神に仕える正しい動機
1 クリスチャンの奉仕の動機は,この世において職業を選ぶ一般的な理由とどう異なっていますか
自分の一生の仕事として宣教を選ぶ人は,なぜ宣教者になるのかと,友人から聞かれることでしょう。それは宣教が神のみ心であると確信しているからですか。どんな理由で宣教を選びましたか。人は自分の才能を生かすため,あるいは多額の収入や社会的な地位を得るために弁護士や医者になるかも知れません。また人間形成の機会を求めて教育者になるかも知れません。しかし全く無私の動機で一生の職を選ぶ人はまれです。それでもイエスの初期の弟子たちまた今日の真のクリスチャンについてこの事が言えます。
2 弟子たちは宣教に対してどんな態度をとりましたか。
2 イエスは大工の職に才能を生かし,大工として名声を得るかわりに,なぜその職をやめたのですか。ルカはなぜ有利な医師の職をやめて宣教に力をそそいだのですか。使徒たちはなぜ漁業をやめましたか。「侮られて人に捨てられ」た人と交わったのは,自分の利益や社会的地位を求めたからではありません。(イザヤ 53:3)この人々がイエスと共に宣教に従事したのは,イエスが真理を持つことを知ったからです。多くの弟子が難しい教えのためにつまずいたとき,イエスは12使徒にむかって言われました,「『あなたがたも去ろうとするのか』。シモン・ペテロが答えた,『主よ,わたしたちは,だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです』」。真理を知って神に仕えることは永遠の命を得る道であることを,使徒たちは知っていました。それで生き方を全く変えて宣教に従事したのです。―ヨハネ 6:67,68。
3 ある牧師はなぜその職を辞しましたか。
3 うわべを飾り,自分の利益を求めたイエス時代の宗教家は,真理を愛するゆえにイエスと交わった使徒たちと著しい対照をなしていました。同じく今日でもキリスト教国の俸給を受けている牧師と,自発的に教えたり伝道したりするエホバの証者とは全く異なっています。(マタイ 23:5-8。ミカ 3:11)1962年11月17日付サタデー・イブニング・ポストにもと牧師だった人が書いた記事は,これを示す例です。「我々は単にこの出来事また我々の教会を見て憂えているのではない。憂えるべきものは聖職一般の現状である。今日,仲間の牧師のことを考えてみると,そのすべてはクリスチャンであるという。しかし我々は会員数,大きな建物,有名人を会員にすることを求めて競争している……ある者は有名な教会に赴任するためのつてを求めて,恥知らずの運動を行なった。我々は神学上の問題,社会の宗教的必要にどう答えるかなどの問題を話し合ったことがない。牧師の会合でもっぱら話題に上るのは建物のこと,俸給のこと,会員獲得の方法である。自分がかつて天職と考えた聖職とは,こんなものではない」。イエス・キリストをまだ信じてはいるものの,リクリエーションの監事役か,それとも日曜日朝の社交会とあまり変らないようなもののために無駄な働きをしたと感じて,この人は牧師をやめました。
4 イエスは何に関心を持っていましたか。パウロは,奉仕の正しい動機を何と述べていますか。
4 キリストやキリストと共に奉仕した人々が関心を払ったのは,会員の増加,経済的に豊かな会衆,大きな建物などではありません。イエスは耳ざわりの良い話を聞こうとして集まる群衆よりも,霊と真を以て神を崇拝する人を見出すことを望みました。滅びに至る道は広く,生命に至る真直ぐな道は狭くて,歩くのが難しいことを,イエスは指摘しています。それでもなお,正しくない動機で神に仕える者がいるのを,使徒パウロは認め,「一方では,ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり」と,述べました。大きな建物,多くの会員を目ざして競争する現代の牧師は,この部類にはいると言えるでしょう。しかしパウロはつづけて「他方では善意からそうする者がいる。後者は……愛の心でキリストを伝え,前者は……純真な心からではなく,党派心からそうしている」と述べています。―ピリピ 1:15-17。
5 真の崇拝に対する真の関心はどのように示されますか。
5 エホバは人のささげる奉仕またその人の地位を見るだけでなく,心を見て奉仕の動機をさぐります。ゆえにクリスチャン各人は神に奉仕する自分の動機を考え,それが個人的な理由によるものか,競争心や敵がい心のためか,あるいは愛と善意から出た純真な動機に基づいているかどうかを顧みなければなりません。「奉仕」というものは,形式に堕した崇拝者が望むような安易なものではありません。前述の元牧師の言葉を借りれば,「人々はキリストの考えによらず,自分たちの考えに合わせたキリスト教を好む……キリストの説いた教えになると,人々は話すのはおろか,聞くことさえも好まない」。この人の言うところによれば,日曜学校で教える人々はお粗末な内容で満足し,霊的な進歩を図って会員の家で始められた討論会も10人と出席したことがなく,2ヵ月たたないうちに立ち消えになりました。これではイエスの教えたキリスト教とは大変な相違です。「心をつくし,精神をつくし,思いをつくして,主なるあなたの神〔エホバ〕を愛しなさい」と,イエスは教えました。真の崇拝を実践する道は奉仕にあることを,イエスは自ら示しました。―マタイ 22:37。
