いただく者の『ひとつの体』
1 主の夕食を食する人は,どのようにヱホバに崇拝し,奉仕を捧げるべきですか? このことを論じたパウロは,どんな『ひとつのからだ』を意味していますか?
新しい契約にいるそれら霊的イスラエル人のクリスチャンたちは,個人としても又は会衆としても,ヱホバへの崇拝と奉仕に専念しなければなりません。それで,主の夕食の杯とパンについて語つた後に,使徒はそのような者にむかい,こう述べているのです。『パンが一つであるから,私たちは多くいても,一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただく(食する)からである。』(コリント前 10:17,新口)ここで,『ひとつのからだ』と言つたパウロは,何を意味していますか。それは,種の入らないパンで象徴されるイエスの人間としての肉の体ではありません。それは,イエス・キリストを霊的な首とする霊的イスラエル人の会衆全部を意味しています。イエス・キリストの支配下にあるこの会衆は,同じパウロの手紙の後の部分で,キリストの体と言われています。『あなたがたは,キリストのからだであり,ひとりびとりは,その肢体である。そして,神は会衆の中で,人々を立てられた。』― コリント前 12:27,28,新世。
2 イエスは,夕食のときに只ひとつのパンを用いましたが,それはどんな事実を示すためですか? ヱホバがパウロの述べる『ひとつのからだ』にあずからないのは,なぜですか?
2 パウロは,キリストの体である会衆は,考えと行に一致すべきである,とコリント前書の初めの3章で示しています。それで,主の夕食ならびに,主の夕食が会衆の各員に課すすべての責務に対しては,分裂のない立場を取らねばなりません。もし全員が主の夕食をいただくなら,彼らはたがいに結合して,ひとつのからだにならねばなりません。イエスは,主の夕食を設立されたとき,ただ一つのパンを用いました。そうすることにより,そのパン,つまりイエスの肉のからだをいただく者たちは,頭であるイエスの下にただ『ひとつのからだ』であることを示しました。新しい契約に入つている霊的なイスラエル人は,種入れぬ一つのパンをいただくことにより,たがいに共通の食事を取ります。そうすることにより,彼らは『ひとつのからだ』であつて,同じ恩恵と特権をいただき,同じ霊的な食卓で食べることを表示します。彼らの数が,どれ程多いものであつても,彼らは『その一つのパンをいただく(食する)』故に,『ひとつのからだ』です。ヱホバ神は,この『ひとつのからだ』に,彼らとあずかりません。ヱホバ神は,その一員でないからです。イエス・キリストは,その『ひとつのからだ」の頭ですが,ヱホバに従います。『キリストの頭は神である。』(コリント前 11:3,新口)頭であるヱホバは,イエスの犠牲をうけ入れました。
3 (イ)どんな行いは,彼らがみな『ひとつのからだ』であることを示しますか?(ロ)キリストの肉と血をいただくことにより,彼らは神より何をいただきましたか? これは,将来のより大きなどんな特権の踏石となりましたか?
3 種の入らぬ一つのパンそのものは,キリストに従う『ひとつのからだ』を象徴しません。そのパンは,イエスが犠牲に捧げられた人間の体を象徴します。みな一緒になつて,そのパンを食べる行為により,食べる人はみな『ひとつのからだ』『キリストのからだ』であることが示されます。イエス・キリストの肉と血をいただくことによつて,彼らはみな神から義と宣明されます。人間である彼らを義と宣明することが,目的ではありません。つまり,そこですべてが終つたというわけではありません。実は,特別な目的のために,彼らは義と宣明されたのです。何のことですか。それは,彼らがキリストと共に犠牲にされ,ヱホバ神によつて産み出されてヱホバの霊的な子供たちになるための踏石となります。彼らは,ヱホバ神との新しい契約に入つていて『聖なる国民,神につける民』です。(ロマ 5:1,2,9; 8:15-17。ヤコブ 1:18。ペテロ前 2:9,新口)彼らは,天的な生命の希望を持つ霊的な子供たちとなりました。ヱホバ神は,御霊でもつて彼らに油を注ぎ,キリストの体の成員にならせました。ヱホバ神は,これを行うことにより,彼らを天的な御国の契約に導き入れました。イエスは,主の夕食が終つた直後に,忠実な使徒たちに次のような言葉を述べられ,その契約について語られました。『あなた方は,私の試練のあいだ,私と一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。それで,私の父が,御国の契約を私と結んだように,私もあなた方とその契約を結ぼう。あなた方は,私の御国で食卓について飲み食いし,また位に座してイスラエルの十二の支族をさばくであろう。』― ルカ 22:28-30,新世。
4 二つのどんなものによつて,彼らはきよめられましたか? それで,彼らが主の夕食をいただくことにより,彼らはどんな者と示していますか?
