苦しめられたことに対しては自分たちに責任がありました。なぜなら,彼らは生ける神エホバの清い崇拝から逸脱したからです。しかし,彼らが誠実に悔い改めてエホバの崇拝に戻ったとき,エホバは彼らに恵みを示されました。士師 2章16-19節に述べられているとおりです。
19 『エホバ士師を立てたまいたれば かれらこれを掠むるものの手よりすくい出したり 然るにかれらその士師にもしたがはず反りてほかの神を慕いてこれと淫をおこない これにひざまずき 先祖がエホバの命令に従いて歩みたるところの道を頓に離れ去りてそのごとくには行なはざりき かれらのためにエホバ士師を立てたまいし時にあたりては エホバつねにその士師とともにいまし その士師の世にある間はエホバかれらを敵の手よりすくい出したまえり こはかれらおのれを虐げくるしむるものありしを呻きかなしめるによりてエホバこれを哀れみたまいたればなり されどその士師の死にしのち またそむきて先祖よりもはなはだしく邪曲を行ない ほかの神にしたがいてこれに仕え これにひざまずきておのれの行為をやめず その頑固なる路を離れざりき』。
天の不滅の審判者たち
20 (イ)人類は一千年の期間中,かつてのイスラエルの士師の時代のように,再三取り残されることはありません。なぜですか。(ロ)患難を生き残る「大群衆」でさえ,さらに救い出される必要があるのはなぜですか。
20 しかし,その同じエホバ神が審判者として起こしたイエス・キリストとその14万4,000人の仲間の司法官は,たとえ悪魔サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられて地の近辺から除かれても,次々に死んで地上の住民だけを残すということはありません。「滅びることのない命の力」を持っているので,彼らはすべて,司法官としての千年の任期いっぱい続けて奉仕します。彼らは単に王座に座して判決や裁定を下すだけでなく,昔エホバの是認を得た忠実な士師が行なったのと同様,救出者として行動します。神の保護を受けて「大患難」を生き残り,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられた後も生き続ける「生きている者」たちでさえ,さらに救い出されることをなお必要としているのです。それらの人びとは神のみ前における義の立場ゆえに,地上で守られて一千年の裁きの日に生きて入りますが,彼らの場合,自分たちが救い出される必要のある事がらがほかにもまだあります。それは何ですか。それはこの事物の体制が滅ぼされ,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に投げ込まれるさい,彼らがずっと守られながら,同時に,携えてきた罪深い状態,不完全さ,弱さ,また死に赴く状態などです。
21,22 (イ)死んだ人間は復活させられるとき,さらに救い出される必要があります。なぜですか。(ロ)ヨブやダビデのように,ある人びとは復活させられるとき,どんな理由で「義」とみなされますか。
21 同様に,記念の墓から生き返らされる必要のある「死んだ者」の場合も,死の眠りから覚めるとき,「義」あるいは「不義」の者とみなされるかどうかにはかかわりなく,彼らはすべて,罪深い状態,欠点,欠陥のある状態,人間的弱さ,死に向かう傾向などから解放されねばなりません。だれかが「義」とみなされるからといって,人間的また倫理的見地から見て当人が完全な肉身の人間だという意味ではありません。とはいえ,神の目に義とされるということは,そのような人はウヅの地の辛抱強いヨブがそうであったように,神に対して忠誠を保つ男女であるという意味です。(ヨブ 2:3,9; 27:5。ヤコブ 5:11。エゼキエル 14:14,20)または,神によって裁かれることを恐れなかったエルサレムのダビデ王にも似ています。詩篇 26篇1-3,11節(新)でダビデはこう述べているからです。
22 「エホバよ,わたしを裁いてください。わたしは自分の忠誠のうちに歩み,またわたしはよろめかないように,エホバに信頼してきたからです。エホバよ,わたしを調べ,わたしを試してください。わたしの腎とわたしの心を精練してください。あなたの愛ある親切はわたしの目の前にあり,わたしはあなたの真理のうちを歩んできたからです。しかし,わたしは,忠誠のうちに歩みます。どうかわたしを買い戻し,わたしに恵みを示してください」。