喜んでエホバに仕える
6 今日多くのクリスチャンはどんな態度を示しますか。
6 むかし詩篇に預言された通り,今日心からエホバに奉仕する人々がいます。「汝のいきほひの日に,なんぢの民は心よりよろこびて己をささげん」。(詩 110:3,文語)この人々は熱心に神のことばを学びます。そして聖書について喜んで語り,心から喜んでエホバに仕えます。それでエホバに献身し,公のバプテスマによってそのことを象徴します。初期クリスチャンはこのように簡素な道を踏んで弟子となりました。今日のエホバの証者も同じことをしているのです。毎年何千人の人々がこの道を踏み行なうのを見ることは喜びです。1963年には全世界において6万2798人が,宣教に参加するためエホバに献身したことの象徴としてバプテスマを受けました。この人は初期の使徒たちと同様,金銭的な利益のために奉仕しているのではありません。また一般の人々の無関心のために宣教をやめることをしません。むしろ,エホバを代表し,御国の事柄を押し進めることの喜びのために奉仕します。その奉仕の動機は神への愛と隣人への愛です。そして「神と富とに兼ね仕えることはできない」と述べたイエスのことばの真実を知るゆえに,御国の事と宣教を生活の中で第一にします。―マタイ 6:24。コリント前 9:18。
7 サタンの主張はなぜ間違っていますか。
7 人間が神に仕えるのは利己心のためであると,サタンはヨブの時から主張してきました。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく,まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福された……しかし今あなたの手を伸べて,彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって,あなたをのろうでしょう」。(ヨブ 1:9-11)しかしヨブが神に仕えたのは,物質的な繁栄や慰安を求めていたからではありません。相次ぐ災に見舞われてすべての持ちもの,息子と娘をなくした時でさえ,ヨブは静かにこう言いました,「エホバ与へエホバ取り給ふなりエホバの御名はほむべきかな」。(ヨブ 1:21,文語)ゆえにヨブは物質的な利益を求めて神に仕えていたのではありません。今日のエホバの民にしても同様です。それで神への奉仕に対して使徒パウロと同じ見方を持っています。「しかし,わたしたちは,多くの人のように神の言を売物にせず,真心をこめて,神につかわされた者として神のみまえで,キリストにあって語るのである」― コリント後 2:17。
8 エホバの証者はどのようにパウロの手本にならいますか。
8 全世界2万2761に上るエホバの証者の会衆において監督やその補佐をつとめる人々は,給料,牧師館,恩給やその類のものを一切与えられていません。事情を知らない人はそれを知ると驚くでしょう。これらのしもべは初期クリスチャンと同じく自ら働いて生活の糧を得,神から委ねられた務として宣教を受け入れているのです。それは使徒パウロの手本にならう行ないです。自分の仕えたクリスチャンたちに負担をおわせないため,パウロは自らの職である天幕作りに従事しました。それで「わたしは,人の金や銀や衣服をほしがったことはない。あなたがた自身が知っているとおり,わたしのこの両手は,自分の生活のためにも,また一緒にいた人たちのためにも,働いてきたのだ」と,述べています。パウロはまた宣教に従事する正しい動機を強調して,次のように述べました,「わたしは,あなたがたもこのように働いて,弱い者を助けなければならないこと,また『受けるよりは与える方が,さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを,万事について教え示したのである」。それでパウロが宣教に携わったのは自分の利益のためではなく,他の人を助け,真理をわかつことに喜びを見出したからでした。―使行 18:3; 20:33-35。
奉仕の報いと試練
9 信仰には何が含まれているべきですか。信仰の人の手本をあげ,その待ち望んだものを述べなさい。