4 このことから,彼らが信仰を持つことによつて,義と宣明される必要性の如何に大きいかが,認識されます。彼らは,『ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによつて,……きよめられたのである。』彼らのひとりびとりは,『自分がきよめられた契約の血』を重んじます。(ヘブル 10:10,29,新口)彼らは,パンと葡萄酒の杯をいただくことにより,その事実を象徴します。主の夕食の時に,彼らが一致して共にいただくことは,頭であるイエス・キリストの下に,みな潔められて,献身したからだであることを示しています。彼らは,その潔めを維持しなければなりません。―テサロニケ前 4:3,7。
5 各々の責任に関して,彼らはなぜ人間であつたイエスを記憶しなければなりませんか?
5 彼らは,潔められたひとつの一致のからだとして,共通の特定な特権を楽しむだけでなく,特定の責任をも持つています。このことから,彼らは,人間であつたイエスを記憶しなければなりません。イエスは天から地に降りましたが,それは,ノアの日の『神の不従順な子たち』とは全くちがい,肉的なことを楽しむ,つまり肉の生命を楽しむためではなかつたのです。(創世 6:1,4。ペテロ前 3:19,20)イエスは,女より生まれて,肉の体を持つ人間になりましたが,それは御自分の持つ肉の体を特別に用いて,ヱホバの奉仕に捧げるためだつたのです。人間イエスは,苦しみをうけ,刑柱の上にかけられられても,非難を耐え忍びました。かくして,人間である私たちに対する模範を残されました。人間の体として存在していた期間,彼はヱホバの地的な業を行い,その体は水によるバプテスマを受け,そして後には神の御国の良いたよりを伝道しました。イエスは,御自分の体を犠牲に捧げました。それで,彼の体はゲヘナに投げ入れられず,まだ使われたことのない新しい記憶の墓の中に葬られたのです。(ルカ 23:53。イザヤ 53:9)イエスの恩恵を受ける者たちは,イエスの足跡に従わなければなりません。
6,7 その故に,彼ら死ぬべき体については,何が言われますか? ひとつのからだとして,彼らは,どのように主の夕食を食べるにふさわしく,身を保たねばなりませんか?
6 主の夕食をいただく人々は,主イエスと同じように,ヱホバ神に奉仕しなければなりません。それらの人の死ぬべき体は,彼らの中に住む神の霊によつて,生きなければなりません。(ロマ 8:10)彼らは,『あなた方のからだを,神によろこばれる,生きた,聖なる供え物として,ささげなさい。それは,あなた方の理性の力によつて行う聖なる奉仕である。』というすすめにしたがわねばなりません。(ロマ 12:1,新口)彼らはヱホバの奉仕を行つて,自分の生命を犠牲に捧げ,その地的な生命を用いつつも,キリストのように生活しなければなりません。パウロは,こう述べています。『いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた,イエスの生命が,この身に現れるためである。……それは,イエスの生命が私たちの死ぬべき肉体に現れるためである。』(コリント後 4:10,11,新口)主の夕食を食べる人々の死ぬべき体は,不道徳を避けて,潔めを保たねばなりません。パウロは,彼らに向つて,こう語つています『からだは不品行のためではなく,主のためであり,主はからだのためである。あなたがたは,自分のからだがキリストの肢体であることを知らないのか。それだのに,キリストの肢体を取つて遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。……あなた方は,もはや自分自身のものではないのである。あなた方は,代価を払つて買いとられたのだ。それだから,自分のからだをもつて,神の栄光をあらわしなさい。』― コリント前 6:13,15,19,20,新口。
7 私たちの体は,焼き印を帯びているイエスの奴隷です。(ガラテヤ 6:17)悪魔サタンは,悪魔宗教の頭である故,私たちの体を悪魔宗教に捧げてはなりません。しかしイエス・キリストは,御自分のからだである会衆の頭であります。分裂のため,人種的な憎しみのため,国家主義のために,このからだは召されているのではなく,平和と一致のために召されています。(コロサイ 3:15。エペソ 2:14-18)その体は,悪意と悪のパン種から遠ざかつて清さを保ち,かつ『ひとつのからだ』として一致しなければなりません。そして,信仰によつては毎日のことであつても,主の夕食のときに『ひとつのパン』を象徴的に食するにふさわしいものでなければなりません。
8 葡萄酒の杯を飲むとき,彼らはなぜキリストの血を記憶せねばなりませんか? そして又,彼らに与えられる特別な責任をなぜ記憶しなければなりませんか?