23,24 (イ)キリスト教時代以前に忠誠を保ったそれらの人びとはどんな復活のために,不敬虔な者たちとの取引きを拒みましたか。(ロ)それらの人たちについてヘブライ 11章35-40節は何と述べていますか。
23 不敬虔な者たちとの何らかの取引き,もしくは妥協によってエホバ神に不忠節になることを拒み,忠誠をつくして死んだキリスト教時代以前の他の人びとは,キリスト教に帰依したヘブライ人に書き送られた書の11章にその名を挙げられたり,言及されたりしている男女です。彼らはより良い地上の状態のもとで,つまりより良い政府のもとで命に復活させられることを待ち望みました。その政府のもとで,彼らは完全な平和と幸福と,生ける神への忠誠のうちに永遠に生きられるのです。ヘブライ 11章35-40節にはそのことがこう述べられています。
24 「女たちはその死者を復活によって再び受けました。またほかの人びとは,何かの贖いによる釈放を受け入れようとはしなかったので拷問にかけられました。彼らはさらに勝った復活を得ようとしたのです。そうです,ほかの人びとはあざけりやむち打ち,いえ,それだけでなく,なわめや獄によっても試練を受けました。彼らは石打ちにされ,試練に遭わされ,のこぎりで切り裂かれ,剣による殺りくに遭って死に,羊の皮ややぎの皮をまとって行きめぐり,また窮乏にあり,患難に遭い,虐待のもとにありました。世は彼らに値しなかったのです。彼らは砂ばくや山々,またほら穴や地のどうくつをさまよいました。しかしなお,これらの人びとはみな,その信仰によって証しされながらも,約束の成就にあずかりませんでした。神はわたしたちのためにさらに勝ったものを予見し,わたしたちを別にして彼らが完全にされることのないようにされたからです」。
25,26 (イ)それらの「義者」は復活させられるとき,なぜ裁きの日を恐れませんか。(ロ)それらの「不義者」は復活させられるとき,「義者」と比べて,どうして不利な条件のもとにありますか。
25 それらの「義者」は人間として完全で,行ないの点で欠点のない者としてよみがえらされはしないにしても,神への忠誠のうちに死んだので,神に忠誠な者としてよみがえらされるでしょう。彼らは復活によって招じ入れられた千年間の偉大な裁きの日を恐れはしません。彼らは死ぬ以前に忠誠を培い,またそれを備えてよみがえらされるのですから,罪深い状態から完全に解放されて人間としての現実の完全な状態に向かって進歩する点では「不義者」よりも有利な立場にあります。いわば,その方向では「不義者」を少し引き離していることになります。
26 そういう趣旨のことがこう記されています。「資力に乏しくても,忠誠のうちに歩んでいる者は,くちびるのひねくれた者,また愚かな者よりも勝っている」。また,「義人は忠誠のうちに歩んでいる。彼ののちの子たちは幸いである」。(箴言 19:1; 20:7,新)一方,死に至るまで罪深い性向や悪い習慣また悪い欲望を培った「不義者」にとって事態はもっと難しいものとなります。そうした事がらは,楽園のような地上で罪のない人間としての完全性を備えた永遠の命を獲得する競走において,彼らの歩みを妨げる障害,不利な条件,煩わしいものとなります。また,それら「不義者」の多くはこの世で,手近にあった霊的な機会や備えを利用するどころか,それを無視し,蔑視し,軽べつし,あるいはそれに反対しました。そのようなわけで,彼らは主人に対して感謝の念に欠けた,がん固な性向をいだいています。したがって,それは彼らにとっては災いとなります。イエス・キリストは悔い改めようとしなかったコラジンやベツサイダまたカペルナウムなどの都市に向かって次のように告げて,その種の事例を挙げました。
27 イエスはコラジンやベツサイダまたカペルナウムなどを引合いに出して,前述のことをどのように例証しましたか。
27 「コラジンよ,あなたには災いが来ます! ベツサイダよ,あなたには災いが来ます! あなたがたの中でなされた強力な業がティルスやシドンでなされていたなら,彼らは粗布と灰の中でずっと以前に悔い改めていたからです。したがって,あなたがたに言いますが,裁きの日には,あなたがたよりティルスやシドンのほうが耐えやすいでしょう。そしてカペルナウムよ,あなたが天に高められるようなことがあるでしょうか。下ってハデスに至るのです。あなたの中でなされた強力な業がソドムでなされていたなら,ソドムはきょうこの日に至るまで残っていたからです。それであなたがたに言いますが,裁きの日には,あなたよりソドムの地のほうが耐えやすいでしょう」― マタイ 11:20-24。