9 それでも聖書に示されているように,エホバはご自分に仕える人々に多くの霊的祝福と永遠の生命の報いを約束しています。これは利己的な気持で奉仕するように人を誘うものではなく,むしろ信仰と忍耐を励ますものであり,エホバの愛の表われです。聖書は,むかし信仰の人がエホバの約束に確信を抱き,激しい反対にあっても勇気づけられたことを述べています。「信仰がなくては,神に喜ばれることはできない。なぜなら,神に来る者は,神のいますことと,ご自身を求める者に報いて下さることとを,必ず信じるはずだからである」と,ヘブル書 11章6節は述べています。アブラハムは神の国の建てられる時を待ち望んでいました。「彼は,ゆるがぬ土台の上に建てられた都を,待ち望んでいたのである。その都をもくろみ,また建てたのは,神である」。また「キリストのゆえに受けるそしりを,エジプトの宝にまさる富と考えた」のはモーセでした。「それは,彼が報いを望み見ていたからである」― ヘブル 11:10,26。
10 報いの約束を待ち望むことが間違いでないことは,どうしてわかりますか。
10 パウロも,クリスチャンが奉仕する理由として将来における希望を述べています。パウロはコロサイ人に次のように書き送りました,「これは,キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と,すべての聖徒に対して抱いているあなたがたの愛とを,耳にしたからである。この愛は,あなたがたのために天に貯えられている望みに基くものであり,その望みについては,あなたがたはすでに,あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている」。イエスでさえ,「自分の前におかれている喜びのゆえに,恥をもいとわないで〔苦しみの杭〕を忍び,神の御座の右に座するに至ったのである」と,聖書は述べています。ゆえに神がご自分を求める者に報いて下さることを信ずるのは利己的でもなく,悪いことでもありません。またこのような希望を抱いて奉仕するからといって,その動機が間違っているとは言えません。―コロサイ 1:4,5。ヘブル 12:2。ロマ 12:12。
11 将来の祝福を待ち望むことは,どのように力となりますか。
11 祝福にみちた新しい組織制度の中で享ける生命の希望を聖書から学んだ人は,そのことを他の人に伝えたい気持になります。そして円熟にすすむとき,学んだことに対する確信のゆえに人は何年でも忠実に奉仕するのです。このような人は生命を得るための神の要求をはたそうと決意しており,たとえ忠実な崇拝のゆえに死に面しても,イエスのように忠実に神に仕えるならば,神は必ず報いて下さることを確信しています。この終りの時に大ぜいの男女が神に忠実に奉仕することを先見して,イエスは次の預言をしました。「そしてこの御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」― マタイ 24:14。
12 反対にあっても。家から家の宣教をつゞけるのはなぜですか。
12 家から家に福音を伝道することは,おそらくいちばん難しい仕事かも知れません。それは人々の人気,名誉,安楽な生活を送るに足る収入,政府との結びつきを得ることと縁がありません。イエスの場合を考えてもそれは明らかです。一般にキリスト教国の教職者が人々から尊ばれ,高い社会的地位を持ち,高給をはんでいることは,どちらかと言えば世の友であることのしるしです。福音を宣明するどころか,それに反対したイエス時代の学者,パリサイ人もこのような人々でした。いまの世の中で是認されようとする人はいま報いを得ます。しかし御国のために奉仕する人は,正義の新しい秩序の下で生命の報いを得ることを望んでいます。神のことばを知るとき,その知識を活用しなければなりません。それでこの人々は喜んでこの特権を受け入れます。神の奉仕者となることは,すべてのクリスチャンの責務です。そうでない人は,クリスチャンすなわちキリストの追随者とは言えません。たとえ困難があるにしても,宣教は最大の特権であり,それは神から与えられたものであって,金銭では買えないものです。―マタイ 23:8-10。ヤコブ 4:4。ヨハネ 17:14。
13 迫害にもかかわらず,クリスチャンはなぜ,そしてどのようにエホバへの献身を表わしてきましたか。