8 葡萄酒の杯を飲むとき,体の成員はキリストの成員を記憶しなければなりません。キリストの血によつて,彼らは罪のゆるしをうけて,義と宣明され,そして新しい契約に取り入れられたからです。その故に,特別な責任が負わされます。『ヱホバの杯』を表示するその杯の葡萄酒を飲むことにより,彼らはその責任を認める,ということを表明します。すなわち,彼らは『新しい契約の奉仕者になつて』,その契約の目的を果さねばなりません。(コリント後 3:6,新世)彼らは,神の霊的な祭司であり,かつ大祭司イエス・キリストに従う従属の祭司であるため,『王なる祭司』になりました。彼らは,讃美と良き業の『霊的な犠牲』を神に捧げます。それには又,死も関係しています。彼らはイエスと同じように犠牲の死をともに厭わず,またイエスと同じように,ヱホバの宇宙的な至上権を立証するため,イエスの苦しみにあずからなければなりません。祭司である彼らは,『悪鬼の食卓』や『悪鬼の杯』に,なんらの関係をも持つてはなりません。ヱホバに専心の献身を捧げ,ヱホバの崇拝を生活内で最重要なものとし,そしてヱホバの知識をその唇の上に置き,ヱホバの使者として仕えなければなりません。かくして,多くの人を不義から引き離して,ヱホバの崇拝に戻らすことができます。(ペテロ前 2:5,9。ピリピ 3:9-11。マラキ 2:6,7)彼らは,『小羊の血とかれらのあかしの言葉とによつて』悪魔サタンに打ち克つ,と聖書には書かれています。―黙示 12:11,新口。
何時そしてどのように祝うか
9 夕食の祝いは,バプテスマとは,どのように違いますか?
9 主の夕食の祝は,バプテスマとは異ります。クリスチャンの道を歩み始めるに当つて,水によるバプテスマは,只一度だけ行われ,キリストを通して神に献身したことを公やけに表明します。しかし,イエスは主の夕食の祝を備えたその時に『私の記念として,これを行い続けなさい。』と言われました。―ルカ 22:19,新世。
10 なぜ主の夕食を定期的に祝わねばなりませんか? そのことを確証したパウロは,主の夕食について,どう説明いたしましたか?
10 また祝う人々に対して,イエスのなされる大きな働きを憶えているために,主の夕食を定期的に祝わねばなりません。パウロは,定期的に祝う必要性を強調しています。神のコリント会衆は,正しい方法で主の夕食を祝つていなかつたため,パウロは,彼らに手紙を送り,こう告げました。『そこで,あなた方が一緒に集まるとき,主の夕食を守ることができないでいる。……このことでは,ほめるわけにはいかない。私は主から受けたことを,またあなた方に伝えたのである。すなわち,主イエスは,渡される夜,パンをとり,感謝してこれをさき,そして言われた。「これはあなた方のための,私のからだを意味する。私を記念するため,これを行い続けなさい。」食事ののち,杯をも同じようにして言われた「この杯は,私の血による新しい契約を意味する。飲むたびに,私の記念として,これを行い続けなさい。」だから,あなた方は,このパンを食し,この杯を飲むごとに,それによつて,主が来られる時に至るまで,主の死を告げ知らせるのである。』― コリント前 11:20-26,新世。
11 どんなできごとの時まで,彼らはイエスを憶えねばなりませんか? このことから,誰がこの祝いをするということが分かりますか?
11 特に,人間としての主イエスが,弟子たちから離れている期間中は,弟子たちは彼の個人的な死を記念して祝わねばなりません。それは,主イエスが再び戻られて彼らを天の御自分の許にうけ入れる時まで為されます。『他の羊』を集める業は,主が戻られてから行われる故に,主の夕食はイエスの『小さな群』だけの行うものということが分ります。『小さな群』とは,14万4000人の成員で構成される『イエスのからだ』つまり会衆のことです。―ヨハネ 10:16。マタイ 25:31,32。
12 1年に何度主の夕食を食しますか? 現在まで幾回食せられましたか?