28,29 (イ)古代のニネベの人びとや南の女王はなぜイエスの当時のユダヤ人の世代を罪に定めるのでしょうか。(ロ)裁きの日には,いま有利な立場にある人びとと宗教的に不利な立場にある人びととの場合のように,物事はどのように釣合いが取られることになりますか。
28 俗事にかかわり,目に見えるしるしを自分たちの信仰の基礎にしようとして神との関係を不純なものにしていたユダヤ人の世代に対して,イエスはこう言いました。「ニネベの人びとは裁きのさいにこの世代とともに立ち上がり,この世代を罪に定めるでしょう。彼らはヨナの宣べ伝えることを聞いて悔い改めたからですが,見よ,ヨナ以上のものがここにいるのです。南の女王は裁きのさいにこの世代とともによみがえらされ,この世代を罪に定めるでしょう。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからですが,見よ,ソロモン以上のものがここにいるのです」― マタイ 12:38-42。
29 大勢の独善的宗教家,つまり自分たちは自らが異教徒と呼んだ者たちよりももっと義にかなっていると自負した,自己満足,自己陶酔に陥った因襲的な宗教家は,その時どんなにか驚かされるでしょう。彼らは自分たちこそ宗教的偽善者であって,自分たちの見下げていた異教徒のほうがより誠実で,もっとよく教えを聞き入れ,感謝の念がもっと厚く,無知ゆえに非難される所がもっと少ないことに気づくでしょう。宗教的にあまり恵まれていなかった人びとの誠実さや態度はその時,自分たちの機会を無関心な態度で,あるいは故意になおざりにした,特権に恵まれた人たちを罪に定めるものとなります。それで,現代の有利な立場にある人びとと不利な立場にある人との場合のように,物事は正しく釣合いを取ることになります。
裁きの日の利点
30,31 (イ)裁きの日には,すべての人の前に彼らの以前の状態を列挙して,彼らが有罪か,無罪かを確かめる必要がありますか。(ロ)律法下のユダヤ人を引合いに出すことによって,全人類に関して何が証明されましたか。
30 「差別はない(の)です。というのは,すべての者は罪を犯しているので神の栄光に達しないからで(す)」と述べたローマ 3章22,23節のことばの真実性は,否定できるものではありません。したがって,裁きの日にはすべての人,つまり「生きている者と死んだ者」はみな,エホバ神が起こされる天の審判者たちの助けによって,裁きの日に招じ入れられるさいに身にまとっている罪や,道徳面の弱さ,また身体的不完全さなどの痕跡すべてから救い出されることを緊急に必要としています。ローマ 3章23節その他の聖句の中で包括的に述べられているとおり,証拠および証言はすべて人類にとって不利なものですから,裁きを受ける人類の前にそれを列挙して,彼らが有罪か,無罪かを確かめる必要はありません。神がモーセを通して与えた律法を生来のユダヤ人が守れなかったことによって,人類はだれも,恵みを受けたユダヤ人でさえも神の律法を完全に守れるものではないことが証明されました。こうして,律法のもとにあったユダヤ人のこの現実的実例により,自己弁護をする人の口はことごとく閉ざされ,人類の世は神の前にすべてが有罪とされました。それは使徒パウロが昔次のように記したとおりです。
31 「さて,わたしたちは,律法の述べる事がらはみな,律法のもとにある者たちに対して語られていることを知っています。それは,すべての口がふさがれて,全世界が神の処罰に服するためです」― ローマ 3:19。
32 (イ)人類は裁きの日に「二度目のチャンス」を持つかどうかについては,何というべきですか。(ロ)では,彼らが楽園の地で生き続けられるかどうかは,だれに依存していますか。なぜですか。
32 人類は罪深いものとして生まれ,死に定められたので,一度も「チャンス」に恵まれませんでした。完全な義のわざを行ない,罪深い状態を自力で除き去って,絶対的完全の神の前で身のあかしを立てることは決してできませんでした。それで,裁きの日は,いわゆる「二度目のチャンス」を与えるものではありません。むしろ,それは,地上の楽園で人間的完全さと絶対的潔白さを伴う永遠の命を得る最初の現実の機会を人類に与えるものとなります。キリストの完全な人間の犠牲は,人類が罪から清められ,今はまだ受けられない神の全き「栄光」にまで高められる機会を備えるものですが,裁きの日はそのような機会を人類に供するものです。このことからすれば,楽園の地を永久に所有するかどうかは,裁きの日に「生きている者と死んだ者」とが何を行なうかにかかっていることがわかります。彼らの過去の記録はすでに作られたものなので,彼ら自身に善し悪しいずれの影響を及ぼすにせよ,取り消せるものではありません。裁きの日は,人類が罪との関係を今後永久に断ち,自分たちの誠実な心の願うところを行ない,成し遂げる者であることを人類に実証させる時となります。天の審判者たちはその職務につき,教えや指導を与えて彼らを助けます。