13 宣教に参加するとき,クリスチャンと自称する人からさえ反対を受けることを,エホバの証者は知っています。エホバの証者は偽りの非難を浴びせられ,スパイ,シオン主義者,扇動者呼ばわりされてきました。パウロも当時の人々から,「この男は,疫病のような人間で,世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり,また,ナザレ人らの異端のかしらであります」と言って訴えられました。戦争中,エホバの証者は信仰を否定しなければ死刑にすると言われ,またある国ではエホバの奉仕者として中立の立場を固守したために,何年ものあいだ投獄されていました。いまなお刑務所につながれている証者がいます。では自分の生命をそれにかけるほど,神への奉仕を大切にするのはなぜですか。それは神のことばの真理を信じ,永遠の生命の報いを得ることを望むからです。「今わたしは,人に喜ばれようとしているのか,それとも,神に喜ばれようとしているのか。あるいは,人の歓心を買おうと努めているのか。もし,今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば,わたしはキリストの僕ではあるまい」と,パウロは述べています。神の忠実を確信したパウロは次のように言明しました,「死も生も,天使も支配者も,現在のものも将来のものも……神の愛から,わたしたちを引き離すことはできないのである」。パウロは奉仕によって,神の愛に対する認識を示しました。―使行 24:5。ガラテヤ 1:10。ロマ 8:38,39。
14 愛は奉仕とどのような結びつきがありますか。
14 イエスもまた前途にある苦しみを知っていましたが,それでもエホバに忠実に奉仕することをやめませんでした。御父のみ心を行なうために来たイエスは,たとえ死にあってもそれを成し遂げることを決意していたのです。「わたしが父を愛していることを世が知るように」と言われた言葉からもわかる通り,イエスが忠実を守り通したのは愛のためでした。このような愛を持つならば,私たちは真理を語ることをちゅうちょせず,臆することなしにすべての人に証言できるでしょう。使徒ヨハネが述べたように,「完全な愛は恐れをとり除」きます。クリスチャンはなぜこのように確固とした愛を持つのですか。それは「神がまず私たちを愛して下さったから」です。―ヨハネ 14:31。ヨハネ第一 4:17-19。
神を愛するゆえに奉仕する
15 イエスと使徒たちが神に奉仕したのはなぜですか。
15 クリスチャンが神に奉仕すべき理由を問われるとき,何と答えますか。家の人に聖書文書をすすめた一人の子供の伝道者は,福音を伝道してどんな報いがあるのかと聞かれて,「永遠の生命」と答えました。この少女はエホバの約束に信仰を抱いていたのです。神に奉仕する理由として,あなたは他の人を奉仕に励ますような,どんな理由をあげますか。イエスがエホバに奉仕した理由を考えてごらんなさい。イエスは父なる神を愛したゆえにそのみ心を行ない,真理をあかししました。(ヨハネ 18:37)パウロはなぜ神に奉仕しましたか。パウロはそれが自分の生命と,音信を聞きいれる人の生命を意味することを,知っていたからです。そのためにパウロは福音の使者として奉仕し,キリストの始めたわざをしました。―コリント後 5:20。
16 奉仕すべき当然の理由をあげなさい。
16 そこで私たちの奉仕は神と隣人に対する愛に根ざしたものであり,イエスの命じたわざを行なうことです。それを成し遂げることは救いを意味します。(マタイ 22:37-39; 28:19。テモテ前 4:16)神に仕えるとき,人は生きることに本当の意義を見出します。それは自分が生き残るための道であると同時に,神のお目的にかなった生命の希望を他の人々に与えて人々を益する道です。―ロマ 8:28。
17 私たちの奉仕は何に基づいているべきですか。そしてなぜ?
17 ある人とくに子供は,家族や友人の感化で家から家の宣教を始めるかも知れません。そして会衆と交わり,奉仕しますが,奉仕に心がこもっていません。またある人はこれこそ最良の宗教であると思っても,十分に研究しないので学んだことを他の人に語るだけの熱意を抱きません。善良な人々と交われるからというのが目的の人もあります。中には他の人の信仰を弱め,破壊しようとの邪悪な目的で交わる人さえあります。しかし理由は何であれ,エホバは心をご存知であり,正しくない動機で奉仕する人は,神の祝福も生命の報いも得ないでしょう。ですから奉仕しない事の結果を恐れて奉仕したり,利己的な目的で奉仕するのであってはなりません。正しい動機は創造主に対する真実の愛です。―コリント後 6:1,2。エレミヤ 20:9。
18 私たちの奉仕を受ける人々に対して,どんな態度をとるべきですか。
18 各人は自分の信仰と愛を強め,真理に対する認識を深めて,熱心に神の義を行ない,神に受け入れられる奉仕をしなければなりません。宣教に従事する人は宣べ伝えようとする相手の人々に深い関心を払い,その人々を援助できるように自分の証言を改善し,いっそう効果的な宣教を目ざして努力を傾けねばなりません。エゼキエル 33章11節において,エホバご自身がこのようにお考えになっています。「わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が,その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ,心を翻してその悪しき道を離れよ……あなたはどうして死んでよかろうか」。いまの奉仕が私たちの生命や他の人の生命を意味するという事は,大いにあり得ます。