12 その祝を何回しますか? イエスは,聖書の暦のニサン14日の過越の夜に,主の夕食を始めました。そして,弟子たちにそれを行い続けよと語ることにより,幾回祝うかということを示しました。すなわち,1年に1回なされる同じ過越しの日に祝います。毎年1回のその過越の日に祝うことは,全く適当なことです。なぜなら,その日にイエスは御自分の体を刑柱の上にかけて,犠牲として捧げ,罪のゆるしを得させる新しい契約の生命の血を流されたからでした。それは,『主の死』なれた日でした。その日に,主の夕食を祝うことによつて,主の死を記念し,その死を告げ知らせます。毎年1回のニサン14日の夜に,主の夕食は食せられますが,しかし,今日まで存在して来たクリスチャン会衆の19世紀間中に,主の夕食は『しばしば』食せられました。それで,今年の1956年3月26日,月曜日の夜,日没後から深夜までの時の中,『キリストのからだ』の成員の残れる者は,夕食を食します。それで,西暦33年ニサン14日から始まる主の夕食は,現在まで1923回食せられたことになり,今年もそれを食するための準備が為されています。
13,14 1914年と1918年以後になつても,イエスの弟子の残れる者は,どのようにイエスから離れていましたか?
13 しかし,主イエスが天にいるヱホバの右に坐して,その御国に来られた1914年の10月後になつても,なぜ夕食を食する事は続けられているのですか。すくなくとも,『契約の使』であるイエス・キリストをともなつて,ヱホバ神が,御自分の霊的な宮に来られた1918年の春以後になつても,なぜ主の夕食を食することは続けられていますか。―マタイ 25:31。マラキ 3:1。
14 そのどちらの場合の時でも,イエス・キリストは,弟子たちの人間としての状態を変えて,御許に召されなかつたのです。イエスは,彼らを人間の状態に残して置かれたため,彼らは『主から離れて』いました。このことにつき,パウロはこう語つています。『私たちの住んでいる地上の幕屋がこわれると,神からいただく建物,すなわち天にある,人の手によらない永遠の家が備えてあることを,私たちは知つている。そして,天から賜わるそのすみかを,上に着ようと切に望みながら,この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら,裸のままではいないことになろう。……そして,肉体の人間である間は,主から離れていることをよく知つている。私たちは,見えるものによらないで,信仰によつて歩いているのである。それで,私たちは心強い。そして,むしろ肉体から離れて主と共に住むことが,願わしいと思つている。そういうわけだから,主と共に住もうとも,主から離れているにしても,ただ主によろこばれる者となるのが,心からの願いである。』― コリント後 5:1-3,6-9,新世。
15 それで,『主によろこばれる』ために,彼らは何を祝いつづけますか? 何時までですか?
15 それで,肉体の人間である残れる者は,主から離れていても,離れている主の記念として,主の夕食を食せよ,といういましめに従うことにより,『主によろこばれる者』になろう,と努めています。彼らは,その意味で,主から離れているのです。そして,その見地から見るとき,主はまだ彼らのところに来ておらず,主は御自身の御姿を見せておらず,彼らを天の御許に召してはいませんから,記念をする必要があります。そして『イエスのからだ』の地上の残れる者は,ハルマゲドンに生き残つた後でも,栄光を受ける時まで,主の夕食を食しつづけなければなりません。
16 どんな心持ちを抱いて,主の夕食を祝わねばなりませんか? このことにつき,パウロはコリント人に何と言いましたか?
16 今年,1956年のニサン14日,すなわち3月26日の日没後,主の夕食を祝います。その祝に集まるとき,正しい心と気持を抱いて出席し,主の夕食の意味を十二分に悟りつつ,この時にふさわしい仕方で主の夕食を守らねばなりません。それについては無思慮で,不注意な自己中心の人々であつたコリント人に対して,パウロは次のような助言を与えました。『だから,ふさわしくないままで,パンを食し主の杯を飲む者は,主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し,それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで,飲み食いする者は,その飲み食いによつて,自分にさばきを招くからである。あなた方の中に,弱い者や病人が大ぜいおり,また(霊的に)眠つた者も少くないのは,そのためである。しかし,自分をよくわきまえておくならば,私たちはさばかれることはないであろう。しかし,さばかれるとすれば,それは,この世と共に罪に定められないために,ヱホバの懲しめを受けることなのである。それだから,兄弟たちよ。食事のために集まる時には,互に待ち合わせなさい。もし空腹であつたら,(この世と共に)さばきを受けに(一つの場所に)集まることのないため,(まず)家で食べるがよい。』― コリント前 11:27-34,新世。
17 イエスは,過越しの後の同じ食卓で夕食を備えましたが,主の夕食は,普通の食事と,なぜ区別すべきですか?