33 裁きの日のそのような機会は,啓示 20章11-15節に象徴的なことばでどのように描写されていますか。
33 裁きの日のそうした機会は,啓示 20章11-15節に次のような象徴的な言葉でわたしたちのために描写されています。「またわたしは,大きな白い座とそれに座しておられるかたとを見た。そのかたの前から地と天が逃げ去り,それらのための場所は見いだされなかった。そしてわたしは,死んだ者たちが,大いなる者も小なる者も,その座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事がらにより,その行ないにしたがって裁かれた。そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた。そして,死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」。
34 (イ)その箇所で描かれている復活には,「第一の復活」にあずかる人たちが含まれていますか。(ロ)その時に開かれる「数々の巻き物」には,何に関する記録は収められてはいませんか。なぜですか。
34 この象徴的な光景は,「第一の復活」にあずかる者たち,また啓示 20章4-6節で「第二の死」に陥る恐れのない者として既に言及されている者たちとは無関係です。この光景は,復活にあずかって地上で生存する人たち,また千年の終わりになって初めて永遠の命に値する者と判定される人たちのことを示しています。その時,彼らは人間としての完全さのうちに,十分に身につけた義を示すことができるでしょう。巻き物が開かれ,その中に記された事がらに従って彼らは有利な,あるいは不利な裁きのいずれかを受けますが,その巻き物には,この事物の体制下の現在のこの世における彼らの過去の不完全で,罪深い行為すべての記録が収められているのではありません。天の審判者たちは,復活させられる個々の人びとが有罪か,あるいは無罪かを決定するために千年間を費やして,過去の人間の生活の記録をつぶさに調べる必要はありません。彼らは人類の過去についてそれほど無知,あるいは疎くはありません。それら審判者たちが特に留意するのは,人類の過去ではなくて人類の将来のことです。人類は将来のための指導を必要としているのです!
35,36 (イ)では,それら「数々の巻き物」は何を表わしていますか。だれがその内容を知りますか。(ロ)知らなかったとして言いわけできる人は地上にはなぜ一人もいなくなりますか。
35 ですから,それら開かれる「数々の巻き物」とは,神の代理を勤める審判者たちによって人類に与えられる新しい一連の教示や指示また命令です。こうして,それら開かれた「数々の巻き物」の内容は全人類に知らされます。それは彼らが自分たちの裁かれる規準や,自分たちの将来の行動やわざに関して何が期待されているかを知るためです。人類は無知のままに放置されることはありません。人はみな,裁きの巻き物にしたがって律法の意味するところを知らざるを得なくなります。人びとを惑わしたり,発表された律法や教示を曲げたりする悪魔サタンやその悪霊たちは,地球の近辺の見えない領域のどこにも存在しなくなります。確かに存在しなくなります。というのは,それら古い「天」はこの裁きの日のための時を定めた神の面前から逃げ去ってしまっているからです。したがって,祈祷師,霊媒あるいは透視者,天宮図を携えた占星術者はどこにもいませんし,霊応盤その他同類の悪霊崇拝と関係のある用具の売買も行なわれることはありません。新しい天のみが存在し,義を滴らすでしょう。こう記されています。
36 『天よ うえより滴らすべし 雲よ 義をふらすべし 地はひらけて救いを生じ 義をもともに萌えいだすべし われエホバこれを創造せり』― イザヤ 45:8。
地上の「君」たち