19 利己的な動機で奉仕する人はどうなりますか。
19 親類や家族を喜ばせるために奉仕する人があるとすれば,この古い組織が終りに近づき,マゴグのゴクがエホバの民を攻撃するとき,その人はどうなりますか。人を喜ばせるために神に奉仕しているならば,私たちは神を喜ばせているのではなく,またマゴグのゴグの総攻撃にも耐えられないでしょう。(エゼキエル 38:11,16)間違った動機で自分の利益のために奉仕している人は,やがて落伍します。その人々は世間の友だちや,更にヨブのように自分の家族から反対されるとき,あるいはクリスチャンに浴びせられる偽りの非難を受けるとき,奉仕をやめるでしょう。間違った動機で奉仕している人は,たとえ信仰の欠如のための落伍を免れても,生命に値しない者であれば,ハルマゲドンの戦いのときエホバの天使によって引き抜かれ,捨てられます。(マタイ 24:12; 13:20,21,38-41)利己的な動機で奉仕する人は自分を欺いているに過ぎません。イエスの次のことばはその事を強調しています,「わたしにむかって『主よ,主よ』と言う者が,みな天国にはいるのではなく,ただ,天にいますわが父の御旨を行なう者だけが,はいるのである」― マタイ 7:21-23。
20 エホバの恵みを得る立場をどのように強くできますか。
20 生命の冠を受けるエホバの真の賛美者の群衆の一人に数えられるには,どんな反対にも負けてはなりません。イエスのたとえ話に出てくる賢い人のように,キリスト・イエスへの従順という岩の上に家を建て,キリストに対する信仰をかたく建て,真理の知識を深め,ひろめると共に強くし,真理に生きると同時に,生命に通ずる従順という堅固な基礎を築くように他の人を助けなければなりません。そうすれば聖書の預言する反対のあらしがエホバの民を襲い,二度とないような患難をもたらしても,私たちの従順と忠実はゆらぐことなく,どんな反対にも耐えて正しい崇拝のために固く立つことができるでしょう。(マタイ 7:24-27)神に対する愛を表わし,神のさしのべる生命と将来の祝福に対する感謝を表わす唯一の道は崇拝と奉仕であり,私たちはこれに心をこめなければなりません。―ヘブル 13:15。
21 エホバはご自分のしもべにいまどんな祝福を与えますか。私たちには何が求められていますか。
21 エホバを知ってエホバに仕えることは,いまでも祝福をもたらします。揺れ動く世界の中にあっても私たちは心を悩ますことなく,聖書を知るゆえに心の平安と落着きを保ちます。世間の友人や,場合によっては家族を失なうことがあっても,エホバの家族から百倍の兄弟,姉妹,父,母,家を受け,永遠の生命の約束を得ます。私たちはその事を確信できます。「神は不義なかたではないから,あなたがたの働きや,あなたがたがかつて聖徒に仕え,今もなお仕えて,御名のために示してくれた愛を,お忘れになることはない」からです。「わたしたちは,あなたがたがひとり残らず,最後まで望みを持ちつづけるためにも,同じ熱意を示し,怠ることがなく,信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように,と願ってやまない」と,パウロは書きました。―ヘブル 6:10-12。ロマ 8:6。マルコ 10:30。
22 エホバの前に正しい立場を得ることは何をもたらしますか。神に奉仕する人はどんな益を得ますか。
22 地位や名誉あるいは金銭的な利益のために職を選ぶ人は多いかも知れません。しかしそれは神の恵みを得る道ではありません。神と隣人を愛し,エホバのさしのべる祝福と希望に感謝するという,聖書にかなった動機で奉仕する人は,神の前に恵みを得ます。今日エホバのわざを行ない,神を求める人に真理をわかつために多くの事をしなければなりません。同様にキリストの千年統治のあいだにも,地を楽園にし,人をみたす大きなわざが行なわれます。その時にも奉仕する動機はいまと同じくエホバに対する愛です。その幸福な時に生きることを望むならば,忠実な奉仕によってその願いを示すべきです。エホバの覚えの本はいま書かれています。その事を忘れてはなりません。神のことばはそのことを告げています。「万軍のエホバいひたまふ我わが設くる日にかれらをもて我宝となすべしまた人の己につかふる子をあはれむがごとく我彼等をあはれまんその時汝らは更にまた義者と悪きものと神に服事るものと事へざる者との区別をしらん」― マラキ 3:17,18,文語。