17 たしかにイエスが主の夕食を始めたときは,過越しを食べた後であつて,しかも,それは同じ食卓でなされました。それは,その時の事情のためでもあり,また過越と主の夕食には関係があつたからです。しかし,会衆の集会所で普通の食事を取つて,食べたり飲んだりしてはなりません。また,その食事の後に主の夕食を食して,それをあたかも食事の最高潮のように見なしてもなりません。主の夕食は,普通の夕食とまつたく区別すべきものです。残れる者は,主の夕食のパンと杯をいただくことによつて,永遠の天的な生命を意味する霊の恩恵にあずかることを象徴するからです。残れる者は,この祝いと,表象物であるパンと杯を,大切に取り扱わねばなりません。ぞんざいにいただくことは,いただかないことよりも,ずつと悪いものです。軽々しくぞんざいにいただくならば,自ら神の罰をうけ,この世と共に死んでしまいます。
18 もし『からだをわきまえない』なら,なぜ自分自身に対する裁きを食べ,また飲みますか? それで,ヱホバの懲らしめの裁きをうける人は,何を為すべきですか?
18 なぜ,そうですか。ひとたび主を知りながら,主が犠牲に捧げた『体をわきまえる』ことができなかつたからです。あたかも,『ヱホバの食卓は卑しきなり』と言い,またヱホバの食卓の上に供えられた犠牲は,汚れたもので,不完全であり,『ヱホバの食卓は汚れたり』と言つているかのようです。(マラキ 1:7,12,ア標)不忠実な者たちは,『神の子たちをまたもや刑柱にかけて,公やけの恥にさらしている』故に,それは『有罪の』行です。彼らは又,『神の子を踏みつけ,……自分がきよめられた契約の血を格別に尊ばない。』そのような者になされる罰は,古い律法契約を破つた者になされる罰よりも重いものです。その者は,死の罰をうけます。故意になされた罪に対しては,もはや犠牲はなく,その者は救われません。その者は,『逆らう者たちを焼きつくすヱホバの激しい火』を,恐れつつ待つのみです。(ヘブル 6:4-8; 10:26-31,新世)その故に,ヱホバの与える矯正的な懲らしめのさばきから,その者は益を受けなさい。自分がどんな者であるかを,わきまえて,その悪を直しなさい。今まで間ちがえていたにせよ,もしいましめに従つて主の夕食を食するなら,主のきよめられた体をわきまえ,かつ自分の罪のゆるしを願いつつ,いたしなさい。かくして,この祝をすることにより力を受け,これから先の年月,キリストの足跡に,よりしつかりと従うようになるでしよう。
19 全国民からくる『大いなる群衆』は,主の夕食に来るとき,なにをみわけるべきですか? その祝いから,彼らは最大の祝福を,どのようにうけますか?
19 キリストの体の成員として,新しい契約にいる霊的なイスラエル人の残れる者だけが,いま主の夕食をいただくことができます。しかし,あらゆる国民,民,種族,そして言語から来るヱホバの崇拝者の『大いなる群』は,主の夕食に出席して,見守ることができます。彼らは,高い『ヱホバの山,ヤコブの神の家』に来ました。それで,主の夕食に来るとき,表象物によつて表わされている『ヱホバの食卓』と『ヱホバの杯』の前に来る,ということをみわけなければなりません。(黙示 7:9。イザヤ 2:2,3。)このようにして,彼らは『悪鬼の食卓』を避け,そしてヱホバに専心の献身を捧げている,ということを知らすべきです。かつ,ヱホバに達する唯一つの道は,ヱホバの大祭司である主イエス・キリストの犠牲を通してである,ということを告白します。かくして,彼らは,表象物をいただく残れる者と和合し一致結合して,ヱホバの正しい一人の羊飼の下に『ひとつの群』となります。(ヨハネ 10:14-16)彼らは,残れる者と共に,主の夕食の祝いから最大の祝福をうけます。彼らは唯一つの真の神ヱホバに讃美と栄光を帰しつゝ『ヱホバの食卓』を尊いもの,またその上に供えられたキリストの犠牲は汚れなく尊いものと呼びます。