37 (イ)天の審判者たちは,それら「数々の巻き物」の内容をどのようにして人類に伝えますか。(ロ)神の律法や裁定が施行されているとき,人類はどのようにしてそのことを知りますか。
37 目に見えない天的な審判者たちが,開かれる「数々の巻き物」の内容をどのようにして地上の住民に伝えるかは,聖書には明確に述べられてはいません。しかし,地上には神の天の王国を直接代表する人たちがいます。そのような人びとが人類の中にいることは,「新しい地」がその新しい人類社会を伴って存在していることの公式な証拠となります。悪魔サタンにより見えない仕方で支配されていた古い「地」は,神の面前から逃げ去って,滅亡以外にその占めるべき所は見いだされなくなります。法廷や弁護士や代理人そして司法制度は過去のものとなり,神の律法こそ,いまや人がそれに精通し,それによって裁かれ,また人が適用すべきものとなります。王国の地上の代表者たちが行動するとき,施行されているのは神の律法また裁定であることを人びとは知り,はっきりと理解します。
38 天の王イエス・キリストは顕著さの点で,ご自分の地的な先祖を当てにする必要がありますか。それとも,独自の顕著さを有することになりますか。
38 千年間の裁きの日のためのこの取決めに関する指示は,聖書の預言的な句の中に述べられています。たとえは,神の油そそがれた王,イエス・メシアまたはキリストに関する叙情詩である詩篇 45篇を取り上げてみましょう。イエス・キリストとその花嫁である会衆との天的な結婚と,その花嫁級に仕える人たちに関して預言的なことばを述べた後,その詩篇はこう語ります。「彼らは王の宮殿に入って行く。あなたの父祖たちに代わってあなたの子たちとなり,あなたは彼らを君として全地に任命するであろう」。(詩篇 45:15,16,新)もちろん,天の王イエス・キリストには顕著な先祖がいました。それらの人びとがエルサレムのダビデ王の王座に着いて仕えたかどうかは別として,聖書の記録の中にその名が列挙されています。しかし,その天の王は顕著さの点で先祖を当てにする必要はありません。完全な人間として地上におられたとき,エルサレムその他どこであれ,有形の王座に着くことを拒んだとはいえ,イエス・キリストは独自の顕著さを有することになります。
39 領土に関して王イエス・キリストはダビデ王をさえ,顕著さの点でどのようにしのぎますか。
39 天の王イエス・キリストは名声や誉れ,そして顕著さの点でダビデをさえ凌ぐことになります。イエスは,ダビデ王がアブラハムに対する神の約束にしたがって当時征服した領土全域の境界線のはるかかなたにまでご自分の王国を広げて行きます。(創世 15:17-21)そうです,東西,南北がそれぞれ相会する所まで,まさにこの惑星上の至る所に,つまり「全地」に広げるのです。それは,王イエス・キリストの預言的な型としての「ソロモン」に関して記されているとおりです。『神よねがわくは汝のもろもろの審判を王にあたえ なんじの義を王の子にあたえたまえ かれは義をもてなんじの民をさばき 公平をもて苦しむものをさばかん またその政治は海より海にいたり河より地のはてにおよぶべし』― 詩篇 72:表題,1,2,8。
40 イエスは地上で子供を設けませんでしたし,彼はまた,ダビデ王の永久相続者であるため,君となる子たちに関して,ここでどんな問題が生ずるように思えますか。
40 しかし,ここで問題が生ずるように思えるのではありませんか。ダビデ王の子ソロモンよりもいっそう偉大で,いっそう賢明なこの王は,完全な人類家族を生み出す生殖力をその腰に有する完全な人間としてこの地上におられましたが,結婚しませんでした。では,「あなたの父祖たちに代わって」,次の点に注目してください,「あなたの子たちとなり,あなたは彼らを全地に君として任命するであろう」という預言はどのようにして成就されるのでしょうか。そのうえ,天のイエス・キリストはダビデ王の永久相続者であって,「滅びることのない命の力」を持つゆえに後継者なしに,つまりあとを継ぐ子を必要とすることもなく統治してゆくのです。み使いガブリエルがマリアに向かって,その息子となるべきイエスに関して次のように語ったとおりです。「エホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」― ルカ 1:32,33。
41,42 (イ)14万4,000人の共同相続者は,地上で任命されるべき「子たち」ではありません。なぜですか。(ロ)天のイエス・キリストはどのようにして,またどんな預言的称号を成就するものとして地的な「子たち」を持ちますか。
41 イエス・キリストの14万4,000人の共同相続者はイエスの霊的な子たちではなくて,神の子たち,つまり「実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人で」あることを,わたしたちは知っています。(ローマ 8:17)では,「あなたの子たち……あなたは彼らを全地に君として任命するであろう」といわれている子たちとは,だれのことですか。王イエス・キリストの天的な子たちでないことは明らかです。地上にいるゆえに「全地に」君として任命され得る地的な子たちであるに違いありません。死んだ人びと,それも特に死んだ「義者」が復活させられて彼の子たちとなるのです。イザヤ書 9章6,7節の預言に基づく彼の約束の称号,すなわち,とこしえの父という称号は単なる空しい名誉称号となるのではありません。イエスは実際に,復活させられる人類家族の父となります。彼は,「命を与える霊」となった「最後のアダム」なのです。(コリント第一 15:45,47)最初の人,アダムはその子孫すべてを罪と死に売り渡しましたが,「天から出」た「第二の人」は,アダムから受け継いだそうしたものから,その子孫を買い戻すために,ご自分の完全な人間としての命を捨てました。それで,こう記されています。
42 「神はただひとりであり,また神と人間との間の仲介者もただひとり,人間キリスト・イエスであり,このかたは,すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与えてくださったのです」。(テモテ第一 2:5,6)「わたしたちは,み使いたちより少し低くされたイエスが,死の苦しみを忍んだゆえに栄光と誉れの冠を与えられたのを見ています。これは,神の過分のご親切のもとに,彼がすべての人のために死を味わうためでした」― ヘブライ 2:9。
43 (イ)その王はどのようにして,患難を生き残る,復活を必要としない「大群衆」の父になりますか。(ロ)また,どのようにして人類のとこしえの父になりますか。
43 神の意志にしたがってご自身を犠牲にすることによってイエス・キリストは,死んでゆく人類に命を与える権利を得,そのようにして彼らの父となります。そして,「死んだ」人たち,つまり「義者」と「不義者」双方を記念の墓や水中の墓場から呼び出し,次いで喜んで応ずる人たちすべてを完全な人間にまで引き上げることによって,彼らに命を移します。「大患難」を生き残ってキリストの千年統治の時代に入る「生きている」人たちについては,イエスは同様に,それら生き残った「義者」を,「満ちあふれるほど豊かに」命を享受する,つまり輝かしい完全な人間としての命を享受するレベルにまで引き上げます。(ヨハネ 10:10。テモテ第二 4:1。使徒 24:15)そして,このすべてを千年の終わりまでに成し遂げさせます。しかし,イエスの地的子供たちの享受するその豊かな命は永久に存続できるものであって,完全な人間として誠実さを保つ人たちは,とこしえの命を受けるにふさわしい者であることを実証します。それらの人びとはイエスの永遠の子供たちとなり,イエスは文字どおり彼らのとこしえの父となります。
44,45 (イ)王はどのようにして十分の数の君たちを地上に立てて,その統治を開始しますか。任命される人たちはすべて「君」としての地位を占めます。なぜですか。(ロ)しかし,他の人びとの長となる者が君(サー)と呼ばれるには,王の家系の人でなければなりませんか。
44 千年統治の初めに,傑出した王イエス・キリストはご自分の地的な子供たちの中から相応しい人たちを選んで,「全地に君」として立て始めます。「大患難」や,悪魔サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられる際に生き残った「生きている」人たちは,多数のそうした「君」たちを供するでしょう。死の眠りから復活させられる「死んだ」人びとの中の「義」人たちは,任命された君たちが「全地に」立てられるようにするため,十分の数の他の君たちを供することでしょう。詩篇 45篇16節は,それらの「君」たちの中にはイエスの復活させられた「父祖たち」の中の「義」人が含まれていることを示しているようです。そうした人たちはかつてイエスの先祖でしたが,いまや復活によって彼の「子たち」となるのです。それら任命された人たちは天の王の子たちなので,「君」としての地位を占めます。
45 しかし,詩篇 45篇16節で「君」と訳されているヘブライ語がサリム<sarim>であることは注目に値します。古代イスラエル民族の間では,「サー<sar>」と呼ばれた人がすべて王室とつながりを持っていたわけではありません。そうした人びとに含まれる者として,千人の司,百人の司,五十人の司そして十人の司さえ,「サー」と呼ばれました。王室の召使い頭の長,あるいは王室のパン焼き職人の長さえ,「サー」と呼ぶことができました。―出エジプト 18:21,25。申命 1:15; 20:9。サムエル前 8:12。創世 40:2。創世記 23章5,6節と比べてください。
46,47 (イ)任命されるそれらの人びとはすべて,その王の先祖の王統もしくは族長の家系の者でなければなりませんか。彼らはどんな人であるべきですか。(ロ)イザヤ書 32章1,2節に述べられているように,彼らはだれの関心事に対して真の関心をいだかねばなりませんか。
46 「全地に君」として任命されるそうした人たちはすべて,人間としてのイエス・キリストの先祖で,その王統もしくは族長の家系の者でなければならないというわけではありません。基本的に言って,彼らは忠誠の人,つまり預言者モーセによって裁き人として任命されたような「有能な人びと」「賢くて,経験のある人びと」でなければなりません。それらの裁き人についてはこう記されています。「モーセはイスラエル全体の中から有能な人びとを選び,千人の長[サリム],百人の長[サリム],五十人の長[サリム],十人の長[サリム]として,民の頭としての地位を彼らに与えた。そして,適当な場合,いつもは彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのところに持って来たが,小さい事件はみな,彼ら自身が裁き人として取り扱った」。(出エジプト 18:25,26; 申命 1:15,新)王イエス・キリストによって任命される地上の君たちは,人びとの福祉を図ることや争いを平和裏に,また穏やかに解決することに真の関心を抱きます。そして,イザヤ書 32章1,2節(口語)で次のように描写されている君たちのように,正しい事を勇敢に擁護します。
47 「見よ,ひとりの王が正義をもって統べ治め,君たち[サリム]は公平をもってつかさどり,おのおの風をさける所,暴風雨をのがれる所のようになり,かわいた所にある水の流れのように,疲れた地にある大きな岩の陰のようになる」。
48,49 (イ)現在の訴訟手続きのゆえに助長された,犯罪者の抱くどんな考え方のために,犯罪が増大しましたか。(ロ)伝道之書 8章11-13節によれば,悪事を繰り返す犯罪者にとって,あるいはだれにとって,物事はうまくゆきますか。
48 天の平和の君[サー]の治める時代には,法を公正に適用して違反者の責任を問う訴訟手続きは,すべての違反者の審理を迅速に行なうに足る十分の数の審判者や役員がいないために手間どって,だらだらと長引くことはありません。これまで,悪行者を審理し,不正行為を正し,法に照らして処断するのに長い時間がかかり,多くの事件の場合,何年もの時間がかかるため,結局は処罰されずにすむかもしれないと考える悪行者たちの犯罪が助長されてきました。今世紀の後半に犯罪はすさまじい勢いで増大してきましたが,すでに西暦前11世紀の昔,鋭い観察力を持つ,霊感を受けた賢い一筆者は次のように書きました。
49 「悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために,人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。罪びとで百度悪をなして」― 考えてもみてください! しかし,霊感を受けた筆者はさらにこう続けます。「なお長生きするものがあるけれども,神をかしこみ,み前に恐れをいだく者には幸福があることを,わたしは知っている。しかし悪人には幸福がない。またその命は影のようであって長くは続かない。彼は神の前に恐れをいだかないからである」― 伝道 8:11-13,口語。
50 (イ)現在,法の施行が手間どるのは,人類の上にあるどんなもののためですか。(ロ)義に関して,「新しい地」は「新しい天」にどのように答え応じますか。
50 悪行者を裁いて処罰する現在の訴訟手続が手間どったり,あるいは悪行者の責任を問うことが決してなされない場合があったりするのは,『古い天』のもとにある『古い地』でわたしたちが生活しており,悪魔サタンとその配下の「天の場所にある邪悪な霊の勢力」が人類社会を支配しているからです。腐敗した古い人類社会が滅ぼされ,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられると,平和の君[サー]とその仲間の14万4,000人の審判者たちが審判者の職につく一千年の期間中,法の施行を妨げるものはすべて除去されることになります。「新しい天」から義が滴り落ちる結果,「新しい地」の人間社会という土壌はそれに答え応じて実を結ぶようになります。エホバはそのことをこう予告されました。『地はひらけて救いを生じ義をもともに萌えいだすべし われエホバこれを創造せり』― イザヤ 45:8。
51 それでわたしたちは,イザヤとともに,どんな新時代を魂をこめて待ち望みますか。
51 わたしたちは義と公正の行なわれるそうした時代を切望しているのではありませんか。その時代には,義人の道は今日のように苦しいものではなく,平坦なものとなります。地的復活を待ち望んだ預言者イザヤは,その願わしい新時代を期待して,霊感のもとにこう書き記しました。『義きものの道は直からざるなし なんじ義きものの道を直く平らかにし給う エホバよ審判をおこないたもう道にてわれら汝をまちのぞめり われらの〔魂〕はなんじの名となんじの記念の名とをしたうなり わが〔魂〕夜なんじを慕いたり わがうちなる霊あしたに汝をもとめん そは汝のさばき地におこなわるるとき世にすめるもの正義をまなぶべし 悪しき者はめぐまるれども公義をまなばず 直き地にありてなお不義をおこないエホバの稜威を見ることをこのまず』― イザヤ 26:7-10〔新〕。
52,53 (イ)神のめぐみのもとで,直き地に住んでいてさえ,義を学ぶのはだれにとって難しいことですか。(ロ)彼らの場合,使徒ペテロの述べたどんな原則が当てはまるように思えますか。
52 一千年の期間にわたる「直き地」,つまり人びとを正直に扱い,また人びとの間で物事が正直に扱われる地は,生来人間としての不完全性を持つ全人類に大いなる恵みが示される所となります。人類家族の成員の中には,他の人びと以上に深く罪深い堕落のふちに沈んだ人もいれば,長い間責任を問われなかったために,不誠実な性格をいっそう硬化させた人もいます。そのような人びとには不正をする性癖があります。その種の邪悪な人びとは,たとえ彼らの周囲ですべて物事が正直に行なわれ,また王イエス・キリストを通して彼らに神からの恵みが示されていてさえ,義と廉潔さを学ぶのに困難を感ずるであろうことは容易にわかります。あらゆる援助を差し伸べられるにもかかわらず,彼らはともすれば不正を行なおうとします。正当な立法者としてのエホバも,エホバの定められた生活上の規準の正当さをも認めようとはしません。そのような人びとに関しては,使徒ペテロが次のように述べた原則が当てはまるように思えます。
53 「今は,裁きが神の家から始まる定めの時だからです。さて,それがまずわたしたちから始まるのであれば,神の良いたよりに従順でない者たちの終わりはどうなるでしょうか。『そして義人がかろうじて救われていくのであれば,不敬虔な者や罪人はどこに出てくるだろうか』」― ペテロ第一 4:17,18。
54 神のめぐみをいたずらに受け,その目的を逸する人たちは,裁きの日の終わりまで生き長らえさせる必要がありますか。何がその理由となりますか。
54 「直き地」に住みながら,神の『めぐみ』をいたずらに受け,その愛ある目的を逸し,また矯正不能であることを示す人たちは,必ずしも千年の終わりまで生き長らえさせられて,地に回復される楽園でとこしえの命を受けるにはふさわしくない者として処刑されねばならないというわけではありません。矯正不能な者であることを示すそうした人びとは,人の住む地を義をもって裁くよう神の任命された者により,何ら不正がなされることなく処刑されるでしょう。それらの人びとの名は命の書には書き記されません。したがって,彼らにとってふさわしいのは,完全な滅びをもたらす「火の湖」で象徴される,ほかならぬ「第二の死」だけです。(啓示 20:14,15)では,「神の良いたより」にいま従順な態度を示し,きたるべき裁きの日のことを考えて,義を愛する態度を培うのは何と賢明で,何と分別のあることなのでしょう。